松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま長崎県を探索中。

美人画の竹久夢二と異色の挿絵画家・細木原青起

2016-08-05 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-岡山の近代日本画 2000

岡山出身の画家をみていくと、室町水墨画の最高峰・雪舟、画才も発揮した剣豪・宮本武蔵、近世南画の巨星・浦上玉堂、現在も続く四条派の源流ともいえる岡本豊彦など、錚々たる重要人物がおり、近代に入っても小野竹喬、池田遙邨らの日本画家を輩出している。洋画に関しては、岡山出身の洋画家の活動を見れば日本洋画史が俯瞰できるほどで、原田直次郎、満谷国四郎、鹿子木孟郎、国吉康雄ら先駆的洋画家たちを多く輩出している。そして、憂愁と叙情をたたえた「美人画」で今なお人気の竹久夢二(1884-1934)もまた岡山出身である。挿絵画家として夢二ほどの名声は得なかったが、細木原青起(1885-1958)も独特の風刺画を雑誌、新聞などに描いている。

竹久夢二(1884-1934)
明治17年邑久郡本庄村生まれ。本名は茂次郎。生家は酒の醸造・販売をしていたが、明治33年に一家は九州の八幡に移った。明治34年、父の反対をおして上京し、早稲田実業学校に入学した。絵画を学ぶため、大下藤次郎の紹介で岡田三郎助に会って東京美術学校入学を希望したところ、三郎助は、学校の絵画教育がかえって夢二の独創的な天分を殺す恐れがあることを説いて、思いとどまられせたという。その後は独学で自分の絵画世界を築いていく。明治38年に読売新聞の日曜文壇に竹久洦子の名で「可愛いお友達」の文章を投稿、同年平民社の機関紙「直言」に、荒畑寒村の推薦でコマ絵を掲載した。明治40年には「平民新聞」に風刺的コマ絵を描くとともに、読売新聞社では時事スケッチを描いた。明治42年に画集『春の巻』を出版、憂愁と叙情をたたえた美人画は人気を博し、その後約50種もの画集や詩画集が出版された。昭和9年、50歳で死去した。

細木原青起(1885-1958)
明治18年勝田郡広野村生まれ。本名は辰江。初号に鳥越静枝がある。早くに父を失くし、岡山市に出て漢学を学び、はじめ草野鷹江に師事し、ついで上京して黒崎修斎に入門し、版画と日本画を学んだ。明治39年ソウルの京城日報社の絵画記者になったが、明治41年、24歳の時に岡山市門田屋敷の細木原家の養子となり、翌年日本に戻って「ホトトギス」「東京パック」「東京日日新聞」「中外商業新聞」「大阪朝日新聞」などにコマ絵や挿絵を描いた。大正3年に岡本一平らと東京漫画会を結成、同会は大正12年に日本漫画会に改称した。大正13年に「日本漫画史」を出版。また、日本画では天草神来に師事して日本美術院会員となり院展に出品、川柳や大津絵の研究も手がけた。昭和20年戦災を避けるため、長男の嫁の実家のある新見に疎開し、当地に多くの作品を残している。昭和33年、74歳で死去した。

岡山(29)-ネット検索で出てこない画家


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日本近代洋画の発展に大きく寄与した岡山の先駆的洋画家たち

2016-08-02 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-

日本近代洋画の軌跡をたどると、岡山出身の洋画家たちが大きく関与していることがわかる。松岡寿、原田直次郎は日本最初の洋画団体「日本美術会」の結成に参加するなど、黎明期の中央洋画壇で指導者的役割を果たした。松原三五郎は、満谷国四郎(1874-1936)、鹿子木孟郎(1874-1941)らを育て、のちに大阪に出て関西美術会の発起人に名を連ね、大阪画壇の黎明期に活躍、さらに発展期には赤松麟作(1878-1953)が指導者として大きな役割を果たした。京都においては、浅井忠の後を継いで、鹿子木孟郎が関西美術院の院長に就任、教授として寺松国太郎(1876-1943)が指導にあたった。また、大原美術館のコレクションの基礎を作った児島虎次郎(1881-1929)、国際的作家としての地位を築いた国吉康雄(1889-1953)、日本抽象絵画の先駆者である坂田一男(1889-1956)など、多くの先駆的洋画家を輩出している。

満谷国四郎(1874-1936)
明治7年吉備郡総社町門田生まれ。同郷の岡山洋画の先駆者・堀和平とは親戚関係にあった。岡山尋常中学校で松原三五郎に洋画を学ぶが、3年で同校を中退して上京、五姓田芳柳に入門、ついで小山正太郎の不同舎に学んだ。明治33年、鹿子木孟郎、丸山晩霞らと米国を経由して渡仏した。明治35年に中川八郎、吉田博らと太平洋画会を結成、以後同会を中心に活動した。明治40年創設された文展の審査員となり、大正14年帝国美術院会員となった。昭和11年、63歳で死去した。

鹿子木孟郎(1874-1941)
明治7年岡山市生まれ。少年のころ画家を志し、明治21年岡山高等小学校を卒業後、松原三五郎の天彩画塾で2年間学び、松原の大阪転任を機に上京するが病気になり3カ月で帰郷。明治25年に再び上京して小山正太郎の不同舎に入学した。明治33年、満谷国四郎、丸山晩霞らとともに米国を経由して渡仏した。明治37年帰国、京都に鹿子木室町塾を開き、翌年浅井忠らと関西美術院を設立。明治41年には浅井忠の後を継ぎ院長となった。昭和16年、69歳で死去した。

寺松国太郎(1876-1943)
明治9年都窪郡平田町生まれ。洋画を志し岡山県尋常中学校を中退して田中九衛に学んだ。明治33年上京して小山正太郎の不同舎に学んだ後、岡山で図画教師となった。明治39年、浅井忠を慕い京都に出て、開設されたばかりの関西美術院に入り、明治41年には教授に就任した。坦斎と号して日本画も多く描いた。昭和18年、68歳で死去した。

赤松麟作(1878-1953)
明治11年津山市本町生まれ。5歳の時に一家で大阪に出た。明治27年山内愚僊に油絵を学び、明治29年に東京美術学校に西洋画科が設けられると上京して入学、黒田清輝に師事し、在学中から白馬会に出品した。明治37年大阪に戻り大阪朝日新聞社に記者として大正6年までつとめた。明治40年には大阪梅田に赤松洋画塾を開設し、大阪画壇の発展に寄与した。昭和28年、76歳で死去した。

児島虎次郎(1881-1929)
明治14年川上郡下原村生まれ。4歳の時に松原三五郎が画才に驚き、画家になるのを勧めたが、5歳の時に父を失くしたため、家業を手伝いつつデッサンにつとめ、明治34年に上京、白馬会研究所に通った後、翌年東京美術学校に入学した。明治41年大原孫三郎の援助で渡仏、翌年ベルギーのガン市立美術学校に入学して学んだ。大正元年に帰国して倉敷に定住、その後しばしば渡欧し、大原孫三郎の要請によって西洋絵画の蒐集にあたり、これが後の大原美術館の基礎となった。昭和4年、47歳で死去した。

