松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

フォルム画廊を設立した美術評論家・福島繁太郎と香月泰男

2016-11-10 | 画人伝・山口


文献:戦後洋画と福島繁太郎、山口県の美術

福島コレクションで知られる美術評論家で画商の福島繁太郎(1895-1960)は、東京帝国大学を卒業後、パリに渡りエコール・ド・パリの画家たちと交流、彼らの作品をコレクションするとともに、ワルデマル・ジョルジュを主筆として美術雑誌「フォルム」をパリで刊行した。この間幾度も帰国し、日本の美術雑誌にも評論文を執筆、帝展や二科展に対する辛辣な批評を展開した。10年余りのパリ滞在を終えて昭和8年に帰国した福島だが、その頃にはすでに、既存の美術団体に対する体質批判から、個性ある新人を発掘することへと関心は転じていた。パリで収集家として接した画商たちのように、画家を育てながら世に出していくという生き方を選択したのである。

昭和24年、銀座にフォルム画廊を設立した福島は、開設記念展として山口県出身の香月泰男(1911-1974)の個展を開催した。香月と福島との交流は、昭和9年に香月が国画会に出品した作品を責任推薦で初入選させたことから始まり、パトロンと画家の関係とも、師弟関係ともいうべき関係を継続していた。昭和31年、香月は福島の熱心な勧めで渡欧し、カンヌにピカソを訪ねるなど現存の有力画家と接するとともに、ロマネスク、ゴシックの中世彫刻や絵画を研究した。その体験をもとにライフワークとなる「シベリア・シリーズ」の様式を確立し、以後没するまでシリーズ制作を継続した。

また、香月は東京美術学校藤島武二教室の1年後輩だった同郷の松田正平(1913-2004)を福島に紹介、松田は昭和26年にフォルム画廊で初個展を開催し、その後も同画廊で定期的に個展を続けた。福島は、フランスから帰国後の松田の作品をみてスーティン研究を勧めたという。

香月泰男(1911-1974)
明治44年山口県大津郡三隅村生まれ。幼いころに両親と生別した。小学生のころから画家を志し、川端画学校を経て、昭和6年に東京美術学校西洋科に入学、藤島武二教室に学んだ。在学中、国画会第9回展に出品した「雪降りの山陰風景」が福島繁太郎と梅原龍三郎の責任推薦で初入選し、これを機に福島と梅原との知遇を得た。以後も国画会に出品し受賞を重ねるが、昭和18年に教育召集兵として入隊、旧満州国興安北省ハイラル市に動員されたのち、終戦後にシベリアに抑留され、昭和22年に復員した。帰国後は山口で美術教師をつとめながら、国画会に毎回出品を続け、昭和34年、ライフワークとなる「シベリア・シリーズ」の様式を確立、没するまでシリーズ制作を継続し、昭和44年、このシリーズで第1回日本芸術大賞を受賞した。昭和49年、62歳で死去した。

松田正平(1913-2004)
大正2年島根県鹿足郡青原村生まれ。久保田金平の子。のちに山口県宇部市の松田清一の養子となった。昭和7年東京美術学校西洋学科に入学、藤島武二教室に学んだ。在学中に帝展に初入選し、昭和12年の卒業後は渡仏し、パリに住みアカデミー・コラロッシュで学びながら古典の研究をした。昭和14年の大戦勃発とともに大使館から帰国勧告を受けて帰国、昭和16年から国画会を作品発表の場とし、翌年国画奨学賞を受賞するが、太平洋戦争の戦局が深刻化したために帰郷、昭和21年山口県光市に転居して国画会出品を再開した。昭和26年に国画会会員に推挙され、フォルム画廊で初個展を開いたのを機に再び上京、その後も国画会出品とフォルム画廊での個展を続けた。昭和59年第16回日本芸術大賞を受賞。平成16年、91歳で死去した。


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制作と理論の両面で抽象絵画の可能姓を追及した長谷川三郎

2016-11-08 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術近代洋画・中四国の画家たち展

下関に生まれ早い時期に神戸に移り住んだ長谷川三郎(1906-1957)は、東京帝国大学美術史学科卒業後にアメリカ、ヨーロッパを遊学、帰国して本格的な画家活動を開始するとともに、美術雑誌に画論や評論文を発表、制作と理論の両面でいち早く抽象絵画の可能姓を追及した。また、戦前の前衛芸術の一翼を担った二科会の前衛グループ「九室会」で活動した桂ゆき(1913-1991)は、東京生まれだが、父親は下関出身の学者で、昭和55年に山口県立美術館で「桂ゆき展」を開催、平成3年の没年には下関市立美術館で回顧展が催された。

長谷川三郎(1906-1957)
明治39年下関市生まれ。明治43年、三井物産門司支店に勤めていた父・銈五郎の転勤にともない一家は神戸に移り、さらに大正7年には芦屋市に転居した。18歳の時に大阪信濃洋画研究所に通い、小出楢重に師事した。同研究所では、仲間と「白象会」を作り、批評会を開き、文集を発行、中央美術展などに出品した。東京帝国大学文学部美学美術史学科在学中にも白象会の活動を続け、卒業論文は「雪舟研究」をテーマとした。卒業後は、アメリカ、ヨーロッパを3年間遊学し、昭和7年に帰国、同年二科展に初入選し、翌年には滞欧作品による個展を開催するなど本格的な画家活動を開始、同時に美術雑誌に画論や評論文を発表した。昭和9年、村井正誠、山口薫らと「新時代洋画展」を結成、昭和12年にはそのメンバーを中心として自由美術協会を創立し、制作と理論の両面で現代美術の先導者の一人として活躍した。戦争末期には東洋の古典の研究に専心、禅や老荘思想を根幹にした抽象的精神性をフロッタージュや墨象で表現した。それはアメリカの戦後美術の一局面とも一致し、昭和28年、47歳の時にニューヨークで個展を開催、同年、アメリカ抽象美術家協会から展覧会参加の招請を受け、山口長男、村井正誠、吉原治良らと「日本アブストラクト・アート・クラブ」を設立、日米両国で活躍した。昭和32年、サンフランシスコにおいて51歳で死去した。

