松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま佐賀県を探索中。

浪速の町絵師・菅楯彦

2017-02-22 | 画人伝・鳥取


文献:没後五十年 菅楯彦展 浪速の粋 雅人のこころ、大阪商業大学商業史博物館紀要第9号、菅真人遺作展図録

鳥取に生まれた菅楯彦(1878-1963)は、幼くして父で日本画家の菅盛南とともに大阪に移住した。父の没後は特定の師にはつかず、諸派の画法を研究し、独自のスタイルを確立した。常に勉学を怠ることなく、画事のみならず、漢学、国学、雅学などを身に付け、その歴史観をもとに浪速の風俗を描く町絵師として活躍、自らを「浪速御民」と称した。晩年には日本画家として初の日本芸術院賞・恩賜賞を受賞した。楯彦の異父姉の子にあたる菅真人(1896-1983)は、楯彦に師事しその画風を継承、楯彦没後は顕彰活動の中心となり活動した。

菅楯彦(1878-1963)
明治11年鳥取市生まれ。本名は藤太郎。菅盛南の長男。幼いころ父とともに大阪に移住した。11歳の時に父が病に倒れたため高等小学校を2年で中退し画業に入り、「盛虎」と号して襖絵を描くなどして生計を助けた。父の没後は特定の師につくことなく、襖絵や幻灯絵の彩色を手伝いながら、自作の縮図帖により、四条派、狩野派、土佐派、浮世絵派などを模写し研究した。さらに寸暇を惜しんで勉学を怠らず、漢学を山本梅崖に、国学・有識故実を本居派の鎌垣春岡について学んだ。この際に師の春岡の楯彦の号をもらった。楯彦とは「国を守る男子」という意味で、『万葉集』から引用したものであるという。また、明治34年に大阪陸軍地方幼年学校の嘱託となり美術と歴史を教えていた時には、ここで松原三五郎に洋画を学んだ。さらに翌年には、森正寿に師事して雅亮会に入って舞楽を学んだ。晩年には四天王寺舞楽協会長を勤め、伝統の雅楽保存に貢献。昭和33年に日本画家として初めてとなる日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、昭和37年には初の大阪名誉市民に選ばれた。昭和38年、85歳で死去した。



菅真人(1896-1983)
明治29年倉吉市生田生まれ。本名は昇。菅楯彦の異父姉の子。大正2年に陸軍幼年学校受験のため東京に出るが失敗し、大阪まで戻り菅楯彦に師事した。その後一時帰郷したが、昭和6年に再び大阪に行き、以後楯彦の助手をつとめた。昭和12年には大森富平、直原放青らと三艸社を結成、大阪三越で展覧会を開催した。楯彦の画風を継承し、歴史風俗画を多く描いた。昭和38年の楯彦没後には顕彰活動の中心となり、昭和49年の倉吉博物館開館にあたっては、楯彦を美術部門の柱とするべく貢献した。昭和58年、86歳で死去した。


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