松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま佐賀県を探索中。

二人の広渡心海と肥前武雄の絵師

2017-05-19 | 画人伝・佐賀


文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀の江戸人名志

肥前武雄では、広渡雪山の弟にあたる初代広渡心海(1596-1685)が、武雄邑主のお抱え絵師として活躍した。心海の没後は、心海に嫡男がいなかったため、女婿の広渡武則に家督を継がせて絵師としたが、武則の嫡男・権八に子がなく、その技法を継ぐものもおらず、武雄での広渡家は一時途絶えてしまった。一方で、広渡家の支流として、初代心海に学んだ広渡一湖が長崎で唐絵目利となり、その職は代々世襲で継がれるようになった。武雄においては、幕末期になって、第28代武雄邑主・鍋島茂順が、家臣の中から絵の技量に優れた加々良良寛に広渡家を再興させ、2代広渡心海(1806-1888)を名乗らせた。その跡は、子の広渡三舟(1841-1931)が継いだ。二人の心海を区別するため、初代心海を法橋心海、2代心海を良寛心海と呼んでいる。また、白怒斎成真(不明-不明)とその子・温古斎柏山(不明-不明)も、第25代武雄邑主・鍋島茂昭に絵師として仕え、武雄鍋島家に襖絵などを残している。

広渡心海(初代)(1596-1685)
慶長元年生まれ。法橋心海。広渡雪山の弟。幼名は三弥。別号に幽甫がある。狩野洞雲の門人で、延宝2年から4年までの宮中新院造営の際には、狩野永真、狩野洞雲らと共に招かれ、内侍所、東の間に花鳥画を描いた。寛文4年には法橋に叙された。武雄邑主のお抱え絵師だったが、一時長崎に滞在し、熊本の末次小左衛門(広渡一湖)に画法を伝えた。貞享2年、90歳で死去した。

広渡心海(2代)(1806-1888)
文化3年生まれ。良寛心海。名は加々良良寛。藩武雄邑主・鍋島茂順の家臣・加々良上野守の末裔。江戸で狩野良信の門に学んだ。初代心海の娘婿・広渡武則の子権八に子がなく、心海の家系は途絶えたが、権八を継いで広渡心海を名乗った。法橋心海と区別するため、良寛心海と呼ばれている。明治21年、82歳で死去した。

広渡三舟(1841-1931)
天保12年生まれ。2代広渡心海(良寛心海)の長男。名は文太郎。別号に静嘯斉がある。父に狩野派の画法を学んだ。長崎の武雄屋敷に一年余り滞在し、この間、全国に配布された各種の植物を写生し、その技量の高さで人々を驚嘆させたという。山水花鳥を得意としたが、確認される作品の多くは晩年のもので、鍋島茂義の肖像画なども残っている。昭和6年、90歳で死去した。

白如斎成真(不明-不明)
本名は岩谷周助。名は守成。武雄25代邑主・鍋島茂昭に絵師として仕えた。武雄神社拝殿の合天井に描かれた絵は、白如斎、温古斎父子の筆によるものと伝わっている。また、武雄鍋島家の襖絵なども残っている。

温古斎柏山(不明-不明)
白如斎成真の子と伝わっている。武雄鍋島家の襖に父と描いたほか、杉戸絵などが多く残っている。

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