松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま長崎県を探索中。

紀伊の南画家たち

2015-09-16 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

紀州三大南画家である祇園南海、桑山玉洲、野呂介石を輩出した紀伊には、その門人の他にもさまざまな師系の南画家が活躍した。大江龍眠の実弟で小田海僊に師事した大江霞岳、本草学者で南画をよくした坂本浩雪、『小梅日記』で知られ、当時の和歌山における女性画家の第一人者と称された川合小梅、山本梅逸風の南宗画を描いた岡本緑邨をはじめ、諏訪鵞湖、崖熊野ら多彩な南画家がいる。

大江霞岳(不明-1850)
名は一郎。大江龍眠の実弟。南画をよくし、小田海僊に師事した。嘉永3年死去。

井爪丹岳(1832-1900)
天保3年有田郡生石村生まれ。名は脩祐、字は敬肅、通称は與次兵衛。別号に晩茶翁がある。井爪與次兵衛の子。幼い頃から学問や画を好み、はじめ田辺の大江霞岳について学び、のちに京都に出て小田海僊の門に入った。研究熱心で、南北合法を以って新機軸を打ち立てた。師の海僊も丹岳を養子に迎えたいと願ったが、家業を継ぐために成らなかったという。しかし丹岳は公事の傍ら終生画を描いた。明治33年、69歳で死去した。

東山琴堂(不明-1912)
椒村光明寺の住職。名は義賢。幼い頃から画を好み、井爪丹岳に師事して南画を学んだ。四君子を得意とした。大正元年、65歳で死去した。

坂本浩雪(1800-1853)
寛政12年生まれ。名は直大、字は櫻宇、通称は浩然。別号として香村、永齋、寫蘭、櫻香などがある。紀伊藩江戸詰の医師・坂本順庵甫道の長男。父から医学を学び、かたわら本草の学問を研究、余暇に筆をとって画を研究した。天保15年45歳の時に医業を廃し、画道に精進し、草木花卉などの写生に専念した。桜の花に力を入れ、『浩雪櫻譜』を著している。また、諸国を歴遊し、奇木異草や多数の菌類も写生し、『菌譜』2巻を著した。ほかにも『百卉存眞圖』『百花圖纂』など多くの著書がある。嘉永6年、54歳で死去した。

川合小梅(1804-1889)
文化元年生まれ。羅浮洞仙と号した。藩儒の川合豹蔵梅處の妻。野際白雪に師事したとされ、南画をよくした。特に花鳥、美人画を得意とした。当時の和歌山における女性画家の第一人者と称された。身辺の雑事を記した『小梅日記』でも知られる。明治22年、86歳で死去した。

岡本緑邨(1811-1881)
文化8年生まれ。紀伊出身だと思われる。名は邦直、字は子温。山本梅逸風の南画をよくした。画域が広く紀伊各地に作品が残っている。明治14年、71歳で死去した。

諏訪鵞湖(1764-1849)
名は維、通称は兼次郎。岡本小平太道率の二男に生まれ、江戸の諏訪新左衛門親次の養子となり、明和8年に跡を継いだ。武官の職にあって画をよくした。10代藩主・徳川治宝に同行して紀州へ行った際、熊野を遊歴し、那智滝を模写した。また、公命で富士山に登り、その真景を写生して藩主に献上した。嘉永2年、86歳で死去した。

崖熊野(1734-1813)
享保19年熊野生まれ。紀伊藩の儒学者。名は弘毅、字は剛煥、はじめ順助と称し、のちに權兵衛と改めた。学問を好み、画をよくした。紀伊藩に仕えて文学となり『仁井田好古紀伊続風土記』の編纂をした。文化10年、80歳で死去した。熊野に子はなく明の崖南☆を養子とし、南☆は養父の業を継いで書画をよくした。南☆の子・蘭☆、その子・雲☆と続いた。また、文化6年刊行の『南紀若山新書画展展覧会目録』のなかに中村翠宇は岸熊野の門人とあるが詳細は不明。(☆はすべて「山」+「喬」)

中田熊峰(不明-1886)
田辺の人。名は確、通称は泰平。別号に一簑、孤山などがある。幼い頃から読書を好み、書画もよくした。泉州の日根野対山に師事して南画の画法を学び、山水を得意とした。門人に小山雲泉がいる。明治19年、72歳で死去した。

