松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

正岡子規と周辺の文士や絵師

2016-04-29 | 画人伝・伊予

文献:江戸・明治の絵師たちと正岡子規

愛媛生まれで「俳聖」と称される正岡子規は、単なる俳人としてとらえられる人物ではなかった。新聞記者や雑誌の創刊など多彩な活動をし、絵も描いた。子規のまわりには、おなじ間口の広さを持った文士や画家たちが集まった。子規に俳句の才能を見出され、絵もよく描いた夏目漱石、絵画から書へと筆を持ち替えた中村不折、愛媛洋画の先駆者でありながら子規との出会いにより俳画に転向した下村為山らはみなそうした存在だった。

正岡子規(1867-1902)は、少年時代から絵画に親しみ、北斎の画道独稽古の写本を作ったり、松山藩士の吉田蔵澤の墨竹画に親しむなどしていた。邦画について明確な意見を持ったうえで、中村不折や下村為山ら周囲の画家たちと熱心に美術論を戦わせた。新聞「小日本」では中村不折を挿絵画家に採用、雑誌「ホトトギス」では浅井忠、中村不折、下村為山らにより我が国に装飾美術、商業美術を大きく広める契機を作った。子規は日本における絵画の新しい「場」の形成に深くかかわったといえる。

夏目漱石(1867-1916)の俳句の才能を最初に認めたのは、同い年の子規だった。漱石は元来英語教師であり、子規とその仲間たちと出会わなければ、一介の英語教師で終わっていたかもしれない。漱石は、俳句のみならず何をしても巧みで、絵画においても、南画、水彩、墨画、油絵など、いろいろと試している。四君子などをよく描いたが、竹をもっとも好んで描いた。これは漱石が吉田蔵澤を好んでいたことによるもので、友人の森円月が漱石に蔵澤の墨竹画を贈ったところ、礼状とともに「蔵澤の竹を得てより露の庵」とよんだ短冊が送られてきたという。子規の没後、「ホトトギス」に「吾輩は猫である」「ぼっちゃん」を発表し、文壇での地位を不動のものとした。

中村不折(1866-1943)と子規は、浅井忠の仲介で知り合った。不折は、子規に写生論のヒントを与えた一人とされる。子規が編集していた新聞「小日本」に挿絵画家としてデビューし、以降子規たちとともに雑誌「ホトトギス」などの装丁や挿絵を手掛けた。また図案、表紙絵、挿絵などの募集を「ホトトギス」が行なった時に、選者をつとめ、次世代の主力となる画家を採用した。

下村為山(1865-1949)は愛媛の洋画の先駆者であり、小山正太郎の不同舎で同門の中村不折と並び称されたが、従兄の内藤鳴雪の紹介で正岡子規と出会ってから俳句に熱中し、やがて洋画を離れ、俳画を描くようになった。浅井忠や中村不折とともに「ホトトギス」の図案も手掛けている。

内藤鳴雪(1847-1926)は俳人であり教育家で、「ホトトギス」の選者もつとめた。少年時代に子規に漢詩の指導をしており、子規の創作活動を最も早くから見ている。鳴雪は生涯、子規のよき理解者であり、鳴雪がいなければ子規の活動がどうなったかわからないともいわれる。鳴雪は下村為山の従兄にあたり、絵も達者で、ユーモアのある画賛を多く残している。ペンネームの「鳴雪」は「世事はなりゆきにまかせる」から得たもので、別号の「老梅居」は「狼狽している」から出ているという。皆から「翁」の敬称で呼ばれ、子規派の長老として重きをなしていた。

明月(1727-1797)
享保12年周防国生まれ。書家・真宗円光寺の僧侶。字は曇寧。別号に義道、明逸などがある。15歳で円光寺に入り、のちに京都へ遊学、堺で王羲之や顔真卿風に学んだ。34歳で円光寺に戻り、古文辞学を松山藩儒者の杉山熊台に授け、また詩文を松山藩町奉行・宇佐美淡斎に教えた。52歳で円光寺を退き、博物学的な書物を著した。明月和尚の書は松山の宝と称され、子規には「冬さびぬ蔵澤の竹明月の書」の句があり、明月の書を吉田蔵澤の画とともに大切にしていた。 寛政9年、71歳で死去した。

伊予(20)-ネット検索で出てこない画家

 


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愛媛洋画の先達・下村為山と愛媛出身の洋画家

2016-04-27 | 画人伝・伊予

文献:近代洋画・中四国の画家たち展愛媛県美術館所蔵作品選

洋画の黎明期にあって、愛媛出身の洋画の先達としては、下村為山と中川八郎があげられる。当時は、洋画の技法を修得するには上京して画塾などで指導を受けるしかなく、下村為山(1865-1949)も、明治15年に上京し、高知の国沢新九郎が創設して本多錦吉郎が引き継いだ洋画塾・彰技堂に入門した。のちに小山正太郎が開設した不同舎で明治リアリズム絵画を学び、中村不折とともに小山門下の双璧と称された。26歳の時に内国勧業博覧会で褒状を受けるなど将来を嘱望されたが、同郷の正岡子規との出会いにより、俳句に熱中し、やがて洋画を離れ、俳画を描くようになった。為山が洋画家として活動した時期は短いが、愛媛の洋画の先達として特筆される存在である。

中川八郎(1877-1922)は明治から大正にかけて文展、帝展を通して中央で活躍した。大阪で日本画を学んでいたが、油彩画の迫真性に感銘を受けて洋画に転向、松原三五郎の天彩画塾を経て、明治29年に上京して不同舎に入門した。同32年には同門の吉田博と渡米し、展覧会で成功をおさめ、その後はヨーロッパを巡遊して帰国した。太平洋画会の結成に参加するなどしたが、同40年に文展が開設されると同展に出品、リアリズムを追究した風景画で活躍していたが、3度目の渡欧からの帰国直後、48歳で病没した。

牧田嘉一郎(1894-1956)や三好計加(1896-1946)も中央画壇の空気を愛媛に持ち帰った画家である。また、愛媛出身ではないが愛媛の若者たちに大きな影響を与えた画家に、宮崎出身の塩月桃甫と、香川出身の平井為成がいる。二人は東京美術学校で洋画の新しい波を体現し、のちに教育者として松山に赴任した。教え子に、塩月の薫陶を受けて東京美術学校に進んだ藤谷庸夫(1896-1962)や松原一(1896-1965)、平井を通じて岸田劉生への憧れを増大させた重松鶴之助(1903-1938)らがいる。

