松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

ネット検索で出てこない画家・インデックス

2016-01-01 | ネット検索で出てこない画家

▽画人伝・島根

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□画人伝・茨城
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□画人伝・南部


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ネット検索で出てこない画家 その6

2014-03-07 | ネット検索で出てこない画家

文献:明治大正文學美術人名辭書

矢崎千代治 やざき・ちよじ
明治5年8月横浜市生まれ。はじめ大野幸彦の門に学び、のちに東京美術学校に入り、35年卒業、36年から43年まで欧米諸国に遊学した。第3回文展「夕涼」、第4回文展「奈良」、第6回文展「機織」、第7回文展「草苅」、第9回文展「籔入」「樹蔭」、第10回文展「磯」、第11回文展「焙鑛爐」を出品して褒状または三等賞を得た。

保田素堂 やすだ・そどう
明治15年2月大阪市大寶寺町に生まれる。名は芳太郎。はじめ中川蘆月、竹内栖鳳、橋本雅邦に、のちに寺崎広業に学んだ。30年、大阪扶桑絵画協会で三等賞そ受賞。二葉会、巽画会、正派同志会、美術研精会などで受賞した。第1文展「佛陀と魔女」、第4回文展「秋の夜」、第5回文展「榛名の初夏」、第6回文展「秋林」、第9回文展「暮春」、第10回文展「緑陰」、第11回文展「和樂」を出品し数回褒状を得た。

安田稔 やすだ・ねん
明治14年10月新潟県長岡市に生まれる。はじめ小山正太郎に不同舎に入り、36年東京美術学校西洋画科を卒業した。その後ドイツに留学して44年6月ミュンヘン美術大学を卒業、さらに英仏で二年間研究し、在欧7年ののちに帰国した。滞欧中にロンドンのアート・ソサエティに出品して受賞した。第8回文展「お茶どき」、第9回文展「樹蔭のまどゐ」、第10回文展「肖像」、第11回文展「盛夏」を出品した。太平洋画会会員。

山名義海 やまな・ぎかい
慶應元年8月江戸生まれ。名は繁太郎。はじめ住吉廣賢に、のちに住吉派の父・山名貫義に学び、帝室博物館技手監査掛、美術部絵画主任などを務めた。大和絵および絵画の鑑定に長じ、博覧会、展覧会などの受賞も多い。

渡邊金秋 わたなべ・きんしゅう
美濃の人。通称は鍬太郎。10歳の時に狩野派の武光桂園に学び、18歳の時に上京して宮本三平に師事した。18年から25年まで帝国大学で動植物写生に従事、また画手本数種を編纂した。22年明治美術会に入り、ついで福地復一と日本図案会を起こし、38年1月、40歳で病没した。


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ネット検索で出てこない画家 その5

2014-03-04 | ネット検索で出てこない画家

文献:明治大正文學美術人名辭書

濱谷白雨 はまたに・はくう
明治19年1月富山県婦負郡四方町に生まれる。名は榮次郎。明治43年東京美術学校日本画科卒業。大正2年文部省美術展覧会で「夏雨」が褒賞を得る。帝国絵画協会、国民美術協会、東台画会等の会員。

松岡正雄 まつおか・まさお
明治2年3月奈良県宇陀郡伊那佐村生まれ。大正6年、東京美術学校師範科を卒業し、長野県飯田中学で教鞭をとった。二科会には、第3回展「山上より」「村の子供」、第4回展「國旗のある風景」「黒猫のゐる風景」「故郷の春」を出品した。大正6年、光風会展に出した「風景」は宮内省の御用となった。

南静山 みなみ・せいざん
大阪の画家・篆刻家。備後国福山の人。名は保、字は子壽、別号に山壽堂、静壽庵など。幼い頃より書画彫刻を好み、楳本翁に指導を受けた。明治11年淵野桂仙に画を学び、後に各地を漫遊して修業した。明治23年以降、内国勧業博覧会、日本美術協会展覧会、日本美術協会大阪支会等に出品して優賞を受けた。27年北白川宮殿下の命を受け御印を刻し、翌年再び同殿下の命で彫刻彩漆の印色器を制作、同年3月また同殿下の命で天皇陛下への御獻納の御硯函を制作した。31年1月には日本美術協会大阪支会技芸員となった。

森広陵 もり・こうりょう
明治7年12月前橋市に生まれた。はじめ父・森霞巌に学び、後に寺崎広業に師事し、狩野派の画風を研究し、諸所の展覧会で十数回の受賞を重ねた。美術研精会会員、独立絵画会会員、大東絵画協会幹事。文展には「逍遙」を出品した。

森鳳聲 もり・ほうせい
慶應3年5月丹後国舞鶴町京口に生まれる。彫刻家。彫刻を独修して京都美術学校の教師となる。内国勧業博覧会、仏国巴里万国大博覧会、米国市俄古世界博覧会、同聖路易万国博覧会に出品して受賞した。第1回文展「聖章」、第3回文展「信玄謙信」、第11回文展「百川卿」を出品。