国吉康雄(1889-1953)
明治22年岡山市中出石町生まれ。明治39年県立工業学校染織科を中退し、英語習得を目的に17歳で単身渡米した。肉体労働に従事しながら夜学に通い、やがて本格的な画家を志し、明治43年ニューヨークに移住、種々の美術学校に通ったあと大正5年にアート・スチューデンツ・リーグに入学、ケネス・ヘイズ・ミラーの指導を受けた。以後、米国で制作活動し、戦争中は国籍を越えたヒューマニズムの立場を貫いた。昭和28年、63歳で死去した。

坂田一男(1889-1956)
明治22年岡山市船頭町生まれ。明治41年県立岡山中学校を卒業後、医業を志し高校入試に挑むが失敗を重ね、ノイローゼ気味になり、療養のかたわら絵を習ったことをきっかけに画家の道を進みはじめた。大正3年上京して本郷絵画研究所で岡田三郎助に師事、ついで、川端画学校に移り、藤島武二に師事した。大正10年に渡仏、最初グランド・ショミエールに通い、のちにフェルナン・レジェの研究所に入った。パリでは日本人画家との交際を断ち、西洋的合理精神に基づいた抽象絵画の研究をし、構造的・幾何学的な純粋抽象表現を確立した。昭和31年、66歳で死去した。

岡山(28)-ネット検索で出てこない画家


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岡山の近代洋画、松岡寿と原田直次郎

2016-07-30 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-

幕末から明治初期にかけて洋画塾が多く開設され、岡山出身の洋画家としては、川上冬崖の聴香読画館で学んだ松岡寿(1862-1944)、高橋由一の天絵学舎で学んだ原田直次郎(1863-1899)、五姓田芳柳の五姓田塾で学んだ松原三五郎(1864-1946)と平木政次(1859-1943)、五姓田義松に学び芳柳の娘と結婚した渡辺文三郎(1853-1936)らがいる。また、ヨーロッパに留学する洋画家も増え、松岡寿(1862-1944)はローマ美術学校に学び、原田直次郎(1863-1899)はミュンヘン美術学校でガブリエル・マックスに師事した。二人は明治20年頃に相次いで帰国したが、この頃の日本は、フェノロサや岡倉天心らによる日本画復興を唱える国粋主義運動が勃興しており、内国絵画共進会では洋画の出品が拒否され、明治20年に設立された東京美術学校には洋画科が除外された。洋画家の不満は募り、明治22年、松岡寿、原田直次郎は、浅井忠、小山正太郎、山本芳翠らとともに日本最初の洋画団体「明治美術会」を結成し、その中心となって活動した。

松岡寿(1862-1944)
文久2年岡山藩山屋敷生まれ。父の松岡隣は岡山藩の洋学研究の先駆者。明治5年父とともに上京し、翌年川上冬崖の聴香読画館に入学して西洋画技法を学び、さらに、明治9年工部美術学校に入学し、イタリアから招聘されたアントニオ・フォンタネージに学んだ。フォンタネージの帰国後は、小山正太郎、浅井忠らとともに退学し、研究組織「十一字会」を結成した。明治13年にローマに留学、明治16年には国立ローマ美術学校に入学して、人物画専門科で本格的な研究を積んだ。明治21年に帰国し、翌年日本最初の洋画団体「明治美術会」を浅井忠、小山正太郎、山本芳翠、原田直次郎らと結成した。明治34年に明治美術会が解散した後は、黒田清輝、岩村透らと国民美術協会を結成し、民間からの美術運動を推進、文展の開設にも尽力した。明治40年から文展の審査員をつとめ、農務省商品陳列館長、特許局審査官、東京美術学校教授、東京高等工芸学校の初代校長などを歴任した。昭和19年、83歳で死去した。

原田直次郎(1863-1899)
文久3年江戸小石川柳町生まれ。父の原田一道は鴨方藩士。明治3年、大阪開成学校で仏語を学び、保田東潜に漢学を習った。3年後に東京に戻り、東京外国語学校フランス語科で学んだ。また、12歳の頃から山岡成章について洋画を学び、明治16年に天絵学舎で高橋由一の指導を受けた。翌年兄・豊吉の勧めでドイツに渡り、ミュンヘン美術学校に入学、ドイツ画派の伝統を守る歴史画の大家ガブリエル・マックスに師事した。ミュンヘン滞在中に森鴎外と交友し、生涯の友となった。明治20年に帰国、明治美術会の結成に参加、また、画塾鐘美館を開き三宅克己、大下藤次郎、和田英作らと指導したが、明治32年、36歳で死去した。

渡辺文三郎(1853-1936)
嘉永6年備中矢掛町生まれ。幼いころから画を好み、四条派の岡本豊彦の門人・種彦に学び、興譲館で漢籍を修めた。明治6年上京し、五姓田義松に洋画を学んだ。明治13年に義松が欧州に留学したため、五姓田塾を預かり門下の指導にあたった。明治22年に明治美術会の結成に参加、明治35年には太平洋画会の創立に参加、以後同展に出品した。初代五姓田芳柳の長女で義松の妹幽香と結婚し、おしどり画家といわれた。晩年は薇山の号で洋画の技法を加味した日本画も描いた。昭和11年、84歳で死去した。

平木政次(1859-1943)
安政6年江戸生まれ。備中松山藩士・平木政徳の長男。一時備中松山に帰るが、明治6年両親とともに横浜の祖父の家に移り、当時横浜にいた五姓田芳柳の内弟子となった。明治10年、芳柳が大阪の陸軍病院勤務となったため、後を追って大阪に行き、京都の田村宗立、神戸の前田吉彦らと交友した。その後、東京に戻り、明治11年、玄々堂印刷会社に入社し、石版色刷の原画を描く画工となった。明治13年から文部省教育博物館に勤務、博物館の標本画を描き、明治23年からは東京帝国大学理科大学の嘱託員として製図室を担当、東京高等師範学校にも嘱託員として勤務。晩年には『明治初期洋画壇回顧』を出版した。昭和18年、85歳で死去した。