桂ゆき(1913-1991)
大正2年東京生まれ。本名は雪子。下関出身の冶金学者・桂弁三の五女。池上秀畝に日本画を学び、のちに中村研一、岡田三郎助に師事、アヴァンギャルド洋画研究所でも学んだ。二科会では、同会員による前衛グループ「九室会」の結成に吉原治良、山口長男らとともに参加、女流画家協会設立にも参加した。戦前から紙やコルクを用いた実験的な作品を制作し、前衛美術運動の中心的画家の一人として活躍した。平成3年、77歳で死去した。


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層が薄く散発的な長州の初期洋画家

2016-11-04 | 画人伝・山口


文献:山口県立美術館蔵品目録山口県の美術近代洋画・中四国の画家たち展

明治維新に関わった薩摩、肥前からは日本の近代洋画の初期から形成期にかけて多くの重要な洋画家が出ているが、薩摩とともに明治政府を主導した長州からは、主だった洋画家が出ていない。長州で最も早く油彩画に関わったとされる萩藩士・河北道介(1850-1907)は川上冬崖に学んだが、その後の活動はほとんど知られていない。画塾・彰技堂に学んだ飯田俊良(1856-1938)、中丸精十郎の画塾に学んだ森脇英雄(1865-1950)らも残された資料が少なく、どのような意識で学んだかは定かではない。明治末から大正期にかけて、永地秀太(1873-1942)、桑重儀一(1883-1943)が出たが、初期洋画家の層は薄くて散発的といえる。

永地秀太(1873-1942)
明治6年都濃郡末武北村生まれ。有吉三郎太の二男。山口市の永地三郎の娘と結婚して養子となった。徳山中学校を卒業後、叔父をたよって上京し、松岡寿に入門を試みたが、本多錦吉郎の彰技堂を勧められ入塾した。明治31年、25歳の時に陸軍中央幼年学校の助教となり、大正8年に教授となった。明治35年、29歳の時に明治美術会の後身である太平洋画会の創立に参加、同会が研究所を設立する際には指導者の一員となった。明治42年の第3回文展で褒状を、第7回文展では三等賞を受賞、文展を舞台に活躍した。大正9年から11年まで文部省在外研究員としてフランス、イタリアに滞在し、帰国後は東京高等工業学校の教授となった。昭和17年、69歳で死去した。



桑重儀一(1883-1943)
明治16年玖珂郡川下村生まれ。桑重六助の長男。米国のカリフォルニア州立大学美術科を卒業し、その後渡欧してジャン=ポール・ローランスに学んだとされるが、渡米以前とその時期については詳細はわかっていない。大正2年に帰国した後は太平洋画会の会員となった。大正9年に帝展初入選、帝展改組後は新文展に出品した。昭和18年、60歳で死去した。


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近代絵画としての南画の再生に尽力した松林桂月

2016-11-02 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

松林桂月(1876-1963)は、渡辺崋山や椿椿山の系流につながる野口幽谷に師事し、江戸期以来の崋椿系南画の系統を受け継ぎながらも、近代における南画の有り様を模索し続けた。文展開設後は、大会場に見合うスケールを持った雄大な山水画や花鳥画を発表、文展、帝展、日展で受賞を重ね、昭和33年には文化勲章を受章した。その翌年には日本南画院を結成して会長に就任、近代絵画としての南画の再生に尽力した。ほかに文展、帝展、日展に出品した山口出身の日本画家としては、幼くして叔父の河北道介に油画を学び、のちに野口小蘋に師事した兼重暗香(1872-1946)、狩野派や四条派などの折衷的な画風を確立した伊藤響浦(1883-1960)、松林桂月門下で伝統を生かしながら現代感覚を盛り込んだ西野新川(1912-2008)、堂本印象に師事し日展に出品した澤野文臣(1914-2005)らがいる。

松林桂月(1876-1963)
明治9年萩市生まれ。伊藤篤一の二男。本名は篤。白水尋常小学校を卒業後、阿武郡明木村の役場に就職するが、同村出身の貴族院議員・滝口吉良の援助を受けて上京、19歳で野口幽谷の門に入った。漢学の素養を生かした個性的な画風で、大正・昭和の南画壇で活躍した。大正8年帝展の審査委員となり、昭和12年帝国芸術院会員、昭和19年帝室技芸員となった。戦後も南画界の重鎮として活躍、昭和33年文化功労者となり文化勲章を受章、翌年日本南画院を結成して会長に就任した。萩市内の諸事業に多額の私財を投じたほか、母校の白水小学校に講堂建設費や作品などを寄付し、昭和36年萩市の名誉市民に推挙された。昭和38年、88歳で死去した。

兼重暗香(1872-1946)
明治5年山口市生まれ。本名は梅子。はじめ叔父の河北道介や本多錦吉郎に洋画を学び、その後野口小蘋に学び、日本画に転向。文展、帝展などに出品した。昭和21年、75歳で去した。

中倉玉翠(1874-1950)
明治7年生まれ。橋本雅邦に師事した。はじめ国画玉成会に参加、その後は文展に出品した。昭和25年、77歳で死去した。

伊藤響浦(1883-1960)
明治16年下関市生まれ。別号に陽康がある。山内多門、川合玉堂に師事、美術研究精会、巽画会、二葉会に出品、大正初年からは文展に出品した。大正13年南画に転じた。昭和35年、78歳で死去した。

楢崎鉄香(1898-1959)
明治31年生まれ。名は東策。別号に真如洞がある。橋本関雪に師事し、京都に住んだ。大正から昭和にかけての新しい時代表現を意識した制作をし、帝国展に出品した。昭和34年、62歳で死去した。

西野新川(1912-2008)
明治45年宇部市生まれ。21歳の時に上京し松林桂月に師事、桂月没後は児玉希望に学んだ。戦後は日展を活動の場とした。国画水墨院名誉会長などをつとめた。平成20年、96歳で死去した。

