松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

早世した逸材・中原芳煙と中央画壇を離れた竹田霞村

2016-12-23 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

邑智郡都賀行村(現島根県美郷町)生まれの中原芳煙(1875-1915)は、東京美術学校日本画科を首席で卒業し、将来を嘱望されながらも病を得て帰郷、中央画壇に戻ることを望みながらも39歳で早世した。また、神戸郡下横村(現出雲市下横町)生まれの竹田霞村(1884-1955)も、東京美術学校日本画科で下村観山に学び秀才の誉れ高かったが、当時の日本画壇間の抗争を嫌い、会派に属さず文展などにも出品することはなく、33歳の時に父の病報を受けて帰郷、以後地元に住み中央画壇に出品することはなかった。

中原芳煙(1875-1915)
明治8年邑智郡都賀行村生まれ。鉄山を経営していた中原源吉郎の二男。本名は佐次郎。島根県第二尋常中学校卒業後、明治29年東京美術学校に入学し、川端玉章に師事した。在学期間、明治32年の美術学校生徒成績品展覧会で一等褒状を受賞、明治33年日本絵画協会第9回連合絵画共進会に出品するなど、美術学校在学中から頭角をあらわした。明治34年東京美術学校日本画科を首席で卒業、島根県立中学校教諭ならびに師範学校教諭に任じられたが、病のため辞職。明治35年第12回連合絵画共進会で一等褒状を受けた。明治37年宮内省に奉職し正倉院御物の整理を担当、明治38年から43年まで大村西崖が設立した審美書院に勤務した。明治40年第5回内国勧業博覧会に出品、ほかに巽画会、美術研鑽会、帝国絵画協会などにも出品した。大正3年結核を患って帰郷し静養につとめていたが、翌4年、39歳で死去した。



竹田霞村(1884-1955)
明治17年神戸郡下横村生まれ。竹田門太郎の長男。本名は豊太郎。別号に水鶏舎、悦々、大愚がある。幼いころから画才に恵まれ、杵築中学校に在学中から逸材と評価された。明治37年東京美術学校に入学し、下村観山に学んだ。在学中から校内水彩画展で第一席となるなど秀才の誉れ高かった。卒業後も観山、川端玉章に師事し制作を続けたが、当時の日本画壇内における旧派、新派間の抗争を嫌い会派に属さず、文展などにも出品しなかった。大正5年、33歳のとき、父の病報をうけて帰郷、その後も郷土で制作を続けたが、中央画壇に出品することはなかった。昭和2年頃、霞村を支持する協力者が集まって高松霞村会が結成され、同会が主催となって出雲市今市の片岡で個展が開催された。さらに、昭和6年に松江市の興雲閣で、昭和29年に高松小学校で個展を開いている。昭和30年、72歳で死去した。

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