松原三五郎(1864-1946)
元治元年岡山生まれ。備中岡山藩の御典医の子。画家を志し中学を中退して上京、五姓田芳柳に師事した。明治17年岡山に戻り、岡山県師範学校と岡山中学の図画教師をつとめながら、画塾天彩舎を開き洋画の指導にあたり、満谷国四郎、鹿子木孟郎、徳永仁臣らを育てた。明治23年、大阪府の要請を受け、大阪師範学校に転任、以後大阪府立中学校、大阪陸軍地方幼年学校にも勤務した。大阪転任と同時に塾も大阪に移し、これが大阪における最初の洋画塾といわれている。明治37年、教職を去った後は、塾を天彩画塾と改称し、大正14年に閉めるまで多くの門人を育てた。明治29年には有志とともに大阪に関西最初の洋画団体「関西美術会」を結成、明治34年には同会を京都に移すなど、関西画壇の重鎮として活躍した。昭和21年 83歳で死去した。

岡山(27)-ネット検索で出てこない画家


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岡山洋画の先駆者、堀和平と前田吉彦

2016-07-27 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-

明治以降、岡山からは日本の近代洋画史において重要な仕事をした多くの洋画家を輩出している。その中で先駆者とされるのが、堀和平(1841-1892)と前田吉彦(1849-1904)である。菅原道真公を写実的に描いた堀和平の「天神像」は、岡山最初の油絵といわれている。彼らは、高橋由一、川上冬崖、五姓田芳柳といった我が国の初期洋画家たちと同様に、乏しい知識を手掛かりに、暗中模索のなか、見よう見まねで油絵の技法の習得に取り組んだ。堀と接した洋画家には、同じ総社出身の満谷国四郎、吉富朝次郎がおり、鹿子木孟郎も和平の描く油絵を熱心に見ていたという。和平は、鹿子木少年の熱心さに惹かれ、養子にしたいと申し入れたこともあったという。一方の前田は、神戸で美術教育に尽力し、神戸画壇の草分けとなった。

堀和平(1841-1892
天保12年総社西宮本町生まれ。堀和助安忠の四男。本名は和平安郷。実家は志保屋と号して酒店、質屋などを営んでいた。長男安道は病弱のため学問の道に進み、二男と三男は早世したため、和平が家業を継いだ。先進性に優れ、行動的な性格から実業家としても活躍し、仕事の関係でしばしば訪れていた神戸で、外国人から見よう見まねで油絵の技法を学んだという。総社に帰ってから自宅2階を改造し、ペンキを塗って画室を造り本各的な油絵制作を開始した。和平の画業については不明な点が多いが、菅原道真公を写実的に描いた「天神像」が、岡山最初の油絵とされている。洋画のほか、杏邨という号で日本画も描いている。明治24年、貿易商になるため神戸に進出したが、翌年、52歳で死去した。

前田吉彦(1849-1904)
嘉永2年高梁川端町生まれ。備中松山藩士・前田長兵衛の三男。同藩の野間凸渓に日本画を学び、のちに神戸に出た際に長崎から来ていた木村静山の描く洋風画に興味を示し、ほとんど独学で洋画の技法を習得した。明治11年から神戸師範学校で教鞭をとり、主に鉛筆画を教えた。明治14年の第2回内国勧業博覧会に「夕陽の景」と題して油絵を出品、明治33年神戸美術協会によって神港倶楽部で開催された第1回美術品展覧会に金箔の衝立に油絵具で描いた「静の舞」を出品するなど、神戸洋画壇の草分けとして活躍した。明治27年頃に神戸市池田の妙楽寺に入り、蟻然もしくは蟻禅と称するようになった。「画法階梯」「小学用画階梯」「小学用画階梯虫魚之部」「画学臨帖」など多くの図書教科書を著し、美術教育に尽力した。明治37年、56歳で死去した。

岡山(26)-ネット検索で出てこない画家


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東京に出て学んだ岡山の日本画家

2016-07-25 | 画人伝・岡山

文献:岡山の近代日本画 2000

岡山の日本画家は京都で学ぶものが多かったが、伝統的絵画の革新が急速に行なわれた東京に出て学ぶものもいた。富岡永洗、鏑木清方に師事して江戸期の歴史風俗に取材した美人画を多く描いた大林千萬樹(1887-1959)や、小堀鞆音に師事して歴史画を描いた棚田暁山(1878-1959)らもいるが、多くの若者たちが東京美術学校で学んでいる。

大林千萬樹(1887-1959)
明治20年岡山市生まれ。名は頼憲。若くして上京し、富岡永洗に日本画を学び、ついで川合玉堂、鏑木清方に師事した。大正2年第13回巽画会で「胡笳の声」が褒状一等となった。大正3年に再興第1回院展に初入選、2、3、4回展と連続入選し、第9回院展には「紅粧」が入選した。江戸期の歴史風俗に取材した美人画を多く描いた。大正末期より奈良に住み、のちに名古屋に移り、昭和10年代には京都に住むなど、各地を転々とし、昭和34年、熱海において73歳で死去した。

棚田暁山(1878-1959)
明治11年西北条郡津山町元魚町生まれ。名は梅吉。別号に真楯がある。少年期から古画、有識故事への関心が深く、上京して小堀鞆音に入門し、歴史資料や古美術品の収集を手伝いながら歴史画を学び、鞆音門下生で組織された「革丙会」の幹事もつとめた。日本絵画協会展などに出品。安井靫彦らが結成した「紅児会」や鞆音の「歴史風俗画会」などでも研鑽を積んだ。戦時中は津山に疎開したが、戦後は再び上京して女子校の図画習字の教師をつとめた。昭和34年、82歳で死去した。

戸田天波(1880-1961)
明治13年後月郡西江原村生まれ。幼いころから河合栗邨に学び、明治29年京都市美術工芸学校に入り、今尾景年に四条派を学んだ。のちに東京に出て橋本雅邦の塾に入り、翌年東京美術学校に入学、雅邦没後は寺崎広業に指導を受け、明治44年日本画科を卒業。帰郷ののち大阪に出て活動、さらに井原、京都、東京と転居した。昭和36年、82歳で死去した。

綱島静観(1876-1963)
明治9年上房郡有漢村生まれ。名は政治。思想家の綱島梁川は実兄。東京美術学校に入学し、橋本雅邦の指導を受け、筆谷等観、大智勝観らと交友した。卒業後は東京成城中学校の絵画専任講師をつとめた。院展、文展に出品、また、同郷の棚田暁山の後援組織「紅緑会」に参加していたと思われる。有漢小学校、有漢町教育委員会に作品が残っている。昭和38年、88歳で死去した。

御船綱手(1876-1941)
明治9年窪屋郡倉敷村生まれ。名は彦治郎、字は士彦。別号に祥山、百丈、百園主人がある。14歳の時に画家を志し、はじめ円山派の木村応春に、ついで大阪の渡辺祥益に学び、のちに東京に出て川端玉章に師事した。明治29年に東京美術学校に編入、橋本雅邦の指導を受けた。在学中は日本絵画協会などに出品、卒業後は大阪で画業に励んだ。明治43年の日英博覧会に際して西洋美術研究のため、アメリカ、ヨーロッパ各国を訪ねた。晩年は自宅に植物園を造り、直物研究を深め、週刊朝日に「百花画譜」を発表するなどした。昭和16年、66歳で死去した。

