松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

大正から昭和初めにかけての遠州画人

2014-10-07 | 画人伝・遠州

文献:遠州画人伝

大正から昭和初めにかけて、山下青ら崋椿の流れをくむ渡辺小華門下をはじめ、遠州に縁のあった川村雨谷門下や、松林桂月門下、小室翠雲門下、竹内栖鳳門下など様々な師系の日本画家が活躍、それに加えて山根仏頂亭、鈴木黄鶴ら異色の画家たちも現れた。そして昭和11年、新進気鋭の閨秀画家・秋野不矩が28歳で文展鑑査展選奨を受賞し中央画壇で注目され始め、遠州画壇は新しい時代へと向かっていく。

横田華外 よこた・かがい
明治元年9月9日生まれ。名は保、字は希直、初号は秋巒。詩を小栗松靄に学び、画を川村雨谷に学ぶ。大正5年、49歳で死去した。

江間高峯 えま・こうほう
文久元年5月生まれ。磐田郡見付の人。名は俊一。川村雨谷に師事。代議士、弁護士、東京市会議長。江間式強健術で知られる。昭和8年5月31日死去。

田代柳外 たしろ・りゅうがい
磐田郡鹿島の人。名は嘉平次。川村雨谷に師事。

森下青谷 もりした・せいこく
小笠郡大淵村生まれ。名は佐七。川村雨谷に師事。

前田靄斎 まえだ・あいさい
明治16年小笠郡大淵村生まれ。名は長太郎、別号に田徴がある。川村雨谷に師事。

平野竹逸 ひらの・ちくいつ
明治26年磐田郡中泉町生まれ。大正4年に上京して加納雨蓬に学び、のちに松林桂月に師事した。昭和14年、47歳で死去した。

伊藤隋松 いとう・ずいしょう
磐田郡見付町の人。松林桂月に師事。

山下青城 やました・せいじょう
明治15年浜名郡笠井町生まれ。山下青の子。上京して小室翠雲に師事。名は桂、別号に天香書屋、朱竹荘がある。

榑松玉峰 くれまつ・ぎょくほう
明治23年磐田郡上浅羽村生まれ。名は良平。小室翠雲に師事した。

馬淵春濤 まぶち・しゅんとう
明治21年浜名郡北浜村生まれ。竹内栖鳳の門に入り、京都市立絵画専門学校を卒業。

八木王乕 やぎ・おうこ
明治23年榛原郡萩間村生まれ。名は博、初号は栄章、のちに敬谷と改め、さらに王乕に改めた。大正13年、35歳で死去した。

山田筑洞 やまだ・ちくどう
明治9年5月13日磐田郡中泉町生まれ。金森南耕・小山栄達に師事。昭和8年7月29日、58歳で死去した。

鈴木寉仙 すずき・かくせん
明治15年浜名郡蒲村六軒生まれ。近藤樵仙に師事。

釋翠邨 しゃく・すいそん
明治21年浜名郡雄踏町生まれ。安寧寺の二男。名は政光、初号は天江。上京して戸田玉秀の門に入って四條派を学んだ。

平野素雲 ひらの・そうん
浜松市田町の紙商。近藤藍濤に師事した。

川上如雲 かわかみ・じょうん
浜松の日本楽器会社の社長。似顔絵を得意とした。

山根仏頂亭 やまね・ぶっちょうてい
浜松市の弁護士。

鈴木黄鶴 すずき・おうかく
明治24年浜名郡積志村生まれ。本名鈴木朝二、別号黄鶴山人・不可解山房。昭和9年9月、43歳で死去した。

遠州(9)-ネット検索で出てこない画家 


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遠州における岸派

2014-09-30 | 画人伝・遠州

 