さらに、渡仏後に国画会会員として活動した馬越舛太郎(1899-1987)、二科展や院展洋画部に出品した水木伸一(1892-1988)、村山知義らとマヴォを結成するなど、プロレタリア美術史に大きな足跡を残した柳瀬正夢(1900-1945)、東京美術学校在学中に二科展に初入選し二科を中心に活躍した野間仁根(1901-1979)、大洲出身で東京美術学校卒業後に渡仏し帰国後に官展を中心に活躍した中野和高(1896-1965)らがいる。

下村為山(1865-1949)
慶応元年温泉郡出淵町生まれ。本名は純孝。呼び名は「為さん」。明治15年、18歳の時に上京し、本多錦吉郎の彰技堂に入り洋画を学び、同20年に不同舎に転じた。同22年第1回明治美術会展に出品、翌年第3回内国勧業博覧会で褒状を受けた。同24年同郷の俳人・正岡子規と出会い日本画にも興味を示し、俳句を学ぶようになり俳号は牛伴と名乗った。同30年松山で俳誌『ほととぎす』が柳原極堂によって刊行されるにあたって題字を書き、挿絵を描き、翌年の子規による東京版『ほととぎす』発刊に際しても、中村不折、浅井忠らとともに同誌の挿絵を描いて、以後俳句的画趣と西欧的写実性をあわせもつ「俳味画」といもいうべき作品を描き、大正期には俳画の大家として『ほととぎす』を背景に活躍した。昭和24年、疎開先の富山県西砺波郡において、84歳で死去した。

中川八郎(1877-1922)
明治10年喜多郡天神村生まれ。中川猪三郎の長男。9歳の時に叔父の中川金三郎を頼って大阪に出た。小学校卒業後に家業の手伝いのために日本画を習うが、のちに洋画に転向し、松原三五郎の天彩画塾に入った。明治29年松原の勧めで上京して小山正太郎の主宰する不同舎に入門した。同32年同門の吉田博とともに渡米、各地で展覧会を成功させ、その資金でヨーロッパを巡り、遅れて渡米してきた同門の満谷国四郎、鹿子木孟郎ら4人の仲間とともに展覧会を成功させて帰国した。翌年、彼らとともに太平洋画会を結成した。同40年年東京勧業博覧会で2等賞、同年第1回文展、続いて2、3回展でも3等賞、第4回展では2等賞を受賞した。翌年から審査員となり、全国各地に取材した風景画を出品した。大正10年に3度目の渡欧をするが、帰国後に病を得て、翌年の大正11年、48歳で死去した。

伊予(19)-ネット検索で出てこない画家


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日本画革新運動の中での愛媛出身の日本画家

2016-04-25 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛県美術館所蔵作品選

明治も20年代になると、岡倉天心、フェノロサらの提唱により東京美術学校が開設され、日本美術院が創立されるなど、「新日本画」を標榜する革新運動が活発になっていった。京都における諸流派も近代絵画の影響を受け、それぞれに革新機運が盛り上がり、新団体の結成などが盛んになっていった。愛媛出身の日本画家としては、今治生まれの大智勝観が、東京美術学校に学び、横山大観らを中心に日本美術院が再興される際に中心人物として参加した。また、周桑郡庄内村生まれの高橋周桑は、山本丘人らと創造美術会の結成に参加した。

大智勝観(1882-1958)
明治15年今治生まれ。本名は恒一。明治23年に東京美術学校日本画科を卒業後、1年間、志願兵の歩兵少尉として日露戦争に従軍した。大正2年、第7回文展で初入選、3等賞を受賞した。翌年、横山大観を中心とする日本美術院の再興に際して、筆谷等観とともに中心人物として参加、再興第1回院展に出品して、小林古径、前田青邨とともに同人に推挙された。昭和5年、ローマ日本美術展に際し美術使節として横山大観に随行し、速水御舟らとともにイタリアに渡り欧州を遊歴、帰国後に大観との共著で『渡伊スケット集』を出版した。また、同年からは日本美術院経営者となっている。昭和14年新文展の審査員に、戦後は日展参事をつとめた。昭和33年、77歳で死去した。

高橋周桑(1901-1964)
明治34年周桑郡庄内村生まれ。本名は千恵松。代々庄屋の家だったが、父と長兄が事業に失敗したため、小学校に入るころに九州に移住し、小学校卒業後は家業の菜園造りを手伝っていた。18歳の時に速水御舟の「洛北修学院離宮」を画集で見て感銘を受け、22歳で上京し、速水御舟に師事、師から故郷にちなんだ「周桑」の号を受けた。昭和3年、第15回院展に初入選、同5年に日本美術院賞を受賞して院友となった。同18年、文楽の吉田栄三に心酔し新橋演舞場に通い、吉田を描いた作品を院展に発表するようになり、これ以降文楽の舞台衣装や舞台美術を担当するようになった。戦後の昭和23年には山本丘人、吉岡堅二、福田豊四郎、小倉遊亀らと創造美術会を結成、その後創造美術が新制作派教会と合流して新制作協会となったため、同会の会員として晩年まで出品した。昭和39年、63歳で死去した。

伊予(18)-ネット検索で出てこない画家


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伊予の南画、全盛から現代南画へ

2016-04-22 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人、伊予文人墨客略伝

吉田蔵澤(1722-1802)やその門人たちによって確立されていった伊予南画は、しだいに広がりを見せる。小松藩絵師となった森田南濤(1808-1872)は文晁派の春木南湖に学び、その流れは門人の林涛光(1832-1913)によって引き継がれた。伊予の朱子学者・近藤篤山に学んだ長尾慶蔵(1834-1872)も南画をよくした。さらに、伊予南画の双璧と謳われた天野方壺(1824-1895)と続木君樵(1835-1883)の出現により、伊予南画は全盛を迎える。全国的にみると、その後の南画は、幕末から明治初期にかけて衰退していくことになるのだが、伊予の地にあっては、三好藍石(1838-1923)や野田青石(1860-1930)らの活躍は、昭和初期になっても色あせることはなく、現代南画の世界においても、日本南画院の設立に参加した矢野橋村(1890-1965)らへと連綿と続いている。

林涛光(1832-1913)
天保3年生まれ。森田南濤に師事し、文晁派らしい緻密な描写力で伊予の名勝を描いた。今治の国学者・半井梧庵の著書『愛媛面影』に挿絵を担当した。明治初期に描いた真景の掛け軸「石鎚画賛」と「面白滝画賛」には半井梧庵が賛を書いており、両者の親密ぶりが伝わる。大正2年、82歳で死去した。

