松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

最終話:池袋モンパルナスの夜は更けて

2010-04-16 | ★バックナンバー

それにしても「蟻は左の二番目の足から歩き出す」とは、なんと示唆に富んだ言葉なのでしょう。仙人はふがいないボクを蟻に例えたのです。

確かにボクは蟻のように毎日毎日働いています。もちろん本心はどこか南の国でのんびり暮らしていきたいと願っているのですが、どうしたことか毎日毎日惰性のように働いています。まさに「働き蟻」です。おまけにまったく進歩していません。気が遠くなるような時間を生きてきて、まったく先に進んでいないのです。

しかし今、その理由がわかりました。ボクがまったく進歩していないのは、最初の一歩を踏み出していなかったからなのです。最初の一歩を踏み出していないのだから、どんなに時間が過ぎても、悪戯に歳を重ねるだけです。

しかし、仙人の言葉で目が覚めました。希望も湧いてきました。そう、今からでも遅くはないのです。すぐにでも最初の一歩を踏み出さなければなりません。

ボクは固い決意で、左の二番目の足を踏み出そうとしました。しかし、ボクの左の二番目の足はピクリとも動きませんでした。動かそうとすると、なにか重いものがまとわりついてくるような重苦しい気分に見舞われ、まったく足を動かすことができませんでした。

しかしここで諦めるわけにはいきません。今までも事あるごとにそうやって諦めてきましたが、今日はそうはいかないのです。なにがなんでも第一歩を踏み出さなくてはなりません。ボクはありったけの力を左の二番目の足に集中し、えいっと気合いを入れて動かそうとしました。しかしやはり足はビクともせず、ボクはその反動でイスから転げ落ちてしまいました。

うめきながらイスに座り直そうとしていると、バーテンダーが心配そうにのぞき込んできて、ボクがなんとかイスに座ると、「ちょっと飲みすぎたんじゃない」と冷やかに笑い、またカウンターの隅に戻っていきました。

ボクはすぐに仙人の姿を探しました。仙人に努力している姿勢を認めてもらいたかったのかもしれません。しかし仙人の姿はどこにもなく、カウンターの上に図録が残されているだけでした。

ボクはイスに座り直し、図録を手に取って開けてみました。図録の最初のページには白髪頭で胸まで髭の伸びた熊谷守一が、つまらなそうな顔をして載っていました。

ボクは図録から目を離し、カウンターの隅で相変わらずグラスを磨いているバーテンダーの横顔を眺めながら、「やっぱり静かな夜だな」と図録を閉じながらそっとつぶやきました。

(静かな夜(5)終・完)

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第四話:蟻は左の二番目の足から歩き出す

2010-04-15 | ★バックナンバー

老人の話を聞いていると、熱心に話しているようでいてそうでもなく、絵の核心をついているようで、はぐらかしているような、人生を語っているようで、意味のない独り言を繰り返しているような、そんな感じでした。

話し方は一定のリズムがあるで、支離滅裂なようでもあり、それがまるで前衛音楽のようでもあり、邦楽の伝統を踏まえているようでもありました。そして老人は、ときどき話の後に「へたも絵のうち」と付け加えました。

ボクはいつしか夢心地になっていました。

だんだん日常の些細なことなんてどうでもよくなっていきました。今まで何に悩んでいたのかさえ分からなくなりました。ボクがこのワインバーに入ってきた時は、少なからず絶望していたはずです。これからどうやって生きていくか深く悩んでいたはずです。しかし、今ではそんなことはどうでもよくなっていました。それは、勇気や希望がわいてくるというよりも、不安や絶望が消滅していっているような感覚でした。

やはりこの人は仙人なのだ、とボクは確信しました。

最初の印象では90歳は超えているように見えましたが、時が経つごとに若者のように思えてきました。これは仙人の証しです。間違いありません。

ボクは老人の方を向き、思い切って「あなたは仙人でしょう」と切り出すと、続けて「どうかボクにこれから歩むべき道を教えてください」と懇願しました。

すると仙人は、少年のような無垢な笑顔を見せ、そしてすぐに真顔になり、「蟻は左の二番目の足から歩き出すんじゃよ」と、いかにも仙人らしい「教え」をボクに授けてくれました。

ボクは自分の左の脇腹あたりをそっとさすってみました。

(静かな夜(4)終・つづく)