澤野文臣(1914-2005)
大正3年徳山市生まれ。京都絵画専門学校卒業。堂本印象に師事。文展、帝展、日展に出品した。平成17年、90歳で死去した。


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鯉洋画壇を結成した大楽桃白と光市の門人

2016-10-31 | 画人伝・山口


文献:光市史跡探訪第2集、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

光市にある早長八幡宮で神官をつとめていた大楽桃白(1884-1953)は、定まった師もなく、南画、北画なんでも描くという巧者だった。絵画論に関しても一家言あり、俳句、和歌、古美術、郷土史などにも通じ、弁舌さわやかだったという。早長八幡宮裏の自宅に同志を集め、絵画の結社「鯉洋画壇」を組織し、「鯉洋会展覧会」をたびたび開き、光市の文化向上に貢献した。

大楽桃白(1884-1953)
明治17年玖珂町生まれ。森脇清次郎の五男。室積早長八幡宮の神官大楽家の養子となった。光井、室積の尋常高等小学校で図画を教えていた。特定の師につかず、南画、北画はもちろん、西洋画の様式も取り入れた作品を描き、文展にも出品した。また、みずから画壇を組織して展覧会を開くなど、絵画をもって郷土の文化向上に貢献した。昭和28年、69歳で死去した。

柳井津誠人(1894-1934)
明治27年光井生まれ。旧姓は渡辺。元光井村長の渡辺貞剛の実兄。はじめ大楽桃白に日本画を学び、のちに小室翠雲の門人となって、日本南画院に出品した。南宗画の山水花鳥を得意とした。昭和9年、40歳で死去した。

伊藤青邱(1894-1969)
明治27年光井生まれ。本名は行馬。はじめ大楽桃白に学び、大正2年に画家を志して上京、小茂田青樹、荒木十畝に師事した。戦後は帰郷して制作を続け、日本美術院に出品した。花鳥を得意とした。昭和44年、75歳で死去した。

梅村香暁(1894-1978)
明治27年大島郡生まれ。京都絵画専門学校卒業。大正のころ室積に住んでいて、大楽桃白と交流した。県立萩高等女学校の美術、書道教師、のちに萩女子短期大学の書道講師をつとめた。昭和53年、84歳で死去した。


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竹田系作品鑑定の第一人者・田中柏陰と門人

2016-10-28 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

竹田系作品鑑定の第一人者としても知られた田中柏陰(1866-1934)は、静岡の漆器商の家に生まれ、17歳で京都に出て田能村直入に師事、竹田・直入の画風を受け継ぎ、濃彩の山水画を得意とした。禅にも興味を示し、黄檗禅を修め、詩文を植木斗南に学んだという。34歳の時に山口防府の田中家を継ぎ、姓を田中に改めた。京都と山口に画塾を開き、多くの門人を育成している。主な門人としては、防府の長松秀鳳、藤井華浦、植木華城、大阪の藤原完堂、京都の田能村竹外、田能村直雙、美濃部舟水、片山丹霞、岡山の三宅丹斎、脇本九年、福山の内藤天来、徳山の藤本木田、藤井小陰らで、春風会という毎年恒例の展示会を開催していた。

田中柏陰(1866-1934)
慶応2年静岡県生まれ。本名は啓三郎。のちに画名を馨、字を叔明。別号に静麓、孤立、柏樹子、柏舎主人、空相居士がある。本姓は中川。明治16年、17歳の時に京都に出て田能村直入に師事し、竹田・直入の画風を受け継ぎ、濃彩の山水画を得意とした。師直入は、柏陰の才能を認め、養子としたが、のちに事情があって本姓に戻したという。明治33年、山口県右田村の大崎の田中家の当主幾太郎の長女と結婚し、田中家を継ぎ姓を田中に改めた。明治末から大正期にかけては、山水写生のため越後、信濃、飛騨など全国各地を歴遊し、朝鮮、中国にも渡り写生をした。京都の柳家画肪、山口防府石田の画禅室、及び海北邨舎という画塾を開き多くの門人を育てた。田能村竹田系の作品鑑定の第一人者としても知られる。昭和9年、69歳で死去した。

植木華城(不明-不明)
防府出身で、田中柏陰に師事した。

長松秀鳳(不明-不明)
防府出身で、田中柏陰に師事した。

藤井華浦(不明-不明)
防府出身で、田中柏陰に師事した。

藤井小陰(不明-不明)
大分県出身で、田中柏陰に師事した。徳山市野上町に住んで、有志に絵の指導をした。


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地質学・植物学を導入して描いた高島北海

2016-10-26 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、下関の人物

萩藩医の家に生まれた高島北海(1850-1931)は、幼いころから画を好み、雪舟や渡辺崋山の画法を研究した。また、西欧文化の影響を受けてフランス語の勉強を志し、地理学の研究もはじめた。28歳の時に内務省地理局に就職、34歳の時にフランスのナンシー森林学校に留学して林学士の資格を得た。この時に、当地のアール・ヌーボーの旗手のひとりだったエミール・ガレと交流を持ち、お互いに影響を与え合ったと思われる。公職を退いた後は、妻の故郷である長府に戻っていたが、52歳の時に画家として出発することを決意して上京、横山大観、下村観山らとともに文展の審査員をつとめるなど中央画壇で活躍した。北海は、山水画に地質学を、植物画に植物学を導入しての制作を方法論として確立、その上で自らの美意識や精神を盛り込んで描いた。特に山岳画を得意とし、山口県の長門峡や石柱溪の風景を全国に紹介した功労者でもある。門人を受け入れることを拒否したとされるが、資料によると宝迫虹汀(1884-1911)、藤田隆治(1907-1965)は北海に師事している。

