松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま長崎県を探索中。

明治洋画壇で指導的役割を果たした久米桂一郎と岡田三郎助

2017-06-09 | 画人伝・佐賀


文献:西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち-アカデミズムの潮流-

黒田清輝とともに日本洋画に外光派の画風を取り入れ、洋画団体白馬会を結成するなど、明治洋画壇で指導的役割を果たした久米桂一郎(1866-1934)は、佐賀城下に生まれ、8歳の時に家族とともに上京した。幼いころから画に関心を示していた久米は、18歳で藤雅三に師事、その後は藤の紹介により渡仏し、外光派の画家、ラファエル・コランに入門した。ここで同門の黒田清輝(1866-1924)と出会い、以後行動をともにすることとなる。

久米より3歳年下の岡田三郎助(1869-1939)も佐賀城下に生まれ、幼いころに上京、同郷の画家・百武兼行の油絵を見て西洋画を志すようになった。明治27年に同郷の久米桂一郎を介して黒田清輝と知り合い、黒田がフランス留学で修得した明快で明るい色調の画風を授かることになる。黒田の清新な色彩感覚に魅了された岡田は、黒田に作品の批評を乞いつつ、初めて屋外の明るい光の下で人物を描くことを試みた。

以降、三人は活動を共にし、明治29年には日本の洋画壇に新境地を拓くべく洋画団体白馬会を結成、明治洋画壇に新風を巻き起こした。

久米桂一郎(1866-1934)
慶応2年佐賀城下八幡小路生まれ。明治7年、8歳の時に家族とともに上京し築地に移り住んだ。9歳の頃には役者絵を写したり、単色版の挿図に着色したり、絵画への関心を示した。明治12年尋常小学校を卒業し、工部大学への進学を望んだが、父の方針で進学せず、父の傍らで左伝、史記、戦国策などの漢籍を読まされた。明治14年に第2回内国勧業博覧会出品のコンテ画を見て西洋画研究を志し、明治17年、18歳の時に藤雅三の門に入った。明治19年に渡仏し、ラファエル・コランに入門、同門の黒田清輝を知り行動を共にするようになる。明治26年に帰国し、黒田とともに天真道場を開設、明治29年には白馬会を創立するなど画壇に新風を吹き込んだ。明治31年東京美術学校教授に就任。その後は制作発表から遠ざかり、美術教育、行政、啓蒙活動などに尽力した。大正11年から昭和6年まで帝国美術院幹事をつとめた。昭和9年、69歳で死去した。

岡田三郎助(1869-1939)
明治2年佐賀城下生まれ。旧姓は石尾。幼いころに上京し、少年期を東京麹町区葵坂の鍋島直大邸で過ごした。そこで見た同郷の洋画家・百武兼行の油絵に深い感銘を受け、洋画を志すこととなった。明治20年小代為重の紹介で曾山幸彦の門に入り徹底した素描教育を受け、曾山の没後は堀江正章に学んだ。明治27年同郷の久米桂一郎を介して黒田清輝と知り合い、黒田、久米が指導する天真道場に入門した。明治29年白馬会の結成に加わり、また、同年新設された東京美術学校西洋画科の助教授になった。翌30年に渡仏し、ラファエル・コランに師事した。留学を通して古代から近代に至る西洋美術の様々な美術思想や表現様式などを学び、帰国後は美校教授に就任、官展の中心作家として活躍した。大正8年帝国美術院会員、昭和9年帝室技芸員となり、昭和12年第1回文化勲章を藤島武二、竹内栖鳳、横山大観らと受章した。昭和14年、70歳で死去した。

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