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第三話:見たこともないすばらしい画家

2010-04-14 | ★バックナンバー

老人が出した図録の表紙には「熊谷守一」と書いてありました。

ということは、彼は今まで熊谷守一を知らなかったということです。だからこそ熊谷守一を「見たこともないすばらしい画家」と称したのでしょう。もちろん美術に興味がなければそんなこともありますが、この池袋西口で長年飲んでいれば熊谷守一の絵を見ないということは考えられません。

というのも、この池袋西口の付近は、その昔「池袋モンパルナス」と呼ばれ、多くの美術家たちが住み、多くの作品と語り尽くせない逸話を残した場所なのです。今でもなにかといえば町おこし的に「池袋モンパルナス」は使われ、「Echika 池袋」ができる時にも多少のコンセプトの無理はありましたが、池袋モンパルナスが使われました。そばには熊谷守一記念館だってあります。

だから老人の人生経験からいって、たとえ熊谷守一の名前を知らなくても、ポスターやチラシなどで、作品はどこかで目にしているはずです。

と思ってはみたものの、そんなことを言っても仕方がないので、ボクは老人の話に相槌を打ちながら聞くことにしまいた。思えば、美術品を語るのにいちいち知っているとか知らないとか言っていても始まりません。

ボクは図録のページをめくりながら熱心に説明する老人の話を生返事をはさみながら聞いていました。

はっきりとは聞き取れなかったのですが、老人はしきりに「いい絵だ、いい絵だ」と言っているようでした。

ボクは腕を組んだまま、ワインをお代わりするタイミングを計っていました。

(静かな夜(3)終・つづく)


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第二話:仙人のような男

2010-04-13 | ★バックナンバー

一杯目のワインがなくなりかけ、次をたのもうとしてふと顔を上げると、ちょうど次のお客さんが入ってくるところでした。

その客は白髪に白い髭を蓄えた老人で、髭は胸のあたりまで伸びていて、まるで山から降りてきた仙人のようでもあり、天から舞い降りたばかりの神様のようでもあり、不思議なことにどこかで会ったことがあるような気もしました。

初老のバーテンダーが何も聞かずに、その男の前にグラスを置きワインを注ぎ始めたところを見ると、かなりの常連のようにも思えたし、注ぎ終えたバーテンダーが何も言わずにカウンターの隅に戻ったところを見ると、それほどの馴染み客ではないような気もしました。

ボクはしばらくその老人の動きを気にしていたのですが、頃合いをみて次のワインをたのもうと隅にいるバーテンダーの方を向いたところで、ちょうどその老人と目が合ってしまい、老人はすかさず「あんた、美術は分かるかね」と話しかけてきました。

こういう飲み屋では、特にカウンターでは客同士が世間話をすることは珍しいことではないし、話しかけられても嫌な気はしないのですが、いきなり美術が分かるかどうか聞かれても返答に困ってしまいます。

おそらくこんな場合、分かりますと答える人はいないでしょうし、せいぜい「美術は好きですけど、よく分からないんですよ」くらいの答えをするのが妥当でしょう。

まあ、こんなことでムキになっても仕方ないので、ボクもそんな感じで答えようとしたのですが、その男は返事などまったく聞く気がなかったようで、すぐに「見たこともないようなすばらしい画家を見つけたんだよ」と嬉しそうに言うと、一冊の図録を懐から取り出しました。

ボクはその図録を見て、絶句しました。

(静かな夜(2)終・つづく)


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第一話:静かな夜

2010-04-12 | ★バックナンバー

最近は池袋西口ばかりで飲んでいて、それも同じ店でダラダラと飲む毎日だったのですが、先週末は場所は相変わらず池袋西口だったのですが、数ヶ月ぶりに行くワインバーをのぞいてみました。

店に入ると相変わらず店内には誰もいなくて、初老のバーテンダーが手持ち無沙汰にしていて、ボクが店に入ると素っ気なく、「ああ、いらっしゃい、久しぶりだね」と低い声で言うと、「最近どう?」と続けました。

その店はカウンターだけの小さな店で、ボクはカウンターの真ん中辺に座ると、「最近ろくなことがないんですよ」と、とりあえず彼の質問に答えてから、「こんな時に飲む白ワインはありますかね」と付け加えました。