高島北海(1850-1931
嘉永3年萩生まれ。藩医・高島良台の二男。名は得三。父の良治は文雅を好み、詩書画をよくした。父の感化を受け、北海も幼いころから画に興味を持ち、画法を研究した。明治5年工部省鉱山寮に出任して生野鉱山学校に入り、そこで働いていたフランス人コワニエからフランス語、地質学、植物学などを学び、我が国最初の地質図である山口県の地質図を作成した。明治11年、28歳の時に内務省地理局に就職、明治17年、34歳の時に渡欧し、明治21年までフランスに留学、ナンシー森林学校で学んだ。明治21年長府出身の画家・大庭学僊の長女・光子と結婚、翌年再び渡欧し、帰国後は農商務省につとめた。昭和30年に退職したのちは、妻の故郷である長府で生活していたが、明治35年、53歳のときに画家専業を決意して上京、文展の審査員などをつとめた。晩年は石柱渓や青海島・須佐湾など、山口県内の景勝地を紹介することに心血を注いだ。特に阿武郡川上村などにまたがる渓谷を長門峡と名づけて世に広め、その整備と保護に尽力した。著書に『欧州山水奇勝写生要訳』『北海山水百種』などがある。昭和6年、82歳で死去した。

宝迫虹汀(1884-1911)
明治17年生まれ。野村文挙・高島北海に師事。明治39年日本美術協会展に入選し、宮内省御用作品となる。翌年、日本画会展出品作品を東宮殿下に買い上げられ、その後も展覧会に入選したが、明治44年、28歳で死去した。



藤田隆治(1907-1965)
明治40年豊浦郡生まれ。藤田又太郎の長男。一時大工の見習いをしていたが、16歳の時に下関に帰郷していた高島北海に学び、のちに上京して野田九浦に師事した。昭和9年新しい時代を意識した日本画を追求しようと、吉岡堅二、福田豊四郎らと新日本画研究会を結成、昭和13年には新美術人協会の結成に参加した。創造美術展、新制作展にも出品したが、戦後は個展を中心に発表した。昭和40年、57歳で死去した。


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下関岸家三代の祖・江陵岸賢と防長の岸派

2016-10-24 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、下関の人物、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

江陵岸賢(不明-1825)は、下関出身でもっとも古い画家とされ、岸賢、岸規、岸明と三代続く下関岸家三代の祖として知られる。「岸」を名乗ったのは、京都の岸派を学んだためで、子の岸規、孫の岸明は、それぞれ下関画壇に名を残している。特に子の岸規は、長府藩御用絵師をつとめ、郷土画家の育成にも強い影響力を持っていた。ほかに防長の岸派としては、岸駒に学んだ長八海(1811-1893)、岸龍山(1816-1889)がいる。また、岸明に学んだ金子鴎雨(1848-1884)、富田壺僊(1849-1898)は、後に豊後の帆足杏雨に入門し、南画に転じた。

江陵岸賢(不明-1825)
通称は梅圃。別号に椿溪がある。実家は南部町でかつお問屋を営んでおり、代々主人は茶屋伝三郎を名乗っていた。南部町の永福寺に残る過去帳では、没年は文政8年の1月とされているが、何歳だったかは不明。岸賢が残した自画像には、七十六歳翁と記されているところから、それ以上生きていたと推測できる。

岸規(不明-1864)
江陵岸賢の子。名は規、通称は隣内。家を継ぎ茶屋伝三郎と名乗った。幼いころから父について画を学び、のちに京都に出て岸岱に師事した。下関岸家三代のうち最も評価が高かったという。元治元年死去した。

岸明(不明-1905)
岸規の子。名は粟治。幼いころから父について画を学んだ。明治38年、82歳で死去した。

長八海(1811-1893)
文化8年平生町生まれ。大野毛利家の家臣。はやくから画家を志し、文政12年京都の岸駒、岸岱の門に入り岸派の画法を学んだ。特に虎画を得意とし、「八海の虎」と称された。明治26年、83歳で死去した。

岸龍山(1816-1889)
文化10年玖珂広瀬生まれ。はじめ菅江嶺に学び、のちに京都に出て岸駒に師事した。岸駒の信頼あつく、娘婿となった。明治23年、74歳で死去した。

金子鴎雨(1848-1884)
嘉永元年丸山町生まれ。紺屋金子亀吉の子。名は兵輔。幼いころから画を好み、10代の初めころ、富田壺僊とともに、当時下関の画家として権威のあった岸明に入門し、閑溪と号した。21歳の時に豊後の帆足杏雨に入門し、号を鴎雨と改めた。豊前の村上仏山に入門して詩文も学んだ。明治17年の第2回絵画共進会に出品するため「水中百魚譜」を制作していたが、完成した日に絵筆を握ったまま絶命、36歳で世を去った。遺作は友人の富田壺僊により出品され二等賞を受賞した。

富田壺僊(1849-1898)
嘉永2年観音崎町生まれ。紺屋富田武左衛門の子。名は宗太郎。父も画をたしなんだことから、幼いころから画を好み、金子鴎雨とともに岸明に入門、壺月と号した。さらに鴎雨とともに、帆足杏雨に師事し、村上仏山に詩文を学んだ。明治17年に鴎雨が突然死去したため、その遺作を内国絵画共進会に出品、自身は画業修業のため全国行脚の旅に出た。40歳の時に下関の戻り、行脚の経験をもとに作品を残したが、明治31年、49歳で死去した。


