松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

広島四条派の系譜、明治・大正期に広島画壇を牽引した里見雲嶺

2016-09-20 | 画人伝・広島

文献:近代・広島画人伝、広島日本画の系譜

江戸後期の山田雪塘から始まる広島の四条派は、雪塘の門人である山県二承、さらに二承の門人・里見雲嶺(1849-1928)と続き、雲嶺は明治・大正期における広島画壇の中心的な画家として活躍した。雲嶺の画法は四条派の正統ともいうべきもので、伝統的な画法による山水画や人物画を得意とした。雲嶺の没後は、旅をしながら画の修行を続け、36歳で京都に出て川端玉章に師事した田中頼璋(1868-1940)が広島画壇で中心的役割を果たした。昭和に入ると、竹内栖鳳に師事した金島桂華(1892-1974)、土田麦僊に学んだ猪原大華(1897-1980)らが文展・帝展・日展などで活躍、日本芸術院賞を受賞した。

里見雲嶺(1849-1928)
嘉永2年広島白島町生まれ。名は熊次郎。はじめ中井泰嶺や山県二承に学び、のちに京都に出て四条派の西山芳園に師事した。四条派の伝統的な画法による山水・人物画をよくし、明治23年、第3回内国勧業博覧会に出品して褒賞を受けた。明治27年には明治天皇大婚25年祝典に際し「旭日遊亀図」を献納した。大正5年に始まった初期県美展で活躍し、広島の日本画界で指導的役割を果たした。昭和3年、80歳で死去した。

田中頼璋(1868-1940)
慶応2年石見邑智郡市木村生まれ。名は大治郎。生家は代々本陣をつとめる庄屋。17歳のころ萩へ出て森寛斎の薫陶を受けた。その後は旅絵師として活動した。明治35年、36歳で京都に出て川端玉章に師事した。関東大震災以後は広島に移住し、広島県美術展覧会に出品を続けるなど、晩年にいたるまで精力的に制作を続けた。門人に橋本明治、丸木位里がいる。昭和15年、74歳で死去した。

熊谷直彦(1828-1913)
文政11年広島生まれ。別号に篤雅がある。幼いころに四条派の岡本茂彦に入門した。のちに諸国を漫遊し、明治37年帝室技芸員になった。大正2年、84歳で死去した。

内畠暁園(1874-1917)
明治7年賀茂郡内海生まれ。通称は穫造。幼いころから画を好み、京都に出て竹内栖鳳に師事した。病弱で一時広島に帰り活動していたが、大正6年、43歳で死去した。

大村廣陽(1891-1983)
明治24年沼隈郡東村生まれ。名は種五郎。明治44年京都市立美術工芸学校を卒業、同年文展に初入選した。大正3年同校を卒業し、竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入った。以後、文展・帝展・日展に出品した。昭和58年、91歳で死去した。

金島桂華(1892-1974)
明治25年深安郡神辺町生まれ。名は政太。大阪で西家桂州に学び、桂華の号を得た。明治40年平井直水に師事、明治44年に竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入った。大正7年文展に初入選。以後文展・帝展・日展に出品した。昭和28年芸術選奨文部大臣賞、昭和29年日本芸術院賞を受賞、昭和34年日本芸術院会員、昭和44年日展顧問となった。昭和49年、82歳で死去した。

福田恵一(1895-1956)
明治28年福山市神島町生まれ。大正6年に東京美術学校を卒業し、大阪に住んだ。大正12年に京都の西山翠嶂に師事し、画塾・青甲社に入った。翌年帝展に初入選、以後帝展・日展を舞台に活躍した。昭和31年、61歳で死去した。

猪原大華(1897-1980)
明治30年深安郡神辺町生まれ。名は寿。叔父をたよって大阪に出て、同郷の金島桂華の知遇を得る。大正7年京都市立絵画専門学校に入学、大正10年帝展に初入選した。大正12年に京都市立絵画専門学校本科を卒業、同研究科に進み、土田麦僊に師事。昭和12年西村五雲の塾・晨鳥社に入った。以後、文展・日展を舞台に活躍、昭和43年日展評議員となった。昭和46年日展で内閣総理大臣賞、昭和49年日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。昭和55年、82歳で死去した。

広島(13)-ネット検索で出てこない画家

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