小倉魚禾(1876-1957)
明治9年上房郡高梁町生まれ。名は善三郎。別号に嘯風、白菫、壇溪、蘇山、鼠三、望牛山荘主人などがある。東京美術学校に入学して、川端玉章の指導を受け、平福百穂、結城素明らと交友した。卒業後は帰郷し維新高等小学校などにつとめた。明治40年再び上京して画業に励むが、母の死により帰郷。翌年は京都に出て、関西美術院で鹿子木孟郎に洋画を学んだ。明治42年からは再び郷里で教職についた。昭和32年、82歳で死去した。

林皓幹(1894-1923)
明治27年御津郡伊島村生まれ。名は虎雄。東京美術学校を卒業後、日暮里渡辺町に画室を設けて、府立第五中学校の教師をしながら画業に励み、帝展などに出品した。健康に恵まれず、帰郷して静養につとめたが、大正12年、30歳で死去した。

松島白虹(1895-1937)
明治28年岡山市生まれ。東京美術学校で結城素明に学び、帝展、文展に出品したほか、平和記念東京博覧会、パリ日本美術展覧会などでも活躍した。女子美術専門学校の教授をつとめた。昭和12年、43歳で死去した。

岡山(25)-ネット検索で出てこない画家


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京都で学んだ岡山の日本画家

2016-07-20 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の近代日本画 2000

小野竹喬(1889-1979)、池田遙邨(1895-1988)に代表される岡山の京都派だが、ほかにも石井金陵に南画を学び、のちに京都に出て山元春挙に師事した高橋秋華(1878-1952)や歴史画を得意とした森安石象(1879-1952)、今尾景年に学び、岡山に京都の新日本画を伝えた喜多村松斎(1867-1934)らがいる。岡山の青年画家たちは、新生日本画に未来を求めて京都を目指し、京都市立絵画専門学校などで京都派の画家に学んだのち、文展、帝展、国画創作協会展などを舞台に活躍した。

高橋秋華(1878-1952)
明治11年邑久郡幸島村生まれ。名は敏太。別号に聴鶯居がある。石井金陵に南画を学び、のちに京都に出て山元春挙に師事した。昭和5年に完成した東京の明治神宮絵画館に「御降誕御産殿図」が残っている。昭和27年、79歳で死去した。

森安石象(1879-1952)
明治12年都窪郡庭瀬町生まれ。名は石蔵。谷口香☆(☆は山+喬)に師事した。歴史画を得意とした。昭和3年に岡山に帰り、門田の三友寺境内に画房を設けた。倉敷市の瀬戸寺に「盛綱先陣図」が残っている。昭和27年、73歳で死去した。

喜多村松斎(1867-1934)
慶応3年広島県福山生まれ。今尾景年につき円山派を学び、岡山に帰り山陽高等女学校の教師をしたほか、自宅でも広く教え、京都の新日本画の傾向を岡山に伝えた。昭和9年、68歳で死去した。

井上蘆仙(1873-1941)
明治6年後月郡井原村新町生まれ。名は専次郎。川上左平の長男、叔父・井上藤七郎の養子となる。大阪の小野晴雲、中川蘆月に学び、さらに京都に出て菊池芳文の門に入った。のちに大阪に戻り、相愛女学校で絵画教師をつとめた。大正13年、招かれて井原興譲館の図画教師となり、かたわら画業に励んだ。昭和16年、69歳で死去した。

丸浜大檣(1876-1960)
明治9年川上郡成羽町生まれ。名は善次郎。別号に光浦、高澄がある。京都に出て菊池芳文に師事、その後菊池契月の門に入った。帝展に出品した。昭和35年、85歳で死去した。

石橋謙吾(1897-1932)
明治30年浅口郡黒崎村生まれ。別号に訪溪、春更、思更がある。大正7年浅口郡徳本尋常高等小学校の教諭となるが、退職して京都に出て小野竹喬の門に入った。国展に出品するが、国画創作協会解散後は、新樹社の設立に参加した。その後、洋画家を目指す弟の博惠とともに東京に出るが、昭和7年、川崎市において、36歳で死去した。

小林華徑(1897-1980)
明治30年小田郡笠岡町生まれ。名は増治。京都市立絵画専門学校卒業。土田麦僊、西村五雲に師事し、福田平八郎の指導も受けた。京都在住の岡山県出身画家の団体「烏城会」の会員になる。帝展に出品したが、昭和19年に帰郷して笠岡の住吉に住んだ。戦後は岡山県美展審査員などをして地元で活動、昭和30年には笠岡美術協会の設立に参加した。昭和55年、84歳で死去した。

村上志郎(1900-1949)
明治33年小田郡笠岡町生まれ。笠岡商業学校を卒業後、大阪の住友銀行に就職。翌年、画家を志し銀行を辞め帰郷。しばらく小野竹喬の指導を受けた。その後、土田麦僊に師事して国画創作協会展に出品、同展解散後は新樹社の設立に参加し、新樹社解散後は笠岡で活動した。昭和24年、50歳で死去した。

木村丈夫(1900-1976)
明治33年都窪郡早島町生まれ。京都市立絵画専門学校研究科修了。菊池契月、川北霞峰に師事した。帝展、新文展に入選を重ね、烏城会の設立に参加した。昭和51年、77歳で死去した。

三木彩光(1900-1936)
明治33年吉備郡総社町生まれ。京都市立絵画専門学校卒業。菊池契月に師事した。昭和11年、37歳で死去した。

岡山(24)-ネット検索で出てこない画家


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浪華の美人画家・上島鳳山

2016-07-17 | 画人伝・岡山

文献:上島鳳山と大阪の画家たち、笠岡画人伝・俳諧史

小田郡笠岡村の辻家に生まれ、大阪の上島家を継いだ上島鳳山(1876-1920)は、円山派の西山完瑛らに師事し、動物画や美人画を得意とした。酒を愛する豪放磊落な性格で、身近にいた北野恒富(1880-1947)によると、かなりのアルコール依存症だったらしく、酒が切れると冷酒をあおって描いたという。能や狂言についての造詣も深かった。繊細で官能的な鳳山の美人画は、関西では竹内栖鳳に迫る人気を得ていたが、45歳で死去したため今は知る人は少ない。

上島鳳山(1875-1920)
明治8年小田郡笠岡村生まれ。本は寿治郎。辻喜平の二男。祖父は辻鳳山。実家は刀鍛冶、のちに理化学器械の製造を家業としていた。画房を鳳鳴画屋と称した。はじめ大阪の円山派の画家・木村貫山に学び、ついで西山完瑛、渡辺祥益に師事した。明治33年に大阪の上島多次郎の長女くに子と結婚して上島姓を継いだ。結婚までは祖父と同姓同名の「辻鳳山」を名乗っていた。明治42年、第3回文展に「緑陰美人遊興之図」を出品するが落選、以後文展に出品した記録はない。大正元年に大阪の青年画家による絵画運動「大正美術会」の設立に北野恒富らと参加、大正4年の第1回大阪美術展覧会では審査員をつとめたが、第4回展では恒富とともに辞退した。大正9年、45歳で死去した。