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森寛斎と山口の門人

2016-10-21 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術下関市立美術館所蔵品目録Ⅰ

萩藩士の子として生まれた森寛斎(1814-1894)は、幼年期に、四条派や岸派の画風を学んだと思われる画家・大田龍について画を学び、18歳になると、上坂する藩士に随行し、森徹山に入門したが、事情によりまもなく帰郷、25歳で再入門した。その後、徹山の信頼を得て、表向きには徹山の実子として、実際には森一鳳の弟、つまり徹山の養子となった。徹山没後は、しばらく四国・中国地方を遊歴、この時に南宗画法を習得したと伝えられる。備中倉敷に滞在した際には、野呂介石の門人である三宅西浦と親しく交友し「岩石の皴や山峰の脈胳」などの描き方を参考にしたという。幕末には、長州人として同郷の山県有朋や品川弥二郎ら尊皇攘夷派と交わり、幕吏の眼をかわし、京都の事情を長州に伝えるべく、京都と長州の間をしばしば往復した。画家としての身分や表向きには徹山の実子であったことなどが隠れ蓑となったという。この間も、積極的な作画を展開しており、四国琴平の金刀比羅宮表書院の応挙の襖絵を修復し、安政の御所造営の際には杉戸絵揮毫に参加した。また、現在山口県立美術館所蔵の一連の写生画類のほとんどが、この幕末期に描かれたものである。明治維新以降は、「如雲社」の中心人物として活躍、さらに各展で受賞を重ね、帝室技術員制度が発足した際には帝室技室員に推されるなど、京都を代表する画家となった。後進の育成にも尽力し、山元春挙、野村文挙らを育てた。山口の門人としては、巌島虹石、田総百山がいる。

森寛斎(1814-1894)
文化11年萩生まれ。萩藩士・石田傳内道政の三男。幼名は幸吉、諱は公粛、字は子容。別号に桃蹊、晩山、寛仲などがある。幼いころから画を好み、12歳の時に萩の画家・大田龍に入門。18歳の時に大坂に出て円山応挙門下の森徹山に入門したが、事情によりまもなく帰郷、その後本格的に徹山に師事するようになったのは25歳の時だった。わずかな時間で徹山の信用を得て養子となった。幕末は長州の尊皇攘夷派らと交流するかたわら、画業も積極的に展開し、安政2年、御所造営に加わり常御殿西縁座敷南の杉戸に「帰去来」「赤壁」を描き、安政6年には金刀比羅宮表書院の円山応挙の襖絵補修に携わった。明治維新後は、京都在住の画家たちが画塾をこえて集まった画家団体「如雲社」(のちの京都後素協会)の世話役をつとめ、明治10年の塩川文麟の没後は、実質的に寛斎がこの如雲社の中心人物となった。明治14年内国勧業博覧会で三等妙技賞を受賞、明治15年の第1回内国絵画共進会で銀賞で受賞した。明治23年、第3回日本美術協会展で特別を受賞、この年に帝室技術員制度が発足、推されて帝室技室員となった。明治27年、81歳で死去した。

巌島虹石(1869-1903)
明治2年光市島田生まれ。はじめ立野の難波覃庵に南画を学び、のちに京都の森寛斎に師事した。別号に公貫、子敏、乾山、巌州、志芸遠、鶴羽山などがある。絵画共進会や美術展覧会に出品して受賞したが、不慮の事故がもとで病気がちとなり帰郷、明治36年、34歳で死去した。

田総百山(1871-1953)
明治4年萩生まれ。京都の森寛斎に学び、のちに東京に出て橋本雅邦に師事した。その後は、岐阜、三重、萩などで教鞭をとった。昭和28年、83歳で死去した。


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大庭学僊と門人

2016-10-19 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、下関の人物、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで、下関市立美術館所蔵品目録Ⅰ

大庭学僊(1820-1899)は、徳山に生まれ、11歳の時に徳山藩御用絵師・朝倉南陵に師事、18歳の時に京都に出て、下関出身の小田海僊のもとで画技をみがき、海僊の養子となった。学僊は、師の小田海僊がたどった四条派から南画への流れとは逆に、南画から四条派へと進み、さらに浮世絵を含めた諸派を学び、明治になって南北合法を標榜するようになった。明治21年に竣工した明治宮殿の杉戸絵制作では、全国から人選された画家27人の中に、柴田是真、川端玉章、荒木寛畝らとともに選ばれ、「桂花」「花菖蒲」など4点の杉戸絵を描いた。その後も、内国勧業博覧会や日本美術協会展で受賞を重ね、明治日本画壇で活躍した。娘の美津(光子)は高島北海(1850-1931)に嫁いだ。門人の坂原五行(1871-1941)は、下関に移り住み、画会を主宰して後進の指導にあたった。

大庭学僊(1820-1899)
文政3年徳山生まれ。刀鍛冶三吉与次兵衛の二男。三好家は安芸の出身で與次兵衛の代に徳山に移り住んだ。名は百合吉。幼いころから画を好み、11歳で徳山藩絵師・朝倉南陵に学び、南江と号した。この頃、遠石八幡宮に奉納する額絵を、師の南陵に代わって完成したというピソードも残っている。15歳の時に、谷文晁の門人と称する原文暉に師事、18歳になって京都の小田海僊の門に入った。海僊からはその才能を認められ、30歳ごろに養子となったが、のちにこれを辞して徳山に帰った。さらに萩に転居して、洞春寺の寺僧大庭氏の名跡を譲り受け、大庭学僊と名乗った。明治維新後は、活躍の場を東京に求め、明治5年53歳のときに上京した。明治10年と14年の内国勧業博覧会に出品、褒賞を受賞、明治21年に竣工した明治宮殿の杉戸絵制作では、全国から人選された画家27人の中に選ばれるなど、次第に頭角をあらわし、明治画壇で活躍した。生涯を通じて質素な生活を送り、大徳寺管長・是性宗般師とも親しく交友し、淡泊庵無徳とも号して仏の道にも深く帰依した。晩年はほとんで下関の田中町の自宅で過ごし、明治32年、80歳で死去した。

坂原五行(1871-1941)
明治4年田布施生まれ。名は六三郎。高瀬家から坂原家の養子となり下関に移り住んだ。大庭学僊に師事し、画会「五行会」を主宰し後進の指導にあたった。昭和16年、71歳で死去した。

対馬白龍(1904-1984)
明治37年生まれ。近藤樵仙・坂原五行に師事した。昭和30年下関日本画会を設立、下関で日本画の指導にあたった。昭和47年には下関市教育功労賞を受賞した。昭和48年日本表象美術協会の創立に常務理事として参加、昭和54年には日本清興美術協会の創立に参加して会長をつとめた。昭和59年、79歳で死去した。