森田南濤(1808-1872)
文化5年小松生まれ。小松藩士・森田森蔵元利の三男。19歳の時に江戸に出て、春木南湖の門に学んだ。山水花卉を得意とし、38歳で小松藩絵師となった。明治5年、64歳で死去した。

長尾慶蔵(1834-1872)
天保5年宇摩郡関川村上野生まれ。近藤篤山に師事して漢学を学んだ。また、人物画をよくした。明治5年、87歳で死去した。

矢野圭洲(1838-1915)
天保9年壬生川の保内神社に生まれた。本名は矢野治美。京都の南画家・上田公圭に師事し、のちに帰郷して閑居した。人物、花鳥画を得意とした。大正4年、広島において78歳で死去した。

大西黙堂(1851-1921)
嘉永4年川之江町井地生まれ。本名は為一(為市とも書いた)、別号に黙仙、黙遷がある。大西家は質屋をし、サトウキビから製糖もしていた。黙堂は生まれつき言葉が不自由で、幼いころから書画に親しみ、明治の初めころに絵の修業のために京都へ出て、浅井柳塘に師事、水墨画を学び、師匠や画友らと全国をまわってスケッチをした。明治19年東洋絵画共進会で三等賞、同34年全国南画共進会で三等賞、41年関西南画会全国絵画展で二等賞を受賞した。大正10年、71歳で死去した。

鱸亀峰(1857-1902)
安政4年生まれ。名は藤馬。名草逸峰に師事した。人物、花鳥、山水いずれにもすぐれ、将来を嘱望されていたが、明治35年、46歳で死去した。

中神靄外(1859-1941)
安政6年松山生まれ。武智五友に漢学を、名草逸峰、鉄翁祖門、木下逸雲に南宗画を学び、山水を得意とした。昭和16年、83歳で死去した。

野田青石(1860-1930)
万延元年生まれ。八幡浜矢野町の庄屋・野田美陳の孫。名は純太郎。別号に孤雲、如雲居士がある。上甲振洋に経書を学び、父・南山及び荒木鉄操に画法を習い、さらに明治11年に豊後の帆足杏雨について学んだ。京都相国寺の荻野独園に参禅し、さらに帰郷し大法寺の西山禾山に参禅して心眼を養った。また、大阪の藤沢南岳について詩文を学び、時に名山勝地を訪ねて画材を探し、大家と交わって画技を深めた。明治25年、コロンブス世界博覧会に桃源の図を出品して奨励賞を受賞、以来各地の共進会に出品して褒賞を受けた。昭和5年、70歳で死去した。

矢野橋村(1890-1965)
明治23年越智郡波止浜町生まれ。本名は一智。別号に知道人、大来山人、古心庵がある。18歳で大阪に出て、砲兵工場で働いていた時に事故で左手首を失った。20歳で南画家・永松春洋の門に入り、大正3年、25歳の時に文展に初入選、褒賞を受けた。以後も文展に出品、院展が再興されると出品して院友となるが、次第に既成団体から離れていった。大正5年に主潮社を設立、同10年には日本南画院設立に参加し、昭和11年の解散まで出品した。また、大正13年に大阪美術学校を設立、校長となり後進の育成に尽力した。昭和2年から再び帝展に出品、翌年特選となり、同8年には帝展審査員となった。36年には日本芸術院賞を受賞した。古川英治「宮本武蔵」など多くの新聞挿絵を担当している。昭和40年、76歳で死去した。

矢野鉄山(1894-1975)
明治27年越智郡波止浜町生まれ。本名は民雄。矢野橋村の甥。幼いころから画を好み、18歳の時に上京して小室翠雲に師事した。同13年に叔父の橋村が大阪美術学校を開設したため、それを機に大阪に移り、同校で学んだ。大正9年、第2回帝展に初入選し、以後も文展、日展に出品した。大正10年の日本南画院創設にともない、師の翠雲や橋村とともに参加、昭和11年の日本南画院解散の翌年には、橋村、菅楯彦、小松均、中川一政、津田青楓、八百谷冷泉らと墨人会倶楽部を結成した。昭和14年、橋村を中心とした乾坤社を結成、大阪美術学校を拠点に公募展を5回開催した。昭和18年には新文展の審査員をつとめ、戦後も日展審査員をたびたびつとめた。昭和43年、全日本水墨画協会を創立、水墨画の振興に尽力した。昭和50年、81歳で死去した。

伊予(17)-ネット検索で出てこない画家


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伊予南画の全盛・続木君樵と周囲の画人

2016-04-20 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人、伊予文人墨客略伝

天野方壺の登場で全盛を迎える伊予南画だが、伊予画壇において方壺と双璧と謳われたのが続木君樵(1835-1883)である。君樵は庄屋の家系に生まれ、幼いころから書画に親しんだ。土居町を中心として多くの画人と交わったが、地元の村上鏑邨、川之江の三好鉄香、三好藍石らとは年齢もあまり違わず、弟子とも友人ともいえる間柄であった。とくに三好藍石とは親しく、川之江の三好家に出向いて絵を描き、教え、画論を戦わせていたという。

続木君樵(1835-1883)
天保6年宇摩郡野田村生まれ。名は直、通称は宇多三。別号に六宜道人がある。土居町に残る続木家の記録によると、11歳のころから画を学び、15歳で九州へ修業に出た。安政2年には豊後日田で木本橘巣に学び、文久3年から明治元年まで長崎に行き木下逸雲、鉄翁祖門に学んだ。明治2年に土居町に戻り、明治4年から明治6年まで山陰道に渡り雲伯地方に遊んだ。そして明治7年から一年間、中国に渡って研究を深め、中国から帰国後は郷里で塾を開いたが、その後も出雲、土佐などをまわって修業した。明治16年、尾道において49歳で死去した。

村上鏑邨(1822-1893)
文政5年宇摩郡蕪崎村生まれ。村上安之丞春忠の五男。幼いころから書画を学び、17、8歳の頃に京都へ出て中西耕石について学んだ。蕪崎は勤王の士を輩出したところで、鏑邨が成人した頃は維新が風雲急を告げており、のちに天誅組の乱で失敗する藤本鉄石と血盟相許すなどした。鏑邨が勤王画家と呼ばれる所以である。維新後、絵に打ち込み、明治10年頃には画家としてかなり名声を得たようで、当時の名が上った画家にならい諸国を漫遊した。明治26年2月17日旅先の美方郡浜坂町の「たいや旅館」において71歳で病死した。