まあ、これはこの店の決まり文句のようなもので、そんな都合のいいワインなんてあるはずがないのですが、その初老のバーテンダーはニヤリと笑うと、「ぴったりの白ワインがありますよ」とお決まりの台詞を言い、奥からワインの瓶を持ってきて、ラベルを見せながら薀蓄を語るわけです。

ひととおりしゃべり終わると、彼は馴れた手つきでワインをグラスに注ぎ、テーブルの上を滑らせながら、ボクの前に持ってきました。

ボクがそれを一口飲んで、「うん、いいワインだ」と適当なことを言うと、彼は満足してカウンターの隅まで戻り、BGMを聞いてちょっとリズムを取ったり、グラスを磨き始めたりするわけです。

彼は、ボクがこのグラスのワインを飲み干すまで、もう話しかけることはありません。それもまたこの店の慣習のようなもので、だから、グラスにワインが残っている限り、ボクの自由時間は終わらないのです。

ボクはもう一口ワインを飲んでから、思わず「静かな夜だ」とつぶやきました。

(静かな夜(1)終・つづく)


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最終話:完治しました

2010-02-26 | ★バックナンバー
心ならずも診察室で大騒ぎをしてしまったので、待合室から何事かと思った患者さんたちがのぞきこんできました。

患者さんたちは、ボクがグニャグニャに高速回転する丸イスを見事に乗りこなしながら、荒い鼻息を噴き出し、さらによく通る大声でダーリングと連呼しているのを見て、みんな口々に感嘆の声をあげました。

ある人は、ボクが丸イスに乗って高速回転しているのを見て、「まあ、なんてすばらしいバランス感覚なのかしら。あの丸イスを上手に乗りこなしている人なんて初めて見たわ。さぞかし丈夫で健康な三半規管なのね」と言い、大きくうなずきました。

またある人は、ボクがたくましい鼻息を噴出しているのを見て、「ああ、なんて男らしくてセクシーな鼻息なのかしら。あんな鼻息が出せるなんて、どんなに丈夫で健康な鼻なのかしら」と言い、ほおを赤らめました。

そしてまたある人は、ボクの診察室内に響きわたる大声を聞き、「なんと言っても見事なのは、あの声ね。あんなに心に響く大きな声が出せる人なんてそうはいないわ。どんなに丈夫で健康な喉なのかしら」と言うと、胸の前で手を組み、恋する乙女のように宙を見つめました。

そして彼女たちは口々にこう言いました。

「あんなに丈夫で健康な耳と鼻と喉を持っている人なんて見たことがないわ。パーフェクトな耳鼻咽喉の持ち主ね」

ボクは荒々しく高速回転しながらも、この患者さんたちの声をちゃんと聞いていました。

丸イスを乗りこなしてからというもの、ボクの耳は研ぎ澄まされてきていて、どんなに小さなささやき声も聞き分けることが出来るようになっていました。

だから、大歓声の中でかき消されていた女医さんの「完治しました」とそっとつぶやく声もハッキリと聞こえていたのです。

(ダーリング(5)終・完)

★バックナンバーは湯上がり文庫
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第四話:笑うなと言われても約束できません

2010-02-25 | ★バックナンバー
すでにカラクリがばれてしまっているのを知ってか知らでか、彼女はささやくように「ダーリング、ダーリング、ダーリング」と小声で言った後、ボクの顔を真顔で見つめ、キッパリと「これから言うことを聞いてください」と言ったのでした。

一言一句たがわぬ予想通りの展開です。

ボクはもう勝利の雄たけびを上げずにはいられませんでたが、それをグッと我慢して高速で丸イスを回転させながら次の言葉を待ちました。

次は「笑わないと約束してください」と言います。これも間違いないでしょう。

ボクは、笑いをこらえてリアクションを考えました。

考えた末、リアクションとしては、まず丸イスで高速回転しながら、難易度の高い三回転半ひねりを入れ、回転の度に「ダーリング」と叫ぶことにしました。これなら流れにもあっているし、彼女もいっしょに「ダーリング」と叫びながらのってくれるかもしれません。

ワクワクして待っていると、ボクの様子を見て何か感じ取ったのか、彼女は少し怒ったような顔をしてしばらく間をとり、しかし予想通りに、「笑わないと約束してください」と言ってしまったのです。

