松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

秋田(15)-ネット検索で出てこない画家

2014-06-06 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

昭和期の画家(2)
牧野昌広
明治16年本荘市中横町生まれ。本名は昌造、雪僊の孫。18歳で上京し、小林清親に学び、のちに郷土の先輩・寺崎広業に師事した。身体が弱く、十分に実力を発揮できなかった。昭和14年東京で死去。

伊藤春興
明治27年横手市生まれ。本名は粂之助。少年時代に近所に住んでいた柴田棋渓に手ほどきを受けた。師の棋渓は京都の幸野楳嶺の門人で幅広い知識を持っていたため、春興も修業中に古今の絵画知識を広めることができたようで、いろいろな流儀の絵を描いたが、特に四条派の山水、花鳥、人物を得意とした。絵のほかに音楽、書道を趣味とし、横手で書道研究会を開いていた。昭和16年5月死去。

荘司半仙
明治3年7月3日由利町町村生まれ。荘司義敦の長男。代々神職だった。絵は牧野雪僊に学んだ。明治24年から43年まで小学校教師。昭和19年4月14日、74歳で死去した。

鈴木大祥
明治16年北秋田郡森吉町阿仁前田の名家・佐藤家に生まれ、神官の鈴木家の養子になった。大館中学を卒業後に上京して洋画を学び、帰郷後は森吉神社に奉仕した。その合間に地元の庄司穂軒に日本画を学び、のちの再び上京して小室翠雲に師事した。昭和19年11月11日死去。

柴田松谷
明治23年横手市上田中生まれ。南谷の孫、楳渓の子。京都美術学校、次いで京都絵画専門学校に入学し、森本東閣や木島桜谷に四条派を学んだ。この時期に竹内栖鳳、山元春挙、菊池芳文らにも教えを受けた。京都から帰って一時横手高女の絵画教師をしていたが、こんどは東京に出て、川合玉堂について学んだ。昭和20年死去。

矢野文川
明治9年生まれ。本名は健蔵。佐竹北家の士族操八郎の長男。角館小、刈和野小を経て、明治34年からは中仙町長野小校長を務めた。42年長男の大学進学のため横浜に転居、近郊の小学校教師となる。近くに南画家の征田文圃がいたので絵を習い、師に一字を譲り受けて雅号とした。昭和21年10月21日死去。

藤林豊稔
明治31年西仙北町刈和野字刈和野生まれ。本名は豊治郎。兄の柴関も日本画家。青年時代に上京し川端画学校日本画科に学び、帝展に《松》を出品した。昭和24年死去。

藤林柴関
明治28年生まれ。本名は喜一郎。豊稔の兄。平福百穂の白田舎に学び、光風会や院展に出品した。その後中央と秋田を行き来していたが、昭和35年大宮市で死去。

伊坂天坊
明治12年横手市新町生まれ。本名は新之助。別号に旭江、胡山がある。はじめ横手の木町の樋渡漆屋に奉公し、まき絵職人になった。まき絵の下絵を習っているうちに絵に興味を持ち、志を立てて上京、寺崎広業の門に入った。その後、台湾にわたり逓信省郵務官という肩書きで30年いて、東京に戻り久我山に住んだ。被災後は秋田県内を放浪、晩年には、肩からいくつもの布袋をさげ、洗面器から嗜好品までそれに入れ、自製の特大ウチワで懐に風を入れながら、夏の道を旅した。請われると軽妙に筆を走らせ、山水や人物を描いたという。昭和27年死去。

信田邦彦
明治18年昭和町大久保の円福寺に生まれた。本名は鉄治。玉常智仙の三男。大久保小を出ると、父の勧めで会津柳津の円蔵寺や京都妙心寺で修業した。花園中学を卒業すると、一転して京都絵画専門学校に入り、竹内栖鳳に手ほどきを受けた。同窓に土田麦僊や石崎光瑤がいる。卒業すると新進画家として注目されたが、兄の死などのため大正9年に帰郷、智詰和尚と称して千軒近い檀家をかかえた。絵は四条派で、禅画を得意とした。本来は信太の姓だが、京都から秋田に帰るとき役場の手違いで信田となり、そのまま信田とした。昭和34年死去。

秋田(15)-ネット検索で出てこない画家


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秋田(14)-ネット検索で出てこない画家

2014-06-02 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

昭和期の画家(1)
皆川東僊
明治10年秋田市手形生まれ。栢山は祖父。足が悪く、9歳の時に両耳が聞こえなくなった。20歳で小室怡々斎に入門、さらに京都の久保田米僊にも数年学んだ。京都から帰ると秋田市柳町鉄砲小路の寺に住み、気が向くと絵を売りながらの旅に出た。昭和の初めに東京に出て、それから大陸に渡り消息を絶った。

柴田馬嶺
嘉永3年雄勝郡羽後町西馬音内本町の柴田家に生まれた。本名は政治。幼い頃に父久助が亡くなったため祖父黒沢八郎兵衛の家で育った。黒沢家は古い染め物屋で、代々絵を得意とし、馬嶺も八郎兵衛の手ほどきを受けた。明治7年馬嶺は町内の柴田弥惣兵衛の長女イチの婿になり「一染」と号した。婿入り先の分家柴田与之助宅には寺崎広業が永住まいしており、広業の東京天籟画塾にも2、3度訪れ修業を積んでいる。師の広業は年長の馬嶺を「馬嶺先生」と呼んでいたという。作品には仏画神像が多い。昭和3年死去。

