松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま佐賀県を探索中。

岡山の近代南画家、石井金陵・衣笠豪谷・波多野華涯

2016-07-07 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の近代日本画 2000

上道郡金岡村(岡山市西天寺)に生まれた石井金陵(1842-1926)は、古市金峨や岡本秋暉に学んだのち、岡山市岩田町に画塾を開き多くの門下生を教え、その後、大阪に移り、関西南画壇の長老として活躍した。窪屋郡倉敷村(倉敷市)出身の衣笠豪谷(1850-1897)は、明治政府の勧農局に勤務して養鶏法の普及などに功績を挙げ、そのかたわら南画をよくした。また、大阪に生まれ、東京の跡見学校を卒業後岡山市内に定住した閨秀画家・波多野華涯(1863-1944)は、岡山の南画普及につとめ、多くの女性門下生を育てた。

石井金陵(1842-1926)
天保13年上道郡金岡村生まれ。名は俊、字は君明。はじめ古市金峨に画を学び、ついで市川東壑、岡本秋暉に師事した。のちに全国を遊歴して画技をみがいた。岡山市岩田町に画房を設けて多くの門下生を教えていたが、明治36年に大阪に戻り、天王寺北山町・小宮町に画房「桃谷山荘」を構えた。姫島竹外、森琴石とともに大阪南画壇の三長老と呼ばれた。晩年は神戸市須磨の「鉄拐山房」に住んだ。昭和3年、85歳で死去した。

衣笠豪谷(1850-1898)
嘉永3年窪屋郡倉敷村生まれ。名は済、字は紳卿、通称は延太郎。別号に天柱山人がある。備中の景勝地・豪渓にちなんで豪谷と号した。少年のころ、倉敷に来ていた勤王画家の石川晃山について詩と南画を学び、ついで興譲館に入って阪谷朗廬に師事し、その後江戸に出て、書を市川萬庵に、詩を大沼枕山に、画を佐竹永海と松山延洲に学び、さらに京都に中西耕石を訪ねて画の研究をかさねた。明治6年に絵画研究のため清国に渡ったが、養鶏法に興味を持ちその勉強に熱中、帰国後は勧農局で新しい孵卵法の普及につとめた。明治30年、48歳で死去した。

波多野華涯(1863-1944)
文久3年大阪生まれ。名は元。明治8年に跡見花蹊が東京・神田猿楽町に開校した跡見学校(のちの跡見学園)の第一期生となった。在学中に画家でもあった跡見花蹊に師事して花崖の号を受け、ついで滝和亭について南画を修めた。詩を河野春帆に、文を藤沢南涯に学んだ。大正5年ころから岡山の内山下桜馬場に住み、「有香社」を主宰して南画の普及につとめ、多くの女性門下生を育てた。昭和19年、82歳で死去した。

岡山(18)-ネット検索で出てこない画家

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