三好藍石(1838-1923)
天保9年生まれ。宇摩郡川之江の人。名は貞信、通称は旦三、別号に金螺、江翁がある。阿波の池田に生まれ川之江の素封家・三好鉄香の妹婿になった。青年時代から画を好み、野田村の続木君樵、讃岐の兒島竹處、豊後の木本橘巣らに師事、さらに長崎の木下逸雲、鉄翁祖門らに私淑し、画法を研究した。また、讃岐の山田梅村には詩文、京都の貫名海屋には書を学んだ。南画をよくし、山水を最も得意とした。明治35年ころに門人だった手島石泉が松山織物会社の重役として大阪に出張滞在した時、大阪にも藍石ほどの南画家はいないと感じ、藍石に大阪に出ることを勧めたことから、大阪に出て20年居住し、名を高めた。晩年は川之江に戻って悠々自適に画業に専念した。大正12年、86歳で死去した。

三好鉄香(1836-1885)
天保7年生まれ。川之江の人。本名は三好長慶。遠祖は八幡太郎義家の末裔で、阿波の守護職にして勤王家だった。名は範平。別号に愛石、洋雲、聴雨軒、得月庵がある。素封家で、酒造業を営み、大地主として金融を図り、地方産業の功労者だった。画を続木君樵に学び、南画をよく描いた。明治18年、50歳で死去した。

手島石泉(1852-1947)
嘉永5年越智郡大三島町生まれ。名は正誼。警察官、のち郡長をつとめた。三好藍石に師事した。退官後、鉄翁祖門・木下逸雲に師事し南画を描いた。昭和22年、96歳で死去した。

山内幾太郎(不明-1922)
鉄翁祖門・続木君樵に南画を学び、のちに大坂に出て田能村直入に師事し、山水、花鳥画をよくした。大正11年死去した。

伊予(16)-ネット検索で出てこない画家


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伊予出身の旅絵師・天野方壺、伊予を訪れ作品を残している富岡鉄斎

2016-04-18 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人、江戸・明治の絵師たちと正岡子規

幕末から明治初期にかけて活躍した伊予出身の南画家に、天野方壺(1824-1895)がいる。その生涯はほとんど不明確だが、諸々の資料をつなぎ合わせると、はじめ三津の四条派の画人・森田樵眠に学び、のちに京都の中林竹洞の門に入り、翌年には着色法を土佐光孚に、書画法を貫名海屋に学び、それから九州薩摩まで旅に出た。弘化元年に京都に戻って日根対山に南派を学び、さらに江戸に出て椿椿山に南派を学んだ。嘉永2年には函館、江差に渡り、翌年にかけて蝦夷の勝景を写生した。同6年になって江戸に戻り橋本雪蕉に学び、万延元年に長崎に行って木下逸雲に学んだのち、肥後、肥前や周辺各地をまわり、さらには明治3年中国に渡り、胡公寿に南派を学んだ。その後長崎に戻り、九州各地を遊んだのち、京都から東海にかけて旅行するなど「旅絵師」として諸国を歴遊した。遊歴の生活は晩年まで続き、岐阜の地で没したとされる。

富岡鉄斎(1836-1924)は、青年時代に伊予出身の国学者・矢野玄道と交流し、維新後には伊予出身の佐々木春子と結婚したこともあり、伊予松山をたびたび訪れている。その際に三津浜の人々の歓迎を受け、多くの画を描いている。伊予に関する画題を取り上げた作品も多い。伊予で鉄斎に学んだ弟子としては、中川秋星・藤田三友父子がいる。

天野方壺は鉄斎ともっとも交流があった伊予の画人とされていて、残された資料によると、旅から旅の生活をしていた方壺だが、鉄斎宅からそう遠くない場所に居を置いていることがわかる。また、鉄斎から伊予の近藤文太郎にあてた書簡によると、方壺が明治19年頃に松山で豪商の求めに応じて作品を描いたことや、再び京都に戻り旅絵師を続けていたこと、妻がいたこと、そして鉄斎の17歳の長男・謙蔵が竹輪を持って方壺宅を訪れていることなどが分かっている。

天野方壺(1824-1894)
文政11年松山三津浜生まれ。通称は大吉、名は俊。別号に葛竹城、景山山本、雲眠、壷翁、壷山人・白雲外史などがある。三津の四条派の画人・森田樵眠に学び、のちに京都に出て中林竹洞の門に入った。数度中国にも渡り、胡公寿らに師事して画技を磨いたとも伝わっている。富岡鉄斎とも交流があったといわれる。岐阜、仙台、高田など全国を旅して歩き、松山城天主閣蔵の「山水花卉図屏風」をはじめ、各地で多くの作品を残している。岐阜高山で没したという説もあるが、その生涯は不明確である。明治27年、67歳で死去した。

富岡春子(1846~1940)
弘化3年生まれ。富岡鉄斎の妻。父佐々木禎蔵、母イクの三女として長浜に生まれた。佐々木家は代々大洲藩の長浜番所に務めていた。19歳で京都の五条家に奉公に出て、明治5年、26歳の時に富岡鉄斎と結婚した。書や歌をよくし、墨絵を書いたり楽焼を好むなど趣味も広く、長浜で幼な友達、知人との交流も深かった。昭和15年、94歳で死去した。

藤田三友(1869-1947)
松山市湊町でカツラ屋を営む風流画人・中川秋星の二男。請われて藤田家を継ぎ三番町に住んでいた。明治6年、父の秋星は風雅の友、永木竹雨宅で富岡鉄斎と知り合い、以後父子ともに鉄斎の画風を学んだ。愛媛美術工芸展委員として活躍。昭和22年、78歳で死去した。

伊予(15)-ネット検索で出てこない画家


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伊予南画の先駆者・吉田蔵澤、正岡子規も愛した竹の名手

2016-04-15 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人、伊予文人墨客略伝

伊予南画の先駆的な存在としては吉田蔵澤(1722-1802)があげられる。蔵澤が長崎南画との出会いによって墨竹を始めたころは、ちょうど池大雅や与謝蕪村らによる日本南画の黎明期にあたり、蔵澤の先駆性ははやくから高い評価をうけている。蔵澤の墨竹は晩年になるにしたがって、その画境に一種独特の精神性をみなぎらせていった。伊予出身の俳人・正岡子規も蔵澤の竹を愛し、「蔵澤の竹も久しや庵の秋」という句を詠み、東京根岸の庵にその軸を掛けて郷里の画人を讃えた。蔵澤の後継者としては甥の大高坂南海がいる。南海は松山藩の儒者・大高坂家七代の当主にあたり、蔵澤の画風をそのままに伝えた。画系は南海の弟子の丸山閑山、その弟子の中野雲涛へと伝わっている。

