松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

南画隆盛から異色の日本画家を生む土壌へ

2014-12-12 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝、東三河の日本画家たち

隆盛を極めた東三河の南画だが、明治中期をひとつのピークに、やがて衰退していく。閉塞した郷土画壇を去り、京都や東京の画壇に活路を見出そうとする次代の画家たちも出てきた。菊池芳文に師事した疋田芳沼、川村曼舟に学んだ廣本進や尾崎聖峰らが京都画壇で活躍。上京して学んだ画家としては、古くは稲田文笠、長尾華陽、鈴木拳山がいるが、その流れを引き継いだのが小笠原華文、白井烟であり、さらに次の世代としては遠山唯一、鵜飼節夫、村松乙彦らがあげられる。

戦後になると、この地からは日展の異端児・中村正義を筆頭に、パンリアル協会の星野眞吾、創画会の平川敏夫、大森運夫、高畑郁子ら個性的な日本画家たちが出てくる。

時代の趨勢とともに衰退していった東三河の南画だが、小華らが築いた南画の隆盛があったからこそ、その熱が時代を越えてこの地に伝わり、独自の世界を展開する異色の日本画家たちを輩出することになったのだろう。

疋田芳沼
明治11年渥美郡松葉町生まれ。疋田熊次の二男。幼名は熊太郎、名は熊吉。実家は吉田藩士だったが、維新後の飲食店経営がふるわず、農業に転じた。小学校卒業後、八町の有田写真館に奉公したが、東京に移転したため実家に帰る。15歳の時に横浜で陶器業を営んでいた豊橋出身の亀田某に見いだされ、横浜で陶画を修得した。その後の3年間は陶画を本業とするかたわら東京で日本画を学んだ。その後京都に移り、田中月耕に学んだのち、同門の菊池芳文に師事した。明治40年、第1回文展に初入選し、以後文展・帝展に出品した。東三河地方の画家としては最初期に文展で活躍した。安久美神戸神明社に大額が残っている。昭和9年に京都で死去した。

尾崎聖峰
明治25年宝飯郡神ノ郷村生まれ。名は市郎。県立岡崎中学校を卒業後、上京して四條派の畑仙齢に学ぶが、病気のため帰郷。大正5年、京都の川村曼舟に師事し、翌年明治絵画会第7回絵画展覧会にが入選。郷里の神ノ郷村にやが残っている。大正15年死去した。

小笠原華文
明治11年渥美郡赤羽根村生まれ。眞宗光明寺住職・小笠原暉山の二男。幼い頃から鏑木華国に師事、のちに名古屋の三浦石斎、織田杏斎について文晁系南画を修めた。この頃、田原の西光寺に滞在し、多くの作品を残している。大正5年頃に上京し、荒木十畝に師事して「読画会」に入門した。帝国絵画共進会や中央南宗画会などに出品し、将来を嘱望されたが、大正13年豊橋に滞在中に47歳で死去した。

高柳淳彦
明治31年渥美郡老津村生まれ。名は淳。大正6年に豊橋中学校を卒業し上京、同9年に東京美術学校に入学し、松岡映丘に師事した。当時の課題制作が東京芸術大学に残されている。大正15年に卒業し、高田装束店につとめた。昭和7年に第13回帝展に初入選。目黒雅叙園に作品が残されている。昭和32年、58歳で東京で死去した。

鵜飼節夫
明治35年渥美郡野田村生まれ。日本美術学校卒業後、はじめ小茂田青樹に師事したが、のちに堅山南風の門に入る。昭和5年、第17回日本美術院展に初入選、以後院展に出品し、昭和53年に日本美術院特待となる。郷里の野田町の公民館や中学校に作品が残っている。昭和58年、東京で死去した。

遠山唯一
明治40年北設楽郡田口町生まれ。名も唯一。上京して松林桂月に師事、山水、花鳥を得意とした。帝展・日展に11回入選、白壽賞を受賞した。昭和34年、52歳で死去した。

村松乙彦
大正元年北設楽郡下津具村生まれ。浜松中学卒業後に日本美術学校を卒業。児玉希望に師事。昭和58年、71歳で死去した。

 東三河(10)-ネット検索で出てこない画家


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南画一色の東三河画壇で異彩を放った狩野派・加藤元白

2014-12-09 | 画人伝・東三河

文献:東三河画人伝とよかわの美術家たち

渡辺崋山以降、南画一色となった東三河地方で、狩野派を学んだ異色の存在として、加藤元白がいる。元白は砥鹿神社南部に位置する八名郡橋尾村に生まれ、京都に出て狩野派に学び、京都画壇で未来を嘱望されながらも、家庭の事情で帰郷、団体に属さず、各種コンクールなどにも積極的に出品しなかったため残された記録は少ない。