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ネット検索で出てこない画家 その4

2014-02-27 | ネット検索で出てこない画家

文献:明治大正文學美術人名辭書 

田中實 たなか・みのる
明治2年7月9日常陸国笠間に生まれる。藩士・猪瀬虎之助義治の三男。幼名は龍太郎、後に田中氏を継ぎ名を實と改めた。別号に鉄齋、和堂、二波山人。幼い頃から画を好み、後に上京して滝和亭に師事した。絵画共進会、日本美術協会、青年絵画共進会、内国勧業博覧会等で多数受賞した。

玉手菊洲 たまて・きくしゅう
天保10年9月大阪生まれ。玉手棠洲の子。通称は治郎。父に画法を学び、明治15年夏、東山路木曽路を遊歴して上京した。絵画共進会開会に際し出品。北宗画に力を入れた。

田原梅谷 たわら・ばいこく
慶應元年2月生まれ。東京の人。名は和、字は致中、通称は銀次郎、別号に華堂。老川文蔵の子だが後に田原屋を継いだ。幼い頃に高林芳谷に南宗画を学び、さらに藤堂二州伯に学んだ。明治19年東洋絵画共進会で褒賞を受け、翌年絵画共進会で獨逸国皇室の御用品となった。

田鶴年 でん・かくねん
慶應元年5月江戸浅草今戸に生まれる。石工彫刻師で書画を好んだ。湧田定次郎の三男。通称豊太郎。幼き頃に石川氏を継ぎ、石工彫刻に就いた。東京石工組合設立に際して尽力した。また同業者とともに東京石工合資会社を創立し監査役を務めた。

都島雲香 ととり・うんこう
明治2年6月生まれ。都鳥英喜の妻。名は鈴子。14歳の時に野口小蘋の門に入って花鳥山水を習い、写生を好み花草をよくした。


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ネット検索で出てこない画家 その3

2014-02-24 | ネット検索で出てこない画家

文献:明治大正文學美術人名辭書

酒井覚酔 さかい・かくすい
元治元年7月生まれ。播州の人。幼名は金三郎、号は大斗。高橋由一に洋画を学ぶ傍ら写真術を研究した。朝野新聞に掲載した洋風挿画は、わが国初の新聞洋風画挿画とされる。後に写真師となったが、洋画の素養を応用して、濕版法乾版(瞬間写真)不変色写真などの技術の研究に尽力した。

眞田久吉 さなだ・ひさきち
明治17年11月東京本郷に生まれる。はじめ白馬会溜池研究所に入って学び、のちに東京美術学校に入学、42年に西洋画科を卒業した。大正元年に斎藤与里、高村光太郎とフューザン会を起こし、第一回展に「ダリヤの花」を出品する。大正5年、台湾を巡遊して帰国後に、又木亨三とともに個人展覧会を開催、同年、斎藤与里、萬鉄五郎らと日本美術家協会を結成した。

高田常齋 たかだ・つねとき
安政元年伊豆国三島町に生まれる。名は常三郎、別号に三島堂。山中松韻、村田香谷に南宗画を、中丸精十郎、清水東谷に洋画を学び、のちにシーボルト、ワーグマンにも学んだ。明治28年10月、神奈川権現山に香雪館を設け、本田錦吉郎、山本芳翠、原田直次郎、中丸精十郎、小山正太郎、五姓田芳柳らと往来して、日本浮上、油絵の輸出に尽くした。

高安紫山 たかやす・しざん
天保6年7月11日茨城郡加茂部村に生まれる。名は知明、字は子周、別号に雨岳古樵。幼い時に怙恃を失い、土浦藩高安源貞の養嗣となった。長じて水戸に遊び医学を本間棗軒に学び、慶應3年江戸に移って開業した。山水花草を好み、古名家に出入りし、古人の粉本を模写した。

武田粲 たけだ・あきら
明治16年東京生まれ。彫刻家。父は小説家の武田仰天子。はじめ竹中光重に木彫を学び、のちに東京美術学校に入学、明治40年に木彫科を卒業した。まもなくイタリアに渡り、後にイギリスに転じ建築装飾を学んで大正9年1月に帰国した。東台彫塑会会員。


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ネット検索で出てこない画家 その2

2014-02-21 | ネット検索で出てこない画家

文献:明治大正文學美術人名辭書

茨木不仙 いばらき・ふせん
明治20年10月静岡県富士郡生まれ。名は猪之吉。浅井忠に学ぶ。40年東京博覧会で受賞。第1回文展「深山の夏」、第5回文展「北國街道」、第2回院展「雷鳥境」出品。
大正7年2月、下村為山、丸山晩霞らと新日本画協会を起こした。太平洋画会会員。

今戸蝸牛 いまど・かぎゅう
明治14年6月大分県宇佐郡柳ヶ浦生まれ。彫刻家。名は精司。田中主水、山田鬼斎、高村光雲に師事した後に東京美術学校彫刻科木彫科に入学、35年に卒業した。33年日本美術協会で褒状、34年に東京彫工会で褒状を受けた。大正8年11月39歳で没。