辻鳳山(1794-1850)
寛政6年生まれ。名は喜平。古手屋・辻徳十郎の子。上島鳳山の祖父。はじめ黒田綾山に学び、のちに円山派の渡辺南岳に師事した。敬業館教授の小寺清先、関鳧翁ら文人と交流し、清先の長男・清之の著書『備中名勝考』の挿絵や、笠岡笠神社の衝立の絵などを描いた。嘉永3年、57歳で死去した。子の辻喜平(2代目)は画家ではなく、理化学研究家だった。二代目の二男の寿治郎が上島鳳山である。

鳳陽(不明-不明)
上島鳳山の弟子。鳳山には実子として2人の男子がいたが、いずれも早世した。鳳陽は昭和4年の時点で、鳳山と同様に井口古今堂と関係があったことがわかっている。

岡山(23)-ネット検索で出てこない画家


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小野竹喬、池田遙邨ら、栖鳳門下の岡山の日本画家たち

2016-07-14 | 画人伝・岡山

文献:岡山の近代日本画 2000

四条派は岡山出身の岡本豊彦の画系を中核に発展した。豊彦の門人である塩川文麟、さらにその門人の幸野楳嶺と続き、楳嶺のあとを受け、明治30年代以降の京都の指導者として君臨したのは楳嶺門下の竹内栖鳳だった。その栖鳳門には多くの岡山出身の日本画家たちが学んでいる。のちに文化勲章を受章する小野竹喬(1889-1979)、池田遙邨(1895-1988)をはじめ、東原方僊、稲葉春生、森谷南人子らが代表的な画家である。

小野竹喬(1889-1979)
明治22年小田郡笠岡村生まれ。祖父は白神澹庵、長兄は小野竹桃。明治36年、京都に出て竹内栖鳳に入門。明治44年京都市立絵画専門学校を卒業。このころ黒猫会や仮面会などの絵画革新運動に参加。大正5年文展で特選、しかし翌年文展に落選したのを機に文展の審査方法に対する不満が高まり、大正7年、土田麦僊、榊原紫峰らと国画創作協会を創立し、以後国展を中心に活動する。国展開催後は帝展に復帰した。昭和22年日本芸術院会員、昭和43年文化功労者、昭和51年文化勲章。昭和54年、89歳で死去した。

池田遙邨(1895-1988)
明治28年生まれ。倉敷市出身。明治43年、大阪に出て洋画家・松原三五郎の天彩画塾に入門、大正2年、小野竹喬と知り合い日本画に関心を持ち独学し、大正3年文展に初入選、大正8年、竹内栖鳳に入門した。大正15年京都市立絵画専門学校研究科卒業、昭和3年帝展で特選、昭和35年日本芸術院賞受賞、昭和51年日本芸術院会員、昭和59年文化功労者、昭和59年文化勲章。昭和63年、92歳で死去した。

小野竹桃(1880-1959)
明治13年小田郡笠岡村生まれ。小野竹喬の長兄。明治33年頃、竹内栖鳳に師事した。明治39年より大阪の俳人・松瀬青々が主宰する「寶松」に俳句や短文を寄稿、明治42年に文芸協会演劇研究所の発足にあたり、第一回生となった。大正8年、帝展に入選し再び日本画家として活動するようになった。また、竹喬らが創立して国展には素描や版画で入選、国展解散後は新樹社設立に参加した。昭和34年、79歳で死去した。

森谷南人子(1889-1981)
明治22年小田郡大井村生まれ。明治27年ころ神戸に移住した。大正4年、京都市立絵画専門学校研究科を修了、在学中に竹内栖鳳を指導を受けた。国展に出品し、国展解散後は、新樹社の結成に参加した。帝展や日本南画院展にも出品した。昭和56年、91歳で死去した。

柴原魏象(1885-1954)
明治18年上房郡高梁町本町生まれ。明治40年、京都市立美術工芸学校専攻科修了。竹内栖鳳に師事し、のちに竹杖会に所属した。文展、帝展のほか日本美術展などに出品した。俳句、俳画、漫画をたしなみ、明治から大正にかけて時事雑誌や俳句雑誌に挿絵を描いた。昭和29年、70歳で死去した。

東原方僊(1886-1972)
明治19年邑久郡福岡村生まれ。小学校卒業後、画家を志し、吉備津・吉備津彦神社の御用絵師・黒住義方に学んだ。明治43年ころ京都に出て、竹内栖鳳の門に入った。大正4年に文展に初入選し、以後は文展、帝展、新文展を舞台に活躍した。京都在住の岡山県出身画家で結成した「烏城会」の中人的存在だった。昭和47年、86歳で死去した。

稲葉春生(1890-1976)
明治23年下道郡新本村生まれ。岡山県師範学校を卒業後、総社や岡山の小学校で指導や校長を歴任、日本画を喜多村松斎に学んだ。大正14年、池田遙邨の紹介で竹内栖鳳に入門、栖鳳が湯河原に転居したのちは、土田麦僊に師事した。帝展、文展などに出品した。帰郷後は、岡山県在住日本画家の研究団体「青岡会」や日本画研修団体「青丘社」を結成するなど、岡山の日本画の振興につとめた。昭和51年、85歳で死去した。

岡山(22)-ネット検索で出てこない画家


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慈善社会事業家としても活躍した南画家・津田白印と門人

2016-07-13 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の近代日本画 2000、笠岡画人伝・俳諧史、岡山県美術名鑑

備中笠岡の浄土真宗の僧侶・津田白印(1862-1946)は、長崎派の鉄翁祖門の高弟・成富椿屋に南画を学び、南画家として活動するとともに、慈善社会事業家としても活躍した。明治24年、白印は本派本願寺ならびに奈良県知事より命じられ奈良監獄の教誨師をつとめた。その間に不良少年や孤児の補導を決意し、明治33年、郷里の笠岡の本林寺内に孤児収容施設の甘露育児院を設立、のちにこれを浄心寺に移した。この育児院は大正13年まで続いたが、白印はさらに私立淳和女学校を興して校長となった。これらの施設の経営は苦しく、白印は精力的に画を描き、かつ頒布につとめ、その収入をすべて学校の維持に投入したという。また、岡山県南西部を中心に白印風南画の後継者を多く育てている。

