松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま佐賀県を探索中。

大洲藩御用絵師・若宮養徳とその門人

2016-03-18 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、伊予文人墨客略伝

加藤泰恒・文麗親子から引き継がれた木挽町狩野の流れは、木挽町狩野七代・狩野養川院惟信に学んだ大洲藩絵師・若宮養徳と、その門人たちによって、伊予大洲の地に伝えられた。かれらの絵画は大洲藩主ゆかりの如法寺、曹渓院、八幡神社などの寺院や藩主たちの邸宅を飾った。養徳の木挽町狩野の画系は、子の晴徳、晴徳の門人でのちに養子になった勝流、勝流の子・勝岳、晴徳の子・勝☆(☆は「毘」+「鳥」)へと引き継がれ、連綿と大洲の地にもたらされていった。なかでも、晴徳は父の養徳に学んだ後、江戸に出て、木挽町狩野八代・狩野伊川院栄信の門に入り、以後、父に代わって大洲藩主泰幹に絵師として仕えた。

若宮養徳(1754頃-1834)
宝暦4年頃に大洲若宮村の紺屋幸右衛門の二男として生まれた。別号に惟正、文流斎がある。無生とも称した。先祖は松山藩の士分だったが、大洲に移り住み染色を業とした。7、8歳の頃、紺屋の門口に貼り付けていた武者絵が六代藩主の目にとまり、城内で揮毫したところたいへんな賞賛を得たことにより、長州藩狩野派の林美彦(文流斎洞玉)について絵を学ぶことになったと伝えられる。その後、十代藩主の御用絵師となり、のちに木挽町狩野の門に入り、七代狩野養川院惟信について学んだ。盤珪禅師が開山した如法寺本堂の28枚からなる大襖群に描かれた「龍図」のほか、大洲地方の寺院に大作を多く残している。本人が作品に自署した行年書きがまちまちで享年が特定できず、生年がはっきりしないが、天保5年、81歳で死去したとする説が有力である。

宿茂稼暁(1798-1851)
寛政10年生まれ。大洲の人。諱は正謙、通称は甚助。別号に樗庵がある。文雅を好み、若宮養徳に画を学んで大洲藩主泰幹に仕え、画では徳隣と号した。晩年は家業を長男に譲り、画業に専念し、文人墨客と交わった。嘉永4年、54歳で死去した。子に稼節、稼月がいる。

大橋文養斎(不明-1870)
大洲藩家老。名は英信。別号に後凋斎がある。若宮養徳の門人で、浮世絵風の画をよく描いた。65歳で五郎村に隠居し、茶道、陶芸、絵画を楽しんだ。明治3年死去した。

若宮勝☆(不明-1907) ☆は「毘」+「鳥」
大洲の人。若宮晴徳の子。若宮三世といわれ、別号に正保、松徳、従容斎などがある。はじめ木挽町狩野に学んだが、橋本雅邦らと交わり画風が一変した。写生を基調とした画を描いた。明治40年死去した。子はなく若宮家は断絶した。

伊予(4)-ネット検索で出てこない画家

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