小山雲泉(不明-不明)
田辺の人。名は袁榮、字は秀水、通称は要助。別号に芝石道人がある。明治11年に同地の中田熊峰に学んで南画を修めた。のちに大坂に出て堀江に住み、烟草業のかたわら筆をとった。其間、琴石、玉江、竹外らの先輩と交遊して研究に励んだ。また余技に篆刻を学び『千字文百顆印譜』を著した。赤松雲嶺はこの門から出た。

水野花陰(1850-1887)
嘉永3年生まれ。名は子、別号に華仙がある。三州田原藩主三宅泰直の三女。幼い頃に渡辺崋山の妻たかめ守役として仕え、長じて紀州新宮藩主の水野家に嫁いだ。画を好み、椿椿山、渡辺小華に学び、明治20年に小華の没後は滝和亭に師事した。大正9年、71歳で死去した。

酒井梅斎(不明-不明)
字は子文。戯れに鳥巣閣主人と称した。尾張の山本梅逸の門を出て、巧みに師の画風を伝えた。和歌山山本町に住んで絵筆をとった。明治12年頃に神戸に行き、海外輸出の陶器画の筆をとった。

堀田霞岳(不明-1931)
海草郡内海町の人。名は重蔵、別号に醉山荘主がある。15歳頃に青木梅岳の門に入り、さらに小室翠雲の門に入って学んだ。帰郷してからは藤白山麓に住んで醉山荘主と称した。昭和6年、35歳で死去した。

諏訪醉古(不明-不明)
紀州伊都郡九度山の人。名は寛。若い頃から画を好み、郷里を離れて田能村直入の門に入って学んだ。明治10年頃に死去した。

松韻(不明-不明)
日高郡御坊町島の人。画を志して京都に遊び、田能村直入の門に入って学んだ。画技は巧みだったが夭折して名を残せなかった。

吉田南涯(不明-不明)
明治年間の人。名は直、字は子和、通称は庄太郎。旧和歌山藩御勘定方の武士。畑屋敷榎丁に住んでいた。京都の南画家・重春塘について南画を学んだ。山水を得意とした。

竹中南渓(不明-不明)
和歌山米屋町の商人。中西耕石について南画を学び、米法山水を得意とした。明治12、3年頃病死した。

神保江村(不明-不明)
名は市右衛門。南紀古座中湊の人。代々醤油醸造を業としていた。風雅を好み、山下蕉雨に南画を学び、花鳥を得意とした。

依岡三交(不明-1901)
有田郡石垣村生まれ。和歌山藩の町与力。名は道義、字は子徳、通称は豫十郎。住居を碧梧翠竹草房と称した。師系は定かでないが南画をよくし、四君子、山水を得意とした。明治34年、62歳で死去した。

田崎藍涯(不明-不明)
牟婁郡の人。通称は伊兵衛。師系は定かでないが南画をよくし、山水を得意とした。明治15年の内国絵画共進会に那智瀑布の図と富岳の図を出品している。

沼野棠宇(不明-1778)
名は国幹、字は子禮。和歌山の沼野家八代の孫で、南画をよくした。安永7年死去。

今川了所(不明-不明)
文化年中の人。名は忠懿、字は君美。南画をよくした。

富松蘭溪(不明-不明)
文化年中の和歌山の人。名は長辰。南画をよくした。名数画譜の幽詩7月のうち「猗彼女桑」の図を描いた。

多賀春泉(不明-不明)
和歌山吹屋丁般若院の住職。名は良潭。南画をよくし、花鳥を得意とした。

的場南岳(不明-不明)
寛政文化の人。和歌山中の島に住んでいて南画をよくした。

藤江石鼎(不明-不明)
名は椿、字は八千。文化文政期の和歌山に住んでいた。名数画譜の中に五岳嵩山の図がある。

塩路五水(不明-不明)
名は久雄、字は徳善、通称は彦右衛門。日高郡島村の人。南画の山水をよくした。

千本碧龍(不明-不明)
和歌山藩士で本町御門番の頭役。通称は左門八。余技で南宗画を修め、山水を得意とした。明治10年頃、鳴神村に移って悠々自適に過ごした。

快處(不明-不明)
名は法潤。日高郡御坊町浄国寺の第九世。安政6年より13年間同寺に住んでいた。仏事の傍ら南宗画の山水をよくした。

水野巨海(不明-不明)
通称は澣二郎。新宮藩主土佐守の弟。椿山と交友があり、沈南蘋風をよくした。

紀伊(11)-ネット検索で出てこない画家

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