文献:遠州画人伝

遠江において岸派を学んだものは、石川晶斎、宮本龍嶺、駿河に柴田泰山がいる。画派としては南画におされて振るわず、極少数派であった。岸駒に学んだものに巫山がいるが、その経歴は不明である。この時期の南画以外としては、ほかに木村月塘、大矢米年がいる。また明治期に浜松に在住していたものとしては、宮原水雲、水野松巌、宮坂勝春、花谷式人ら異色の画人もいる。

石川晶斎 いしかわ・しょうさい
文化7年7月3日生まれ。名は雅琢、字は盛器、幼名は玉治、通称は田十郎。はじめ玉台と号し、後に晶斎と改めた。別号に岸琢がある。20歳の時に早川斯尹に学んだが、斯尹が没したため、その遺旨をうけて京都に入り岸岱に師事した。明治12年故師岸岱追慕会を浜松で開いている。画事は温雅で着実だったという。明治17年9月1日、75歳で死去した。

宮本龍嶺 みやもと・りゅうれい
文政2年生まれ。浜松の人。岸岱に師事した。門人が山下嶺月がいる。

木村月塘 きむら・げっとう
文化9年生まれ。榛原郡金谷町の人。名は肇好、童名は哲丸。別号に洗耳坊がある。木村半雨の父で、金谷町西照寺の住職。板倉呂仙に師事。明治9年2月4日、66歳で死去した。

大矢米年 おおや・べいねん
久保田米僊に師事。明治28年に浜松市田町の市川霊雲が漆器製造所を創立して、東京から蒔絵師の秋山某、塗師の山岡徳三、研屋の栄次、色漆の井上為山らを招いて美術漆器の製造販売を始めた。好評だったため、次いで画工として浜松に来たのが米年である。米年は洒脱豪放な画風で評判はよかったのだが、事業は次第に縮小していったという。

宮原水雲 みずはら・すいうん
名は廉。明治初年頃、浜松県課長を務めていた。

水野松巌 みずの・しょうげん
狩野素川と共に浜松に来ていた徳川藩士。別名は原島松巌。

宮坂勝春 みやさか・しょうしゅん
代々の菓子商。画は菓子の余戯として描いた。

花谷式人 はなや・しきじん
浜松市三組町の神明社の側、九尺二間の家に住んでいた。百余歳まで生き、野人らしい画を描き、縁起をかつぐ人達に喜ばれた。相当数の作品が残っている。

遠州(8)-ネット検索で出てこない画家


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独自の技をもった南画家たち

2014-09-24 | 画人伝・遠州

文献:遠州画人伝

当時の遠州では、隆盛を誇った崋椿系だけではなく、独自の技をもった南画系も数多くみられた。楚州に師事した黄檗宗禅僧・禅統をはじめ、野賀岐山、石川鴻斎、金原霞汀、柏木緑雨、高橋月査、田中梅崖、杉山小谷、新貝真蔭、小国重友ら多彩な南画家がいる。

金原霞汀 きんぱら・かてい
天保10年10月4日長上郡三河島村生まれ。名は玉城。嘉永6年15歳の時、天龍川納水の親と称される金原明善と結婚。はじめ静岡の鵜殿霞舟に学び、のちに衣笠豪谷に丹青の法を受けて、南画をよくした。明治37年、66歳で死去した。

柏木緑雨 かしわぎ・りょくう
天保14年9月15日尾張国津島町生まれ。津島神社の神官堀田益人の二男。16歳の時に無断で家を出奔し、京都に入り中西耕石の門に学んだ。耕石は緑雨の画才を認め、養子となることを望んだが、田舎が恋しいとこの求めを断り、京都を出て各地の景勝地で画の修行をした。慶応2年頃遠江に入り、浜名湖北岸の引佐郡三ケ日町鵺代の豪農で歌人柏木☆彦(☆は「木」+「解」)の長女くみの養子となった。養子になった当時は半農と号し、のちに石亭、松処と号し、さらに緑雨と改めた。遠江人になってから浅井白山の東遊に際して、雄踏町の藤田葉山と共に画法を問い、渡辺小華にも学んだ。その画才は中村生海も「遠江画人中、最も確かな手腕を持っている」と認めていたが、晩年に至り不幸続きとなり遂に落莫してしまったという。明治30年11月29日、55歳で死去した。

