松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま長崎県を探索中。

佐賀美術協会の創立と佐賀出身の画家たち

2017-06-16 | 画人伝・佐賀


文献:佐賀幕末明治500人、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち-アカデミズムの潮流-

大正2年、東京上野の茶屋に久米桂一郎、岡田三郎助ら佐賀県出身の画家が集まった。メンバーは久米、岡田のほかに、田雑五郎、山口亮一、御厨純一、北島浅一、さらに藤田遜ら東京美術学校の在学生たちも加わった。この会合で佐賀で展覧会を開くことが決まり、さっそく佐賀美術協会が創設された。第1回展の出品者は、日本画が高取稚成、納富介次郎、水町和三郎ほか7名。洋画は久米桂一郎、岡田三郎助、小代為重、高木背水、松本弘二ほか8名だった。第12回展からは公募となり、「佐賀の帝展」と称され、佐賀の美術家を多く輩出した。昭和に入るとアバンギャルド運動を展開した古沢岩美や池田龍雄が活躍、最後の美人画家と称された立石春美も佐賀出身である。

高取稚成(1867-1935)
慶応3年神埼郡東脊振村松隈生まれ。通称は熊夫。別号に山桜がある。土佐派を学んだ。文展に出品し、審査員もつとめた。また、宮内省嘱託となり、大正天皇御大典の九大絵巻、伊勢神宮遷宮絵巻などを描いた。明治神宮絵画館には、「征東大正軍京都御出発の図」の壁画がある。晩年は宮内省御用のみを描いた。昭和10年、69歳で死去した。

腹巻丹生(1877-1951)
明治10年神埼郡千歳村渡瀬生まれ。本名は勝太郎。明治36年東京美術学校日本画科を首席で卒業。佐賀高等女学校教諭、熊本県鹿本中学、佐賀龍谷中学、成美女学校、有田工業学校の教諭を歴任した。昭和4年神埼高等女学校教諭を最後に退職。晩年は千歳村の自宅「七合庵」の画室で制作に専念した。教え子に古賀忠雄がいる。昭和26年、74歳で死去した。

高木背水(1877-1943)
明治10年佐賀市生まれ。本名は誠一郎。義兄に広津柳浪がいる。明治22年に上京し、26年頃に岡田三郎助を知り、翌年大幸館画塾に入り堀江正章らの指導を受け、のちに白馬会洋画研究所に通った。明治36年ベルツ博士の朝鮮行に同行、翌年渡米し39年に帰国した。さらに明治43年には渡英、滞英中にロイヤル・アカデミーにも出品した。大正4年「明治天皇像」を制作。同年から8年まで朝鮮に滞在し、9年に再渡欧した。その後朝鮮美術展設立に尽力し、帝展、光風会展、白日会展にも出品した。昭和18年、67歳で死去した。

三根霞郷(1883-1946)
明治16年武雄市生まれ。本名は貞一。多良尋常小学校から明治30年長崎尋常中学校入学したが、翌年退学。明治33年に洋画を志し上京した。翌34年小山正太郎の画塾不同舎に入門し、青木繁、坂本繁二郎らと知り合う。明治37年帰郷し、翌年から肖像画揮毫を仕事とした。その後は佐賀市に移り住んだ。明治41年に青木繁の来訪を受けた記録が残っている。明治42年シベリア経由でフランス留学を志し、ウラジオストックに2年間滞在し、44年に帰国した。大正1年伊万里円通寺に参禅。大正3年からはたびたび京都に滞在した。昭和9年小倉山滝口寺が創建され堂主として隠棲した。昭和21年、63歳で死去した。

武藤辰平(1894-1965)
明治27年佐賀市生まれ。佐賀中学校で森三美に洋画の手ほどきを受けた。同級生に池田幸太郎がいた。大正2年佐賀美術協会設立に参加。大正5年第5回光風会展に出品。大正9年東京美術学校西洋画科を卒業した。昭和5年に渡仏、サロン・ドートンヌに入選した。昭和9年に帰国し、渡欧作品展を佐賀市公会堂で開催した。昭和40年、71歳で死去した。

松本弘二(1895-1973)
明治28年佐賀市生まれ。明治45年佐賀中学校を中退、高木背水を頼って上京した。大正3年白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝の指導を受けた。このころ広津和郎と知り合う。大正6年雑誌「解放」の編集に関与し、アルス企画部長をつとめるなど出版活動に従事した。明治10年二科展に初入選。昭和4年に渡仏し、グラン・ショミエールで学び、昭和6年に帰国、同年新美術家協会に入った。昭和36年二科会理事となり、45年には二科展で内閣総理大臣賞を受賞した。昭和48年、78歳で死去した。

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