三浦雪堂
明治4年5月20日由利郡由利町東滝沢の前郷生まれ。本名は六三郎。別号に宋眠、鳥海、俳号に瓢六がある。儀兵衛の五男。兄に東耕、次兄に田村義雄がいる。幼い頃から画才があり、明治21年上京し、呉春派の村瀬玉田に入門した。大正11年の第1回県出身書画作品展に《芦雁》を出品している。菩提寺の慶祥寺に代表作《武帝と達磨問答図》が残っている。昭和3年10月6日死去。

荒岩松庭
弘化4年5月3日比内町大葛生まれ。本名は常吉。大館市谷地町に住んでいたが、大方比内町扇田、独鈷、大葛など転々とめぐり歩いた。扇田の寿仙寺の玄関の天井に《雲龍図》が、個人宅に屏風や襖絵などが残っている。昭和3年12月5日、82歳で死去した。

北村愛竹
明治9年12月23日大館市良風院前生まれ。名は周助。藤助の長男。称置石月を慕い函館で修業後、菅原白竜に学んだ。京都の南画協会に出品した。昭和5年5月1日、都下の大島村で55歳で死去した。

淡路釆草
明治31年山本郡藤里町藤琴字大沢生まれ。本名は浅之助。別号に紫水がある。農業の多助の三男。大正6年上京し大滝雨山について絵を学び、9年には平福百穂の白田舎でさらに研鑽を積んだ。11年の中央美術展で《家鴨の子》が入選した。作品は花鳥が主だが、帝展のために描いた最後の絵《野ぶどうと猿》が残っている。昭和6年12月21日死去。

滑川穫堂
明治14年10月11日湯沢市下町生まれ。本名は道太郎。滑川家は佐竹武士で「槍の滑川」として代々槍術で名高かった。穫堂は県内の小学校の教員を勤め、湯沢高女の校長となった。晩年に広島晃甫と知り合い、旧来の派と異なった新鮮な花鳥画を描いた。昭和7年4月13日死去。

東海林恒吉
明治34年雄勝郡稲川町三梨生まれ。川連小、湯沢女子小、師範付小に勤め、大正14年上京して小石川区駕篭小に勤務した。帝展に《坂のある風景》で初入選、昭和13年頃に秋田美術会(在京美術会)の世話役をしていた。昭和12年2月3日、37歳で死去した。

栗林東一郎
明治39年秋田市保戸野八丁新町生まれ。昭和5年に東京美術学校を卒業、四国の今治高女教諭を経て、昭和8年に秋田市に帰り秋田高女に勤めた。水彩画を得意とし、日本水彩画会に所属していた。昭和15年、34歳で死去した。

秋田(14)-ネット検索で出てこない画家


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秋田(13)-ネット検索で出てこない画家

2014-05-29 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

大正期の画家
加藤和英
由利町蟹沢の直三郎家の出。本名は半造。同郷の田村義雄と腕をきそい、屏風や襖絵が多く描いている。本荘市石沢の大蔵寺格天井、鳥田目の保食神社の格天井の絵は「和英画」としてある。

辻翠蘭女
天保12年1月10日生まれ。名はトヨ。秋田市本町の石川正助の三女。安政5年に秋田市旭南の辻久左衛門の養女となった。南画家で花鳥を得意とした。《梅に鶯》が大阪博覧会で二等賞になった。大正元年12月20日死去。

藤井無為
天保2年生まれ。横手市円浄寺の十五代住職。名は義定。小柄で竹を前に筆を持つ時は、まるで宙にはね返るように機敏に体を動かしながら描いたという。大正3年死去。

武田栄学
天保6年生まれ。秋田藩士。本名は信好、武田永球の子孫。父祐川も画家。大正5年死去。

下村英斎
安政2年12月9日生まれ。秋田市室町の狩野派の画家。藩士・弥兵衛の長男。名は晴長、通称は彦三、別号に白峰がある。渡辺洞昌に師事した。大正5年12月23日、62歳で死去した。

日野竹塘
天保14年生まれ。画僧。師は畠山竹塢。秋田市寺町の西勝寺に関係があったらしい。大正5年8月、74歳で死去した。数代前の日野公道は天明の頃の人で、大猷院と称し、西勝寺住職で画人でもあった。

小泉芦舟
明治20年4月20日生まれ。本名は政吉。小坂町尾樽部の小泉喜代治の四男。大館中学校在学中から絵画に頭角を現し、剣道にも秀でていた。明治40年4月、東京美術学校日本画予備科に入学、荒木寛畝の教室に入った。同期には永田春水、篠田十一郎、山下築水、後に詩人として活躍する川路柳虹らがいた。大正2年3月、美校を卒業後同年渡米する。一年余りの大正3年第一次大戦が始まり、病にもおかされたことから帰国を決意、大正8年3月25日、便船を待つ間に近くのオークランド市の公園を散歩していて発作を起こし死去した。

伊藤容真
慶応2年山本郡山本町森岳生まれ。本名は文助。農業の源四郎の二男。家からは漢方医が多く出ていたので本人も医師を志望して20歳の時に上京するが、まもなく医師の志を捨てて画業にいそしむ。歴史画を得意とした。明治28、9年頃一時故郷に帰り、秋田市米町や牛島橋通りに住んでいたが、5年ほどして再び上京し浅草北松山町に住んだ。大正10年死去。

田村松翠
嘉永6年11月14日生まれ。本名は義雄、別号に智山がある。由利町前郷馬喰町の儀兵衛の二男。兄に東耕、弟に雪堂がいる。漢方医と産科を学んでそれを職とした。仏典、書、画を慶祥寺三十二世顕道に習った。作品に白鳥社の書額、地蔵堂の《天女図》、前郷熊野社の格天井絵、森子大物忌社の《西王母・菊童子図》がある。大正11年5月14日死去。

