松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

庶民の姿や風俗を描いた尾張藩士・高力猿猴庵

2015-01-05 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑、尾張の絵画史、猿猴庵とその時代

江戸が華やかな庶民文化に湧いていた江戸時代後期、名古屋城下においても文化的繁栄の時代を迎えていた。賑やかな祭りや華やかな行列が街を彩り、芝居、見世物、開帳などが頻繁に催され、人々は繁栄の時代を謳歌していた。

尾張藩士・高力猿猴庵は、その庶民たちの姿や風俗を丹念に描き上げ、貴重な資料として残している。猿猴庵については不明な点が多く、尾張藩士としては中級の上くらいで、職務は閑職だったという。師系も定かではなく、私生活についてはさらに不明で、30歳で妻をなくし、自らの死の直前には嫡子に先立たれたと伝えられている。

名古屋市博物館には猿猴庵の本コレクションがあり、図録・サイトで紹介している。ここでは主に猿猴庵の周辺の人々について記載する。猿猴庵の本コレクション

高力猿猴庵
尾張藩士。名は種信、通称は新三・与左衛門。別号に吾遊叟、紀有菜、馬甲散人などがある。30歳の時に父のあとを継ぎ、馬廻組を命じられた。翌年、江戸に赴き数年滞在したとされる。この時期は不明な点が多いが、江戸での生活は、制作の上で大きな影響を与えたと思われる。天保2年、76歳で死去した。

内藤東甫
猿猴庵の義理の叔父。尾張藩士。享保13年生まれ。江戸狩野の門人。名は正参、通称は浅右衛門、別号に閑水、朽庵、泥江隠士がある。安永6年春日井郡の尾張藩御凉御殿障壁画を担当した。横井也有ら当時の文化人と交流があった。『張州雑志』の挿絵や、暮雨巷の雅集『姑射文庫』の画を描いた。天明の飢饉に画を売って窮民を救うなどした。泥江に隠居後は風流優雅な生活を送った。天明8年死去。東甫が主導して編集した尾張地方の絵入雑録『張州雑志』は、百巻におよぶ大作で、若い頃の猿猴庵がこれに学んだことも十分に考えられる。

高力種昌
猿猴庵の祖父。著書に雑録『夕日物語』がある。猿猴庵の出生以前に他界しているので直接の影響はない。

高力種篤
猿猴庵の父。著作は伝わっていないが、『続梵天図会』の一部をもとに描かれており、猿猴庵の仕事の源流は、種昌や種篤に発するものと考えられる。

高力全休庵
猿猴庵の孫。父久信が猿猴庵より先に没したため、猿猴庵の死去直後に幼くして高力家の当主となった。幕末から明治初期の名古屋城下図をいくつか残している。

高力種英
猿猴庵の一族と思われる。『張州英画譜』の著書がある。

小田切春江
尾張藩士。別号に歌月庵喜笑がある。猿猴庵に師事し、多くの作品を残している。

森玉僊(高雅)
猿猴庵との関係は明らかではないが、『尾張名所図会』の挿絵や団扇絵に用いた画題には共通するものが多い。

小寺玉晁
尾張藩の陪臣。諸芸に秀でており著作も多い。絵は森玉僊に師事し、神谷三園や細野要斎ら学者たちとの交流も多い。猿猴庵との直接の関係は不明だが、猿猴庵の蔵書を転写した『諸家随筆集』や『見世物雑誌』のように傾向の似た著作を残している。

貸本屋・大惣
明和4年から明治31まで続いた名古屋の貸本屋で、質・量ともに優れた蔵書を誇り、名古屋のみでなく、江戸の文化人などにもその名を知られた。猿猴庵は、主にその後半生に、大惣の依頼で絵入本を著した。ただ、猿猴庵の著作の多くが大惣本として伝わっているが、伝来の状態からみて、猿猴庵の没後に大惣に入ったと思われるものも多い。

尾張(4)-ネット検索で出てこない画家

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