松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

水沢(2)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-24 | 画人伝・水沢

文献:水沢画人伝

三宮竹谷 さんのみや・ちっこく
慶応元年吉小路に生まれる。名は小太郎。三宮郡蔵の子。菅原竹侶に学び、宮城、秋田、山形などを遊歴した。明治17年19歳の時、内国絵事共進会に、南画の山水、花卉を出品している。明治25年から28年まで水沢町有給助役、明治34年から40年まで町会議員を務めた。画業に関しては不明な点が多く、市内に残っている作品は極めて少ない。昭和6年、堺市において66歳で死去した。

村上望山 むらかみ・ぼうざん
明治3年1月15日吉小路に生まれる。名は望子(もちこ)。留守家の家臣・佐藤竜三郎の長女。旧姓は佐藤。幼時から絵画を好み、4歳から菅原竹侶に学び、7歳の時には「香」の号と「望女七歳」の印を使っていた。9歳で仙台絵画会に臨み、上京して服部波山に師事した。明治14年に帰郷し明治天皇行幸の時行在所で「御給仕役」として出任、以後は望山と号した。明治15年、12歳の時に祖父とともに上京、滝和亭、木村香雨、服部波山らの指導を受けた。結婚後は東京に住んでいたため、水沢にはほとんど作品は残っていない。昭和14年7月20日、69歳で死去した。

佐藤耕方 さとう・こうほう
明治21年旧水沢町に生まれる。名は藤太郎。文化年間から繁栄した太物商の五代目当主として生まれたが、母ハツは耕方出生直後に19歳で死去し、一関から来た父の初は実家に戻り、戸籍上では祖父弥一、祖父ミノの子となっている。小学校在学中に祖父が死去し、卒業後は呉服修業のため上京、奉公先の子どもの子守をしながら、近所に住んでいた水野年方の家の庭先で年方が絵を描くのを見るのが日課となり、その熱心さをかわれて年方の直弟子となった。明治37年祖父が死去したため帰郷して家業を継ぐが、水沢と東京間を往復して画業に励んだ。明治41年年方が死去したため、大正2年妻子を残して単身で上京、尾形月耕に師事した。この時、両師匠の雅号の一字を許されて「耕方」と号した。大正5年家業を分家に任せて一家で上京、本格的に画業に取り組むが、大正7年二男耕也、長女よし子、妻りんらをスペイン風邪で次々に亡くし、大正9年には月耕が死去、大正10年には自身の病のため帰郷するが、12年には再度上京して日暮里方面に画友と住んで画業に励むが、昭和2年病が再発して帰郷した。並々ならぬ画業への意欲を見せるなか、幾多の苦難を経るうちに酒におぼれ、この地方では「酒のみ、屋台つぶしの画人耕方」として、陽の目をみずにいた薄幸の画人として伝わっている。昭和12年5月28日、49歳で死去した。

水沢(2)-ネット検索で出てこない画家


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水沢(1)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-21 | 画人伝・水沢

文献:水沢画人伝

小沢晁洲 おざわ・ちょうしゅう
文化8年生まれ。名は泰助。祖先は小沢嘉右衛門。若い頃から谷文晁に学び、文政11年の17歳の時には、上院で「韓国遣使を脾☆する図」(☆は「月」+「皃」)の歴史人物画を描き奉納した。以後弘化・嘉永年間を経て、死去するまでの49年間、旧塩釜村に住み、山水、花鳥、人物などの絵画を描き残している。『水沢町誌』や『仙台人名大辞書』などには、「特に山水を良くし、最も富士を描くに妙を得た」と記載されている。明治10年、66歳で死去した。

砂金文洲 さがね・ぶんしゅう
文政元年生まれ。名は銕之助、別号九仙。砂金嘉門次郎の子。慶長年間に川原小路東南に住んでいた。四条派の東東洋、東莱らに学んだとされる。文洲の義孫にあたる砂金青章の文洲評によると「文洲は四条・狩野・土佐などの諸派の画法を研鑽し消化している。画法は、これら諸流派の特長を適宜組み入れ、山水・花鳥・動物・人物画とあらゆる分野で豪放と繊細を縦横に使い分けながら、真実味豊かな作品を描き、特に大和絵にはその傾向を強く表わしている画人である。同期の画友菅原竹侶や小沢晁洲の画法とは異なる独自のものがあり、その代表作は《鐘馗剣磨之図》である」とある。明治初期に近親の砂金佐太郎が北海道に渡ったので、その後を慕って渡道し、各地を遍歴中に小樽付近で明治4年、53歳で死去した。文洲亡きあと、菅原竹侶の二男竹香があとを継いで新小路に住み画業を続け、その子青章も画人となった。

小沢丹田 おざわ・たんでん
弘化2年生まれ・名は守真、別号は翆石、翆月。小沢晁洲の子。絵事を志して各地を遊歴し、東京では河鍋暁斎に学んだ。暁斎の影響か水沢地方に残っている作品は、水沢地方の諸生活を軽妙な筆さばきで描いたものが多く、近世末期から明治初期までの風俗史を知る上でも貴重な資料となっている。明治15年と17年の内国絵事共進会には《豫護図》《児島高徳図》《人物》などを出品している。明治22年の水沢町制発足時には初代議長となっており、また第五区長として町政に参与している。大正6年、青森市において72歳で死去した。

菅原嘯雲 すがわら・しょううん
嘉永6年11月2日生まれ。名は好策。菅原竹侶の長男。大畑小路に住んでいた。父を継ぎ絵事に励んだが、生涯について不明な点が多い。水沢市立図書館蔵の《村景君御上江御行列の巻》には、父竹侶が墨絵を、子嘯雲が彩色を担当したと記録がある。明治15年と17年には内国共進会に山水、花卉の絵を出品しているが、病弱だったらしく後年の作品は少ない。明治37年、51歳で死去した。

水沢(1)-ネット検索で出てこない画家


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