ボクはここぞとばかりに、荒れ狂う牛を仕留めたカウボーイのように、丸イスの端を左手で支えながら右手を高々と上げ、高速回転の中に三回転半ひねりも入れ、回転ごとに「ダーリング、ダーリング、ダーリング~」と大声で叫びました。

ボクの興奮は最高潮に達し、自然に鼻の穴も大きく膨らみ、荒々しい鼻息をフン、フンと噴出しました。その鼻息の勢いにも乗って丸イスの回転はさらに速度を増し、回転の度に叫ぶ「ダーリング」の声もどんどん大きくなり、その声は医院の外まで届くほどになっていました。

(ダーリング(4)終・つづく)
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第三話:その指で髪をかきあげてくれ

2010-02-24 | ★バックナンバー
ボクは少し考えるポーズをとってから、どうせ女医さんが見ている方向が「たそがれ」なのだろうと判断し、バランスを保ちながらそちらの方を向きました。

不思議なことにその頃にはグニャグニャに動く丸イスにも慣れてしまい、けっこう無理な体勢をしてもバランスが取れるようになっていました。その上達ぶりは自分でも驚くほどで、振り落とされる気などまったくしなくなり、むしろ次はどんな難問が出るのだろうと、ちょっと楽しみながら指示を待つようになっていました。

彼女はいつの間にかこちらを向いていて、ボクの手馴れた丸イス乗りをしばらく眺めていたのですが、おもむろに口を開くと次のように指示しました。

「その指で髪をかきあげてください」

それを聞いて、これはけっこう簡単な指示だと思いました。耳の検査だから耳を出せというのでしょうが、今のボクにはなんでもないことです。ボクはあえて丸イスから両手を離し、髪をかきあげようとしました。しかし考えてみれば、ボクの髪はかきあげるほど長くないし、耳だってすでに出ています。

それでも、せっかくに指示なので形だけでも指で髪をかきあげるポーズをとろうと思い、耳の上あたりを無理してかきあげながら、ふとある事に気付きました。彼女が言っていることは、ずっとどこかで聞いたことがあると思っていたのですが、その時やっとハッキリしたのです。

彼女が言っているのは、先週末ボクが上機嫌で歌っていたジュリーのダーリングの歌詞そのもので、語尾を「~ください」と丁寧にしていたので、うかつにも今まで気付かずにいたのです。

とすれば、次に彼女が言うことも予想がつきます。ダーリングの歌詞では、「ダーリング、ダーリング、ダーリング」と連呼した後、ちょっと声を落として「これから言うことを聞いてくれ」と続きます。だから、彼女はその通りに「ダーリング、ダーリング、ダーリング」と言った後、「これから言うことを聞いてください」と言うに違いありません。

すべてを読み切ったボクは、体をねじりながら丸イスを高速回転させ、喜びを体いっぱいで表現しました。すでにボクの丸イス乗りはかなりのレベルに達していて、高速回転やひなりなど自由自在にコントロール出来るようになっていたのです。

(ダーリング(3)終・つづく)

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第二話:たそがれに顔を向けてくれ

2010-02-23 | ★バックナンバー
その異常に座りにくい丸イスは、腰掛けるとグニャグニャと揺れながら回転し、まるでロデオマシンにまたがっているかのような乗り心地でした。ボクは振り落とされないようにやっとの思いで丸イスにしがみついていました。それでも女医さんが笑ってくれれば少しは救いもあるのですが、彼女はニコリともせず、しばらくボクを観察してから素っ気なく言いました。

「足を組んでください」

この状態で足を組むというのはかなりの難題です。それでなくてもやっとの思いでバランスを保っているのですから、そのうえ足を組むとなるとイスから転げ落ちるかもしれません。

しかし、彼女がそう言うのも無理はないと思いました。実は「病状の設問用紙」には、最初に耳、鼻、喉のどこが悪いのか丸を付ける欄があったのですが、ボクはその時、喉だけでなく耳も鼻も悪いような気がして、つい全部に丸を付けてしまったのです。

だから、彼女はボクのバランス感覚を見るために、安定しない丸イスに座らせ、足を組めと言ったのでしょう。おそらくこれは耳の診察です。

そうと分かれば足を組まないわけにはいかず、ボクはイスから転げ落ちないように用心しながらソロリと片足を上げ、必死になってバランスを保ちながらなんとか足を組み、しばらくその体勢を保つと、「やったぞ」と言わんばかりに女医さんを見ました。しかし彼女はボクの涙ぐましい努力を誉めるでもなく、また妙なことを言い出したのです。

