松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

菊池寛と同じ時代を生きた香川の文人

2016-06-10 | 画人伝・讃岐

文献:近代香川の人物譜-菊池寛と同じ時代を生きた人々-

高松を代表する文豪・菊池寛(1888-1948)は、19歳で郷里高松を離れ上京、やがて小説家・劇作家として文壇で活躍する一方、文藝春秋社を設立、実業家としても成功をおさめた。芥川賞、直木賞を創設したことでも知られる。競馬や麻雀などに没頭しその道を究め、衆議院選挙にも立候補するなど、多才な人物だった。

菊池寛と同じ時代を生きた香川の文人としては、沖縄の紅型研究をはじめ型絵染一筋に歩いた型絵染の人間国宝・鎌倉芳太郎(1898-1983)、江戸明治文化研究家で新聞雑誌の収集研究家でもある宮武外骨(1867-1955)、高松張り子人形制作者・宮内フサ(1883-1985)、政治学者で評論家・歌人としても活躍した南原繁(1889-1974)、登山家・紀行文家で浮世絵版画の研究・蒐集家でもある小島烏水(1873-1948)らがいる。

書画をたしなんだ文人としては、中国書画を探求し文人として生きた長尾雨山(1864-1942)、仏教の聖地に壁画を描いた野生司香雪(1885-1973)がいる。

長尾雨山(1864-1942)
元治元年高松生まれ。高松藩士・長尾柏四郎の長男。15歳で父を失い、古高松村の揚硯堂に身を寄せて、揚家の蔵書に目を通した。20歳で上京し、東京文科大学古典科に入って漢書を学んだ。明治21年に卒業すると、学習院、東京美術学校、第五高等学校の教授を歴任した。その後、東京に戻り東京高等師範学校教授のかたわら、文部省図書編纂官をつとめ、東京帝国大学の講師となった。同35年、退職して上海に渡り、商務印書館編訳部員となり、その後、12年間にわたり中国各地を歴遊、昭和16年に日本に帰った。帰国後は京都に住み、著述のかたわら門弟を教えた。人に求められると書画の筆をとり、書画論を講じた。書画、金石などの鑑定にも詳しかった。昭和17年、79歳で死去した。

野生司香雪(1885-1973)
明治18年香川郡檀紙村生まれ。本名は述太。父は浄土真宗の僧侶。香川県工芸高校を卒業後、東京美術学校日本画科に進んだ。大正6年から約1年間インドに滞在し、寺院の壁画模写に参加、その後、共に参加していた桐谷洗鱗の急死をうけて、初転法輪寺に釈迦の一代記を描くため、昭和7年に再びインドに渡った。壁画は11年に完成し、壁画の下絵は同25年、永平寺に献納された。帰国後は、長野善光寺雲上殿や埼玉名栗観音などの壁画を手掛け、郷里高松の法恩寺や、父が役僧をつとめた檀紙村の金乗寺にも襖絵を残している。画壇の表舞台には出ず、長野で文化人や高僧と交わり、文人的生活を送った。生涯インドと日本の交流の架け橋としての役割を担い、昭和48年、仏教協会より仏教美術賞を受け、同年、87歳で死去した。

讃岐(17)-ネット検索で出てこない画家


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香川の近代洋画

2016-06-08 | 画人伝・讃岐

文献:近代洋画・中四国の画家たち展高松市美術館収蔵品図録

讃岐は漆工芸品の産地として古くから知られており、この工芸が根付いた地域であったという事情が、美術の発展、作家の育成に大きく関与している。

明治31年、香川では、熟練した工芸技術者を養成するため、納富介次郎(1844-1918)によって香川県工芸学校が創立された。これは、岡倉天心の構想による美術工業教育の地方拠点のひとつとして計画されたもので、教育のカリキュラムには美術的な基礎を修得する画学や図案が組み込まれていた。卒業生のなかには絵画や彫刻といった創作活動に惹かれ、東京美術学校へ進学するものも多く、彫刻では国方林三、小倉右一郎、池田勇八、矢野誠一、新田藤太郎、藤川勇造、金属工芸では後藤学一、北原千鹿らがいる。

県工芸学校から東京美術学校に進み、のちに洋画家として活躍した画家としては、平井為成(1890-1979)がいる。平井は、在学中に同期生の萬鉄五郎、山下鉄之輔らとともにアブサント会を結成、卒業後は岸田劉生らと合流し、フュウザン会を結成した。その後は、青森県八戸中学を経て松山中学に在職、晩年は香川に帰郷して指導者として美術教育に専念した。

木村忠太(1917-1987)は、昭和5年に県工芸学校に入学、同11年に画家を志して上京した。翌年独立美術協会展に出品、同18年に高畠達四郎の推薦により帝国美術学校に入学、同23年に渡仏し、以後パリに定住した。

山下菊二(1919-1986)は、徳島出身だが、県工芸学校で学び、卒業と同時に福沢一郎の主宰する福沢絵画研究所に入り、その後、前衛美術会と日本美術会の結成に参加している。

県工芸学校卒業生以外の洋画家としては、小林萬吾、猪熊弦一郎らが大きな足跡を残した。

小林萬吾(1870-1911)は、丸亀中学を卒業後上京し、翌年高橋由一の主宰する天絵学舎の塾頭だった安藤仲太郎、原田直次郎に師事した。明治29年に東京美術学校に入学すると同時に黒田清輝の主宰する白馬会の会員となり、同会が解散するまで出品した。明治44年にはヨーロッパに留学、大正7年に東京美術学校の教授となり、昭和16年に帝国芸術員会員となった。

猪熊弦一郎(1902-1993)は、丸亀中学を卒業後上京し、本郷洋画研究所に通った。翌年東京美術学校に入学、大正14年、藤島武二教室に入り師事した。帝展、新文展に出品していたが、小磯良平、佐藤敬らとともに新制作派教会を結成、以後同展に出品した。

他には、彫刻家・藤川勇造の妻である藤川栄子(1903-1983)は、二科会に籍を置き、1930年協会への出品、女流画家協会の創立に参加するなど活発に行動した。森英(1907-1976)、柏原覚太郎(1901-1977)、山尾薫明(1903-1999)らも二科に出品していた。柏原は、昭和20年に起こった二科会の再建運動に際し、戦争終結を契機に新しい理想を掲げた新団体の結成を唱え、向井潤吉ら9人の旧会員とともに柏原の発案による行動美術協会を創立した。