千葉文清
嘉永5年大曲市花館中町生まれ。本名は常蔵。生家は代々「伝左衛門」の家号で知られた名家。画才に恵まれ、20歳を超すと画家の志をたてて上京し神田小川町に住み日本画を描き、その傍ら印刻店を営んだ。戸に描いた代表作《花図》がある。大正12年9月1日死去。

藤原秀楊
明治31年仙北郡角館町雲沢の雲然宇田中生まれ。本名は良助、初号は馨園。藤原雄松の三男。祖父源十郎も雲竜斎と号して絵を描いた。大正4年10月上京して美術学校に入るが中退して、池上秀畝の画塾に通い、師の一字をもらい雅号を馨園から秀楊に改めた。大正7年12月から9年11月まで秋田部隊にいて、10年末に再び上京して修業に励むが、大正13年、心臓マヒのため26歳で死去した。

佐野紅洋
天保3年1月29日雄物川町里見字砂子田の名門佐野家に生まれた。本名は市太郎。隣家の漢方医に絵を習い、南画を描いた。ほかに茶の湯、いけ花なども嗜んだ。大正14年4月16日死去。

工藤龍橋
明治10年7月秋田市生まれ。名は祐興。叔父の石川道之助に狩野派の画法を習い、後に日本美術学院で学んだ。帝国絵画協会会員。

小川歓斎
天保9年生まれ。名は金也、初号は文雅。秋田市川反に住み後に土崎に転居した。歓喜寺に安藤和風賛の桜の図が残っている。大正15年12月18日、89歳で死去した。

川口南天
明治7年5月1日大館市生まれ。名は茂、別号に一竿がある。南北合派が独習し、山水を得意とした。帝国絵画協会会員。

秋田(13)-ネット検索で出てこない画家


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秋田(12)-ネット検索で出てこない画家

2014-05-27 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

明治期の画家(4)
真崎半顛
秋田の画家。名は一郎。父は清之進。白竜の門人。明治32年7月15日、37歳で死去した。

岡見渓斎
明治3年生まれ。秋田市楢山の日本画家。本名は仲、岡見知康の子孫。小室怡々斎に師事。達磨と馬を得意とした。男鹿市戸賀の風景を好み、明治37年5月7日この地で死去した。

戸沢雪庵
天保13年仙北郡中仙町長野生まれ。本名は盛得、字は三亥。明治21年に横手在郷の柳田や大屋が合併して栄村になった時、翌年7月学の深さと知識の広さがかわれ村長に迎えられた。9年在任して明治30年に退任、横手市栄地区の基礎づくりに尽力し名村長とうたわれた。文人趣味の絵をよくし、代表作に《布袋》《鐘馗》などがある。明治38年死去。

和田翼亭
天保5年生まれ。通称は監物。高橋璞斎・那珂淇水に師事した。明治38年死去。

石井楽水
秋田市築地の画家。津村洞養に師事した。

田中素調
画家・俳人。津村洞養に師事した。

田中凌雪斎
秋田市築地の画家。津村洞養に師事した。

熊谷雪山
明治18年5月28日生まれ。本名は善松。由利町森子の円兵衛の三男。地元の三浦雪堂に師事、一字をもらい号とした。人物画が得意で、高砂、大黒、布袋、七福神など地域人に喜ばれるものを多く描き、地域集会場に《漁樵問答》が残っている。その隣地に草庵を建て住んでいた。昭和38年4月10日、79歳で死去した。

渋谷松香
長く大曲市に住んでいた。本名は渋谷松蔵。安政・嘉永の世情騒然としていた幕末に、ひょっこり大曲に現われて得意の絵筆を振るい人気を集めたという。明治22、3年頃に大曲を去って秋田市に移住し、その後の消息は不明といわれる。大曲では渋谷染め物店に宿り、「染めアンコ」または「松アンコ」という愛称で呼ばれていた。作品は大曲諏訪神社に《綱引き図》《大曲年中絵巻物》などが残っている。江戸の浮世絵を学んだことがあるらしく、美人画も多い。押絵、屏風絵、巻き物絵、幕など求められるままに描いた。

松岡白石
明治3年10月生まれ。角間川町大浦の士族。通称は剛造、諱は常綱、別号として雲舟、寒翠処がある。落合東堤に習い、横手の和知塾にも学んだ。12歳の頃に地獄図を描くほどに画才があり、たまたま大曲に来ていた芳泉蘭堂に認められ、明治27年頃に東京の菅原白竜に師事し「白石」の雅号をもらった。その後、京都の富岡鉄斎や鈴木松年に学び、明治39年、信州、上州、越後を通って故郷に戻った。京都時代に酒を飲むようになり、故郷では酒に酔い、制作欲にかられなければ筆をとらなかったことから「酒仙の風格」と噂された。明治43年12月死去。

秋田(12)-ネット検索で出てこない画家


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秋田(11)-ネット検索で出てこない画家

2014-05-22 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

明治期の画家(3)
国安竹陵
文政11年11月秋田市生まれ。名は庫治、光徳。俳号は梅の屋。宮沢水寮に師事。明治23年秋田に伝神画会を起こした一人で、幹事となり美術の振興を図った。明治16年6月17日、56歳で死去した。

江☆晩香(☆は「巾」+「者」)
文化2年4月10日大館市裏町生まれ。名は通寛、通称は味右衛門、字は子厚。父は通貞。書を晁子風に学び、万芸に秀でていたといわれる。明治14年9月5日死去。

渡辺暁山
文政6年7月23日生まれ。秋田藩士。本名は成美、通称は藤治。父は渡辺秀、母は押田氏の出。藩校明徳館の書記、地方調べ役など役人生活を続け、県の副参事も勤めた。晩年は秋田市楢山追回町に住み、自適の生活を送り、山水の画をよくした。明治21年12月5日、66歳で死去した。