「たそがれに顔を向けてください」

彼女はそう言うと顔を横に向け、遠くを見るような目をしました。その無表情な美しい横顔は、まさにたそがれを見つめているかのようでした。

ボクは荒れ狂う丸イスにしがみつきながら、途方に暮れてしまいました。

(ダーリング(2)終・つづく)
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第一話:魅惑の女医さん

2010-02-22 | ★バックナンバー
最近ノドの調子が悪くて、今までだましだまし過ごしてきたのですが、先週末酔った勢いでカラオケに行ってしまい、よせばいいのにジュリーを熱唱し、ついにノドが壊れてしまいました。

しかたないので病院に行こうと思い、ネットで耳鼻咽喉科を探していたら、近所にやたらと評判のいい女医さんがいる耳鼻咽喉科の医院を見つけました。その医院に対する掲示板の書き込みときたらかなり熱烈で、病院の感想とは思えないものまでありました。

もうこれは行くしかありません。ボクはイソイソとその医院へと出かけました。

その医院は、路地の奥まったところにあり、小さいながらも小奇麗な外観はいかにも感じのいい女医さんがいそうな雰囲気で、心なしかその辺りにはいい香りが漂っているような気さえしました。

医院に入り周りを見渡しながら受付で説明を聞いていると、奥の診察室に白衣を着たお医者さんの姿がチラッと見えました。一瞬でしたが、その姿は紛れもない美貌の女医さんで、ボクはウキウキしながら待合室のソファに腰を下ろし、受付でもらった「病状の設問用紙」に上の空で書き込みながら、自分の番が来るのを待ちました。

しばらくして名前を呼ばれたので、診察室に入ってみると、女医さんはイスに座ってボクが書いた「病状の設問用紙」を熱心に読んでいました。ボクはしばらく立って待っていたのですが、彼女がなかなか顔を上げないので、女医さんに一歩近づきながら、「そこには書いてないんですが、先日カラオケでジュリーのダーリングを歌ってから声が出なくなったんですよ」と、声をしぼり出しながら言いました。

もちろんそんなことはどうでもいいことなのですが、ちょっとした笑いがほしかったわけです。まぁ、よくあることです…。

ところが彼女はニコリともせず、ちょっと顔を上げると、奥に置いてある小さな丸イスを指差しながら、「ここへすわってください」と低い声で言い、スラリと伸びた足を組み直しながら、その丸イスの方向に向き直りました。

ボクは言われた通りに、その丸イスに座ろうとしたのですが、このイスがどうしたことかとても座りにくくて、グラグラして回転しそうなのをなんとか抑えて必死になってバランスをとりながら、やっとの思いで女医さんの方を向きました。

もちろんその時は、ただイスが座りにくいと思っていただけで、それからあんな展開になろうとは思ってもみませんでした。

(ダーリング(1)終・つづく)
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最終話:新たな約束

2009-10-23 | ★バックナンバー
いつもの駅に着き、改札を抜け、階段を上がり、いつものように大通りに出ました。

外には秋らしい爽やかな空気が広がっていて、爽快な気分になりました。そんな秋の空気に癒されながらも、爽快なのは空気のせいだけではなく、他に要因があることは気付いていました。その時ボクの体は、まるで生まれたての赤ん坊のように、身も心もリフレッシュされていたのです。

ボクは横断歩道で立ち止まると、ふともものあたりを触り、つい数分前に体験した、あの不思議な瞬間を振り返ってみました。

そう思って振り返ろうとすると、数分前のあの一瞬の出来事がずいぶん懐かしいことのように思えました。

目を閉じ心を落ち着かせてから整理して思い出してみると、そう、電車の中でいきなりボクのふとももを掴んだ女性は、恍惚としているボクの耳元で「500円…。」とささやいたのです。ところが、ちょうどその時、電車が駅に着きドアが開いたので、彼女は「あら、いけない」と言いながらバッグからすばやく名刺を取り出してボクに渡すと、「今日はサービスよ」と言い残して、鮮やかな身のこなしで颯爽と降りていったのでした。