讃岐(16)-ネット検索で出てこない画家


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讃岐漆芸の祖・玉楮象谷

2016-06-06 | 画人伝・讃岐

文献:高松市美術館収蔵品図録描かれし美の世界讃岐画家人物誌

江戸末期の讃岐漆芸の祖・玉楮象谷(1806-1869)は、幼いころから家業である刀の鞘塗りを父に学び、京都に遊学した際には、多くの文人や芸術家と交流、書画はもとより幅広く美術工芸の分野に接し、従来の職人としての技術継承の域を越え、東南アジアなどからの技法輸入や研究、意匠の確立につとめた。その技術は高く評価され、高松藩九代藩主・松平頼恕、十代・頼胤、十一代・頼聰の厚い庇護のもと、宝蔵品の修理とともに種々の漆芸品を献上、今日の讃岐漆芸の基礎を確立していった。その漆工技法は、象谷の継承者によって伝統的に受け継がれていく一方で、明治になり近代化の風潮のなか、実用的な生活用品の制作へと移り変わり、工芸は産業としての役割を担うようになった。

玉楮象谷(1806-1869)
文化3年高松外磨屋町生まれ。本姓は藤川、名は為三、字は子成、通称は敬造。別号に蔵黒、紅花緑葉堂がある。父・藤川理右衛門に鞘塗りを学び、のちに存清・堆朱・蒟醤などの技法を深く研究し、独自の日本的な彫漆法を完成した。余技で蘭竹をよく描いた。明治2年、64歳で死去した。

玉楮拳石(1834頃-1882)
天保5年頃生まれ。名は琢。玉楮象谷の二男。彫刻を得意とし、画もよくした。明治15年、49歳で死去した。

玉楮雪堂(1837-1899)
天保8年高松生まれ。名は有禎、通称は為造。玉楮象谷の三男。別号に三生翁がある。父に漆芸を学び家業とした。きゅう漆・彫刻を得意とし、画もよくした。明治34年、63歳で死去した。

玉楮藤☆(1854頃-1881) ☆は「謝」の「言」を「木」に
安政元年頃生まれ。通称は藤吉郎。別号に九江がある。玉楮象谷の四男。竹木の彫刻を得意とし、画もよくした。明治14年、28歳で死去した。

玉楮蔵谷(1878-1912)
明治11年高松生まれ。本名は倭太。玉楮蔵黒(槐庵)の二男。玉楮象谷の孫。象谷の直系で漆芸を家業とするものは蔵谷で途絶えた。3歳の時に父が死去し、漆芸は叔父の雪堂に学び、後に家督相続人として後を継いだ。讃岐彫りを得意とし、晩年には堆朱、堆黒などの彫漆にも優品を残している。大正元年、35歳で死去した。

石井磬堂(1877-1944)
明治10年高松市北亀井町生まれ。本名は清次。別号に汲古堂がある。幼いころから父に彫刻を学び、玉楮象谷以来の漆芸を研究し、研鑽を積んだ。高松市内町の讃岐彫の店「百花園」の職長格として活躍し、明治末から大正期にかけての讃岐漆芸界のなかでも特に傑出した彫師とされる。木彫を中心とした讃岐彫に多くの作品を残している。弟子には音丸耕堂、鎌田稼堂らがいる。昭和19年、68歳で死去した。

讃岐(15)-ネット検索で出てこない画家


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讃岐の円山四条派

2016-06-03 | 画人伝・讃岐

文献:馬場景泉展-現代花鳥画の精華-讃岐画家人物誌

讃岐における円山四条派の系譜をみると、まず安芸雲峰の名があげられる。雲峰は寒川郡津田の豪商の家に生まれ、寛政享和年間に活躍した。幼くして円山応挙に画を学び、その技がすぐれていたので、板屋応挙とも言われた。しかし、代々風流を好んだ豪商の家に生まれた雲峰は、職業画人のように門人を持ったり、円山派を広めるような活動はしていなかったとみられる。讃岐地方の円山派としては、幕末になって現れた大西雪溪が、中島来章に師事して一家を成し、石井三峰、逵紫嶂、三好応岸、高畠一溪、海野溪雲、東条南溪ら多くの門人を育て、讃岐の円山派を広めていったと思われる。また、四条派の今尾景年に学んだ馬場景泉は、木島桜谷、今井景樹とともに彩色の秘法を伝授され、同派の継承者となり、帝室技芸員、香川県展審査委員をつとめて香川画壇の発展に貢献した。

安芸雲峰(不明-不明)
寛政年間の人。通称は豊蔵。大川郡津田村の人。榮柱の子。画を円山応挙に学んだ。

大西雪溪(1814頃-1892)
文化11年頃生まれ。本姓は高畠。仲多度郡郡家村の人。中島来章に学び、特に人物を得意とした。多くの門人がいる。明治25年、79歳で死去した。

逵紫嶂(1823頃-1888)
文政6年頃生まれ。名は祐吉、通称は庄平。三豊郡仁尾村の人。大西雪溪に学び、花卉鳥虫をよくした。明治21年、66歳で死去した。

鮎川一雄(1813頃-1869)
文化10年頃生まれ。丸亀の人。通称は傳八。四条派の画をよくした。明治2年、57歳で死去した。

神原玉江(1823頃-1861)
文政6年頃生まれ。仲多度郡善通寺町の人。通称は武雄。祐斎の子。四条派の画をよくした。文久元年、39歳で死去した。

森琴岳(1863-不明)
文久3年丸亀生まれ。名は勝次郎。別号に松風軒がある。幼いころから画を好み、村田筆岳に師事して四条派を研究し、特に花鳥、山水を得意とした。

平澤籟山(不明-1901)
綾歌郡土器村の人。四条派の画をよくした。明治34年死去した。

馬場景泉(1888-1954)
明治21年生まれ。名は藤三郎、別号に吸江斉がある。西植田の人。京都の四条派・今尾景年に師事し、10余年にわたり絵道に専念し、木島桜谷、今井景樹とともに彩色の秘法を伝授され、同派の継承者となった。帝室技芸員、香川県展審査委員をつとめ、晩年は高松市藤塚町に住み作画を楽しんだ。孔雀を最も得意とした。画のほかにも盆栽、作陶、絵付けなどを手掛け、風流人として多趣味な生涯を送った。昭和29年、67歳で死去した。