吉田蔵澤(1722-1802)
享保7年生まれ。松山藩士。名は良香、字は子響、通称は彌三郎、のちに吉田家の世襲名である久太夫を名乗った。別号に豫章人、贅巌窟、白雪堂主人、應乾、翠蘭亭、倦翼、東井、白浜鴎、不二庵、酔桃館などがある。宝暦13年、42歳の時に風早郡の代官となり、明和6年には野間郡の代官も兼ね、18年間その職にあり、中間搾取の排除、公僕精神の強化など農民の立場に立った善政を行ない信望を集めた。天明元年には特筒頭、天明4年には者頭となり藩政に参画した。画は20歳代に狩野派の木村東巷に学び、50歳前後から明清絵画に影響を受けた墨画を盛んに描き始めたとみられる。当初は蘭、菊、梅などを多く描いていたが、やがて竹を専門に描くようになり、70歳を越えて変幻自在で精神性の高い墨竹画に到達し、「竹の蔵澤」と称された。享和2年、81歳で死去した。

大高坂南海(1766-1838)
明和3年生まれ。松山藩の儒者で、吉田蔵澤の甥。松山藩士・山本義唯の次男で、19歳の時に大高坂家を継いだ。名は龍雄、通称は四郎兵衛、字は延年、のちに太平。別号に舎人、天人、南海、如風、魯斎、玉亀などがある。墨竹の名手である叔父・蔵澤から指導を受け、そn真髄を継承した。漢詩にもすぐれ、漢詩集『竹石余花』や儒・仏・神の三教の融合を説いた『有無肺』などの著書がある。天保9年、73歳で死去した。

丸山閑山(1810-1872)
文化7年生まれ。松山藩士。丸山南海の子。通称は市郎兵衛。別号に寛揖、子思、子興、隆、三洞、雪花斎などがある。父の影響で幼いころから学問を好み、画にも秀でていた。蔵澤の甥であり高弟の大高坂南海に筆法を学んで竹画をよくし、蔵澤、南海とともに「墨竹の三名人」と称された。明治5年、64歳で死去した。

丸山南海(不明-1801)
松山藩士。古学派学者で歌人。丸山閑山の父。諱は惟義、通称は大蔵。学問を好み、伊藤仁斎を慕って一意古学を信奉しその唱道につとめた。和歌にも長じ、多くの名歌を残している。享和元年に死去した。

中野雲涛(1821-1908)
文政4年生まれ。松山の人。名は信戴。丸山閑山に師事した。墨竹画の名手として知られているが、蔵澤とは画風が異なっている。明治41年、88歳で死去した。

伊予(14)-ネット検索で出てこない画家


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円山四条派の流れを汲む伊予の画人

2016-04-13 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人、伊予文人墨客略伝

森田樵眠によって伝えられた円山四条派の流れは、伊予の地に広まっていった。東宇和郡野村町に生まれた松本仙挙(1880-1932)は、京都市立美術工芸学校絵画科に進み、卒業後も山元春挙に師事して「仙挙」の号を受け、文展、帝展に出品した。春挙の門からはほかに大西南山が出ている。京都絵画専門学校を卒業後に菊池芳文に師事した武田耕雪は、帰郷後に愛媛の日本画壇の中心となって活躍した。また、京都で芳文に師事したのちに東京に出て寺崎広業に学び、美人画を得意とした河崎蘭香は、のちに「日本国憲法の生みの親」と称される金森徳次郎とのかなわぬ悲恋のなかで早世し、「夭折の閨秀画家」と呼ばれた。竹内栖鳳の門からは、帰郷後に四条派を伊予の地に広めるなど県の美術振興に尽力した矢野翠鳳が出ている。ほかには、都路華香の門から出て長く愛媛の日本画壇を牽引した長谷川竹友、橋本関雪の門人として画才を認められながらも、師と写生に行く途中に自動車事故に遭い34歳で没した菊川南楊がいる。

松本仙挙(1880-1932)
明治13年東宇和郡中筋村生まれ。名は政興。京都市立美術工芸学校絵画科に入学し、日本画の教授であった山元春挙に学び、同校卒業後も春挙に師事して師からより「仙挙」の号を受けた。明治40年には結婚し帰郷して教鞭をとっていたが、大正4年に再び京都に出て画業に専念、その後は文展・帝展に出品した。昭和7年、京都において53歳で死去した。

大西南山(1874-1943)
明治7年周桑郡丹原町大字徳能生まれ。名は宗祐。山元春挙、寺崎広業に師事し、山水、鯉魚を得意とした。文展に出品し、宮内省買い上げになっている。画業のかたわら詩文をよくした。昭和18年、68歳で死去した。

武田耕雪(1889-1973)
明治22年周桑郡丹原町大字古田生まれ。本名は規太郎。西条中学から京都絵画専門学校を卒業、菊池芳文に師事した。大正10年に帰郷し、愛媛の日本画壇の中心となって活躍した。昭和48年、87歳で死去した。

河崎蘭香(1882-1918)
明治15年八幡浜生まれ。川崎奨の長女。名は菊。通称は菊子。西宇和郡郷村の医師の神山家に生まれ、河崎家の養女となった。八幡浜の小学校を出て音楽学校に1年通ったあと、京都に出て菊池芳文について学び、のちに上京して寺崎広業に師事、美人画を得意とした。明治40年に東京勧業博覧会で鏑木清方、結城素明らとともに三等賞を受け、同年開設された文展に出品、以後文展で受賞を重ね、将来を嘱望されたが、大正7年、37歳で東京において死去した。

矢野翠鳳(1870-1944)
明治3年伊予郡砥部生まれ。名は芳三郎。近藤元修、浦屋寛制について漢学を修め、小学校教員になった。その後、松山の松浦巌暉について日本画を学び、明治35年には京都に出て竹内栖鳳に師事、動物画を得意とした。37年帰郷して伊予に四条派の画風を伝え、伊予美術協会、愛媛美術工芸会の会員となって県美術振興に尽力した。昭和19年、75歳で死去した。

矢野翠堂(1897-1973)
明治30年伊予郡砥部町生まれ。本名は芳樹。松山市立工業徒弟学校を卒業し、愛媛県庁、伊予鉄に勤務した後、大正7年に父・矢野翠鳳に学び、2年後に上京して川合玉堂の長流画塾で学んだ。伊予美術展、県展などに出品した。昭和48年、77歳で死去した。

伊賀上雄鳳(1895-1948)
明治28年松山市井門町生まれ。本名は静雄。18歳で京都に出て竹内栖鳳に学び、師の一字を受けて「雄鳳」と号した。また、中国に渡り王一亭、呉昌碩にも師事した。戦前は神戸で鳳栄画塾を主宰して多くの後進を育てた。昭和20年に帰郷してからは、愛媛美術協会、愛媛日本画研究会の発起人になるなど、愛媛画壇再建に尽力した。昭和23年、55歳で死去した。

