松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま佐賀県を探索中。

広島の南画家

2016-09-12 | 画人伝・広島

文献:広島県先賢傳、芸藩ゆかりの絵画展、近世広島の絵画展

広島の南画家としては、紀伊国に生まれ京都で小田海僊に学び、幕末から明治にかけて安芸・備後地方を巡り、晩年は広島で絵画の指導をした名草逸峰(1821-1889)、陸奥国に生まれ、狩野派の菅原晋斎に学んだのちに中国に渡り南画を学び、宮島に定住した小西皆雲(1828-1900)をはじめ、伊藤鴛城(1864-1936)、稲田九皐(1866-1931)ら広島に移り住んだ南画家が多くいる。また、広島生まれの南画家としては、明治初期に東京画壇で一世を風靡した安田老山に学んだ古川秋蓬(1851-1926)や小川清處(1854-1932)らがいる。

名草逸峰(1821-1889)→参考
文政5年紀伊国生まれ。名は孝、字は伯友、通称は芳太郎。別号に露香がある。幼くして京都に出て苦学して小田海僊に学び、のちに野呂介石の画法を究めた。勤王の志が篤く、天下の志士と交わり尊皇攘夷を説いた。安政5年に竹原を訪れるが、時は勤王派弾圧の風潮が強かったため、倉橋島の尾曽越家に隠れて文筆を志した。安政7年倉橋島を去り防長各地を歴遊したのち、慶応の頃、九州大分に私塾を開き、傍ら医を業とした。明治初年竹原に本籍を移したが、四国高知にも住んで多くの門人を指導した。明治14年第2回内国勧業博覧会に賀茂郡下市村から出品、明治15年内国絵画共進会に高知県から出品し、ともに褒状を受けた。明治22年、69歳で死去した。

小西皆雲(1828-1900)
文政11年陸奥国生まれ。名は巍。はじめ仙台藩の絵師狩野派の菅原晋斎に学んだた、のちに師を求めて京都、長崎に訪ね、さらに中国に渡って、胡公寿、張子祥に師事して約8年間南画を学び、明治5年に帰国した。宮島に住んで安芸、備後各地を巡り多くの作品を残した。のちに東京の麹町に住み、明治15年の第1回、明治17年の第2回絵画共進会に出品した。東北、北海道なども遊歴し作品を残している。明治33年、73歳で死去した。

古川秋蓬(1851-1926)
嘉永4年賀茂郡河内町上河内生まれ。の庄屋・古川四三郎の二男。名は宗篤、通称は韶一郎。幼いころから画を好み、明治9年、家族の反対を押し切り兄嫁の里・竹原の酒醸業竹鶴家の援助を受けて東京に出て安田老山に師事した。のちに千葉地方に遊び研鑽を積み、明治26年広島に戻った。大正5年、広島県美術展覧会の第1回展から出品し、里見雲嶺、和田華岳らとともに広島画壇における指導的立場だった。昭和元年、76歳で死去した。

和田華岳(1857-不明)
安政4年生まれ。名は英、字は徳隣、通称は十次郎。和田菁華の四男。幼いころから非凡な画才をあらわし、明治15年に東京に出て滝和亭、長三洲と交わり、多くの画家の門をたたき研鑽した。静岡や山梨にも長く滞在し明治24年可部町に帰郷、翌年から広島市平塚町に定住した。里見雲嶺、和田華岳らとともに広島画壇における指導的立場だった。

小川清處(1854-1932)
安政元年生まれ。名は千之助。先代から代々宮島に住み、父は佐伯郡役人頭厳島神社棚守手代を務めていた。幼いころから弱視のため屋内で親から与えられた絵手本を相手に過ごした。長じて東京に出て安田老山に師事、帰郷後は岩国藩士の東沢潟に師事して漢学詩文を修めた。のちに九州の行き宋元、明人の真蹟を究め、晩年は岩国市今津町に定住した。昭和7年、79歳で死去した。

浅野静洲(1847-不明)
弘化4年生まれ。名は式部、のちに長輝。広島藩主・浅野氏と同祖。のちに東京に出て南画を学び諸国の景勝を訪ね、文人墨客と交わり、詩画の研鑽を積んだ。大阪の堺にも住んで活躍した。

手島素岳(1862-1936)
文久2年賀茂郡仁方村生まれ。名は謹一郎。初号は香石、晩年に呉東と改号した。大阪の南画家・森琴石に師事し、各地の景勝を遊歴して画技を磨き、多くの作品を残した。昭和11年、75歳で死去した。

伊藤鴛城(1864-1936)
元治元年東京生まれ。名は謙、字は太虚、通称は三郎。儒教を佐藤牧山に、詩を大沼枕山に学んだ。諸県をまわり教授し、広島に定住した。南画をよくし、大正6年第2回広島県美術展覧会に出品、昭和6年無鑑査となり、詩書画ともに活躍、多くの作品を残した。昭和11年、73歳で死去した。

伊藤西湖(1866-不明)
慶応2年島根生まれ。広島に住んだ。名は啓一郎。田能村直入に師事して南画を学んだ。

稲田九皐(1866-1931)
慶応2年岡山県井原市高屋町生まれ。名は斌、字は士譲、通称は康太。別号に仰天がある。儒学を学び詩をよくした。広島に住み、千代田町出身の和田華岳に画を学んだ。広島修道中学教諭兼広島高等師範学校教官となった。楷書、隷書をよくし、多くの作品を残している。昭和6年、66歳で死去した。

田中雲嶽(不明-不明)
福山東町の士族・田中又兵衛の子。俳号は日甫。権少講義となった。南画をよくし、30歳で死去した。

広島(10)-ネット検索で出てこない画家

『広島県』 ジャンルのランキング
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 福原五岳と尾道の画人 | トップ | 菅茶山と頼山陽 »
最近の画像もっと見る

あわせて読む