讃岐(14)-ネット検索で出てこない画家


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風流を好んだ松平左近と讃岐の勤王家たち

2016-06-01 | 画人伝・讃岐

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展

松平頼該(1809-1868)は高松藩八代藩主・松平頼儀の長男として江戸小石川高松藩邸に生まれ、のちに「左近」と改名した。文武両道で、書画、和歌、俳句、茶道、華道、魚釣りなど、なんにでもひとかど以上の心得があった。住居である亀阜荘内には、能及び芝居舞台をつくり、演劇を開催した。左近みずから女形を演じるなどして、階級を問わず多くの人に公開し、人々からは「左近さん」と呼ばれ親しまれた。小国広太郎の変名も使い、勤王の志士たちとも連絡をとった。志士として活動した讃岐の日柳燕石、美馬君田らも、左近同様に風流を好み、書画をよくした。

松平頼該(1809-1868)
文化6年生まれ。生母は山崎綱子(のちに蔦子)。名は頼該、号は金岳、通称は隆之丞・道之助、のちに左近と称し、8歳の時に高松に帰り城内に邸を構えた。文政4年頼恕が水戸から入って頼儀の跡を継いで、頼胤がその嗣子となったため、左近は嗣子になれず隠居の身となった。天保10年、左近31歳の時に亀阜荘に移り、のちに「左近」と改名した。慶応4年、60歳で死去した。

日柳燕石(1817-1868)
文化14年生まれ。本姓は草薙、のちに日柳と改めた。名は政章、字は士煥、または耕吉、通称は長次郎。別号に柳東、三白、半楽居などがある。仲多度郡榎井村の人。勤王家として名を知られた。詩文に巧みで、画をよく描いた。慶応4年、53歳で死去した。

美馬君田(1812-1874)
文化9年生まれ。本姓は鎌田。名は諧、字は和甫、通称は援造。別号に土佛、櫻水がある。阿波美馬郡の人。琴平に移り住んだ。日柳燕石と交友し、慶応元年に高杉晋作をかくまった罪で高松藩に捕らえられ、燕石とともに投獄された。詩文に巧みで、画をよく描いた。明治7年、63歳で死去した。

日柳三舟(1839-1903)
天保10年仲多度郡榎井村生まれ、大阪に住んだ。名は政愬、字は終吉、通称は復太郎。日柳燕石の子。別号に玉城がある。詩文、画をよくした。明治36年、65歳で死去した。

葛西省斎(1820頃-1884)
文政3年頃生まれ。名は清、通称は俊助。別号に一壺翁、半枯翁などがある。藩の侍医。片山冲堂、日柳燕石と交わり、詩文書をよくし、画も得意で墨竹をよく描いた。『画竹二十字集』の著書がある。明治17年、65歳で死去した。

讃岐(13)-ネット検索で出てこない画家


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詩書画をよくした篆刻家・細川林谷とその周辺

2016-05-30 | 画人伝・讃岐

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展

細川林谷(1780-1843)は、讃岐国寒川町に生まれ、幼いころから阿部良山に篆刻を学んだ。その篆刻は「正雅典則一世に鳴る人皆宇内第一」と称され、頼山陽、篠崎小竹、田能村竹田らが口を極めて賞賛したとされる。また、詩書画をよくし、山水、墨竹を得意とした。旅を好み、30歳前後のころには西遊し、下関から長崎にまで至っている。のちに江戸に出てその技をふるい、この頃に頼山陽らと親交を結んだとされる。子の林斎も江戸で篆刻および画をよくした。高松藩の印刻師をつとめた山本竹雲も林谷に学んだとされる。

細川林谷(1780-1843)
安永9年寒川郡石田村字森弘生まれ。名は潔、字は痩仙・氷壷、通称は春平、のちに俊平といった。別号に、林道人、白髪小兒、有竹、三生翁、天然画仙、不可刻齊、忍冬庵などがある。本姓は、もと廣瀬氏であり廣瀬林谷と記されることもある。篆刻を阿部良山に学び、のちに一家を成した。旅を好み、30歳前後のころには西遊し、のちに江戸に出ている。天保2年に一度讃岐に帰郷したが、再び江戸に戻り、天保14年下谷練塀町の寓居において、65歳で死去した。

阿部良山(1773-1821)
安永2年生まれ。木田郡六條村の人。名は世良、字は良年。良山堂と号した。篆刻家で、詩書画もよくし、墨竹を得意とした。細川林谷の師として知られる。文政4年、49歳で死去した。

阿部絹洲(1793-1862)
寛政5年生まれ。大坂の人。阿部良山の長男。名は温、字は伯玉、または玉清、通称は信次郎、のちに良平。別号に介庵がある。篆刻のほか詩画もよくし、墨竹を得意とした。文久2年、70歳で死去した。

阿部鹿城(不明-不明)
阿部絹洲の二男。山水をよくした。

山本竹雲(1826-1894)
文政9年生まれ。備前味野の人。茶人・篆刻家として知られる。名は戈、字は中立。20歳のころに味野を出て、弘化2年に高松に転居して高松藩の印刻師をつとめた。篆刻は細川林谷に学んだとされる。余技として画をよくした。京都、大阪など各地を流浪したが、高松を第二の故郷としてしばしば訪れ、山田梅村らと交友した。明治27年、69歳で死去した。

讃岐(12)-ネット検索で出てこない画家


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讃岐の書聖・後藤漆谷とその周辺

2016-05-27 | 画人伝・讃岐

文献:後藤漆谷の書跡とその周辺讃岐画家人物誌

讃岐の歴史の中で「書聖」と称された人物が二人いる。一人は空海であり、もう一人は後藤漆谷(1749-1831)である。漆谷は高松の豪商の家に生まれ、幼いころから学問を好み、深井鶏林、後藤芝山に師事、20歳を過ぎるころには芝山門下の逸材と賞賛されるようになった。漆谷の書は王羲之の正統を継ぎ、元・明の書法を加えて優美であり、名前は全国に知られ、同年代の画人・長町竹石と並び、讃岐文人の双璧と謳われた。人柄は温厚、謙虚で、彼の周りには常に多くの人が集まり、早くから讃岐の風流人の中枢として活躍した。

交流のあった文人としては、大坂の木村蒹葭堂、備後の頼山陽、菅茶山、讃岐人で江戸で活躍した菊池五山をはじめ、細川林谷、皆川淇園らがいる。還暦を過ぎると家業を子の弘基に譲り、老松園を居として悠々自適の生活を送った。それとともに漆谷を慕って訪れる人が益々多くなり、老松園は風雅の道の一大拠点となったという。墓碑銘には山田鹿庭、梶原籃渠、長町竹石、手塚鹿渓、久家暢斎の名があり、他にも芝山門の先輩・柴野栗山、志度の清僧・竹林上人、浄願寺住職・秀峰、素封家・揚分潮らとの交流があった。

