松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま佐賀県を探索中。

写実理論を作品と執筆の両面から確立しようとした前田寛治

2017-03-06 | 画人伝・鳥取


文献:近代洋画・中四国の画家たち展、前田寛治展-一九三〇年協会の仲間とともに-

鳥取県中部の中北条村国坂の農家の二男として生まれた前田寛治(1896-1930)は、倉吉中学を卒業後、東京美術学校を卒業して倉吉中学に赴任したばかりの中井金三の勧めもあって画家を志し、上京して東京美術学校に入学した。在学中から休暇ごとに帰郷し、中井が結成した「砂丘社」に創立当初から参加、鳥取の子供たちや田園ののどかな風景を好んで描き、叙情あふれる作品を多く残している。前田が美術学校卒業後にフランス留学を決意した際には、中井は我がことのようにその資金集めに奔走したという。前田はフランスから帰国した年に帝展で特選を受賞、その後も帝展で発表する一方、木下孝則、小島善太郎、里見勝蔵、佐伯祐三とともに「一九三〇年協会」を結成、意欲的な作品で当時の日本洋画界に新風を巻き起こした。さらに「前田写実研究所」を開設、後進の指導にあたるとともに、写実理論を作品と執筆の両面から確立しようとした。しかしほどなく病に倒れ、33歳の若さでその生涯を閉じることとなった。前田の没後、一九三〇年協会は活動を停止し、同年独立美術協会が結成されると、会員の大半が同会に加わり、一九三〇年協会は分裂し、解散した。

前田寛治(1896-1930)
明治29年中北条村国坂生まれ。倉吉中学で、東京美術学校を卒業した中井金三から石膏デッサンの指導を受けた。卒業後は中井の勧めもあって画家を志し、大正4年に上京、同郷の森岡柳蔵に連れられ黒田清輝を訪ね、白馬会葵橋洋画研究所を経て、大正5年に東京美術学校西洋画科に入学した。同級生には伊原宇三郎、鈴木千久馬、田口省吾、田中繁吉らがいた。大正9年には中井金三を中心に結成された砂丘社に参加、作品や詩を発表した。大正10年美術学校を卒業し同年の帝展に初入選、さらに翌年の平和記念東京博覧会で褒状を受賞した。画家として順調なスタートを切った前田は、倉敷で見た大原コレクションにヨーロッパへの思いを強め、パリ留学を決意した。

大正11年末から2年半パリに留学した前田だったが、その留学生活はけっして恵まれたものではなかった。しかし、制作には意欲的に取り組み、セザンヌ、ゴッホ、ブラマンク、キュビスムなど多様な描法を研究するとともに、クールベの写実主義にも着目、一時期、労働者や工場の風景も描いた。また、中学の同級生で社会主義思想家の福本和夫とも交流し、唯物史観的な思想に影響を受けた。パリ留学最後の年には、「西洋婦人像」や「ブルターニュの女」など、留学中の集大成ともいえる作品を描いている。

大正14年にフランスから帰国、同年の帝展で特選を受賞した。その後も帝展を発表の場とする一方、翌年にはパリで親交を深めた木下孝則、小島善太郎、里見勝蔵、佐伯祐三とともに「一九三〇年協会」を結成、意欲的な作品で当時の日本洋画界に新風を巻き起こした。以後は帝展、一九三〇年協会展を舞台に活動した。また、本郷の洋画研究所に「前田写実研究所」を開設し、後進の指導にあたるとともに、留学中の研究成果である著書『クルベエ』を出版するなど、多くの画論や随筆を発表、写実理論を作品と執筆の両面から確立しようとした。昭和4年、帝展で帝国美術院賞を受賞するが、翌年の昭和5年、病のため33歳で死去した。


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