松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま佐賀県を探索中。

南画家を支援し方向性を示した尾張の豪商・豪農

2015-01-16 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史

尾張南画の発展に大きく寄与したのが、パトロンの存在である。神谷天遊ら大実業家は、自らも画を描くとともに、経済的な面で画家たちを支援し、研究のために明清画など多くの書画資料を提供、作画における大きな方向性を示した。

神谷天遊は、名古屋の鉄砲町に住み、質屋や醸造業を営む実業家だった。和漢の古書画を豊富に所蔵し、のちに中林竹洞や山本梅逸が初めて本格的な画学習を始めたのも、彼のコレクションによるものだった。経済的にも芸術家たちを支え、また優れた鑑識眼をもって画家を指導した。

彼らの支援によって、書画の研究会が盛んに開催され、画家だけでなく学者や文化人たちも集い交流した。七ツ寺における「蓬瀛勝会」には、神谷天遊、内田蘭渚、山川墨湖、十時梅らが参加。極楽寺の「春興余事」には、内藤東甫、丹羽嘉言、山川墨湖、西村清狂、浅井図南、伊藤三橋、鳳雛、人見黍、松平君山、岡田挺之、雲臥元淳、本田三雪らが参加、「五子の社」には近藤九渓、高間春渚、井上士朗が集った。のちに尾張南画の最盛期をささえる中林竹洞や山本梅逸らもこの会から育っていった。

こうした名古屋城下での動きに加え、鳴海にも文雅の人々が集う輪があった。その中心にいたのが下郷学海である。下郷家は鳴海にあって代々「千代倉」を称した素封家で、歴代の主人はいずれも詩文や書画を好んだ。特に松尾芭蕉との深いつながりを持って以来、俳諧にも関心を寄せ、句会を主催したりもした。

千代倉第六代の学海は、名古屋城下で南画がおこり始めた頃に、経史を宮崎いん圃に、書画を池大雅に学んだと伝えられている。彼の周りには南画を描くものや学者が集まった。その交際範囲は名古屋城下にとどまらず、京阪地方の人々も含んだ広範囲にわたるものだった。

地方の教養ある豪商、豪農の間を遊歴してやっと経済的な支えを得ていた当時の南画家や自由人にとって、下郷学海は大きな存在だった。

神谷天遊
宝永7年生まれ。名は元等、字は斎卿、通称は次平、または永楽屋伝右衛門。三河高須村の出身で、名古屋の鉄砲町に住み、質・醸造業を営んでいた。丹羽嘉言とも親しく、嘉言の絵画世界の基礎になったのは天遊の豊富な中国画コレクションだともいわれる。天遊と嘉言の周りには西村清狂、山川墨湖、巣見来山ら同好の士に加え、鈴木朖、丹羽盤桓子、岡田新川、横井也有ら幅広い学者や自由人たちが集まった。この輪に多趣味の商人たちが加わり、理想の南画を目指し尾張画壇を盛り立てた。享和元年死去。

下郷学海
寛保2年生まれ。名は寛、字は君栗、通称は千蔵・次郎八。別号に亀洞、千代倉(屋号)などがある。下郷家の第6世。下郷家は、酒造を兼ねる鳴海の豪農で、代々書画や和歌・俳諧に関心を持ち、尾張の文化人グループのサロン的役割を果たした。『尚書去病』など著書も多く、同時代の人として山田宮常、浅井図南らが学海にあてた書状が多く残っている。池大雅と与謝蕪村に「十便十宜図」を依頼して描かせたことは有名。寛政2年死去。

尾張(7)-ネット検索で出てこない画家

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