漆谷の門人で讃岐の画人としては江口春帆が『讃岐画家人物誌』に掲載されており、春帆と交友した画人としては、山田梅村、向井舟皐らの名がある。

後藤漆谷(1749-1831)
寛延2年生まれ。名は苟簡、字は子易または田夫。通称は勘四郎。はじめ木齋と号し、のちに漆谷とした。高松の豪商・後藤保里の末子。幼くして深井鶏林、後藤芝山に師事した。詩文や書にすぐれ、早くから讃岐の風流人の中枢にあって活躍した。還暦後は、老松園に住み、文人たちと交わり悠々自適の生活を送った。天保2年、83歳で死去した。

大原東野(1771-1840)
明和8年生まれ。名は民聲、字は子楽。大和国奈良の人。浪華に住み、のちに琴平に来て藤棚に住んだ。山水、花鳥、人物と巧みで、特に人物画を得意とし多くの門人がいた。著書に『名数画譜』がある。大原東野が描き、牧野黙庵が賛した「玉蘭精舎祝宴図屏風」は高松市の有形文化財に指定されており、高松藩に儒官として仕えた久家暢斎主催の玉蘭社と称する私塾に集まった文人の会合の様子を描き、後藤漆谷はじめ讃岐における多くの文人の会合を伝えている。天保11年、70歳で死去した。

揚分潮(1765頃-1835)
明和2年頃生まれ。名は元徴、字は献卿、通称は文平。別号に分橋などがある。山田郡古高松村の人。祖先は阿波から讃岐に移り、久保氏を称した。途中、上野氏に改めるが、分潮の時代になって揚氏とした。分潮は若いころ京都などに出て、柴野栗山、皆川淇園らと交流した。書画をよくした。天保6年、71歳で死去した。

江口春帆(1814-1873)
文化11年生まれ。名は洵直、字は仲候、通称は八十郎。高松藩の国史編集館員。後藤漆谷に書法を受けた。画学の書籍を研究し、画徴録、芥子園画伝注釈集などを著した。兒島竹處、山田梅村、向井舟皐らと交友した。明治6年、60歳で死去した。

山田梅村(1816-1881)
文化13年生まれ。名は亥吉、字は乙生、通称は勝次。鹿庭の子。別号に小田園、薔薇園、鉄馬山房などがある。高松藩の儒員。経学詩文で名高く、鉄筆にすぐれ、画は山水、蘭竹をよくした。明治14年、66歳で死去した。

向井舟皐(1820頃-1892)
文政3年頃生まれ。香川郡浅野の人。名は根賢、字は子才、通称は又八郎。文人趣味を持ち、画をはじめ上杉墨水、宮内梧皐に学び、のちに明清の妙蹟を倣い、清澄高雅な山水を描いた。山田梅村、兒島竹處、江口春帆、村尾篁山らと交友した。また、浅野焼(舟岡焼)を興した。明治25年、73歳で死去した。

讃岐(11)-ネット検索で出てこない画家


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京都に出て浦上春琴らに学んだ讃岐の南画家

2016-05-25 | 画人伝・讃岐

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展、描かれし美の世界

京都に出て学んだ讃岐の南画家としては、浦上春琴に学び高弟となった小西松塢をはじめ、春琴門からは、松岡李堂、木村葭郷らが出た。また、田能村竹田に学んだ合葉文山、田能村直入に学び、のちに池田桂仙、河野秋邨らと日本南画院を結成した三井飯山がいる。貫名海屋の門からは三谷石門、中村竹巌、細谷耕雲、細谷立斎らが出ている。

海屋に学んだ細谷立斎の一家は、父の細谷松坡をはじめ、師系は不明だが画をよくした。また、立斎の門人としては『讃岐画家人物誌』に森島松坡、庄司丘霞が掲載されている。

三井飯山(1881-1934)
明治15年生まれ。名は犀二郎。はじめ十市王洋につき、のちに田能村直入に師事し、山水、花鳥をよくした。常に直入に随従し、門人のなかでも最も直入の風致を得たといわれている。池田桂仙、河野秋邨らと日本南画院を結成した。昭和9年、53歳で死去した。

小西松塢(1797頃-1845)
寛政9年頃生まれ。名は貞游、通称は元四郎。三豊郡本山村の人。京都に出て浦上春琴に師事し、高弟とされた。弘化2年、49歳で死去した。

松岡李堂(1787頃-1861)
天明7年頃生まれ。名は正臣、字は伯、通称は衛門。別号に松琴、水莖、残月樓などがある。仲多度郡吉原村の人。幼いころから尾池桐陽の門に学び、のちに京都に遊び、眼医者として名を高めた。浦上春琴に学び、山水をよくした。文久元年、75歳で死去した。

藤井半雲(1825頃-1897)
文政8年頃生まれ。名は香澤、あるいは陳舜香。志度町の人。医業のかたわら浦上春琴に私淑し、花鳥をよくした。明治30年、73歳で死去した。

木村葭郷(不明-不明)
丸亀の人。医業のかたわら浦上春琴に学んだ。

合葉文山(1797頃-1857)
寛政9年頃生まれ。名は秦、通称は直次郎。信州上田の人。のちに琴平に移った。田能村竹田に学び人物、花鳥をよくした。安政4年、61歳で死去した。

藤村墨雨(1797頃-1855)
寛政9年頃生まれ。名は直弘、字は毅順、通称は音九郎。別号に澹齋、今是などがある。三豊郡和田浜の人。古書画を多く所有していた。貫名海屋、上杉墨水と親しく交友した。当時は墨人たちが多く来て逗留していたため、よく知られていた。画をよくし、俳歌も巧みだった。安政2年、59歳で死去した。

三谷石門(1842-1894)
天保13年生まれ。名は遷、字は干喬、通称は清平。別号に如年、恒心山人、城山獵夫、安々主人、三桃亭主人などがある。綾歌郡三谷村の人。貫名海屋の門に学び、山水を得意とした。詩や書もよくした。明治27年、53歳で死去した。