近松栄和
文政4年生まれ。本名は遠藤昌益。字は立敬、別号に雪翁、得宜園がある。父は永昌。湯沢城代の佐竹南家のお抱え絵師的存在だった。幼君佐竹義誠の時代、重臣山方家と原田家の間で争いが絶えず「湯沢の伊達騒動」といわれたが、近松はこの争いの中にあって原田家批判の立場をとり、原田の家紋をつけた武士を描いてその上に「世の中は女ですわる娑婆の二字」と地口を書いて風刺した。これが筆渦となり江戸に逃れた。のちに帰郷して矢島領城内に身を寄せ、近松姓を名乗った。この筆渦事件の時の絵は湯沢市の個人宅に残っている。他にも個人蔵《馬頭観音》《がま仙人》など作品は多く残っており、秋田市川反「いくよ」には大作の屏風がある。明治22年、北海道で69歳で死去した。

渡辺雲嶺
明治期の湯沢市の画家。近松栄和の門人。

庄司香渓
天保2年10月生まれ。名は清梧、初号は鳳斎、晩年になり香渓と号した。北秋田郡森吉町阿仁前田の一素封家として知られる庄司家八代で、19歳で庄司家を相続した。香渓29歳の時、久保田明徳館の漢学者・森田岑の紹介で、平福穂庵が前田にやってきた。穂庵16歳の頃で、この時に描いた惣内の滝の絵が庄司家に残っている。香渓は絵画のほか、漢詩、俳句もよくし、小鳥の愛好家としても多くのエピソードを残している。明治25年4月18日死去。

佐藤幽美
明治3年8月14日生まれ。本名は勇美。小学校を出たあと上京し平福穂庵に師事するが、病弱のため続かず、帰郷して二十代で死去した。

仏国
文政12年新潟県中蒲原郡横越村字江ノ口生まれ。由利郡象潟町蚶満寺の三十六世。仏国道益大和尚。絵は蘭と達磨を得意とした。明治28年10月死去。

武田泉斎
通称は親親房。明治30年頃死去。

払川芥圃
秋田市保戸野の画家。名は易蔵。沢畑松嶺に師事した。明治30年死去。

秋田(11)-ネット検索で出てこない画家


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秋田(10)-ネット検索で出てこない画家

2014-05-20 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

明治期の画家(2)
日野雅亮
秋田市西勝寺の僧。茶と画をよくした。

古尾谷竹村
秋田市鷹匠町の画家。

堀井竹堂
秋田市八丁の画家。名は和兵衛。

皆川雨邨
秋田市楢山の狩野派の画家。名は清四郎。

宮沢水寮
秋田市楢山表徒士町の画家。名は茂、通称は運蔵。菊池容斎の門人。

武藤玄海
六郷町の南画家。

沢畑松嶺
秋田市手形の画家。はじめ高橋璞斎に学び、後に佐藤☆斎(☆は「たけかんむり」に「均」)に学んだ。

竹村四勿軒
文化12年生まれ。角館町の小人町の画家。佐竹北家組下の武士。諱は宗政、字は以徳、幼名は政太郎、平七郎、仲、別号に如向、北海、徳山、柳塘、梅竹陳人がある。篁邨の祖父。明治元年7月26日、54歳で死去した。

畠山竹塢
享和3年生まれ。秋田藩士。本名は敬蔵、恭蔵、名は成美、別号に仁渓魚叟がある。増田九木の門人。弟子に秋田市新屋の僧日野竹塢、和田翼亭がいる。

佐々木雪洞
文化8年仙北郡西仙北町土川の小杉山字杉沢生まれ。本名は栄蔵。佐々木正右衛門の長男。早くに母を亡くし、継母が入ったが10歳の頃に出奔、放浪のあげく福島に辿り着き、東白川郡常豊村常世字中野の荒川小左衛門の家を継ぎ、長じて寺子屋を建て多くの子弟を育てた。学の号は九渕。60歳頃にいちど生家に帰ってきたが、実家が傾いていたので、おおいに絵を描いて家の復興に尽くしたという。「雪洞のタカ」と称されるほど鷹の絵を得意とした。明治12年死去。

川村淇泉女
那珂淇水弟の娘。はじめ観斎に師事した。

大坂東岳
天保13年頃に生まれた。西仙北町刈和野の大坂甚兵衛の二男。通称は新吉、甚兵衛、別号に五松庵、酔月堂、一雅などがある。中仙町長野の漢方医・菅原玄流の長女ミツと結婚し、菅原文嶺と名乗ったこともあり、この名のほうが通りがいいかもしれない。角館の武村文海に師事し、同門の平福穂庵より画才があると認められ、師の文海から「文嶺」を与えられ、穂庵は山より低い意味の「池」と付けた「文池」の雅号となったといわれている。万延元年12月、穂庵は修業のため京に上り、その頃東岳も江戸に出かけたがほどなく帰郷し、横手市の柴田南谷に入門した。京で弟弟子の穂庵が人気を集めだすと、東岳はあせりだし、毎日酒を飲んでは人と口論し、従来の絵画のあり方を批判し抵抗した。この頃に雅号を「文嶺」から「東岳」に変えて心機一転を試み、文海ゆずりの四条派から変形的な作風へと変わっていくが、精神に異常をきたし行方不明となり、明治15年、峰吉川で遺体で発見された。