高橋月査 たかはし・げっさ
文政5年4月3日三河国渥美郡杉山村生まれ。俗姓が高橋、名は行慶、別号に遠湖がある。高野山に登り苦学してその奥を修めた。画は川本月下に学び墨梅をよく描いた。

田中梅崖 たなか・ばいがい
慶応元年生まれ。名は音次郎。大阪市の出身だが、明治34年に初代の浜松郵便局長として浜松に来た。画歴は不明だが、白描の観音像などが残っている。明治40年2月19日、43歳で死去した。

杉山小谷 すぎやま・しょうこく
文久3年生まれ。浜名郡白須賀町の人。名は義光、通称は半十。小谷と号し、雪嶺、さらに呉洲と改めた。また別号に惟一斎、桜香舘、臥龍もある。跡見復山に画を学び、滝和亭にも従ったが、のちに尾張の山本梅荘の門に入った。大正11年死去。

遠州(7)-ネット検索で出てこない画家


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小華へと続く崋椿の流れ

2014-09-16 | 画人伝・遠州

文献:遠州画人伝

多くの崋山・椿山門下生を輩出している遠州画壇にあって、渡辺崋山の子であり、崋山没後は福田半香がひきとり椿椿山が指導した渡辺小華へと流れが続いていくことは自然なことだった。遠州画壇を盛り上げた小華門下には、飯塚香山、山本愛山を筆頭に、跡見復山、吉川如水、水野梅崖、飯塚哲斎、大塚半山、小山汪水、村松小洲、大竹湘堂ら、そして「東海道における小華系花鳥の雄」と称された山下青がいる。ここではネット検索で詳細が出てこない下記の画家を紹介する。

吉川如水 よしかわ・じょすい
安政5年5月20日生まれ。岩田郡中泉の人。通称は由郎、別号に舒翠、如翠、午道人、澹庵がある。山水に長じていた。昭和10年11月3日、78歳の時に名古屋で死去した。

村松小洲 むらまつ・しょうしゅう
小笠郡掛川町の人。初め小邨と号した。福田半香に学んだ村松白華の子。

水野梅崖 みずの・ばいがい
嘉永2年生まれ。名は轉、通称は源市、別号に葦昌、茅春、乕信、桜湖、永照堂斎などがある。初め水野真邦および祖父の梅川に学び、さらに吉田柳蹊に学び、長じて小華の門に入った。山水に長じている。大正10年4月23日、73歳で死去した。

大塚半山 おおつか・はんざん
弘化3年榛原郡初倉村生まれ。名は宜逸。浜名郡役所の課長をながく勤め、のち庵原郡長となった。幼くして福田半香に学び、のちに大草水雲に学んだが、長じて小華の門に入った。静岡の丹青社の同人でもあった。

大竹湘堂 おおたけ・しょうどう
磐田郡福田町の人。

白井小石 しらい・しょうせき
浜名郡白須賀町の人。

兼子東雨 かねこ・とうう
文久2年10月10日小笠郡掛川町生まれ。別号に小華堂がある。俳号は雨来。

遠州(6)-ネット検索で出てこない画家


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自適にして名を求めず・中村生海

2014-09-10 | 画人伝・遠州

文献:遠州画人伝

平井顕斎は、福田半香と並び称されながらも、画壇にあって不遇であり門弟に恵まれたともいえない。顕斎の門弟は出生地の川崎地方と浜松地方に多く、浜松に思斎の子、樋口如璋、曳馬村に中村翠濤と中村松塢、積志村に栩木夷白、斎藤秋山ら、浜名湖の東岸雄踏町に中村簡斎、中村生海の兄弟がいた。その中にあって、中村生海は顕斎の筆意を受け継ぎ、衣鉢を伝える逸材の声が高かった。しかし、生海は悠々と生き、決して名を求めなかったため、広く画名を知られることはなかった。