加藤揚州(1883-1926)
明治16年生まれ。名は興。別号に岡谷がある。松山中学3年の時に聴覚を失った。京都に出て三宅呉暁、川北霞峰に師事、大正7年に帰郷して伊予美術展に出品した。写実に徹した動植物画、特に軍鶏を得意とした。大正15年、44歳で死去した。

佐々木天璋(1890~1928)
明治23年八幡浜市栗之浦生まれ。名は百太郎。幼いころから画を好み、長じて梶谷南海に学び、師から「南明」の号を受けた。のちに京都の佐々木九皐に師事し、さらに上京して田中頼璋の門に入り、「天璋」の号を受けた。人物、花鳥を得意とした。昭和3年、39歳で死去した。

長谷川竹友(1885-1962)
明治18年重信町拝志生まれ。名は武次郎。早くから京都に出て都路華香の門に入り、冨田溪仙とならんで将来を嘱望された。インド、中国をまわって中央で活躍したが、昭和11年に帰郷、県展などに出品した。愛媛県の日本画壇で長老的存在だった。昭和37年、78歳で死去した。

菊川南楊(1896-1929)
明治29年越智郡波方町小部生まれ。菊川辰次の四男。本名は十太郎。少年の頃から絵を好み、小学校卒業後に大阪の姫島竹外に師事した後、橋本関雪の門に入った。昭和元年帝展に初入選、画才を認められ、師に倣って西洋画を研究すべく洋行を計画していたが、昭和5年、関雪と那智の滝に写生に行く途中に自動車事故に遭い、34歳で死去した。

伊予(13)-ネット検索で出てこない画家


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伊予に四条派を伝えた町絵師・森田樵眠

2016-04-11 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-

山本雲渓の活躍期に重なるように現れたのが、松山三津の町絵師・森田樵眠(1795-1872)である。樵眠については詳しい経歴は伝わっていないが、京都に出て岡本豊彦の門で学び、伊予の地に四条派の画風を初めて伝えたらしい。当時の三津の町は、今治の町とならんで内外の海上輸送の拠点として栄えており、参勤交代用藩船の発着港になってからは藩内第一の公道となり、商家があつまり町はにぎわった。強力な財力を得た豪農、庄屋、商人たちは絵画を求めるようになり、樵眠はそれに応じて描いた。当時の商人や町民が絵に触れる場所はあまりなく、寺社や絵馬堂に限られていたことから、注文は絵馬に集中したことから、中予地方一帯には樵眠やその門人による絵馬が大量に残されている。門人には、岡本南雅、惺々堂雲僊、鷲谷石斎、松浦巌暉らがいる。のちに伊予南画の世界に新境地を開いた天野方壷も樵眠の門に学んだとされる。また、京都に出て柴田義董に学んだ藤井梧園(不明-1844)も四条派の画をよくした。

森田樵眠(1795-1872)
寛政7年松山三津生まれ。別号に養神斎、惺々翁、魯樵などがある。京都に出て岡本豊彦に師事し四条派の画法を修め、故郷に戻り三津に絵屋を開いた。中予地方一帯の寺社には豪商や町人たちの求めに応じて、樵眠が描いた絵馬が多く奉納されている。明治5年、78歳で死去した。

鷲谷石斎(1829-1899)
文政12年松山生まれ。本名は横山五兵衛。名は五平、幼名は久次郎。鷲屋石巒の甥。西堀端で染物商を営んでいた。森田樵眠に師事し、武者絵をよくした。大絵馬を得意とし、温泉郡川内町河之内金毘羅寺の「東征将軍御謀叛人生捕図」をはじめ、松前町高忍日売神社、玉生八幡神社、久万ノ台三島宮、大洲八多喜粟津森神社などの大絵馬が石齋の作とされる。開明的な性格で、当時一般人があまり食べなかった牛肉を好み、魚菜類もはしりを好んだという。明治32年、71歳で死去した。

鷲屋石巒(1788-1871)
天明8年広島生まれ。画家・彫刻家。鷲屋石巒の叔父。通称は三十郎、異号は道楽山人。横山石巒とも称した。松山松前町角六という酒屋に奉公中に鷲屋五兵衛に画技を見い出され、長女の婿となる。屋号は「鷲屋」で、明治になって「鷲谷」と改めた。東京都・高輪泉岳寺の義士館に展示されている赤穂四十七士の木像の中の大石良雄像や茨城県・笠間稲荷桜門の二体の随身像などの作品を残している。また、根付もよくした。明治4年、84歳で死去した。

松浦巌暉(不明-1912)
三津浜生まれ。森田樵眠に師事し四条派の画家として京都画壇で名を成した。人物画を得意とし、松山で画塾を開いて多数の門人を養成した。櫻井忠温も松山中学に入ると間もなく兄の鴎村に連れられて入門した。大正元年、死去した。

藤井梧園(1780-1844)
安永9年生まれ。松山の人。松村月渓の高弟・柴田義董に師事し、四条派の画法を修めた。弘化元年、65歳で死去した。

伊予(12)-ネット検索で出てこない画家


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岸駒に学び、江戸で活躍した沖冠岳

2016-04-08 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-愛知画家名鑑

今治に生まれ山本雲渓の手ほどきを受けて絵画に目覚めた沖冠岳(1817-1876)は、京都に出て岸駒の門に入り画を学び、その後江戸に出て谷文晁や渡辺崋山らと交わり、江戸南画や狩野派を研究するなど様々な画法を身につけて江戸で名をなした。明治3年に浅草寺に描いた「四睡図」は評判を呼び、江戸での人気をさらったという。今治地方の社寺には多くの大絵馬が残っている。門人としては、山下桂岳と愛知の二宮赤峯らがいる。

沖冠岳(1817-1876)
文化14年今治風早町生まれ。字は展親、名は庸。初め冠岳と号したが、一時は冠翠に改号、のちに再び冠岳に戻した。別号に天真堂、蠖堂、玉菴、桂峰、暘谷などがある。元来の姓は中川だったが、中と川(水)の二文字を合成して「沖」姓とし、以後子孫は沖を本姓としている。実家は檜物屋を家業としていたが、父は松山で医者をしていたと伝えられる。冠岳は画道を志し、京都に出て岸駒に学んだのち、江戸に移住し、谷文晁らの江戸南画家と交流したとみられる。また、土佐の河田小龍が文久2年頃に完成させた『吸江図志』に校正で関与している。元治元年に品川旗岡八幡神社に奉納された大絵馬「猿駒止」をはじめ、明治3年には浅草寺の「四睡図」、明治4年に今治大浜八幡神社の「観刀図」、明治6年に讃岐金刀比羅宮の「四季花鳥図」、明治8年に広島厳島神社の「猩々図」など、各地に大絵馬を描いている。晩年には今治に帰郷して、明治8年には今治城の図を描いている。明治9年、60歳で死去した。子の冠嶺は漢学者として名高く、多くの著書を残している。

