松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

島根を代表する近代南画家、西晴雲と木村棲雲

2016-12-26 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、出雲ゆかりの芸術家たち、島根の美術家-絵画編

島根を代表する明治期の南画家としては、西晴雲(1881-1963)と木村棲雲(1885-1967)が挙げられる。西晴雲は、上京して吉嗣拝山に南画を学んだが、当時の南画界の動向に不信を抱き、中国画壇に可能性を求めて渡航、上海に移住して上海南画院を創設した。木村棲雲は、上京して小室翠雲に師事し、文展、帝展などに出品するが、やがて展覧会出品を嫌い、全国各地を遊歴、田能村竹田に私淑して研鑽を積み、主に個展を発表の場とした。また、森琴石に師事した嘉本周石(1889-1976)は、日本南画院の出品依頼を固辞し、故郷で南画家らしく無欲枯淡の生涯を送った。

西晴雲(1881-1963)
明治15年安濃郡波根西村生まれ。農業と穀物販売を営んでいた西村幸七の三男。本名は和作。明治35年彫刻を志して奈良に行くが、左目を病んだため絵画に転向する決意をし、上京して吉嗣拝山に師事して南画を学んだ。しかし、当時の南画界の動向に不信を抱き、大正3年、中国に南画の源流を求めて渡航、北京の金清源、斉白石に師事し、書を王源翁に学んだ。昭和2年には上海に移住し、上海画壇の南画の重鎮・呉昌碩らと交友、昭和5年には上海南画院を創設して南画指南をした。この頃雅号を中国名の「西晴雲」と改めた。中国をしばしば訪れていた徳富蘇峰を知り、大徳寺の雪窓とも親交を結んだ。昭和12年には一時帰国し、大阪大丸百貨店で第1回個展を開催。徳富蘇峰・奥田信太郎(毎日新聞社社長)らによる後援会が発足し、蘇峰が序文を寄せた画集も刊行された。昭和20年、戦争が終結すると中国から帰国し、最大の後援者だったサントリー社長・鳥井信治郎邸内のアトリエで制作を続けた。鳥井の没後は郷里大田市に帰り、西晴雲美術館の開館を間近にしながら、大正4年、81歳で死去した。



木村棲雲(栖雲)(1885-1967)
明治18年能義郡安来町生まれ。呉服店を営んでいた原長蔵の二男。本名は蓮三郎。のちに木村家の養子となった。幼いころから画を好み、実家の商売につながる紋描きを行なっていたが、大正元年地元の有志の援助を受けて画業修業のため京都に出て宮崎竹叢に入門し棲雲と号した。その後、東京に出て小室翠雲に入門、大正5年文展に初入選、以後も文展、帝展に入選するが、大正9年より玉川米井山荘に居を構えて画業に専念し、以後は公募展に出品することをやめた。それからは、全国各地を遊歴し、田能村竹田に私淑し研鑽を積んでは個展を開催するという独自の活動を続けた。昭和15年に玉川上野毛不二草廬に転居した。昭和28年には号を「栖雲」と改め、以後しばしば帰郷し安来や松江、出雲などで個展を開催した。昭和42年、83歳で死去した。



嘉本周石(1889-1976)
明治22年出雲市上島町生まれ。本名は亮。島根師範学校卒業後、画家を志し上京し、森琴石に師事した。大正9年帝展に初入選した。また中国盧山や韓国に渡り研鑽を積み、大正11年に大阪で支那周景70点展、昭和9年には東京で挿花の小原光雲との共同展を催した。昭和20年日本南画院無鑑査の推薦を固辞し、大社町円山荘で無欲枯淡の生涯を過ごした。昭和51年、88歳で死去した。

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