中村生海 なかむら・せいかい
天保5年5月宇布見村生まれ。中村重三郎の子。名は恕、字は碧、はじめ碧水と号したが、まもなく生海とした。通称は房次郎。14歳の時に平井顕斎の門に入り学ぶ。以来、顕斎の遊歴に従いつつ画を学び、安政3年4月に顕斎が三州岡崎で病死するまで、必ず随伴していた。顕斎死去の時、生海は23歳だった。

生海は顕斎から非常に愛され将来を嘱目されていた。福田半香からもその手腕を認められており、半香は人に「顕斎は実にいい後継者を持っている。自分には鈴木香峰があって、その将来に期待するものがあるが、香峰の技も若い生海にはなお及ばざるものがある。うらやましい弟子だ」と言っていた。

顕斎の死後、生海は故山の家に帰り、その後は誰にも師事せず、顕斎からの教えを守り研鑚に努めた。渡辺小華は生海を評して「顕斎、半香没後、独り乃父の山水を伝うるもの、唯この翁に存するのみ」とした。また、田中梅崖は遠州の七不思議の一つとして「僕遠州に来り不思議の念に堪へざるは、生海の画技遥かに青の上にありながら、人青を知りて生海を知らず」と記している。

生海は茶道をたしなみ、生涯怒声を発したり、軽はずみに人を批判したりすることはなかったという。悠々自適に俗塵を絶って絵筆をとり、決して名を求めることのない人生を送り、明治36年3月21日、70歳で死去した。

遠州(5)-ネット検索で出てこない画家


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遠州における椿山門下

2014-09-01 | 画人伝・遠州

文献:遠州画人伝静岡県の100人展図録

明治に入り、渡辺崋山門下によって培われた南画全盛の気運が、この期に結実したとみられる盛況をみせた。椿椿山の門下では、吉田柳蹊、大草水雲、望月雲荘の三人が名をなすが、いずれもネット検索では詳細が出てこない。

吉田柳蹊 よしだ・りゅうけい
文政3年江戸伝通院生まれ。名は久道、通称は左吾左衛門で、のちに左吾と改めた。別号に暫庵がある。35歳の時に、幕末の徳川幕府の三代官といわれた林鶴梁の下に吏となって磐田郡中泉町を訪れた。その後40歳くらいまでは中泉にいたようだが明確でない部分も多い。慶応の頃から没年までは再び遠江に居住してこの地で没した。師椿山に似て勤勉で、椿山の鶏図の名作を模したけれどもうまくいかず、鶏ばかり500枚も描き、そのためか病を得て没したといわれ、当時の人は「柳蹊は椿山の鶏に食い殺された」と噂したという。明治3年、52歳で死去した。

大草水雲 おおくさ・すいうん
文化14年生まれ。東海道金谷駅の西照寺の住職・木村円海の第二子。幼い頃、父と従兄弟の川崎町静波真宗明照寺第十三世大草良因が早世したので、養嗣子となった。名は亮道、字は皆令、別号に微笑、桂華、煙雨亭主人などがある。16歳の時に西京に行き本山学寮に入り霊往満師として宗乗を学び、30歳の時に帰郷し法職を継いだ。画は西京にいる時に山本梅逸の門に学び、のちに椿椿山に師事した。明治7年12月6日、58歳で死去した。