山下桂岳(1832-不明)
天保3年生まれ。名は清吉。山下伊右衛門の子。明治4年より沖冠岳に師事して画法を学んだ。

二宮赤峯(1852-不明)
嘉永5年加茂郡足助村生まれ。名は景吉。猪飼重造の子。三河国碧海郡刈谷の二宮伊兵衛の養子となった。幼いころから画を好み、海沼文方、沖冠岳に学び、のちに辻嘉潭に師事、さらに佐々布篁石に学んだ。明治17年の第2回内国絵画共進会に出品している。

伊予(11)-ネット検索で出てこない画家


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森狙仙門下の猿の画人二人・山本雲渓と大内蘚圃

2016-04-06 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-

藩の絵師として全盛を極めた狩野派や住吉派にかわり、江戸後期から末期にかけて新しい画境を切り開いたのは、長崎系南画の流れや円山派だった。今治藩の山本雲渓(1780-1861)は、医術を学ぶため大坂に出た際、円山派の流れを汲む森狙仙の門に入り、写実的な密画の筆法を身につけ、師と判別がつき難いほどの猿の画を描いた。今治の神社仏閣に多くの絵画を描き「雲渓さん」の愛称で親しまれた。また、江戸に生まれ宇和島に移った大内蘚圃(1764-1842)も森狙仙に師事し、猿の画を得意とした。

山本雲渓(1780-1861)
安永9年伊予大井村生まれ。通称は雲平、諱は邑清、字は好徳。別号に月峰人、月峰斎、清月亭がある。画室を月光堂と称した。天明3年、父の輔清に伴い一家で今治城下に転居した。幼いころから学問に秀で、大坂で医術を学び、帰郷してから医院を開業した。今治藩に典医として仕えたとも伝えられる。特に小児科にすぐれていたという。画道に関しては、大坂で森狙仙に学んだと伝えられ、師と同じく猿を最も得意とした。画家としての評判は高く、求めに応じて制作しており、文政4年に讃岐金刀比羅宮への奉納額に「鐘馗」を揮毫したのをはじめ、安芸厳島神社や大山祇神社、和霊神社など、各地の神社に多くの絵馬を残しており、伊予内外に50点余りの絵馬が確認されている。文久元年、82歳で死去した。

大内蘚圃(1764-1842)
明和元年江戸麻布龍土生まれ。通称は平三郎。江戸詰めの宇和島藩士だったらしい。どのような形で宇和島に出向いたのか定かではない。幼いころから画を好み、森狙仙の門に入って学んだとされる。師と同じく猿の画を得意とし、残された数少ない作品も大部分が猿のものである。その人物像は記録にもほとんど残っていないが、性格は温厚だが、かなりの酒好きで、すこぶる奇行に富んだ人物だったらしい。江戸に戻り、天保13年、79歳で死去した。

伊予(10)-ネット検索で出てこない画家


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宇和島から杵築の安住寺へ、孤高の水墨画家・村上天心

2016-04-04 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人安住寺ホームページ

宇和島の豆腐屋の家に生まれた村上天心(1877-1953)は、幼くして父親と死別し、学校で学ぶ機会を得られなかったが、独学で各派の画法を学んだ。さらに、様々な師を求めて、禅、彫刻、仏典、儒学、漢字などの学問を修めた。向上心旺盛で、わずかの間に学問を身につけたという。また、生涯一枚の絵を売ることもなく、独身を貫き、孤高の中で修業と作画に専念した。

明治41年、天心は病弱の母を伴い、湯治のため大分県別府を訪れている。この時に隣室に居合わせたのが杵築市安住寺檀家総代の綾部氏で、その縁でのちに深い親交を結んでいく綾部氏の実弟、安住寺第十四世・綾部玄道和尚と出会うことになる。綾部氏の案内で杵築市寺町の安住寺を訪れた天心は、居並ぶ僧侶の中で一人を指さし「あの人は何という人か」と問いただしたという。その人こそが綾部玄道和尚であり、天心はひざをたたいて「杵築に来てよかった」と玄道和尚との出会いを喜んだという。

大正3年、37歳の時に天心は杵築に移り住み、南台綾部家の別荘や佐野家の別荘に居住、昭和18年からは寺町の安住寺庭園内にある「天心堂」に移り、その後は、昭和28年に75歳で病没するまで、ここで修業と作画に専念した。

天心の作品は宗教画がほとんどで、禅林に画題を求めたものが多い。宇和島での作品は焼失したものが多いが、西江寺には「閻魔大王像」が残っている。また、杵築の安住寺には晩年の作品約200余点が保存されている。庭園内にある天心堂には、多くの遺品が収められ、天心堂の横にある天心自身の監督により建立された「開山堂」には、天井に「圓龍」、壁面には「レリーフ」「開山開堂基十四世」などが収められている。

村上天心(1877-1953)
明治10年宇和島市須賀通生まれ。本名は村上孝義。家業は豆腐屋で、生活は裕福でなかった。貧しくて学校に行けなかった天心は、独学で画を学びながら、6歳の時に吉田の飯淵櫟堂に人文画と書を、10歳の時に大隆寺の韜谷老師に禅を、11歳の時に卯之町の白井雨山に彫刻を、18歳の時に金剛山の葛野空庵に仏典、儒学、漢字を学んだ。生まれが上層とみなされなかったため、評価されることはなかった。このような境遇を十分理解して一切のかかわりを絶ち、絵を通して自己を深めることを決意いたともみられる。大正3年、37歳の時に大分県杵築市に移り、以後約40年間をこの地で過ごした。昭和28年、75歳で死去した。

