松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

近世前期の広島画壇で主流として活躍した雲谷派

2016-08-12 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、、岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-

近世前期の広島画壇の主流は、毛利氏・福島氏に仕えた雲谷派だった。雲谷派の祖である雲谷等顔(1547-1618)は、雪舟や雪舟系の作風を学び、雪舟三代を標榜した。文禄2年、毛利輝元の命で雪舟の「山水長巻」を模写、その功績により雪舟ゆかりの「雲谷庵」を得て、雪舟等楊の一字を取り、それ以降雲谷等顔と名乗っている。等顔の子孫の門流は代々、長門、広島に住み、等顔の子・雲谷等屋(1582-1615)は分家して広島藩主・福島正則に仕えた。三谷等哲(不明-1630)とその子・三谷等悦(不明-1675)も雲谷派を守り、福島正則に仕えたが、のちに筑後の久留米に移った。雲谷派は毛利家御抱絵師として萩を本拠に江戸時代末期まで存続した。

雲谷等顔(1547-1618)
天文16年肥前生まれ。小領主原豊後守直家の一族。雲谷派の始祖。名は直治。天正12年、38歳の時に父が肥前有馬の合戦で没し、家は絶えたと伝わっている。それ以前の等顔の青年期については不明な点が多い。家が断絶した前後の天正年間頃から広島城主・毛利輝元に仕えている。雪舟や雪舟系の作風を学び、雪舟様式に形式的整理を加えた水墨山水画に一境地を開き、雪舟三代を標榜した。慶長16年法橋に、元和3年前には法眼に叙せられた。元和4年、72歳で死去した。

雲谷等屋(1582-1615)
天正10年生まれ。雲谷等顔の長男。名は直正、通称は小膳。別号に閑叟がある。等顔の画風を守り、広島藩主・福島正則に仕えた。元和元年、34歳で死去した。

雲谷等益(1591-1644)
天正19年広島生まれ。雲谷等顔の二男。名は元直、のちに治兵衛。宮法師と称し、友雪と号した。父・等顔とともに毛利輝元に仕えた。福島正則に仕えた長兄・等屋が早世したこともあり、元和4年の等顔の死去にともない家督を相続、雲谷派を継承して雪舟四代と称した。周防、長門を中心に活躍し、大徳寺に多数の襖絵を残している。寛永3年に法橋に叙された。正保4年、54歳で死去した。

雲谷等甫(不明-1730)
雲谷等顔の孫・等宅の三男で、長兄・等陸の養子となった。福島家に仕えた。享保15年死去した。

三谷等哲(不明-1630)
広島藩主・福島正則に仕えた。主家の改易により浪人となり、子の等悦とともに筑後の久留米に移住した。寛永7年死去した。

三谷等悦(不明-1675)
安芸出身。名は信重、通称は徳左衛門。別号に雲沢がある。三谷等哲の子。父とともに筑後久留米に移住し、久留米藩の御用絵師になった。延宝3年死去した。

雲谷等宿(不明-不明)
正保頃の人。雲谷等爾の子。法橋に叙せられた。

 広島(1)-ネット検索で出てこない画家

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