秋田(10)-ネット検索で出てこない画家


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秋田(9)-ネット検索で出てこない画家

2014-05-15 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

明治期の画家(1)
浅香旭元
幕末から明治期の本荘市の画家。画と鉄筆を得意とした。父は象洲。

浅香象洲
明和4年生まれ。名は泰常、字は子久。詩書をよしくた。天保10年7月25日死去。

伊藤如竜
明治期の湯沢市の画家。

石田藍山
明治期の秋田の画家。南宗画をよくした。

岡村東皐
万延元年生まれ。秋田藩の武士。本名は元良、字は子慎。山水と得意とした。能筆家であり県内小学校の書き方手本を手掛けた。

川尻岱雲
明治初期の秋田市の画家。

玄牛
男鹿市飯森生まれ。秋田城外西来院六世。書画をよしく、海老の絵を得意とした。

佐藤雪門斎
明治期の秋田市の画家。

荒川月江
文久3年生まれ。大曲市角間川の人。名は保真、通称は栄七。荒川格堂(新右衛門保矩)の嗣に入り、新右衛門を襲名した。象潟に別邸を設け、風流な生活を送り、書画、漢詩をよくした。遺稿に『月江詩抄』がある。大正12年8月12日、61歳で死去した。

六平寿栄
明治期の仁賀保町院内の日本画家。本姓は池田。増田九木に師事。菩提陽山寺本堂欄間に大女を描いた。また《竹梅図》(明治元年作)も同寺に残っている。

妹尾黄鶴
明治期の秋田市の画家。

中田湖山
明治期の南秋田郡若美町潟西字福米沢の画家。小室怡々斎に師事した。

西宮四壁
横手市の画家。名は正興、通称は円右衛門。別号に羽横がある。

秋田(9)-ネット検索で出てこない画家


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秋田(8)-ネット検索で出てこない画家

2014-05-14 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

江戸後期の画家(4)
吉沢撫松
秋田藩士。通称は助左衛門。地理に詳しい。牛の絵をよく描いた。

高橋琢斎
文化6年生まれ。秋田の画家。南北派。名は盛勤、通称は弥右衛門、別号に対青楼がある。晁山の父。高橋璞斎の門人。慶応2年8月29日、58歳で死去した。

長瀬直福
寛政8年9月11日生まれ。字は子寿、通称は平右衛門、幼名は直貞、鶴吉と称した。別号に鹿山、竜湖がある。慶応3年8月12日死去。

佐藤☆斎(☆は「たけかんむり」に「均」以下同様)
旧藩時代の警官であり画家。字は敬美、通称は恭助、泰助、忠之助などと称した。別号に画学堂、鳥峰がある。谷文晁派の依田竹谷の弟子で、同じ竹谷門下に、久保田手形の藩士である那河淇水がいる。門人に高橋啄斎、栗林竹友、片岡篁斎、小川歓斎、沢畑松嶺、翠英女、那河淇水、筑和文嶺、斎藤克斎、田村笈斎らがいる。慶応元年死去。

翠英女
秋田市大町太田良兵衛の長女、名はモト。佐竹義睦夫人諒鏡院の女中を勤めた。佐藤☆斎に師事。慶応6年19歳で死去した。

栗林竹友
幕末から明治期の秋田市川口裏町の画家。佐藤☆斎に師事。

佐藤香雲
幕末の秋田市の画家。名は虎之助。佐藤☆斎に師事。

田中笈斎
幕末の秋田市赤沼の画家。佐藤☆斎に師事。子に田村千里がいる。

高橋旭香
幕末から明治期の秋田市の画家。佐藤☆斎に師事。子に田村千里がいる。

筑和文嶺
明治期の画家。佐藤☆斎に師事。山田幹の父。

渡辺駒岳
幕末から明治期の秋田市の画家。名は駒蔵。佐藤☆斎に師事。

秋田(8)-ネット検索で出てこない画家


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秋田(7)-ネット検索で出てこない画家

2014-05-12 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

江戸後期の画家(3)
宇都宮康甫
秋田藩の重臣で絵もよく描いた。鶴山(孟綱)の四男。通称は敬吉。

遠藤玉瑩
文化4年仙北郡角館町生まれ。名は正以、通称は金次郎。橋本惣兵衛の子で、横手古川町の遠藤家に養子入りした。山県三郎兵衛組下の足軽の小頭で、絵は横手本町の書歌に通じた西宮四壁(正興)に習った。得意は花鳥人物で最もよくタカを描いた「横手鷹」の一人。
門下に松岡玉峰がいる。国谷松斎句賛の「聞きなれてきかぬ日淋し閑古鳥」入りの作品が横手市に残っている。

加藤澗斎
文晁派の幕末の画家。由利郡象潟町小砂川の加藤半左衛門家に生まれた。増田九木、岸駒に師事したとみられる。『象潟町史』には岸駒の夫人と親しくなり、同輩のねたみによって告げられ破門にあい、故郷に逃げ帰り、九木を師としたとある。タカを得意とした。小砂川清水屋旅館に《松鷹図》が残っている。

水琴女史
井伊大老要撃事件の時に、多くの水戸浪士が秋田に逃れて来たが、女史もその亡命者の一人で姓氏は不明。妙齢にして見識高く、書画ともに堪能といわれた。路に病み、平鹿郡の医師・原順庵(平蔵の父)に助けられ、数カ月寄宿、また沼館義光院にもいた。竹や四君子、小雀を得意とした。