望月雲荘 もちづき・うんそう
天保3年江戸生まれ。父は勘五郎といい江戸の藩士、母は静岡藩士・望月安兵衛の長女。名は俊。椿椿山に学んで渡辺小華とは寝起きを共にした同輩。明治4年、明治維新の開墾事業に従事するため三方原に移住したが、不馴れな仕事のため、生活的にも生存的にも苦しみ、習いおぼえた絵筆をとって盆燈籠などの絵を描いたところ、小野江忠兵衛に認められ、一度はあきらめた画家として立つこととなった。三方原に住んでいたため「原の雲荘」と呼ばれたが、のちに浜松田町に移り住み一家をなした。しかし東京で名をなすことの思いは強く、明治20年頃に上京するが、失敗に終わり、23年再び浜松に戻り中泉に居を移し後妻を迎え62歳で子供が生まれるが、間もなく再び上京、東京で明治29年、死去した。

遠州(4)-ネット検索で出てこない画家


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遠江南画の全盛

2014-08-19 | 画人伝・遠州

 

文献:遠州画人伝

文晁に次いで、さらに遠江と深い関係にあったのが渡辺崋山である。崋山門下として椿椿山と並んで双璧といわれた福田半香、さらに平井顕斎が出るにいたって、遠江の南画は全盛を迎えた。半香、顕斎の門下からは、小栗松靄、熊谷青城、藤田松湖、中村生海ら、椿山の門下からは、吉田柳蹊、大草水雲、望月雲荘らが出て、さらに渡辺小華門下へと続いていく。父子三代の円山派を結実させた山田蘆岸や、まったくの野の画人である伊藤煙☆(☆は「炯」の「火」を「土」に)、土の仏画家・伊東蘆水ら、ネット検索で出てこない異色の南画家が続々と現れたのも、遠江南画の全盛を物語っている。

山田蘆岸 やまだ・ろがん
享和元年10月23日生まれ。山田鉄支の養子、山田家十二代。名は重武、字は寛夫。はじめの名は昭宜、字は之玉、幼名は孫吉。別号に逢雪斎、松濤舎、無為楽老人などがある。蘆岸は山田の分家孫次郎の長男で、和歌、俳諧、茶技をたしなみ、彫刻も巧みで、画は円山派の長沢蘆洲に学んだ。養父鉄支も同派と交渉があり、山田氏三代の画技は蘆岸によって結実したといわれる。万延元年3月25日、60歳で死去した。

伊藤煙☆ いとう・えんけい(☆は「炯」の「火」を「土」に)
天明4年生まれ。蒲村植松の人。通称は春蔵。師ははっきりとしないが、黄檗楚州と親しく、楚州が大雄庵の住職をしていた頃に詩を収録した『舘山吟草』の「前遊」「後遊」それぞれに挿画が6点ずつ掲載されている。毎日釣りばかりしていて、楚州の出遊の際には寄り添って出掛けたという。蒲村の俳人・徐生とも親しく、この両者との合作が多い。安政4年10月23日、74歳で死去した。

伊東蘆水 いとう・ろすい
浜名郡和田村篠ケ瀬生まれ。生没年不明だが文化文政頃の人。旧姓は鈴木で浜松伝馬町の養子となって伊東姓となった。通称は茂兵衛。はじめ偽峯と号し、次に光山と改めた。別号に弧月窓がある。尾張藩光林斎の門人といわれる。作品の大部分は仏画で、当時の東海道における有数の仏画家として伝えられており、特に金泥は牢固で、葛飾北斎に従って名古屋に行きその盛上法を習得したとされ、「蘆水の金泥はかじっても落ちない」といわれた。

渥美節斎 あつみ・せっさい
寛政2年磐田郡光明村船明の豪家に生まれた。家は代々同所の諏訪明神の神官を勤め、御榑木役所の勤務も兼ねており、節斎は渥美家十二代。名は正載、字は大車、通称は林五左衛門。幼名は八十二、または尊敬蔵。書をよくし、画を描き、詩を作り、歌を詠み、篆刻をし、易学を修め、医学にも詳しく、弓道もするなど多芸多能で、号はだいたい詩文には大車、書には林五左衛門または節斎、画には斎または節斎、和歌には正載などと号を使い分けていた。当時は豊田郡きっての書家ともいわれ、「字の書き手は林五左衛門(節斎)、画かきは福田半香、口ききは河島の近江」と称された。福田半香とは親戚の間柄で、半香はよく渥美家に逗留しており、半香の初期の盤湖落款のもので、節斎との合作が渥美家には多く残っている。嘉永3年2月3日、61歳で死去した。