白井烟も著書『東三河画人伝』の中で「八名郡出身の加藤綜猿元白という狩野派の画家が活躍していることをうかがった」とその存在を気にかけ、「曾孫の白井政義君が、極力遺墨の収集と遺墨画集の製作に努力しておられる」とその成果を期待していた。

その研究の成果として、平成4年に刊行された『定本・東三河の美術』に白井政義が加藤元白の詳細を掲載している。また、平成24年には桜ヶ丘ミュージアムで開催された「とよかわの美術家たち」に加藤元白の作品が出品され、展覧会図録には「画は動きのある人物と対比させた水墨の山水画などを得意とした。大胆な筆使いと繊細な描写で、墨の濃淡によるダイナミズムなど対照的構図が多くみられ、優れた技量がうかがえる」と評されている。

加藤元白
文政8年八名郡橋尾村生まれ。加藤政五郎の長男。政五郎は名字帯刀を許された助郷総代を務めた大庄屋。名は椋猿、別号に光宜がある。弘化2年より8年間、狩野派の画人・桜斉広元に学び、若き日には京都の御所に招かれたという。画家としての能力は高く、狩野派の逸材として知られたが、親の賛同を得られず、京都画壇で活躍することなく帰郷、遠州三ケ日の森田美江を妻に迎え、二男五女をもうけた。

長男の虎次郎が東京で加藤運送店を開業させたため、元白も晩年は東京で暮らし、明治43年、85歳で死去した。長男が写真嫌いで酒好きの元白を東京上野に誘い出し、途中の日本橋の写真館で無理やり写真を撮ったため、2週間後に亡くなったという逸話がある。作品は出身地である橋尾町の東光寺、本宮山松源院に残っている。

東三河(9)-ネット検索で出てこない画家


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崋山・椿山の画風を継いだ最後のひと・白井烟

2014-12-05 | 画人伝・東三河

文献:東三河画人伝

従兄の白井永川から南画の手ほどきを受けた白井烟は、その後上京して崋椿系南画の流れを汲む松林桂月に学び、戦前・戦後を通じて中央画壇で活躍した。平成14年には田原市博物館で「崋山・椿山の画風を継いだ最後のひと・白井烟」が開催され、その経歴は展覧会図録や他サイトに詳しい。ここでは、烟の著書『東三河画人伝』の中から、他では掲載されていない画家やその周辺の人物について紹介する。

高須華外
曲尺手の南側に呉服や漆器、嫁入り道具一式を商う「八星」という大きな店があり、その店の主人。前項に登場した南画研鑚会「尚雅会」の会場となった店である。華外は裕福な好事家で、邸内は広く、別棟に数奇を凝らした庭園などがあり、「雅人の集まりには極めて都合がよかった」という。いつかしら日を定めて会合するようになり、持ち寄った作品の批評やら席画を楽しんだ。風流人・華外は闊達磊落な人物で、薄墨で上品で格調高い画を描いており、烟は「余り数は描かず作品も少ないと思うが、今あれば、きっと名品のはず」と評している。

下村快雨
豊橋市指笠町の願成寺の住職。椿山風の極めて温雅な作風だった。席画もなかなか達者で、よく画会で同席した。豊橋には作品が相当残っているはずだが、「帰郷の度に探すが、いまだお目にかかれない」

武田松荷
豊橋市東田町の全久院二十七世の住職。玉珠の玉を得意とし、描くのが速かった。会が終わってからの宴席で隣だったので、お膳についた魚をどうするか見ていたら、刺身をむしゃむしゃ食べていて驚いた。「全久院は生臭坊主だ、と毒付いたこともあったが、今考えると恥じ入るばかり」とのこと。

井戸芳水
東雲座の近くの小庵に住む半俗半僧。尚雅会では「井戸坊」と呼ばれていた。どこへでも顔を出すので、よく会った。遊びに来いと誘われたが、「その作品から受ける感じから訪ねる勇気はなかった」