狸源兵衛
大曲市花館の画家。畸人と伝えられる。安藤和風著『秋田人名辞典』には「平鹿郡吉田(平鹿町)の人」とある。

竹村節斎
角館町の人。通称は平助。別号に湖南がある。

戸村旭峰
横手城代の人。諱は義辰。義通の子。

寺崎広意
秋田藩士。通称は藤九郎。祖父は広方、子が広長。

中山月樵
嘉永元年生まれ。秋田市の人。通称は甚五郎。播州の柴田雪樵に学んだ。

根本周興
秋田市の人。通称は松之助。芙蓉の絵を得意とした。

茂木知矩
秋田藩士。歌、絵画をよくした。

秋田(7)-ネット検索で出てこない画家


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秋田(6)-ネット検索で出てこない画家

2014-05-09 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

江戸後期の画家(2)
三浦文渓
鹿角の画家。名は富作。文嶺に学んだ。

佐竹南岳
嘉永2年4月10日生まれ。湯沢十三世の城代。諱は義誠、幼名は新発意、三郎、淡路と称した。父は義孟、子に義隣、孫に義雄がいる。慶応4年1月26日死去。

根田秀儁
寛政6年生まれ。佐竹武士で担当は久保田城内の刀番。名は俊安、通称は冲之助、別号に聴松軒がある。狩野秀水の門人。八幡秋田神社に額がある。また、寺町誓願寺の天井に竜の図、久保田城中から同寺に移した阿弥陀堂に佐竹義厚筆の歌仙絵を描いている。嘉永3年2月24日、69歳で死去した。

高橋卦斎
寛政8年生まれ。佐竹武士だが横手城代戸村十太夫配下で、久保田の横手屋敷に住んでいた。本名は茂親、通称は藤吉、別号に載陽軒、松涛庵、雲客居士、五英(俳号)がある。多くは残っていないが、《蝦蟇仙人》などの作品がある。嘉永5年死去。

菅谷秀谷
寛政9年生まれ。秋田藩。名は君恒、通称は銀治、別号に松声斎、大平庵がある。狩野秀水の門人。安政元年、58歳で死去した。

滑川竹斎
天明7年8月5日生まれ。秋田藩士。漢学者で画家。初名は通約、通称は駒之助または長蔵、諱は通惇、字は子篤、別号に緑蔭、頑翁がある。角館の常世翠巒の門下。安政3年1月24日死去。

片岡篁斎
佐竹武士。秋田市上中島に住んでいた。本名は春輝、字は元寿、初号は功斎。武士だったが画才があったため、文晁門の依田竹谷につき学び、帰郷後は多くの画家を育てた。 作品は《虎》《武者》が残っている。安政4年3月21日死去。

浄阿坊
天明2年遠州浜松生まれ。本名は政継。別号に水滸山人、宗宝、一葉山人、小泉正統、月廼舎、顕徳などがある。父は浜松城主井上氏の家老だったが、洋式兵術を採り入れたため幕府の怒りをかい城主とともに退隠を命じられた。洋式兵術に熱心だった浄阿も追放になり諸国行脚の旅に出て、幕末の弘化4年末頃、仙北郡西木村西明寺に入った。村の阿弥陀堂に仮住まいし、付近の青年を集めて、国学、絵画、囲碁将棋、天文地理、兵学、気合い術を教えたという。安政4年に北秋田郡阿仁町大阿仁字幸屋渡に移り、同年5月、77歳で死去した。40年余りの放浪の旅の中で100冊余りの著書を残し、絵は「タカ」「鐘馗」「雲竜」を得意とした。浄阿の別号である水滸山人の印を押した雲竜図を持っていると火難よけによいといわれた。

伊藤鶴嶺
幕末の湯沢市の画家、家相学もした。通称は仁兵衛、儀兵衛または儀平。阿部鶴峰に師事した。

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秋田(5)-ネット検索で出てこない画家

2014-05-07 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

江戸後期の画家(1)
菊地南山
秋田藩。名は武博、通称は良右衛門。別号に煙霞釣客、画仏、自適庵などがある。詩、山水画、歌をよくした。天保6年、50歳で死去した。

義産
安永4年10月19日生まれ。湯沢市の僧。湯沢の渡部広軒の弟。父は広光。地元の小川鴎亭に学び、清源寺や宇治興聖寺などで修行。そのあと生保内東源寺、湯沢山田最禅寺の二十一世住職となり、文化9年には四十二世天徳寺住職となった。佐竹義和時代の旱魃の時に雨乞いの祈祷をして雨を降らせたエピソードがあり、義産の描いた《雨乞図》も残っている。天保9年1月3日死去。

猿田柏丘
享和元年4月2日生まれ。通称は銀平、諱は光邦、字は叔明。菊地長貞の二男、母は岩堀氏で、猿田光康の娘と結婚し婿養子となった。山水を得意とした。天保10年3月25日死去。門人の吉川升、大友道文、小室秀満、石川広定、小室秀治らが、天保11年7月、奥山君鳳撰文、友人西宮奎斎書の墓碑を万福寺に建てた。

穆浄
大曲市金剛院。書画、和歌をよしくた。宗風の哀弊を欺き、苦心して鳥海山、湯殿山、月山、羽黒山に48回も登り、国家安穏五穀豊穣を祈った。京や江戸の諸名家と風雅の交をなした。

河原田兎毛
角館の人。《平田篤胤像》が残っている。「平田篤胤翁の肖像を書きしものの内、兎毛の描きしもの最も真なりと云う」と伝わっている。

小倉秋翠
秋田藩京屋敷。通称は範兵衛。「天保己亥仲秋日」と書いた絵が残っている。

岩谷観瀾
秋田藩士。諱は宗恕、通称は新一郎、字が一貫、別号に幽斎がある。亀ノ丁新町に住んでいた。仇名をトンボといわれた。

山県吾風
天明5年生まれ。俳人。俳画をよくした。久保田手形堀反の人。通称は東一郎、諱は厚忠、別号に菊園、菊翁、子朴、子樸がある。著書は『親子咄』など。

林方斎
寛政7年8月21日生まれ。角館の人。字は道甫、通称は久平、名は隆久、別号に旭川がある。弘化3年4月19日、52歳で死去した。

介川南溟
秋田の人。通称は時也、字は通経。謙と称して竹の絵をよく描いた。

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2014-05-05 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