中村竹巌(1815頃-1882)
文化12年頃生まれ。名は登、通称は兼五郎。別号は金門、竹雨がある。春塘の子。画を貫名海屋に学んだ。当時は兒島竹處と並び称された。山水、蘭竹を得意とした。明治15年、68歳で死去した。

細谷耕雲(1830頃-1853)
天保元年頃生まれ。名は博介、字は愛介。細谷松坡の二男。画を父と貫名海屋に学び、山水、花卉をよくした。嘉永6年、24歳で死去した。

細谷立斎(1832頃-1911)
天保3年頃生まれ。名は辰、字は師古、または子星。細谷松坡の三男。別号に三松居士、錦江釣叟、六一山人などがある。はじめ画を父に学び、のちに貫名海屋に六法を受け一家を成した。山水、花卉をよくした。設色法に詳しく、古書画の鑑定もした。明治44年、80歳で死去した。

細谷松坡(1797頃-1868)
寛政9年頃生まれ。名は有芳、通称は成海。医業のかたわら画をよくし、山水、四君子を得意とした。明治元年、72歳で死去した。

細谷玉芝(1809頃-1878)
文化6年頃生まれ。名は壽満。細谷松坡の妻。蘭竹、芝石などをよくした。明治11年、70歳で死去した。

細谷松華(1844頃-1888)
弘化元年頃生まれ。名は為善、字は虚白、通称は多門。細谷松坡の六男。花卉を得意とした。明治21年、45歳で死去した。

森島松坡(1869頃-1901)
明治2年頃生まれ。名は吉、字は吉甫、通称は吉次。細谷立斎の子。山水花卉をよくしたが、大成せずに夭折した。明治34年、33歳で死去した。

庄司丘霞(1839頃-1908)
天保10年頃生まれ。通称は駒之助。三豊郡大野村の人。細谷立斎に学び、花鳥を得意とした。俳歌もよくした。明治41年、70歳で死去した。

讃岐(10)-ネット検索で出てこない画家


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春木南湖と讃岐の門人

2016-05-23 | 画人伝・讃岐

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展、描かれし美の世界

谷文晁(1763-1840)と並び、「天下の二老」と称された春木南湖(1759-1839)は、伊勢国長島藩主・増山雪斎に抱えられ、その援助で京都、大坂、長崎に遊学しており、その折に讃岐に足を運んだものと思われる。市原陶々、鈴木青玉、戸祭雪湖ら、高松の人で南湖に学んだものは多く、南湖の作品も多く残されている。また、南湖の門人である戸祭雪湖も讃岐の地で多くの弟子を育てた。

市原陶々(1798頃-1840)
寛政10年頃生まれ。名は政簡、字は伯敬、通称は太助。春木南湖に師事して六法を受け、特に山水を得意とした。天保11年、43歳で死去した。

鈴木青玉(1780頃-1857)
安永9年頃生まれ。名は美那。春木南湖に師事して花鳥をよくした。梅の花を最も得意とした。安政4年、78歳で死去した。

戸祭雪湖(1808頃-1861)
文化5年頃江戸生まれ。生まれてすぐに高松に移住した。名は静馬、通称は又一郎。高松藩の老臣。春木南湖に師事して山水をよくした。文久元年、54歳で死去した。

山崎阿亭(不明-1832)
名は宗昌。春木南湖に師事し画をよくした。天保3年死去した。

堀田鶴渚(1824-不明)
文政7年頃生まれ。名は正幸。春木南湖に師事し画をよくした。安政年間に死去した。

玉川竹溪(1825頃-1893)
文政8年頃生まれ。名は秀信、戸祭雪湖に学び、山水をよくした。明治26年、69歳で死去した。

荒木雲溪(1826頃-1905)
文政9年頃生まれ。名は養、通称は養三。別号に友竹主人、巣松庵、白雲溪舎などがある。山田梅村、市原梅隣、渡辺有梅と交友した。画は戸祭雪湖に学んだ。明治38年、80歳で死去した。

讃岐(9)-ネット検索で出てこない画家


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讃岐の南蘋派、三木文柳・亀井東溪・戸塚茗溪

2016-05-20 | 画人伝・讃岐

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展、描かれし美の世界

讃岐の南蘋派画人としては、三木文柳(1716-1799)と亀井東溪(1748-1816)が知られている。文柳は、もと阿波の藩士で、幼いころから画を好み、京都に出て修業し、江戸に出て南蘋派の画人である宋紫石の門人となった。その後、小豆島池田の光明寺に寄宿し、ついで北地に家を持ち永住したとされる。亀井東溪は、高松城下南新町に生まれ、幼いころから画才があり、京都や長崎に学び、沈南蘋に倣い、特に花鳥昆虫に優れ、八代藩主・松平頼儀によって士分にとりたてられた。著書『東溪画譜』は広く世に知られ、その子・竹溪も画に優れていた。門人としては渡辺雲窩や多田溪雲がいる。高松藩留守居寄合として江戸に住み、南画に南蘋派の画風を取り入れ、山水、花鳥を得意とした戸塚茗溪(1809頃-1854)もいる。

ほかに、長崎派の画人としては、木下逸雲に学んだ中條雲堤や、鉄翁祖門・木下逸雲の門人と交友した向井竹斎がいる。

三木文柳(分流)(1716-1799)
享保元年生まれ。小豆島池田に住んでいた。分流とも表記した。別号に宋庵斎がある。宋紫石に師事、平賀源内とも交流があった。動物画を得意とした。寛政11年、84歳で死去した。

亀井東溪(1748-1816)
寛延元年生まれ。高松城下南新町の人。名は載、字は坤臣、通称は平蔵。もともとは小倉姓だったが、亀井に改めた。幼いころから画才があり、長町竹石とともに京都や長崎で学んだ。沈南蘋の画風を慕い、特に花鳥昆虫にすぐれた。高松の絵師として同郷の竹石に並び称された。著書に『東溪画譜』がある。文化13年、69歳で死去した。

戸塚茗溪(1809頃-1854)
文化6年頃生まれ。名は榮之、通称は門吉。別号に片石山房がある。高松藩留守居寄合。江戸に住んで山水、花鳥、人物をよくした。安政元年、46歳で死去した。