津田白印(1862-1946)
文久2年生まれ。幼名は峯丸、のちに明導。別号に白道人、吸江山人、黄薇山人、甘露窟主人などがある。備中笠岡の浄土真宗浄心寺住職・津田明海の二男。少年のころ豊前国で仏教学や漢学を修めるとともに、長崎派の鉄翁祖門の高弟・成富椿屋に南画を学んだ。のちに奈良監獄の教誨師となり、少年囚徒の教育を担当して彼らの社会環境を研究するうちに、慈善社会事業家になる決意を固めた。明治33年、孤児収容施設の甘露育児院を笠岡の本林寺に設立。育児院はのちに浄心寺に移るが、経営は困難をきわめ、自らの画料や浄財によって院を経営した。育児院は大正13年まで継続。この前年に私立淳和女学校を設立して女子教育にあたった。昭和21年、85歳で死去した。

笹井二洲(1900-1948)
明治33年小田郡山田村原生まれ。祖父は瓦焼屋。津田白印の高弟。後月郡高屋町高山寺に「寒山拾得」などがある。矢掛の洞松寺のついたてに「二洲」の落款がある。昭和23年、49歳で死去した。

小薮白江(1889-1963)
明治22年後月郡明治村花瀧生まれ。山口の小薮家の養子になった。本姓は酒井、名は幸吉。別号に不倒庵桃村がある。津田白印に南画を学んだ。小学校訓導になり後月郡聖園校などで勤務した後、笠岡高教諭や淳和女学校教諭をつとめた。昭和38年、75歳で死去した。

佐藤白華(1887-1963)
明治20年生まれ。新賀下長迫の人。津田白印に南画を学んだ。岡山県師範を卒業して教職につき、陶山尋常高等小学校長を最後に退職した。井上雪下主宰の平原歌会に入って短歌の研究に励み、余技として彫刻をよくした。昭和38年、77歳で死去した。

卜部京洲(1871-不明)
明治4年後月郡出部村生まれ。藤井蘇堂、津田白印に南画を学んだ。中国、米国を遊歴した。

岡山(21)-ネット検索で出てこない画家


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岡山の近代南画家、河合栗邨と門人

2016-07-12 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の近代日本画 2000、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典 

浅口郡西阿知村生まれの河合栗邨(1851-1908)は、小野竹喬の祖父である白神澹庵(1825-1888)に南画を学び、のちに井原に栗邨画房を開いて郷土の画家を指導した。そのためこの地方に南画が広まった。門人には長男の河合文林をはじめ、渡辺鼎溪、森六峰、藤井琴谷、高木栗軒らがいる。

河合栗邨(1851-1908)
嘉永5年浅口郡西阿知村生まれ。名は龍、通称は春畝、旧姓は小淵。後月郡芳井村の河合家を継ぎ、のちに井原市に移った。少年のころから玉島の白神澹庵に南画を学び、鎌田玄渓に詩文を学んだ。画は山水、花鳥を得意とした。明治41年、57歳で死去した。

白神澹庵(1825-1888)
文政8年生まれ。備中松山の人。小野竹喬の祖父。通称は謙蔵。別号に半渓がある。はじめ四条派を学び、南画に転じた。玉島の柚木家に寄寓して作画した。彫刻、篆刻にも長じた。明治21年、64歳で死去した。

渡辺鼎溪(1857頃-1905)
安政4年生まれ。後月郡芳井村飯名の人。通称は省吾。興譲館に入って坂田警軒に漢籍を学び、河合栗邨について南画を研究、のちに京都に出て九江、逸鵬の門を訪れて研鑽し、花鳥、山水をよくした。明治30年、49歳で死去した。

河合文林(1875-1912)
明治8年後月郡井原村生まれ。河合栗邨の長男。幼名は元之助。別号に復堂がある。はじめ備後福山の藤井松林に師事して四条派を学び、ついで京都の今尾景年の門に入った。画才に恵まれ、木島桜谷とならんで景年門の二俊才とよばれたが、健康を害し、10年余りの静養ののち、大正元年、38歳で死去した。

森六峰(1879-1946)
明治12年後月郡池谷村生まれ。本名は安太。別号に子兼、松嶽がある。はじめ河合栗邨に師事し、その後京都に出て田能村直入の門に入った。入門当時直入は80歳で、最晩年の弟子になるが、直入の画房「画神堂」に住み込み、師の歴遊の旅に同伴するなどして、短期間に直入の画法を学んだ。直入没後は郷里に帰り、文人と交わりつつ画業を続けた。昭和21年、68歳で死去した。

藤井琴谷(1879-1911)
明治12年後月郡明治村生まれ。名は彈、字は長嘯。16歳の時に河合栗邨に師事し、のちに大阪に出て森琴石の門に入った。明治44年、33歳で死去した。

高木栗軒(1880-不明)
明治13年生まれ。山口の人。医師・高木省斎の長男。名は折三。河合栗邨に南画を学び、一家をなした。

岡山(20)-ネット検索で出てこない画家


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岡山の近代南画家、柚木玉邨と久我小年

2016-07-11 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の近代日本画 2000岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-

浅口郡玉島の旧家に生まれた柚木玉邨(1865-1943)は、東京帝国大学農学部卒業後、多くの会社や銀行の重役をつとめ、岡山県農業会で幹事兼技師として働くなど、地元の経済界に大きな足跡を残した。また、若い時から玉島を訪れた清の画人・胡鉄梅に指導を受け、山水や蘭竹をよくし、詩書にもすぐれていた。弟の久我小年(1868-1938)も南画を描き、煎茶道をたしなみ、築庭家として知られた。子の久太は洋画家になった。

柚木玉邨(1865-1943)
慶應元年備中玉島生まれ。名は方啓、字は子爰、通称は梶雄。家は松山藩の吟味役をつとめた奉行格の待遇を受けた旧家。柚木正兵衛の子で、のちに柚木玉洲の養子になった。別号に瓊壁仙客、雙壁斎主、西爽亭主人、小鋤雲館主人などがある。はじめ儒学を松田呑舟、信原藤陰、鎌田玄渓、鎌田平山に、詩を森春濤、三島中洲、高野竹隠らに、書を日下部鳴鶴に学んだ。明治23年東京農林学校(東京大学農学部)を卒業、第八六国立銀行取締役などをつとめ、岡山県農業会の幹事兼技師としても働いた。清の胡鉄梅について南画を学び、また中国に渡り宋元の絵画を研究した。詩文、書道にも長じ、県下を代表する文人として広範な影響を及ぼした。昭和18年、79歳で死去した。

久我小年(1868-1938)
明治元年玉島生まれ。柚木玉洲の子。小年が生まれる前年に玉洲は玉邨を養子にしていたため、のちに小田郡金浦の久我家を継いだ。名は苗啓。字は君碩・老春、通称は早苗。別号に小鯰、太古山人、小雲山房主人などがある。清の胡鉄梅について南画を学び、松田呑舟、鎌田平山に詩文を学んだ。明治19年には玉邨とともに東京に遊学した。古書画の鑑定や煎茶にも通じ、築庭家としても知られた。昭和13年、71歳で死去した。