水野真邦 みずの・まくに
天明5年8月16日小笠郡佐倉村佐倉に生まれた。父・豊麿は池宮神社の神官。通称は貢で真邦は諱、真国とも書く。池有亭、または内膳と号し、画名には梅下山人の号もある。父子二代栗田土満の門に入って国学和歌を学んだ。のちに伊勢松阪に行き、本居宣長の子春庭に従って国学和歌を研究、また本居大平にも従学した。書画を好み、画は伊勢の僧月僊に学んだ。文久2年7月23日、78歳で死去した。

板倉呂仙 いたくら・ろせん
寛政12年磐田郡掛塚港生まれ。のちに榛原郡相良の板倉家の養子となった。通称は市兵衛門。安政5年2月4日、59歳で死去した。

遠州(3)-ネット検索で出てこない画家

 


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遠江画壇における文晁・以弘の門人たち

2014-08-12 | 画人伝・遠州

文献:遠州画人伝郷土画人展-村松以弘の師、月僊と文晁 以弘の門下、半香と顕斎他-

江戸後期における遠州地方の南画は、掛川藩お抱え絵師だった村松以弘によって始まったとされる。以弘は月僊に学び、その後上京して江戸の谷文晁に学んだと伝えられる。遠江画壇に大きな影響を与えた文晁門下には、他に三宅鴨渓、村松弘道、大橋享斎、小栗文明らがいる。そして、以弘門下には、大庭松風をはじめ、福田半香、平井顕斎、釈思玄、熊谷青城、小栗松靄、武田桜園、村松弘道らが出ており、福田半香、平井顕斎は後に渡辺崋山に学び、「崋山十哲」に数えられるほどの力量を蓄え、共に多くの門人を育てた。

三宅鴨渓 みやけ・おうけい
寛政6年磐田郡見付町生まれ。名は寅、字は希唐、通称は熊五郎、別号に緑个がある。江戸に出て谷文晁の門に学び、郷里に帰って風流三昧の生活を送った。鴨渓が編纂に係った『遠江名勝図』には、文晁、武清、椿山、隆古、半香、文一、桂叢らの筆による遠江名勝の真景十数葉を実写したものがあり、最後に鴨渓の大浦図一葉がある。同書には他に、芙蓉、山塘、省亭の詩文、秋巌の書、真淵の歌二首、依平の長唄などが収録されている。画家というよりも雅人として生き、安政4年6月、64歳で死去した。

村松弘道 むらまつ・こうどう
寛政7年生まれ。小笠郡和田岡村吉岡の人。通称は孫兵衛。原谷と号した。和歌をよくし、はじめ石川依平の門に国学を学び、当時の名士と往来した。また絵画は、はじめ村松以弘に学び、のちに江戸に出て谷文晁の門に学んだ。門人に大庭峰翠がいる。文久2年10月8日、68歳で死去。

大橋享斎 おおはし・きょうさい
磐田郡井通村森本の人。名は喜久、通称は紋太郎。谷文晁の門に学んだ。

小栗文明 おぐり・ぶんめい
浜名郡豊西村恒武の人。通称は良三郎。小栗松靄の家の分家にあたる。谷文晁の門に学んだ。

釈思玄 しゃく・しげん
天明6年久努村生まれの画僧。名は智鳳。石川清衛門の三男。法多山尊永寺の第十九世智盈上人について得度し、42歳で同寺の第二十一世になった。絵画は20歳の時に村松以弘について学び、村松以弘、福田半香、平井顕斎らと画会を開いた。弘化2年死去。