亀井竹溪(1784頃-1847)
天明4年頃生まれ。名は暾、字は東白。亀井東溪の子。弘化4年、64歳で死去した。

保井錦江(不明-不明)
大川郡三本松村の人。沈南蘋に私淑して画をよくした。明治初年頃に死去した。

原田玉芝(1792頃-1844)
寛政4年頃生まれ。丸亀の人。通称は鉄吉。別号に有隣がある。沈南蘋の画を描いた。天保15年、53歳で死去した。

中條雲堤(不明-1866頃)
木田郡氷上村の人。名は直。若くして長崎に遊び、木下逸雲に従い画を学んだ。慶応2年、師に従って江戸に遊び、船で帰る途中に強風のため船が転覆、師とともに没したと伝わっている。

向井竹斎(不明-1859)
木田郡庵治村釜野の人。名は照、通称は亀治郎。たびたび長崎に行って、鉄翁祖門、木下逸雲の門人と交友した。安政6年長崎において死去した。

讃岐(8)-ネット検索で出てこない画家


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中川馬嶺・愛山親子とその門人たち

2016-05-18 | 画人伝・讃岐

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展、描かれし美の世界

中川馬嶺(1783-1860)も長町竹石の高弟のひとりで、幼いころから竹石に学び、高松松平家の家臣・大久保家に召し抱えられた。門弟には片山豊泉、松原墨江、赤松陶濱、三枝保年、久保梅亭、畑尾茶庵らがいる。馬嶺の子である中川愛山(1822-1893)は、父に学び、のちに明清の名蹟に倣い、出藍の誉の声も高かった。門人には鈴木東洋、富山竹溪、富山豁園らがいる。愛山の子・中川愛竹も父に学び、家風を伝えたが大成せずに死去した。

中川馬嶺(1783-1860)
天明3年小豆島生まれ。高松の中川家の養子となった。名は勝次、字は永年。幼いころから画を好み、長町竹石に学んで一家をなした。山水、四君子を得意とした。延元年、77歳で死去した。

中川愛山(1822-1893)
文政5年生まれ。名は勝、字は陳年。中川馬嶺の子。父に学び、のちに明清の名蹟に倣い、山水を得意とした。明治26年、72歳で死去した。

片山豊泉(1785頃-1865)
天明5年頃生まれ。名は詮庶、通称は十左衛門。小豆郡豊嶋村の人。中川馬嶺に学び、山水を得意とした。慶應元年、81歳で死去した。

松原墨江(1808頃-1885)
文化5年頃生まれ。名は義長、通称は又一。別号に竹江がある。中川馬嶺に学んだ。明治18年、78歳で死去した。

赤松陶濱(1810-1868)
文化7年生まれ。名は虞、通称は猪太郎。陶工として名高い。画を中川馬嶺に学び、山水、蘭竹をよくした。慶応4年、59歳で死去した。

三枝保年(1815頃-1889)
文化12年頃生まれ。通称は松太郎。香川郡由佐村の人。はじめ中川馬嶺に学び、花鳥、人物を描いた。のちに仏画を京に出て学んだとされる。明治22年、75歳で死去した。

久保梅亭(1821頃-1883)
文政4年頃生まれ。名は盛仁、通称は仲三郎。晩年は梅翁と号した。木田郡古高松村の人。医者として名高い。阿部絹洲らに経史を学び、画を中川馬嶺に学んだ。山水を得意とした。明治16年、63歳で死去した。

畑尾茶庵(1830頃-1896)
天保元年頃生まれ。名は實哉、通称は彌三郎。丸亀の人。中川馬嶺に学び、山水、花鳥、人物をよくした。明治29年、67歳で死去した。

村上漁邨(1830頃-1900)
天保元年頃生まれ。名は薫。丸亀の人。畑尾茶庵に学んだ。明治33年、71歳で死去した。

笠井柳堤(1829頃-1881)
文政12年頃生まれ。通称は和吉郎。中川愛山に学んだ。明治14年、53歳で死去した。

勝浦舟屋(1841頃-1912)
天保12年頃生まれ。通称は利三郎。栗林公園博物館館員。中川愛山に学んだ。明治45年、72歳で死去した。

富山竹溪(1845頃-1878)
弘化2年頃生まれ。名は定規、字は元度、通称は甚三郎。別号に克巳堂がある。画を中川愛山に学び、蘭竹を得意とした。和歌もよくした。明治11年、34歳で死去した。

中野芝石(1850頃-1890)
嘉永3年頃生まれ。名は喜哉、通称は瀧治郎。古書画の収集をした。中川愛山に学び、山水、蘭竹をよくした。明治23年、41歳で死去した。

十河醒石(1850頃-1900)
嘉永3年頃生まれ。名は忠貞、幼名は熊之助、のちに權三郎。古書画の収集をした。中川愛山に学んだ。明治33年、51歳で死去した。

中川愛竹(1854頃-1887)
安政元年頃生まれ。通称は勝太郎。中川愛山の長男。父に学び、家風を伝えたが大成せずに、明治20年、34歳で死去した。

鈴木東洋(1857頃-1910)
安政4年頃生まれ。名は義和、字は子幹、、通称は傳五郎。義方の子。別号に白雲洞がある。中川愛山に学び、墨竹を得意とした。明治43年、54歳で死去した。

富山豁園(1857頃-1880)
安政4年頃生まれ。名は定業、通称は房次郎。富山竹溪の義弟で、ともに中川愛山に学んだ。明治13年、24歳で死去した。

小西蒼山(1858頃-1898)
安政5年頃生まれ。名は臺造。大川郡長尾村の人。医業の余暇に画を中川愛山に学んだ。明治31年、41歳で死去した。

岩佐梅窓(1858頃-1908)
安政5年頃生まれ。通称は幸造。名士と交流し古書画を好んだ。画を中川愛山に学び、蘭竹をよくした。明治41年、51歳で死去した。

讃岐(7)-ネット検索で出てこない画家


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引き継がれる竹石の画系、佐々木雲屋・兒島竹處と門人

2016-05-16 | 画人伝・讃岐

文献:讃岐画家人物誌描かれし美の世界

長町竹石の高弟として知られる佐々木雲屋(1776-1831)は、幼いころから画を好み、竹石に師事して絵事を学び、「虹の滝」の席画が認められて藩主に召し抱えられた。山水、竹、花などを得意とした。「竹を描き、その下に岩」「岩に蘭」が雲屋の特長的画風と言われる。雲屋に師事した兒島竹處(1805-1868)も多くの門弟を持ち、『讃岐画家人物誌』の著者・松原竹坡をはじめ多くの画人を育て、竹石の画法を伝えた。長町竹石、兒島竹處、松原竹坡の3人は「讃岐の三竹」と称された。