柚木久太(1885-1970)
明治18年玉島生まれ。柚木玉邨の長男。県立岡山中学校卒業後上京し、満谷国四郎に師事して、太平洋画会研究所に学んだ。明治42年に太平洋画展に初入選、以後出品を続けた。明治44年には文展に初入選した。この年満谷国四郎、徳永仁臣らと渡欧、アカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに師事した。スペイン、スイスでも制作したが、第一次大戦のため大正4年に帰国、翌年文展で3等賞を受け、以後文展、帝展、太平洋画会展を舞台に活躍、帝展審査員などをつとめた。戦後は郷里・玉島で制作し、昭和30年には和田三造らと新世紀美術協会を創立した。昭和45年、85歳で死去した。

岡山(19)-ネット検索で出てこない画家


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岡山の近代南画家、石井金陵・衣笠豪谷・波多野華涯

2016-07-07 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の近代日本画 2000

上道郡金岡村(岡山市西天寺)に生まれた石井金陵(1842-1926)は、古市金峨や岡本秋暉に学んだのち、岡山市岩田町に画塾を開き多くの門下生を教え、その後、大阪に移り、関西南画壇の長老として活躍した。窪屋郡倉敷村(倉敷市)出身の衣笠豪谷(1850-1897)は、明治政府の勧農局に勤務して養鶏法の普及などに功績を挙げ、そのかたわら南画をよくした。また、大阪に生まれ、東京の跡見学校を卒業後岡山市内に定住した閨秀画家・波多野華涯(1863-1944)は、岡山の南画普及につとめ、多くの女性門下生を育てた。

石井金陵(1842-1926)
天保13年上道郡金岡村生まれ。名は俊、字は君明。はじめ古市金峨に画を学び、ついで市川東壑、岡本秋暉に師事した。のちに全国を遊歴して画技をみがいた。岡山市岩田町に画房を設けて多くの門下生を教えていたが、明治36年に大阪に戻り、天王寺北山町・小宮町に画房「桃谷山荘」を構えた。姫島竹外、森琴石とともに大阪南画壇の三長老と呼ばれた。晩年は神戸市須磨の「鉄拐山房」に住んだ。昭和3年、85歳で死去した。

衣笠豪谷(1850-1898)
嘉永3年窪屋郡倉敷村生まれ。名は済、字は紳卿、通称は延太郎。別号に天柱山人がある。備中の景勝地・豪渓にちなんで豪谷と号した。少年のころ、倉敷に来ていた勤王画家の石川晃山について詩と南画を学び、ついで興譲館に入って阪谷朗廬に師事し、その後江戸に出て、書を市川萬庵に、詩を大沼枕山に、画を佐竹永海と松山延洲に学び、さらに京都に中西耕石を訪ねて画の研究をかさねた。明治6年に絵画研究のため清国に渡ったが、養鶏法に興味を持ちその勉強に熱中、帰国後は勧農局で新しい孵卵法の普及につとめた。明治30年、48歳で死去した。

波多野華涯(1863-1944)
文久3年大阪生まれ。名は元。明治8年に跡見花蹊が東京・神田猿楽町に開校した跡見学校(のちの跡見学園)の第一期生となった。在学中に画家でもあった跡見花蹊に師事して花崖の号を受け、ついで滝和亭について南画を修めた。詩を河野春帆に、文を藤沢南涯に学んだ。大正5年ころから岡山の内山下桜馬場に住み、「有香社」を主宰して南画の普及につとめ、多くの女性門下生を育てた。昭和19年、82歳で死去した。

岡山(18)-ネット検索で出てこない画家


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岡山の岸派・矢部楳山

2016-07-05 | 画人伝・岡山

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典 

岡山の岸派としては、玉島に寄寓していた岸派の画人・関石城に学んだ矢部楳山(1849-1911)と小野竹下(1845-1897)がいる。楳山はさらに京都に出て岸連山に師事しており、同門に林玉峰(1830-1886)がいる。また、井上端木、野崎鶴巣は岸駒に学んでいる。

矢部楳山(1849-1911)
嘉永2年浅口郡連島生まれ。通称は卓治、別号に亀岳、青樹などがある。7歳のときから玉島に寄寓中の関石城について岸派を学び、のちに京都に出て岸連山に師事し技を磨いた。山水、花鳥、人物を描いたが、特に人物を得意とした。第3回内国勧業博覧会で一等褒状を受けるなど、中央の展覧会でたびたび受賞した。総社市三須の国分寺の客殿に「花合戦」という楊貴妃を主題にした極彩色の襖絵が残っている。明治44年、61歳で死去した。養子の楳堂も父に学んで岸派をよくした。

小野竹下(1845-1897)
弘化2年生まれ。浅口郡玉島町上成の人。通称は九一郎。亀岡藩下の豪族・小野信太の子。漢書を森田節斎に学び、画を関石城に学び、のちに白神澹庵にも学んだ。明治3年伊賀国上野において53歳で死去した。

林玉峰(1830-1886)
天保元年都窪郡菅生村生まれ。名は貞幹、通称は梅吉、のちに覚治郎と改めた。はじめ梅園と号していたが、のちに應山玉峰と号した。井上屏石、岸連山に師事し、一家をなした。篆刻も得意とした。明治19年、57歳で死去した。

井上端木(1768頃-1840)
明和5年頃生まれ。備中倉敷の人。名は廣輔。別号に慶雲斎がある。和歌を小沢蘆庵に学び、のちに京都に出て先斗町に住み、岸駒に師事し、鶴を得意とした。常に堂上に出入りして法橋に叙せられた。天保11年、73歳で死去した。

野崎鶴巣(不明-1872)
元徳島藩士。画を好み、弟に家を譲って遊歴したのち、岸駒に師事した。一時備後東城に住み、ついで上房郡高梁に住んだ。明治5年死去した。

野崎愛山(不明-不明)
幕末から明治前期頃の人。上房郡高梁に住んでいた。野崎鶴巣の子。画をもって松山藩に仕えた。

勝山西圃(1866頃-1915)
慶応2年頃生まれ。岡山野田屋町の人。名は安執、安亨の子。矢部楳山に師事した。小学校に勤務いていた。大正4年、50歳で死去した。

岡山(17)-ネット検索で出てこない画家


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四条派から南画に転じた白神暭々と門人

2016-07-04 | 画人伝・岡山

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、岡山の美術 近代絵画の系譜、一宮ゆかりの画人たち 特別展、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典 