残されたボクは、呆然とその後ろ姿を見送っていたのですが、電車が動き出してからやっと我に帰り、もらった名刺を見てみました。

名刺には「ワンコイン瞬間マッサージ、一回500円」と書いてありました。


信号が青になり、ボクは横断歩道を歩きながら胸ポケットから名刺をとり出し、まじまじと見つめました。おそらくあれは気功整体かなにかを応用したマッサージなのでしょう。思えば、この仕事は場所を選ばないし、値段も安いし、なんたって一瞬で済むのだから、こんな効率のいいリラクゼーションはありません。この意表をつく仕事は成功するに違いありません。

ということは、意表をつく仕事で成功するのだから、彼女もボクと同じ運勢だということです。あのおみくじは誕生日別だったので、ボクと彼女は同じ誕生日であり、御会式の最終日と同じだというです。ということは、また来年彼女に会うということです。

ボクは、ひとつ約束をかわしたような、そんな高揚した気持ちで、夜の街を気の済むまでいつまでもいつまでも歩き続けました。

(最終話:新たな約束(終)・完)

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第四話:意表をつく仕事

2009-10-22 | ★バックナンバー
ボクは腕を組み目を閉じ、うつらうつらとしながら祭りの賑わいを思い出していました。

その時、ふと境内で買ったおみくじを思い出しました。祭りの時には少しだけ読んで、あとはそのままにして忙しく出店を廻っていました。

ボクは胸ポケットからおみくじを取り出し、改めてじっくりと読み直しました。おみくじには「金運」とか「健康運」とか、項目別に運勢が書いてあったのですが、一通り読んで気になったのが「仕事運」でした。そのおみくじの仕事運のところには「意表をつく仕事で成功する」と書いてあったのです。

はて、意表をつく仕事とはなんなのでしょうか。

ボクはおみくじから目を離し、顔を上げ、反対側の窓ガラスにぼんやりと映る自分を眺めながら、思わず「意表をつく仕事とはなんだろう」とつぶやきました。

と、その時です。ものすごい勢いで隣の彼女が接近してきたと思ったら、左手でボクのふとももをむんずと掴み、ぐっと顔を近づけてきました。彼女は、驚いて身動きできずにいるボクの耳元に口を寄せると、「これが意表をつく仕事よ」とささやいたのです。

彼女の巨大な手はボクのふとももに食い込み、手の甲に浮き出た青黒い血管は、どくどくと脈打っていました。その忌まわしくも力強い血流が、そのままボクの体の中に入り込み、一瞬にして体中の血液が入れ替わったような気がしました。

ボクはだんだん気が遠くなっていくのを感じました。

薄れゆく記憶の中、彼女が耳元で「500円…。」とささやいた気がしました。

(第四話:意表をつく仕事(終)・つづく)

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第三話:戻ってきた平穏

2009-10-21 | ★バックナンバー
ボクたち二人は緊迫感あふれる体勢のまましばらくじっとしていました。

電車はもう池袋駅の手前まできていて、だんだん減速しているのが分かりました。池袋はターミナル駅なので、日曜日といえども乗客は多いでしょうし、今のボクたち二人の体勢を見ると、乗ってきた人たちはみんな不穏に思うに違いありません。彼女は相変わらず左手を座席につき、ボクのほうに体を傾けたままじっとしていました。

ボクはこの情況からどう抜け出そうかと思い悩んでいたのですが、池袋駅に着くと、どうしたことか彼女はパッと身を翻らせ、まっすぐに座りなおすと、何事もなかったかのようにバッグから雑誌を取り出して読み始めました。

それはまるで訓練を受けたかのような素早い動きでした。ボクはどんな女性なのだろうと思い、車内を見渡すふりをして彼女をよく観察してみました。

彼女はいままでの迫力がうそのように、長い脚を組み、物憂げに雑誌のページをめくっていました。最初はあまりの勢いに、女装した男性ではないかと疑っていたのですが、まったくの見当違いで、長いまつ毛を伏せて雑誌に目を落とす横顔は、ファッション雑誌から抜け出してきたかのように美しく、あの肉厚でたくましいと感じていた手も、しなやかで上品な動きで、長い髪に触れたり雑誌のページをめくったりしていました。