上杉信斎 うえすぎ・しんさい
嘉永3年7月江戸生まれ。画家・書家。名は義順。林鶴梁、長三洲、蒲生聚亭らの鴻儒に就いて経史詩文を修め、市河萬庵に篆隷の書法を学び、野口幽谷に南宗派の画法を学んだ。博覧会や展覧会でたびたび褒賞状を受けた。

大草小雲 おおぐさ・しょううん
文政8年3月24日周防国岩国藩の城下に生まれる。幼名與四郎、のち與兵衛。藤岡甚右衛門の四男。性風流を好み、南宗の画を作り、詩歌花茶など幅広く嗜み、神社仏閣を拝すること千数百に及んだ。茶道の七事を最も解し門人が三百余人あり、茶室別荘が、西推寺、守採堂、反古庵、安閑屈、琥珀園、兎唇樵舎、容膝齋、桂山坊と八ケ所あった。著書に『骨董集』二十五巻、『賣筆日記』二十巻、『仁壽小集』一巻がある。

大瀧雨山 おおたき・うざん
明治4年2月山形県鶴岡町に生まれた。名は正治。石川静山、川村雨水に南宗画を学び、41年以来南宗画会、日本美術協会等で受賞、日本南宗画会評議員となった。第9回文展に「溪山幽邃」を、第10回文展に「山驛」を出品した。

海外天年 かいがい・てんねん
万延元年11月生まれ。京都の人。庄右衛門の長子。岸竹堂、鈴木百年に師事し、大博覧会や共進会等で数回褒賞を受けた。常に意匠考案に思いを凝らし、明治31年11月『天年模様鑑』七部を著した。

加藤子柏堂 かとう・しはくどう
明治5年1月京都市に生まれる。名は直彦。望月玉泉、岸竹堂に学び、内国勧業博覧会等で褒状を得た。日英博覧会東京出品館に壁張天井画を、東京歌舞伎座に二度天井画を描いた。日本美術協会会員、巽画会会員。第11回文展に「☆膊飛揚」を出品。(☆は「幅」の「巾」を「月」に)


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ネット検索で出てこない画家 その1

2014-02-14 | ネット検索で出てこない画家

ネット検索で経歴の出てこない画家を紹介していきます。

文献:明治大正文學美術人名辭書 

安達半僊 あだち・はんせん
明治3年2月27日大分県北海部郡臼杵町に生まれる。名は盛保、字は如痴、通称は仁平、居を花月庵、相君亭、呉竹園。児玉蘆香、小栗布岳に師事し南宗派を修める。帝国絵画協会会員、日本南宗画会会員、九州書画鑑定会会長。俳句を好み、安東石友、佐藤硯山らに学んだ。また、盆栽を愛し、当時の大分県下に珍盆栽ブームを起こした。著書に『花竹幽☆小誌』。(☆は「總」の「糸」を「爿」に)

有友藺溪 ありとも・りんけい
嘉永5年4月16日岡山県津山町に生まれる。名は一郎、字は富行、別号を臥雲閣、愛竹。狩野如林宗信に師事し狩野派を修め、塘雲田に師事し南宗派を学んだ。山水人物動物を得意とした。明治35年に日本千景会を起こしてからは各地の名山大川を題材とした。内国勧業博覧会や各地の博覧会で70余回受賞。宮内省、皇后職及び東宮職の買い上げを5回受けた。帝国絵画協会会員、日本美術会会員、美術研精会会員。

有馬素岳 ありま・そがく
明治元年2月2日鹿児島県鹿児島市新町に生まれる。名は善太郎、字は君徳、別号に自在将軍、春岳。高瀬梅堂、平山東岳、天野方壺、鈴木百年、後藤碩田らに師事し南宗派を学んだ。山水を得意とし、書道、篆刻もよくした。左右両手で揮毫できることから韓国の金玉均から「自在将軍」の称を贈られた。

井澤蘇水 いざわ・そすい
東京の人。川合玉堂に師事。選画会等で受賞。第8回文展「鵜」、第9回文展「水郷」
第10回文展「驕樂」を出品。

石川丹麗 いしかわ・たんれい
明治15年6月東京に生まれる。名はてる子、旧号玉溪、精華。父は彫刻家の石川光明、夫は彫刻家の石川確治。川端玉章、橋本雅邦、下村観山、寺崎広業に学ぶ。第3回文展「對月」出品。日本美術院研究会員。

伊藤鐵女 いとう・てつじょ
文久3年8月小石川に生まれる。号古仙。父は伊藤利量。幼い頃から土佐派を学ぶ。明治7年から京浜及び水戸地方に遊び、22年女子成立学校画学教員、後に浅草成工学校に転じた。26年米国コロンブス万国博覧会に音楽学校の大幅を揮毫、共進会等で褒賞を受けた。


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