江戸中期の画家(3)
五十嵐蘭児
秋田生まれ。本名は栄助、もしくは善助。別号に如泉斎、周皐。寛政5年郊外八橋宝塔寺翁塚の石灯篭にも名を連ねた五明門の重鎮。画もよくした。菅江真澄『ひなの遊び』(文化6年)に2点の絵が掲載されている。文化11年6月25日死去。

那珂碧峰
寛延元年生まれ。秋田市中亀ノ丁小路の人。儒者。名は通博、字は公雅、通称は長左衛門、別号に渓山閣、絃誦堂、飽媛、鶴峰がある。俳号は左右宜斎如琴。書画をよくした。文化14年2月5日死去。

近松昌栄
秋田の画家。佐竹氏に仕えた。文政中の人。

藤田雪原斎
北秋田郡合川町下大野の八幡岱新田に生まれる。初めは岡姓だったという。名は祥元、別号に北海陳人などがある。若くして京都に上って修業し、円山四条派の絵を身につけた。円山応挙に似た作風で、一時は雪原斎のサインを消して応挙の名を書き加えて売る悪徳業者がでたほどだという。個人蔵の《樵夫》《寒山拾得》《えびす大黒》《寿老》《人物》などの作品が残っている。

滝尾文谷
秋田藩、佐竹東家臣。別号に画仙堂、雪香堂、泉石斎。文晁の門。

佐藤米河
比内町扇田の人。別号に米川。放浪の画人といわれるが足跡は不明。個人蔵の《菊》《竹》《雲龍》などの作品が残っている。

上遠野雪峰
「横手鷹」を描いた一人。名は典膳、別号を清水堂といった。横手の上根岸末丁辺に住んでいたらしい。個人蔵の粉本巻き物に匂田台嶺の一巻があり、巻末に「この本に絵を学んだ」という雪峰の一筆があることから、この画集でデッサンを学んだとみられる。人となりは不詳。

津村洞達
本名は重之、のちに由之。通称は伝兵衛、別号に印月斎、松翠がある。江戸の狩野洞淋幽達の門とされる。養子の洞仙も孫の洞養も画家。秋田市寺内の西来院寺宝となっている《涅槃図》は、五彩の糸を使って織られたつづれ織りで、洞達が下絵と色彩を担当、「秋田うね織り」の石川滝右衛門と京西陣の織工・村上円八が組んで完成させた。文政2年死去。

狩野秀東
横手の画家。妹尾氏。戸村家に仕えた。師秀水。

田代雲夢
宝暦7年10月29日生まれ。名は国綱。忠国、周助とも称し、春秋庵、金台散人、雲夢とも号した。森田顕忠の二男。秋田藩の武士で、同じ蘭画を描いた佐竹曙山(義敦)に仕えた。小田野直武、荻津独元斎勝孝といっしょに平賀源内から蘭画を学んだ「秋田派洋画」の主要人物。個人蔵の《紅毛童子図》《南蛮花器図》《岩にボタン》《円窓美人》など作品も多く残っており、岡山県邑久郡邑久町尻海の若宮八幡の堂内からも新しく《干将と莫邪》が見つかった。天保元年10月9日死去。

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秋田(3)-ネット検索で出てこない画家

2014-05-02 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

江戸中期の画家(2)
渡辺洞昌(初代~五代)
初代:渡辺益清。寛文4年生まれ。宝永5年に法橋の位を得て、正徳2年に秋田に来た。四代藩主佐竹義格の時代。元文2年死去。
二代:渡辺方慶。元文3年生まれ。名は孝都。別号に洞泉、元昌がある。江戸の洞春に師事したといわれる。寛政2年死去。
三代:渡辺方富。享保16年生まれ。名は元機、または元喜。江戸の洞春に師事したといわれる。九代藩主義和の時代。寛政9年死去。
四代:渡辺愛信。幼名は宗順、のちに愛信と改めた。小滝宗運の二男。享和のころ四代目洞昌を継いだ。法橋の位を持ち、義和時代の御用絵師をつとめた。江戸の狩野洞白の門。鐘馗を得意とした。『集古十種』の下書きや、当時の風俗レポート『羽州風俗問状答』の挿絵を狩野秀水と描いたらしい。
五代:渡辺愛恒。幕末の人。安政2年死去。

津村洞仙
文化元年生まれ。名は重信。渡辺洞昌に師事。安政3年8月、53歳で死去した。
             
菅原寅吉
秋田蘭画家。菅原北明の父。文化の頃、秋田の千家生花一七世を宗久と争って敗れ、新たに松亭流を設けた。生け花では応機斎其得と号した。蘭画の代表作に《蝦蟇仙人》(個人蔵)がある。平野政吉コレクションの伝寅吉の《牡丹》には、蘭香釣人の署名がある。

二葉膠山
名は氏向。通称は勘左衛門。文晁の門人で秋田江戸邸に住んだ。孫に小室怡々斎がいる。文化年間に54歳で死去した。

片山無知
享保20年生まれ。伊賀の人。別号に華岳。諸国に遊び、文化3年秋田に来て吉成氏に仕え、その年の9月2日、62歳で死去した。

是山
享保17年2月15日由利郡北内越村字赤田に生まれる。田口長三郎の長男。幼名は大助。2歳の時、南無阿弥陀仏を口まねし、5歳にして草刈りがまで仏像を彫って人々を驚かせたという。22歳の時に竜門寺を訪ね剃髪し是山という名を受けた。赤田五峰山の大仏を建てたのは天明6年、55歳の時で、堂塔大伽藍は寛政5年に完成した。これが今の正法山長谷寺だが、是山が建立した大仏は明治年間に焼失、今のものはその後再建したものである。文化8年7月15日死去。