佐々木雲屋(1776-1831)
安永5年頃生まれ。香川郡鶴市の人。名は九萬、字は鵬程、通称は萬九郎。別号に鶴市山房がある。幼いころから画を好み、長町竹石に師事、篆刻を阿部良山に学んだ。山水、蘭竹を得意とした。天保2年、55歳で死去した。

兒島竹處(1805-1868)
文化2年高松生まれ。名は衡、字は久芳、通称は休三郎、大五郎。別号に静園、廼吾廬、小畫禪室などがある。佐々木雲屋に師事して六法を受け、のちに清の兪数亭の画に倣い、また倪董の筆意を取り入れ、一家をなした。慶応4年、63歳で死去した。

松原竹坡(1845-1920)
弘化2年高松城下南新町生まれ。文房具商・阿波屋保平の子。諱は熊、字は子祥、通称は熊次郎、のちに勘五郎。書を国方逸民に、画を兒島竹處に、詩文を片山冲堂に学んだ。明治の末頃に店を譲り、天神前に移り間仙居と名付け、詩や画をかいて暮らした。長町竹石の画法を正しく守り、大成した。著書に『墨禅要語』、『讃岐画家人物誌』がある。大正9年、76歳で死去した。

西原舜玉(1796頃-1871)
寛政8年頃生まれ。名は美加、のちに松榮尼と改めた。西原竹屋の妻。京都の宇都宮秀壽の娘。佐々木雲屋に学んで、山水をよくした。明治4年、76歳で死去した。

山田(1823頃-1902)
文政6年頃生まれ。僧侶。本姓は岡。空山綾歌郡山田村永覺寺の住職。兒島竹處に師事し、山水、四君子をよくした。明治35年、80歳で死去した。

墨痴(不明-不明)
僧侶。本姓は福井。名は到句に國。兒島竹處に師事し、山水、蘭竹をよくした。

梶原水田(1827頃-1874)
文政10年頃生まれ。名は景明。木田郡水田村の人。兒島竹處に師事し高弟とされた。山水、四君子を得意とした。明治7年、48歳で死去した。

原蓼江(1833頃-1892)
天保4年頃生まれ。通称は友三。別号に醉香がある。綾歌郡宇多津町の人。詩文を尾池松湾、日柳燕石に学び、書法を富家松浦に学んだ。はじめ画を鮎川一雄に学び、のちに兒島竹處に師事し、山水、蘭竹をよくした。明治25年、60歳で死去した。

蘆澤蘭處(1837頃-1878)
天保8年頃生まれ。名は元布、通称は水澄。別号に蘆洲がある。兒島竹處に師事し、また篆刻もよくした。明治11年、42歳で死去した。

藤田南巷(不明-1891)
大川郡引田村の人。兒島竹處に師事した。明治24年死去した。

兒島竹外(1845頃-1893)
弘化2年頃生まれ。名は九成、通称は九平。兒島竹處の子。茶事に精通し、画もよくした。明治26年、49歳で死去した。

讃岐(6)-ネット検索で出てこない画家


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讃岐南画の祖・長町竹石と門人

2016-05-13 | 画人伝・讃岐

文献:高松市歴史資料館収蔵資料目録~美術工芸資料~描かれし美の世界讃岐画家人物誌

高松藩の家老だった木村黙老が著した『聞ままの記』によると「田中松峯、名ハ正路、號を五峰といふ醤なり京師に遊学して大雅堂(池大雅)に書画を学ふ、當国の漢画ハ我始祖なりといへり」とあり、田中松峯が讃岐南画の祖とされているが、松峯がのちの讃岐南画に影響を残したかは不明で、実質的には松峯よりもやや後に南画家として知られるようになった長町竹石が讃岐南画の祖と言える。竹石は多くの門人を育て、讃岐南画界に大きな影響を残した。享和3年に高松藩八代藩主・松平頼儀に従って江戸に出た時に画名を高め、紀伊の野呂介石、黄檗僧・愛石とともに「三石」と称された。門人には、佐々木雲屋、手塚鴎盟、中川馬嶺らがおり、かれらの門人たちが明治後期の南画衰退期まで、讃岐南画の流れを牽引した。

長町竹石(1757-1806)
宝暦7年高松城下南新町生まれ。家業は薬種商。名は徽、字は琴翁、通称は徳兵衛。号ははじめ黄陵、琴軒、文暉、のちに竹石と改めた。はじめ建部凌岱について画法を学び、池大雅に私淑し、のちに沈南蘋、藍田叔の画法を修得したとされる。高松藩八代藩主・松平頼儀の知遇を受け、のちに江戸に出て名声を高め、海外にも聞こえたという。文化3年、49歳で死去した。

鈴木三橋(1768頃-1825)
明和5年頃生まれ。名は韶、字は九成、通称は理平。別号に梅顛がある。詩をよくし、長町竹石と交友して画もよくした。古書画を多く所蔵し、書画の鑑定にもすぐれていた。文政8年、58歳で死去した。

竹内雲崖(不明-不明)
文化年間の綾歌郡羽床村の人。名は長明、字は雪溪、通称は又四郎。別号に南崖がある。射術が得意で徳川幕府に仕えた。画を長町竹石に学び、出藍の誉ありと称されたという。

青山石泉(1770頃-1819)
明和7年頃生まれ。名は樵、字は雲隣、通称は孫兵衛。画を長町竹石に学び、山水、人物をよくした。文政2年、50歳で死去した。

漆原漆園(1771頃-1824)
明和8年頃生まれ。木田郡三谷村の人。名は寧景、字は九齢。画を長町竹石に学び、山水をよくした。文政7年、54歳で死去した。

手塚鴎盟(1774-1833)
安永3年生まれ。鶴羽の人。名は光鑑、字は文哉。別号に鹿溪がある。高松藩主の侍医をつとめた。画を長町竹石に学んだ。天保4年、60歳で死去した。

谷川青野(1777-1820)
安永6年生まれ。木田郡前田村の人。名は復、字は春臣、通称は太喜三。画を長町竹石に学び、書もよくした。文政3年、44歳で死去した。

西原竹屋(1780頃-1826)
安永9年頃生まれ。名は章、字は文卿、通称は吉兵衛。川崎舎氏七世。画を長町竹石に学び、山水をよくした。最も墨竹を得意とした。文政9年、47歳で死去した。