柴田義董の代表的門人として、終始文人的な作画態度を保持し、晩年には南画に転じた白神暭々(1777-1857)がいる。暭々は、窪屋郡中島村の豪農の家に生まれ、10歳前後で近くに住む黒田綾山の門に入って南画を学んだのち、京都画壇で活躍していた柴田義董について四条派を修めた。しかし、もともと資産家で、京都では頼山陽や篠崎小竹らと親しく交友するなど文人的な性格だったため、技巧を重視する四条派の作風は結局適さず、中年以降は次第に中国明清画法を取り入れるようになり、明清画に倣った山水、花鳥を多く残している。

※白神暭々の「暭」の正しい表記は「白」+「皐」

白神暭々(1777-1856)
安永6年窪屋郡中島村生まれ。名は昌保、字は子興、通称は平助、初号は鯉山。豪農・白神昌房の長男。幼いころから画を好み、10歳前後で玉島の黒田綾山に師事して本学的に画法を学びはじめた。綾山の門では鯉山と号して作画活動を行ない、幼馴染みの岡本豊彦らと競いあったと思われる。文化8、9年頃には柴田義董に学ぶが、生活の拠点を京都に移さず、中島村に住み、時々京都に滞留しながら学んだとみられる。文化11年に暭々の居宅を訪れた頼山陽が記した『暭々居記』によると、暭々は資産が豊かで悠々と暮らしており、画業に関しても自らの楽しみとしてのみ筆を執るといった文人的趣味的姿勢を崩さなかったという。画風は次第に中国明清画法を取り入れるようになり、それが晩年まで続いている。40代半ばになると家業を一族に託して中島村を去り、京都、次に播州高砂に移り、50代後半には但馬国生野、60代後半には大坂に住んでいたようである。69歳のときに病を得て帰郷し、安政4年、81歳で死去した。

井上楠堂(不明-1856)
名は眞澄、幼名は祐吉。はじめ屏石と号してのちに楠堂と改めた。都窪郡大高村の人。井上環の長男。家は代々足高神社の神官をつとめていた。平賀元義に国学を学び、和歌を関鳧翁に、漢籍を西山拙斎に学んだ。画ははじめ白神暭々に師事し、ついで大原呑舟の門で四条派を修めた。のちに京都で岸岱に師事した。安政3年死去した。

中原国華(1796頃-1867)
寛政8年頃賀陽郡八田部生まれ。名は正香、通称は利右衛門、初名は利之丞。別号に瓊岳がある。父の生家を継ぎ、玉島屈指の富豪となった。風流を好み、画を白神暭々に学び、花鳥、人物をよくした。慶応3年、72歳で死去した。

荒木曲肱(1789頃-1878)
寛政元年頃生まれ。名は喜六。備中岡田村の人。白神暭々に画を学び、人物、花鳥を得意とした。余技として彫刻もよくした。岡田藩の絵師として幕府に進達する絵画に関するものはすべて曲肱の手によったとされる。明治11年、90歳で死去した。

岡山(16)-ネット検索で出てこない画家


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岡山の四条派普及に大きく貢献した古市金峨と門人たち

2016-07-03 | 画人伝・岡山

文献:岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-、岡山の美術 近代絵画の系譜、一宮ゆかりの画人たち 特別展、岡山県美術名鑑、備作人名大辞典 

岡本豊彦の内弟子として学んだ古市金峨(1805-1880)は、岡山の四条派普及に大きく貢献した。金峨は児島郡尾原村(倉敷市)に生まれ、17、8歳の時に京都に出て岡本豊彦の門に入った。生家の紺屋にちなんで藍山と号したが、30歳頃に帰郷してから金峨と改めた。県下を中心に積極的な制作活動を展開する一方で、地元や備前一宮などにも出張所を設けて門下を指導し、県内での四条派の普及に大きく貢献した。その後、50歳代の中頃からは時流にかなった南画の技法を取り入れるようになり、以後は時代とともに南画的色彩を濃くしていった。また、岡本常彦は叔父・豊彦の門に入り、一時は豊彦の養子となったが、離縁して岡山に帰り、晩年は洋風画を描いた。

古市金峨(1805-1880)
文化2年児島郡尾原村生まれ。名は猷、通称は啓三または哲蔵。一時千葉姓を名乗ったこともある。家が紺屋だったたはじめ藍山と号したが、のちに金峨と改めた。17、8歳のころ京都に出て岡本豊彦の内弟子となり四条派を修め、塩川文麟らとならんで逸材と称された。天保のはじめ郷里に帰り、生家に画房を構え、また御津郡一宮をはじめ稽古場をつくり門人を教えた。明治13年、76歳で死去した。

岡本常彦(1816-1891)
文化13年生まれ。京都に出て叔父・岡本豊彦のもとで四条派を学び、一時は豊彦の養子となるが、覇気にはしりすぎたためか離縁になり、のちに岡山に帰って県庁につとめ、絵事方面の仕事をしたこともある。晩年には洋画風の遠近法や陰影法を用いた写実画を描いた。明治24年、76歳で死去した。

植田鳳沖(不明-不明)
備中倉敷の人。岡本豊彦に師事して画をよくした。

難波玖嶽(不明-不明)
吉備郡真金村生まれ。古市金峨に師事し、三好雲仙、岡本金波、大守峨山と共に門下生四天王の一人と称された。明治初年ころ、30歳余りで死去した。

三好雲仙(1812-1895)
文化9年吉備真金生まれ。名は安平。古市金峨に師事し、門下生四天王の一人と称された。人物画に巧みで、東海道絵行脚で知られている。吉備津神社、上高田神社に作品が残っている。明治28年、84歳で死去した。

岡本金波(1823-1896)
文政6年備前一宮生まれ。本姓は菅原、諱は麟。古市金峨に師事し、門下生四天王の一人と称された。花鳥、山水、人物を得意とし、備前藩候より特賞を受け、また明治6年には岡山県から褒賞を受けている。明治29年、74歳で死去した。

大守峨山(1830-1895)
天保元年備前一宮生まれ。通称は義記。古市金峨に師事し、門下生四天王の一人と称された。花鳥を得意とした。明治23年第3回内国博覧会をはじめ各展で受賞した。明治28年、66歳で死去した。

深井豊州(1838-1911)
天保9年生まれ。通称は理三郎、名は光英、別号に逸南がある。古市金峨に師事し、門下生10哲の一人にかぞえられた。絵画共進会、内国博覧会などで褒状を受けた。明治44年、74歳で死去した。

渡辺義彦(1831頃-1881)
天保2年頃生まれ。備中の人。名は壽平。別号に貞峰、玉景、金嶽などがある。古市金峨、岡本亮彦に師事した。明治14年、51歳で死去した。

岡部雲程(1812頃-1889)
文化9年頃生まれ。名は保定、字は協中。家は代々浅口郡連島町箆取神社の祠司をつとめていた。はじめ古市金峨に師事し、さらに三宅西浦の門に入った。山水を得意とした。明治22年、78歳で死去した。

岡山(15)-ネット検索で出てこない画家


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