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小田海僊と防長の門人

2016-10-17 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、防長人物誌、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

周防国富海に生まれた小田海僊(1785-1862)は、京都に出て四条派の松村呉春に学び、松村景文や岡本豊彦と名声を競ったが、頼山陽から絵に品格がないと指摘されたことから、学問を積み、中国の元・明の古画を独学で研究、南画家として一家をなした。萩藩から一代絵師に召し出され、江戸に出た際には、市河米庵らと親交を結び、米庵所蔵の書画から多くのものを学んだいう。2年後に京都に戻り、同時代の文人、頼山陽、菅茶山、小石元瑞、広瀬旭荘、画家の田能村竹田、浦上春琴らと交友、江戸末期には中林竹洞、貫名海屋らに並ぶ、京都を代表する南画家と称されるようになった。防長の門人としては、大庭学僊、山中月洲、羽様西崖らがいる。

小田海僊(1785-1862)
天明4年佐波郡富海生まれ。下関の新地町で染物屋を営んでいた小田屋仙右衛門の養子。幼名は良平。別号に巨海、南豊、百谷がある。萩藩御用絵師。幼いころから画を好み、22歳の時に下関出身の医師・永富独嘯庵をたよって京都に出て、四条派の松村呉春に学んだのち、頼山陽の影響で、中国の元・明の古画を独学で研究、南画家として一家をなした。京都では多くの文人たちと交友し、特に頼山陽とは、親しく交わり、画の制作のうえでもいろいろな影響を受けた。文政元年、頼山陽らと西遊の旅で出て、日向、薩摩、長崎に滞在、この際に直接中国画を研究したと思われる。文政7年萩藩から一代絵師に召し出され江戸に出た際、市河米庵らと親交を結び、米庵所蔵の書画から多くのものを学んだ。文政9年には藩から京都居住を許され、再び京都で活動、同時代の文人や画家らと交友し、江戸末期の京都を代表する南画家となった。晩年は鴨川の東、聖護院村に画室を構えた。文筆にも優れ『画譜十八描法』『図画題合壁』などの著書がある。文久2年、78歳で死去した。

山中月洲(1826-1896)
文政9年中之町生まれ。畳屋平三郎の子。名は父と同じ平三郎。15歳の時に、当時下関で岸派の画家として名が知られていた江陵岸規について学び、23歳の時に京都に出て、小田海僊に師事した。下関に帰ってからは、北前船問屋などの注文に応じて襖絵などを描いた。明治29年、70歳で死去した。

羽様西崖(1811-1878)
文化8年生まれ。名は師古、字を不欺。萩藩御用絵師。幼いころから画を好み、はじめ出雲の雲鳳に写生を学び、さらに岸派に、そして小田海僊に師事した。山水人物花鳥いずれも得意とした。明治11年、68歳で死去した。

広洞仙(1818-1881)
文政元年生まれ。京都に出て小田海僊に学んだとされる。梅花、鯉の絵を得意とした。明治14年、64歳で死去した。

大野葭洲(不明-1872)
吉敷郡嘉川の人。はじめ菅江嶺に、のちに小田海僊に学んだ。明治5年死去した。


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周防徳山藩御用絵師・朝倉南陵と徳山の画人

2016-10-15 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、防長人物誌、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

朝倉家は五代続いた周防徳山藩御用絵師の家系で、朝倉南陵(1757-1844)はその四代にあたる。初代繁経は、表具師として徳山藩に召し抱えられ、雲谷派の雲谷等恕に学んで、等収を名乗った。繁経の長男である二代友信は、雲谷等全に学んで等月を名乗り、父を手伝い家督を相続したが、二男の不祥事のため朝倉家は一時断絶した。友信の没後に長男の友明が雲谷等徴に学んで等栄の名を許され、朝倉家を再興させたが、その翌年友明は死去した。友明の没後、親族らによって養子に迎えられたのが朝倉家四代となる朝倉南陵である。南陵が御用絵師をつとめた寛政年間には、伊能忠敬による全国の測量事業が始まっており、南陵は、文化年間にかけて領内絵図の作成に専心するとともに多くの作品を残した。画風は、雲谷派風、円山派風、南画風とさまざまな画派の影響がみられるが、晩年に描いた南蘋風のものに優作が多い。南陵のあとは、三男の朝倉震陵(1798-1871)が継いだ。ほかに徳山の画人としては、田能村竹田系の南画家である上田田単(1830-不明)がこの地に永く住み、多くの作品を残し、津本柳塘(1854-1939)らの門人を育てている。

朝倉南陵(1757-1844)
宝暦6年生まれ。徳山藩御用絵師。徳山藩浪人阿武六郎左衛門晴俊の長男。幼名は喜代槌、通称は銀之丞、のちに湖内。明和4年徳山藩御用絵師朝倉友明家に養子に入り、安永元年、雲谷等徴・等竺に師事して画技の基礎を身に付け、安永3年には雲谷家より等遠(のちに等圭)と号することを許された。その後の10年あまりの消息は明らかでないが、天明5年には江戸に出て雲谷派以外の画風を本格的学ぶ機会を得て、翌年南蘋派の岩井江雲について学び、江雲より「江雪」の号を許された。江戸からの帰郷後、天明8年には、萩の雲谷等竺のもとで画技をみがいた。天保14年、87歳で死去した。

朝倉震陵(1798-1871)
寛政10年生まれ。徳山藩御用絵師。朝倉南陵の三男。名は直逞、通称は三郎、喜作、八代吉、牧太、奇石軒。画を雲谷等徴に学び、のちに江戸に出て谷文晁に師事した。徳山に帰ってからは、父南陵の画業を手伝い、天保2年家督を相続した。天保9年から震陵と名乗り、天保13年雲谷家より等☆(☆は「燐」の「火」を「王」に)の名を許された。元治元年に退隠、明治4年、74歳で死去した。