小栗松靄 おぐり・しょうあい
文化11年生まれ。浜名郡豊西村の豪農・小栗仁右衛門の長男。名は徳方、字は子直、通称は武右衛門。初号は木鶏・松斎、別号に青地、晴曠堂がある。16歳の時に村松以弘に学び、のちに福田半香に学んだ。明治27年死去。

熊谷青城 くまがい・せいじょう
文政2年生まれ。磐田郡西之島村の利右衛門の長男。字は子方、別号に全安、此君楼がある。幼児より絵を好み、はじめ村松以弘に学び、後に福田半香の門人となった。明治33年11月23日死去。

武田桜園 たけだ・おうえん
文化11年掛川生まれ。真宗広楽寺の住職で、名は慶曜、晩年は墨翁と号した。絵画ははじめ村松以弘に学び、のちに福田半香の門人となり、平井顕斎や喜多武清らの画法を研究した。明治12年2月年死去。

遠州(2)-ネット検索で出てこない画家


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遠州第一の好事家・大庭松風

2014-07-31 | 画人伝・遠州

文献:遠州画人伝郷土画人展-大庭松風・村松以弘の周辺-

遠江絵画史の黎明期にすぐれた画蹟を残した国学者・内山真龍(1740~1821)の晩年頃、掛川駅を中心とした地域に画人の一団が台頭してきた。当時の掛川駅は、遠江における学芸文化の府であり、画事においても、江戸の谷文晁や京の円山応挙の影響を受けた画人たちが集い、遠江画壇における先駆的存在である村松以弘、丸尾月嶂、大久保一丘ら多くの専門画家を輩出した。この地域で画人たちが隆盛を極めた影には、自らも画人でありながら「遠州第一の好事家」と称され、裕福な財力で画人たちを側面から援助した風流人・大庭松風の存在があった。

大庭松風 おおば・しょうふう
明和4年生まれ。七太夫と称した。名は廷香、字は国馥、幼名は豊蔵、通称は代助、老年になって岱助と書いた。別号に松風亭などがある。大庭家は掛川における豪家で、松風は九代目にあたる。書画愛好の風流人として知られ、東海道を往復する雅人で、掛川を過ぎる時に大庭家に立ち寄らぬ者はなかったという。谷文晁も、門人の村松以弘が掛川だというばかりではなく、しばしば松風のもとに滞留し、盛時には文晁の百幅対があった。曲亭馬琴も著書『覇旅漫録』の中で、松風を「遠州第一の好事家」と称し、「近来名家の書画をたくわふること数百張。又よく客に待す。所蔵の書画中に、堂上方の寄合書、国学和歌者流の寄合書、儒者詩人書画工のより合書等あり。いづれも名流のみをあつめたり。古人の墨跡は猶もとめやすし。僅の扇面へ大家数十人のより合書などは、尤も志をはこぶこと厚からざれば得がたし」と記している。松風は書画を好むばかりでなく、自らも筆墨を弄して、村松以弘に学んで墨梅をよくした。また、掛川の里に石橋を十数か所架設し、出水の際にも通行に不便がないようにするなど、事業面でも地元に貢献している。弘化3年、80歳で死去した。

山田蘭陵 やまだ・らんりょう
大庭松風の弟で、初め駒蔵といい、後に周蔵と改めた。別号に鉄外がある。周智郡森町の山田七郎左衛門の養子となって、山田姓となった。兄・松風の命を受けて東西に遊び、松風の書画蒐集は、ほとんどが蘭陵の手によってなされたらしい。松風が没した時の所蔵品は千点を超えていた。

大庭月湖 おおば・げっこ
松風の同族で、松風と並んでの雅人。名は善、字は楚宝。以弘の門下で書画をよくし、書には善と署し、画には月湖と署名した。 

遠州(1)-ネット検索で出てこない画家


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