伊予(9)-ネット検索で出てこない画家


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宇和島の画人・三好応山と応岸

2016-03-31 | 画人伝・伊予

文献:伊予文人墨客略伝、人づくり風土記 38 愛媛

宇和島を中心とする南予地方は、松山を中心とする中予地方とは高い山々でへだてられおり、むしろ九州との海上交流のほうが盛んで、県内でも固有の気風・文化をはぐくんできた。さらに、慶長19年からは仙台藩主・伊達政宗の長男秀宗が藩主として宇和島藩を治めることとなり、伊予八藩のなかでも特異な文化圏を形成することとなった。絵画の分野においても、中央からの狩野派ではなく、写生派の三好応山・応岸父子らが活躍した。他にも、猿を得意とした奇人・大内蘚圃(1764-1842)や、宇和島から大分県の杵築に移った孤高の水墨画家・村上天心(1877-1953)、さらには、高畠華宵(1888-1966)、畦地梅太郎(1902-1999)ら個性的な画家が出ている。

三好応山(1792-1849)
寛政4年宇和島本町生まれ。宇和島本町頭取、紺屋頭取。名は三郎兵衛。三好家は代々町頭取と紺屋頭取をつとめた豊かな商家であり、応山は幼いころから画を好み、土佐鉄山の門に入って学んだとされる。京都風の画工を自称し、最も人物画を得意とした。二人の子がいて、長男に家督を譲り、二男の応岸に画技を授けて分家させた。作品は宇和島地方に多く残っている。嘉永10年、58歳で死去した。

三好応岸(1832-1909)
天保3年宇和島本町生まれ。三好応山の二男。名は又八郎。幼いころから画を好み、画を描く父の傍らで描く真似をして楽しみ、長じて父に師事して画技を学び、父の一文字を受け「応岸」と号して分家した。旧藩主伊達宗徳の知遇を得てしばしば用命を受け、なかでも「月下の山犬」は最も称賛を受け、三度も揮毫したという。明治15年、第1回内国絵画共進会の第六区に、写生派の画家として出品。明治17年の第2回内国絵画共進会では、第五区の円山派の画家として出品している。明治42年、78歳で死去した。

伊予(8)-ネット検索で出てこない画家


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伊予松山藩の住吉派絵師、遠藤広古・広実

2016-03-29 | 画人伝・伊予

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、伊予文人墨客略伝

江戸の狩野派は武家社会に受け入れられ、日本各地で絶大な勢力を誇った。伊予松山藩においても、初代の松本山雪から明治にいたるまで、代々狩野派が御用絵師を引き継いでいたが、その途中で、狩野派ではない大和絵の住吉派の遠藤広古、広実父子二代が藩の絵師に加わっている。遠藤広古・広実親子は、住吉家の絵師として江戸に常府していた。広実には三人の子がおり、三男・広賢は住吉宗家を継いで八代当主となった。また、広実に学んだ好川尚賢は伊予の地に多くの作品を残している。

遠藤広古(1748-1824)
寛政元年江戸生まれ。松山藩絵師。本姓は梅原、のちに遠藤と改めた。幼名は広起。別号に蝸盧がある。住吉派四代・住吉広守について画法を学び、寛政年間に松山藩に招かれ藩絵師となった。それまで藩の御用絵師は狩野派系の画人が独占していたが、それに伝統的なやまと絵の住吉派の画人が加わることとなった。文政7年、77歳で死去した。

遠藤広実(1784-1862)
天明4年江戸生まれ。遠藤広古の子。幼名は古致、通称は伴助。父と同じく江戸の住吉派五代・住吉広行に学び、のちに松山藩の絵師になった。広実の作品は愛媛県内に比較的多く残されている。文久2年、79歳で死去した。

遠藤広宗(1824-不明)
文政7年生まれ。遠藤広実の長男。住吉弘貫に師事した。

遠藤貫周(1829-不明)
文政12年生まれ。遠藤広実の二男。住吉弘貫に師事した。

遠藤広賢(1835-1883)
天保6年生まれ。遠藤広実の三男。幼名は茂三郎、通称は内記。別号に藤廻屋、等塵がある。住吉弘貫に師事し、のちに弘貫の養子となり住吉宗家を継ぎ、幕府の御用絵師をつとめた。維新後はフェノロサと親しく交友した。明治16年、49歳で死去した。

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狩野派唯一の「村狩野」・今村道之進

2016-03-25 | 画人伝・伊予

文献:愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、人づくり風土記 38 愛媛

文化文政の頃、東予一帯で活躍した狩野派の画人に今村道之進(1761-1830)がいる。道之進は、宝暦11年宇摩郡中曽根村に生まれ、21歳の時に京都に出て、狩野探幽の流れを汲む京都鶴沢派に学び、27歳で帰郷した。その後は、天保元年に70歳で没するまで、地元の中曽根村にとどまり、大庄屋、庄屋、寺社、商人の求めに応じて多くの絵を描いた。江戸、京都、大坂などの大都市で、幕府や藩に仕えず活動した狩野派の画人を「町狩野」と呼んでいるが、道之進のように生涯農村で活動した狩野派の画人は前例が見られないことから、道之進のことを「村狩野」と呼ぶ研究家もいる。今村家は、道之進の代まで三代にわたって画を描いている。師系は不明だが、地元の寺院に作品を残している今村義広、京都の鶴沢探山に学んだ今村義衡、探山の子・鶴沢探鯨に学んだ今村義比らが資料に残っている。

今村道之進(1761-1830)
宝暦11年宇摩郡中曽根村生まれ。名は義種。天明元年、21歳の時に京都に出て27歳までの長期にわたって江戸狩野の狩野探幽の流れを汲む京都鶴沢派の鶴沢探索の門に入って狩野派の画法を修めた。道之進が京都の画道修業の成果として郷里に持ち帰った粉本や日記類は千点を超すといわれる。道之進は、没するまで中曽根村にとどまり、狩野派の画人として宇摩地方の寺院や近隣の作画依頼に応じて、襖絵、屏風絵、天井画などを描いた。天保元年、70歳で死去した。

今村義広(1653-1726)
承応2年生まれ。今村道之進の曽祖父。今村本家の当主。今治藩の大庄屋をつとめていた。号は松嶺斎。師系は不明だが、仏画を好んで描き、地元の寺院に納めた。作品の一部が地元に伝わっている。享保11年、74歳で死去した。

今村義衡(1691-1738)
元禄4年生まれ。今村道之進の祖父。義広の四男。今村家から分家した。号は幽山斎守義。京都の鶴沢探山に学んび、武者絵を得意とした。今村家に残っている粉本の中に武者絵の絵馬の写しが残っている。元文3年、48歳で死去した。

今村義比(1714-1786)
正徳4年生まれ。今村義広の孫。今村本家の当主。諸芸に通じ、画は鶴沢探鯨に学び、いろいろな寺社に作品を奉納したと伝えられ、今も作品や粉本が残っている。天明6年、73歳で死去した。

伊予(6)-ネット検索で出てこない画家


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