上田田単(1830-不明
天保元年生まれ。別号に李壮之、北竹山人がある。田能村竹田に師事し、永く徳山に住んでおり、周南地区には多くの作品が残っている。門人に津本柳塘がおり、藤本木田も私淑したとされる。

津本柳塘(1854-1939)
安政元年徳山生まれ。名は庄兵衛。別号に吐墨庵、得山居士などがある。徳山に滞在していた上田田単に師事した。各地を遊歴し、小室翠雲らとも交友した。晩年は徳山に帰った。昭和14年、86歳で死去した。

藤本木田(1895-1987)
明治28年香川生まれ。田中柏陰に師事し、上田田単にも私淑したと伝わる。永く徳山に住み、作画と門弟の指導にあたった。周南地区に師事した者が多い。昭和62年、92歳で死去した。

奥田蘭雪(1832-1893)
天保3年生まれ。徳山藩士。幼いころから画を好み、柳田雲屋に学んだ。江戸邸に勤務の際には、津和野藩士で南画家の山本琴石の指導を受け、花鳥を得意とした。明治26年、62歳で死去した。

伊藤石僊(1862-不明)
文久2年生まれ。周防の南画家として知られ、森琴石の門人と思われる。

中村瑛舟(1890-1952)
明治23年新南陽市福川生まれ。大阪で四条派の深田直城に学び、花鳥を得意とした。昭和12年頃に徳島に移り住んだ。昭和27年、63歳で死去した。


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防長における南画の祖・矢野括山と門人

2016-10-14 | 画人伝・山口


文献:防長人物誌、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

矢野括山(1780-1845)は、周防・長門における南画の祖とされ、画のほかに書や篆刻も巧みで、岡田半江、浦上春琴、小田海僊、貫名海屋、田能村竹田ら南画家と広く交流、防長の地に南画を根付かせた。門人には林百非(1796-1851)、安富笠山(1808-1882)、光妙寺半雲(1812-1874)らがいる。林百非は矢野括山に師事し、田能村竹田にも学んだ。百非の門人には石川瓊洲(1810-1858)がおり、百非は、萩に南画をひろめたのは瓊洲の功績であるとたたえたという。

矢野括山(1780-1845)
安永9年生まれ。萩藩士。名は淳、字は子淳、通称は市蔵。三田尻に住み、居を小橋流水・留雲閣といった。別号に竹舌、山樵、留雲痺僊、四十八峰外史などがある。防長における南画の祖とされる。画のほかに書や篆刻も巧みだった。弘化2年、66歳で死去した。

林百非(1796-1851)
寛政8年生まれ。萩藩士。別号に如是、百是、太平山人などがある。画を矢野括山に学び、のちに田能村竹田の教えも受けた。書や詩もよくし、禅や山本勘介流の兵学にも通じていた。嘉永4年、56歳で死去した。

安富笠山(1808-1882)
文化5年生まれ。間田村の人。益田氏の老臣。画を矢野括山に学び、笠山学舎を御堀に開き、子弟に読書算術を教えた。明治15年、75歳で死去した。

光妙寺半雲(1812-1874)
文化9年生まれ。三田尻の真宗光妙寺の僧侶。はじめ矢野括山に学び、その後、京都の中林竹洞に師事した。山水花卉を得意とした。篆刻、俳句にも長じていた。明治7年、63歳で死去した。

石川瓊洲(1810-1858)
文化7年生まれ。萩藩士。名復、字子礼、通称は復蔵。はじめ林百非に学び、のちに田能村竹田に師事した。師の百非は、萩に南画をひろめたのは瓊洲の功績であるとたたえたという。安政5年、49歳で死去した。

佐伯圭山(1815-1878)
文化12年生まれ。萩藩士。林百非に師事した。別号に桂林がある。明治11年、64歳で死去した。

万福寺抱月(1836-1880)
天保7年生まれ。萩の浄土真宗万福寺の九世。画を佐伯圭山に学び、和歌にも堪能だった。明治13年、45歳で死去した。


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萩藩儒者・佐々木縮往と萩の初期画人

2016-10-13 | 画人伝・山口


文献:防長人物誌、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで

萩藩の儒者・佐々木縮往(1648-1733)は藩医の家の生まれ、経学文章を学びながら、中国明画を研究し独自の画風を確立した。儒者としてよりも画人として知られ、幕府の儒者・荻生徂徠(1666-1728)も、縮往に宛てた書簡のなかで「出来映えの素晴らしさに寝食を忘れるほど」と賞賛したという。縮往の門人、張天然(1715-1786)、井上親明(不明-不明)は師の画風を忠実に伝えており、縮往の作とされる無落款の作品も、門人による可能姓があるとされる。また、萩藩士・山県鶴江(1754-1803)は、各地を巡って諸派を学び、菅江嶺(1762-1852)、渋谷道勝(不明-1851)らの門人を育てた。

佐々木縮往(1648-1733)
慶安元年萩生まれ。萩藩儒者。藩医・佐々木道安重直の二男。通称は次郎、のちに平太夫。中国明画を研究して独自の画風を確立した。花鳥画、人物画に優れた作品が多い。儒者よりも画人として知られた。門人に張天然、井上親明がいる。享保19年、86歳で死去した。

張天然(1715-1786)
正徳5年生まれ。名は方平、通称は彦四郎、のちに半蔵。萩藩士。佐々木縮往に師事し、師の画法を忠実に守った。天明6年、72歳で死去した。

井上親明(不明-不明)
幼名は權之助、のちに彌五左衛門、さらに武兵衛と改めた。佐々木縮往に師事し、師の画風を伝えた。享保5年絵図方頭人となった。

有馬喜三太(不明-1769)
名は武春、雲谷等達に絵を習い、藩の絵図方、郡方定役となった、寛保二年萩藩主毛利宗広のために『御国廻御行程記』を作成した。明和6年、62歳で死去した。