川西東原(1780頃-1839)
安永9年頃生まれ。大川郡石田村の人。名は徴、字は太丸、通称は仙右衛門。旧姓は廣瀬。画を長町竹石に学んだ。天保10年、60歳で死去した。

村尾石溪(1783頃-1845)
天明3年頃生まれ。通称は作兵衛。西原竹屋の弟。西原を出て村尾氏を継いだ。画を長町竹石に学び、山水、蘭竹をよくした。弘化2年、63歳で死去した。

讃岐(5)-ネット検索で出てこない画家


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讃岐に生まれ岡山南画の草分けとなった黒田綾山

2016-05-11 | 画人伝・讃岐

文献:岡山ゆかりの画人たち-桃山から幕末まで-、岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、讃岐画家人物誌

高松に生まれた黒田綾山(1755-1814)は、池大雅門下の福原五岳に学び、師の五岳同様に人物画を得意とし、明画、とりわけ美人画の名手とされる銭貢に私淑し、主題、構図、筆法、彩色法などを学んだ。五岳のもとを離れてからは諸国遊歴の旅に出て、天明2年頃から備中玉島(現在の倉敷市)周辺で作画活動を始め、同5年からは玉島に定住、一時期、大坂に出たことはあるが、約30年間を当地で過ごした。画業のほかに、詩、書、陶などの余技もよくし、赤松滄洲、西山拙斎、菅茶山、頼春水ら多くの文化人たちと交流した。また、近隣の文人、知識層だけでなく庶民とも隔たりなく交流し、多くの逸話が残っている。

残された作品に大作は比較的少ないが、これは玉島での綾山の活動が、画業に専心したものではなく、より文人的な色合いが強いものだったからと思われる。綾山の功績は、多くの門弟を育てたことにあり、岡山南画の草分けとして南画普及に大きな役割を果たした。岡本豊彦、白神☆々(☆は「白」+「皐」)、小野雲鵬らの最初の師であり、他にも岡本綾江、守屋中岳らが門下から出ている。門弟たちを自分の元にとどまらせず、積極的に中央画壇へと進出させたことが、岡山南画の発展に大きく寄与したといえる。

讃岐の門人としては宮本綾浦が『讃岐画家人物誌』に掲載されている。

黒田綾山(1755-1814)
宝暦5年高松生まれ。名は良、字は亮輔、忠良。別号に起雲、南海山人、石隠、雲翁などがある。「綾山」の号は高松の西方にある「綾の松山」という山の名に由来するが、家族関係などは不明である。備後尾道出身の福原五岳に学んだ。入門時期は不確かだが20歳をすぎて間もなくだと思われる。はじめ伊予の狩野派・加藤文麗に学んだという説もあるが不確かである。備中玉島に定住し、多くの門人を育て、岡山南画の普及に貢献した。画域は広いが、とくに人物画を得意とした。文化11年、60歳で死去した。

宮本綾浦(不明-不明)
天保年間の綾歌郡川津村の人。通称は直一郎。画を黒田綾山に学んだ。

讃岐(4)-ネット検索で出てこない画家


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土佐派の流れを汲む画僧・鶴洲と讃岐の土佐派

2016-05-09 | 画人伝・讃岐

文献:描かれし美の世界、高松市歴史資料館コレクション展、讃岐画家人物誌

讃岐において、狩野派の画僧・實山と並び称されるのが、土佐派の流れを汲む画僧・鶴洲である。後年の活動から鶴洲を土佐派の画人とするには異論もあるが、鶴洲は、住吉派の祖である住吉如慶の子であり、住吉具慶の弟であることから、幼いころから土佐派の技法を受けたと思われる。加賀前田藩に仕えていたが、耳を病み聴覚障害となったため出家し、黄檗宗の画僧として活躍した。元禄元年初代藩主・松平頼重に招かれ、享保3年には自性庵を与えられ高松に定住した。その後、祥福寺の開山となり、そこで生涯を終えたとされる。

鶴洲の次の土佐派の画人としては、幕末期に活躍した森良敬がいる。土佐派の画人の系譜ははっきりしていないが、慶応2年の高松藩限帳には、狩野永笑と並び、森良敬が高松藩絵師に名を連ねている。良敬は、はじめ土佐派に学び、のちに松平頼該に招かれ高松藩絵師になったもので、その子・森直樹も幼いころから父・良敬から画技を学び、のちに住吉広賢に師事して高松藩絵師となった。また、森良敬や土佐光文などに学んだ中村良谿もいる。

鶴洲(不明-1731)
名は広夏。土佐派の画人・住吉如慶の子、具慶の弟。加賀前田家に仕えていたたが、病気のため出家したといわれる。元禄元年松平頼重に招かれ、自性院を与えられ高松に定住した。代表作に法然寺蔵の重要文化財・観世音功徳図屏風がある。享保16年死去した。

森良敬(1809-1880)
文化6年生まれ。高松藩絵師。名は鼎。別号に不知斎、石腸がある。森東溟の子。土佐光文に学び、故実画をよくした。明治13年、70歳で死去した。

森直樹(1847-1908)
弘化4年高松生まれ。高松藩絵師。名ははじめ繁太郎、のちに賢良。森良敬の子。幼いころから父に画を学び、のちに住吉広賢に師事して、一家の画風を伝えた。明治8年の地租改正のときに各村の地図の作成に携わった。明治41年、58歳で死去した。

森東溟(1772頃-1843)
安永元年頃生まれ。大内郡引田の人。名は良厚または杜賢。別号に文亀がある。森直七の子、森良敬の父、森直樹の祖父。谷文晁に学び、高松藩に仕えた。山水、花鳥、人物を得意とした。天保14年、72歳で死去した。

田岡梅荘(1808頃-1890)
文化5年頃生まれ。綾歌郡羽床村の人。名は雅良、通称は牧太、本姓は松浦で田岡氏の養子となった。別号に精神舎、梅花村荘がある。詩を片山冲堂に学び、画を森東溟に学んだ。のちに梅道人に私淑して、山水をよくした。明治23年、83歳で死去した。

那須賢直(1827頃-1896)
文政10年頃生まれ。通称は清助。森良敬に学び、故実画をよくした。和歌もよくした。明治29年、70歳で死去した。

中村良谿(不明-1887頃)
通称は嘉十郎。別号に白酔、撫松などがある。森良敬および土佐光文に学んだ。晩年は南宗派に倣い山水蘭竹をよくした。明治20年ころに大阪で死去した。

讃岐(3)-ネット検索で出てこない画家


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