池袋で別人と入れ替わったのではないかと思うほどの変わり様でしたが、車内に平穏が戻ってきたことに間違いはありません。

ボクは少し安心して、深く座席に座りなおし、腕を組んで目を閉じ、戻ってきた平穏をじっくりとかみ締めました。そして、あんな美しい女性なら今までの体勢も悪いはないな、とか思いながら少しニヤケもしました。電車はだんだんスピードを上げていき、ボクはその揺れに身をまかせて、いつしかうつらうつらとしていました。

もちろん、この時点では、これからあのような事件が起ころうとは、予想すらしていなかったのです。

(第三話:蘇った平穏(終)・つづく)

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第二話:青黒く浮き上がるもの

2009-10-20 | ★バックナンバー
ボクはすぐに彼女から目をそらして、正面に向き直りました。

正確には、「あ、勘違いだ」みたいな顔を一瞬作り、それに「失礼しました」みたいな表情を加え、さらに自重気味の苦笑いを被せ、それからすごく反省しているような横顔を残して正面に向き直ったのです。だいたいこんなケースでは、これで後腐れなく終了するはずです。大人同士とはそんなものだし、この混沌とした現代社会だからこそそうでなくてはなりません。いや、そうあってほしいと願うばかりです。いわば友愛精神です。

しかし、現実とはなかなか厳しいもので、なかなか彼女の視線はボクから離れそうになく、ボクは横顔でずっと彼女の熱視線を浴びていました。

その緊張感の中で、考えました。

いったい彼女は何者なのか。どうしてこのガラ空きの電車の中でわざわざボクの横に座っているのか。彼女の派手な格好からすると、おそらく祭り帰りで、電車が発車する直前に乗り込んできたのでしょう。その時ボクは祭りの余韻に浸っていたので、彼女が横に来たことに気付かなかったわけです。

ボクはちょっとうつむいて、横目で彼女を観察しました。

彼女とボクの間にはひとつ席が空いていて、彼女はその間の席に左手を付いて体をボクの方にぐっと傾けていたので、顔だけが極端に近いという、かなり緊迫感あふれる状態でした。

ボクは座席に置かれた彼女の、巨大で肉厚な手を力なく見つめていました。その浅黒くたくましい手の甲には、青黒く丈夫そうな血管が浮き出ていて、どくどくと脈打っているのが見えました。

(第二話:青黒く浮き上がるもの(終)・つづく)

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第一話:御会式

2009-10-19 | ★バックナンバー
毎年10月16日から18日までの三日間は、雑司が谷の鬼子母神で「御会式」が開催されていて、ボクは毎年この祭りに行っています。

どうして毎年この祭りに行くかというと、祭りの魅力もさることながら、御会式の日程が曜日に関係なく10月16日から18日までに毎年固定されていて、最も盛り上がる最終日の10月18日がボクの誕生日にあたるわけです。今年の18日は日曜日だったのですが、例年通りの盛り上がりを見せていました。

祭りというものは、毎年行っていても常に新しい発見があるもので、今年も二つの発見がありました。一つは、キュウリの浅漬けが、ある時間帯を境に200円から100円に値下げされるということで、おかげで思う存分キュウリを食べることができました。そしてもう一つは、やけに厚化粧の人が多いということでした。

もちろん、祭りに厚化粧は付き物なのですが、付き物だからこそ厚化粧の人が多いと祭りが盛り上がるとも言えるわけです。おそらく厚化粧の人は祭りに参加しているという意識が強く、だからその数が増えれば盛り上がりも増し、やがて一体感が生まれ、大都会の真ん中で、あれほどの大騒ぎになるのでしょう。

ボクはそんなことを考えながら、まだ終わりそうにない祭りを後にし、雑司が谷駅から和光市行きの電車に乗り込みました。日曜日なので車内はすいていて、祭り帰りを感じさせるような人もいませんでした。

ボクは車両の一番端の席に腰掛け、まだ耳の奥に残る祭りの喧騒の余韻に浸りながら、「ああ、やっぱり御会式はいいなぁ」と思わずつぶやきました。と、その時、まるでボクの独り言に重ね合わせるかのように、「ああ、やっぱり御会式はいいわ」という声が隣から聞こえてきたのです。

隣には誰もいないと思っていたので、驚いて横を見てみると、いつの間にかそこには大柄な女性が座っていて、ボクと目が合うと、カラクリ人形のようなぎこちない動きで口を開け、ニッと笑ったのでした。

(第一話:御会式(終)・つづく)

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