山県鶴江(1754-1803)
宝暦4年吉敷生まれ。萩藩士。名は英、字は子粲、通称は俊平。別号に県英がある。幼いころから書画を好み、各地を巡って諸派を学び、独自の画風を確立した。書、篆刻、俳句などもよくした。享和2年、49歳で死去した。

菅江嶺(1762-1852)
宝暦12年美祢郡長田村生まれ。はじめ山県鶴江に師事し、のちに岸駒や春木南湖らに学び、諸家を統合して一家を成した。文政10年萩藩主に召し抱えられた。門人に能美鴎友、岸龍山、大野葭洲らがいる。

渋谷道勝(不明-1851)
名は章、通称は源吾。萩藩士。画を山県鶴江に学び、長南、華岳と号した。15歳で藩主斎房の近侍になった。斎房没後は武具方検使となり、上勘究役などを経て小郡宰判所務代官になった。嘉永4年、69歳で死去した。

能美鴎友(不明-1846)
名は高通、通称は源吾。初号は華山、のちに鴎友と改号した。萩藩警固方。佐波郡三田尻に住んでいた。菅江嶺に師事し、花鳥図、特に鷹を得意とした。弘化3年死去した。


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狩野芳崖へと続く長府狩野派の系譜

2016-10-12 | 画人伝・山口


文献:山口県の美術、没後百年 狩野芳崖展

江戸末期から明治期にかけて、伝統的な狩野派に西洋画の技法を取り入れ、新しい日本画の創造に情熱を注いだ狩野芳崖(1828-1888)は、長府藩御用絵師の家系に生まれた。長府藩狩野家の祖は、毛利綱元に江戸で仕えた大月喜兵衛・狩野與六(不明-1695)とされ、剃髪して洞晴幸信と号した。洞晴幸信の子・洞学幸信も、最近の研究によると不確実ではあるが長府藩御用絵師をつとめたとされる(※1)。狩野芳崖の曽祖父・狩野察信(1695-1759)は洞学幸信の二男で、木挽町如川周信に学び、長府に住んで七代藩主・師就に仕えた。察信の名跡を継いだ狩野俊信(1729-1822)は、察信の長女と結婚し、木挽町栄川院典信に学び、萩藩の御用絵師となり、長澤榮州と号した。その跡を継いだのは、察信の子・狩野陽信(不明-1806)で、陽信の長男が芳崖の父・狩野晴皐(1797-1867)である。晴皐は父・陽信が死去したため10歳で家督を継いだ。幼い晴皐は、諸葛函溪(1780-1848)の後見で成長したとみられる(※2)。晴皐の子として生まれた芳崖は、幕末の狩野派の衰退のなか、フェノロサと出会い、新しい日本画を創造していくこととなる。

(※1)狩野洞学に関しては、いままでの資料には作州津山藩に仕えたとあるが、『没後百年 狩野芳崖展図録』によると「最近の研究で、元禄期頃とおぼしき長府藩の分限帳に洞学幸信の名がみえ、大雲山日頼寺の什物のなかに洞学幸信の作品が発見されるなど、長府藩の御用絵師だった可能姓も出てきた」とある。→参考:美作津山藩の初代御用絵師・狩野洞学

(※2)諸葛函溪は狩野陽信の養子となるが、晴皐が生まれたため別家、諸葛姓を名乗った。→参考:周防・長門国各藩の狩野派

狩野芳崖(1828-1888)
文政11年長府町印内生まれ。長府藩御用絵師・狩野晴皐の子。幼名は幸太郎、別号に貫甫、皐隣、翠庵などがある。幼いころから画才を発揮し、19歳の時に江戸に出て、木挽町狩野10代・狩野勝川院雅信について10年間修業した。多くの門弟の中でも画技に優れ、橋本雅邦(1835-1908)とならんで雅信門下の双璧と謳われた。その頃の芳崖は、独創性を発揮しすぎ、師から破門されかかったこともあったが、一方で師からの信頼も厚く、幕府御用の助手もしばしばつとめている。古典も自らの目で選んで研究した結果、傾倒したのは室町時代の狩野派ではなく、雪舟だった。この頃、狩野派の法外に出る決意で「芳崖」と改号したとされる。幕末の動乱期には、不安定な生活を余儀なくされ、故郷の長府にもどり画業に専念しようとしたが、一時は描くことを中止して武具の制作に従事したこともあった。明治になり、狩野派は幕府の倒壊とともに廃れ、藩からの扶持が絶たれたため、画業のかたわら養蚕や測量図の仕上げなどをして生活していたが、貧困はつのるばかりだった。明治10年、50歳の時に同郷の友人・藤島常興(1828-1898)を頼って上京したが、東京での生活も改善はされず、やがて健康を害して闘病と生活苦の中で制作していた。明治15年、内国絵画共進会に8点の作品を出品するが無賞に終わった。しかし、芳崖の個性的な作品を、当時帝国大学で哲学の講義をしていたアメリカ人のアーネスト・フェノロサが見出し、その後はフェノロサとの共同事業により、新しい時代にふさわしい指標となる日本画を生み出していくことになる。また、フェノロサと岡倉天心が関与していた美術学校の開校準備にも関わり、時の首相で山口県人の伊藤博文(1841-1909)を説得して東京美術学校の創設にこぎつけたが、開校を目前にしながら、「慈母観音」を絶筆に、明治21年、61歳で死去した。

狩野晴皐(1797-1867)
安永8年生まれ。通称は蔵槌、薫信。別号に松隣、環翠斎がある。長府藩御用絵師。狩野陽信の子。木挽町狩野伊川院に学んだ。祖父の察信の頃から長府藩の絵師をつとめ、父の陽信も松隣と号して藩の絵師をつとめた。元治元年に長州藩が攘夷戦に敗れ、英・米・仏・蘭の四カ国と講和条約を結んだ際に、高杉晋作らの一行に絵図係として加わったという記録も残っている。鋳金や彫刻にも優れ、特に刀剣の研磨を得意とした。門人に藤島常興、諸葛信道らがいる。慶応3年、71歳で死去した。



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