荻津独元斎
延享3年生まれ。秋田蘭画家。八代藩主佐竹義敦時代の武士。名は勝孝、通称は孫太郎、八十八。兄の石橋造酒も天竺山人の号を持つ画家、子の勝益は花押研究家、孫の白銀斎は棒術と狂歌を得意とした。安永2年に鉱山視察にきた平賀源内から、小田野直武、田代雲夢らとともに洋風画を習ったとされる。代表作に《秋田風俗絵巻》《菅公像》《荻津夫妻像》《土崎湊絵巻》などがある。文化6年8月19日死去。

徹心
由利郡岩城町の竜門寺二十八世「大無」の諱。京都府の山城神応寺の東谷直伝の高弟らしい。若い頃から絵筆で持つことが好きで、よく虎を描いたので「虎和尚」と呼ばれていた。晩年、閑居してからは作画に専念し、文化10年70余歳の時に描いたダルマの図が本荘市の東林寺に保存されている。文化12年5月14日死去。

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2014-04-30 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

江戸中期の画家(1)
備前屋昌益
仙北郡六郷町の町人。大正・昭和期に入って安藤昌益や遠藤昌益と混同されるが別人。竹村吉明編『六野燭談』には「備前屋五郎右衛門。生得滑稽にして、世の機変に応じおもしろき人也。画は法橋洞昌の門人。昌益と号す。歿後四、五十年に相成可申哉」とある。延享・宝暦頃死去。

安井亘
明和6年6月15日生まれ。秋田藩士。名は本生、通称は竜之助、亘。天明4年1月14日大番に入る。妻は林七郎隆英の子。肖像画をよくし、多くの藩士の似顔絵を描いた。大館市立栗盛記念図書館に画集が収蔵されている。

森田魯舟
享保7年生まれ。名は作兵衛、字は顕忠、別号に百花園がある。秋田の俳人で、書画もよくした。天明3年8月21日死去。

雪洞山人
比内の生まれ。寛政頃三都や諸国を遍歴し、子を背負って「画を買わぬか、猫の画を描こう」と触れ歩いた。山形あたりで彼の精巧な猫の画を掛けたところ、鼠が恐れて近寄らず、養蚕家が金二歩で求めたという。

藤原憲承
秋田蘭画家の一人。経歴は不詳。秋田人としたら享保の俳人・藤原非琴との関係が考えられる。作品は、《牡丹》(平野政吉コレクション)や《円窓美人》(個人蔵)などが残っている。

北条蟠木
享保5年6月19日生まれ。秋田藩士。名は忠友、通称は重蔵、本名は幡木、別号に八十がある。俳句、書画をよくした。駒木根投李、吉川五明、佐藤晩得らを含め、安永天明期の「秋田俳家四大人」と称される。寛政元年2月4日死去。
               
大山二楽斎
正徳2年生まれ。秋田藩士で久保田の人。本名は惟清、通称は久蔵、与右衛門、別号に喜楽翁、善喜翁、不尤などがある。「天神」を得意とし、愉快でユーモラスな筆が特徴。書もよくし、大橋流の技法を持っていた。寛政4年10月14日死去。

小野岡義年
宝暦6年7月9日生まれ。秋田藩執政。源四郎、大和と称した。字は楽圃。佐竹義敦、義和に仕え、画もよくした。寛政12年12月29日死去。

岡本雄山
宝暦元年7月生まれ。秋田藩家老。名は元亮。漢詩、画、俳句もよくし、俳号は掬月斎。享和3年2月3日死去。

大越靖国
秋田の人。別号に秀岳がある。狩野秀水に師事した。

赤坂雪峰
横手の人。横手には「峰」の付く雅号の系譜がある。

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秋田(1)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-28 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

江戸前期の画家
西海杖太郎左衛門
16世紀の初め、室町時代の画家。姓は小野寺ともいう。出羽国小野の城主といい、雄勝郡雄勝町小野の人と思われる。雪舟の門下で筆力奔放と伝えられている。

狩野興信
雄勝町院内生まれ。二代目秋田藩主佐竹義隆のお抱え絵師。「秋田狩野派」の祖であった狩野定信の妻の弟。若い頃京都に絵の修業に行くが、不才を恥じて真言僧となり、不洗と号したこともある。のちに定信の養子となり狩野派を継いだ。

武田永球
元和8年生まれ。本名は安親。秋田市に独自の狩野派を築いた「武田狩野」の祖。父信親は甲州武田系の人で、山形最上郡に住み、慶長14年秋田に来て佐竹氏に仕えた。佐竹義隆に見込まれて絵師になり、延宝2年法橋の位を得た。俗に古永球と呼ばれた。延宝3年死去。

平野喜伯
本名は益信。別号に船遊斎。三代目秋田藩主佐竹義処のお抱え絵師。秋田にいたのではなく江戸に住み、佐竹の江戸屋敷にかよっていた絵画教師である。『群玉宝鑑』の挿絵を描いた。八橋の日吉八幡神社に額が残っている。

小川隆雅
十文字町新田目の出身で、横手の商人・小川甚兵衛家の養子となった。横手地方に好んで鷹を描いた「横手鷹」といわれる絵の系譜があり、その継承者。増田町満福寺に黙山賛《達磨図》が残っている。全国を流浪し、三重県で死去したらしい。

根本古柳
明暦2年4月28日生まれ。名は通猶、通称は正右衛門、別号に述情がある。秋田藩。詩歌もよくした。著書に『俗老損益解』がある。元文元年8月7日死去。
       
赤石蒲池
寛永3年9月24日生まれ。秋田藩士。本名は行保。罪を得て郊外の水口村に隠棲した。画に親しみ、諸種の著述をなした。平元梅隣に学んだ。『水口夜話』『水口雑話』『麓の塵』などの著書もある。明和元年11月2日死去。

秋田(1)-ネット検索で出てこない画家


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