松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま長崎県を探索中。

天龍道人ら肥前佐賀の南画家と岸派

2017-06-02 | 画人伝・佐賀


文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀幕末明治の500人

18世紀に入ってから盛んになった南画では、文化6年に92歳で没した異数の人・天龍道人(1718-1809)がいる。天龍道人は、肥前鹿島に生まれ、のちに諸国を漫遊し諏訪で一家を成した。鷹や葡萄の画をよくし、晩年は葡萄和尚と称した。幕末期に文人趣味による画をよくした武富圯南(1806-1875)は、佐賀の文化、学術の発展につとめた。圯南に学んだ柴田花守(1809-1890)は、画論『画学南北辨』を著して絵画界に新風を吹き込んだ。成富椿屋(1814-1907)、高柳快堂(1824-1909)は長崎に遊学し、鉄翁、逸雲について学んでいる。また、写生画では、京都岸派の創始者・岸駒に学んだ小城出身の岸天岳(1814-1877)がいる。

天龍道人(1718-1809)
享保3年鹿島生まれ。鹿島藩家老・板部堅忠の四男。姓は王、名は瑾、字は公瑜。14歳の時に父が佐賀藩主の怒りにふれ改易され浪人となり、道人の流浪の人生が始まる。18歳で長崎に遊学し、沈南蘋の門人・熊斐に学んだとされる。その後諸国を漫遊、随所でその才能を発揮したようである。ある時は龍造寺主膳と称して、尊王論者・竹内式部らとともに国事に奔走し、事破れて姿をくらまし、10年余り経ってから信濃の諏訪にあらわれ、その湖畔の風光を愛してそこのとどまったという。たまたま藩主諏訪家でお家騒動が起こり、これを請われて鎮めたことから名が高まった。藩の勧めにより諏訪に一家を興し、渋河貫之と称して、諏訪の渋川家の始祖となった。鷹や葡萄の画をよくし、天明年間頃から葡萄和尚と称した。文化6年、92歳で死去した。

武富圯南(1806-1875)
文化3年佐賀市白山町生まれ。名は定保、元謨、通称は文之助。別号に密庵、碧梧樓などがある。武富坦堂の孫、安貞の子。幼いころから学問を好み、中村嘉由について経学を学んだ。壮年になって江戸に3年間遊学し、帰郷後は弘道館の教授となった。詩文、書画、音楽をよくし、佐賀の文化、学術の発展につとめた。明治8年、68歳で死去した。

牛島藍皐(不明-不明)
名は璋、通称は和三郎。別号に越山道人がある。武富圯南の幼少の頃の師。伊万里の人でのちに佐賀城下白山町に住み、儒者・古賀朝陽、古賀穀堂らと交わり画をよくした。

柴田花守(1809-1890)
文化6年小城生まれ。姓は紀氏。小城藩士・柴田礼助の子。6歳の時に武富圯南、牛島藍皐に学んだ。画にすぐれ、画論『画学南北辨』を著して絵画界に新風を吹き込んだといわれる。書画、和歌をよくし、端歌「春雨」は長崎遊学の歳、丸山の料亭「花月」で作ったものといわれる。明治23年、82歳で死去した。

成富椿屋(1814-1907)
文化11年蓮池生まれ。名は鵬明。別号に荷笠漁者がある。旧蓮池藩士。蓮池藩主に仕え、そのかたわら剣道、砲術を修めた。安政・万延の間、藩主鍋島直與の兵制改革に際して長崎に派遣され、洋法を学んで帰藩し、指南役となり藩兵を養成した。画ははじめ佐賀の中島藍皐に学び、のちに長崎で鉄翁および木下逸雲に学んだ。有田にも滞在して陶画の下絵、絵手本などを多く残している。明治40年、93歳で死去した。

高柳快堂(1824-1909)
文政7年久保田生まれ。名は高致、通称は文次。武富圯南に漢学、画法を学び、のちに大阪で篠崎小竹らに学び、特に詩文に励んだ。画は鉄翁、中林竹洞、田能村直入に学んだ。明治42年、86歳で死去した。

岸天岳(1814-1877)
文化11年小城生まれ。名は譲、通称は英作、または俊平。別号に天岳、取長堂、吟龍軒、梅津、漁耕、無聲書屋がある。のちに佐賀藩士・小林氏の養子となった。幼いころから画を好み、12歳の時に藩侯に従って上京、巨勢家の門に入った。天保5年に岸駒に師事して岸姓に改めた。星巴の紋を用いることを許され、譲の名を与えられた。天岳の号は天山に因むものと思われ、花鳥のほか虎図をよくした。明治10年、63歳で死去した。

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