角煙巌
小坂井市出身の詩人。いつも羽織袴で、笑った顔を見たことがないが、「詩も書も一番うまかった」。烟が師匠の松林桂月に雅号を決めてもらう際、故郷の煙巌山から「エンガン」にしろと言われたが、「先輩の詩人に角煙巌というひとがいるからまずい」と難色を示すも、桂月に「画を描かない人ならかまわんじゃあないか、それにしろ」と押し切られ「エンガン」に決まった。同じ読みの雅号に煙巌も気になっていたのか、烟の画に賛をしてみたいと望んでいたらしいが、それもかなわず煙巌は他界した。その報に烟は「同じ"エンガン"を名乗りながらも、なんと薄縁であったか」と嘆いた。

松坂眠石
牛川の松坂家の二男。青年時代は百花園に通って小華に学んだが、自分の才能が絵よりも印刻にあると思い、印刻に専念するようになった。親の財産を継いだ時に三河製糸工場を創立したが失敗。意を決して料理研究の目的で米国に渡り、7年間滞留して帰国後に料亭を開いたが失敗。食うや食わずの生活をしていたが、晩年は印刻が博物館で認められ騒がれるようになった。その博識は驚くべきもので、知らないと言ったことがない。「当時は誰も口にしなかったベターメン(ビタミン)という言葉がしきりに出た」

佐藤雨声
八名郡多米村の加藤家に生まれ、石巻村の佐藤家の養子となった。本名は芳一。別号に石邦、対巻居がある。郵便局に勤めながら白井永川に学び、その後上京して、先に東京に出ていたと烟と大塚で共同生活をする。小坂芝田に学び、芝田の死後は福田浩湖に師事した。烟が「貧乏書生が、同年輩の書生一人を抱えた形」と記した4年ほどの悪戦苦闘のすえ、雨声は帰郷して豊橋郵便局へと勤めを戻した。郵便局退職後の雨声は雅人として再起し、豊橋でも個展を再三開催、「芝田でもなく、浩湖でもなく、彼一流の画風になった」と烟も評している。また雨声は短歌もたしなみ、短歌雑誌「犬蓼」「三河アララギ」を発行、書人としての「佐藤房一」も出色で、烟は「どこへ居を移しても、一生を通じて風流人として終始した」と画友を回想している。

東三河(8)-ネット検索で出てこない画家


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小華が去った後の豊橋画壇

2014-12-03 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝東三河の日本画家たちとよかわの美術家たち

明治15年に小華が上京した後の豊橋画壇は、小華の直弟子である大河戸晩翠、森田緑雲、植田衣洲らが引き継いで盛り立てた。曲尺手町の呉服屋「八星」では南画研鑚の場として「尚雅会」が開催され、植田衣洲、夏目太果(泰果)、白井永川、白井烟らが参加、それを母体に大正6年には白井永川が「豊橋南宗画会」を興し、白井烟をはじめ、倉内一壺、杉山呉洲、柳沼玄泉、横田琴荘、村上華谷らが参加した。多くの門下生を育てた白井永川・青淵親子をはじめ、多彩な師系の南画家たちが活動したが、やがてその隆盛は陰りを見せ始める。

夏目泰果
明治14年宝飯郡下地町生まれ。名は七作。東京美術学校に入学し洋画を学んだが、中退して郷里に帰り、鈴木拳山に師事して日本画に転じた。はじめ太果と号していたが、のちに泰果と改めた。帝展入選。晩年は豊橋市舟原に住み、肖像画も描いた。昭和26年1月3日、70歳で死去した。

白井永川
豊橋市西羽田町生まれ。白井勝蔵の長男。名は儀三郎。森田緑雲について神職を志すとともに画を学んだ。画は師をしのぐといわれ、山水、花鳥を得意とした。豊橋南宗画会を興して多くの門人を育成した。大正の初め頃に豊橋市内で数回南画展を開き、永川の門人をはじめ、東京から佐藤紫煙、白井烟、大津雲山の出品もあり、盛会だったという。昭和18年4月17日、59歳で死去した。

倉内一壺
明治32年8月豊橋市牟呂町坂津生まれ。倉内幸太郎の二男。名は耕一。初号は寛山道人で、のちに一壺を改めた。白井永川について南画を学んだあと、白井烟をたよって上京し、烟の紹介で福田浩湖の門に入った。

杉山呉洲
文久3年7月27日白須賀生まれ。名は半七、初号は小谷、または雲領と称したが、のちに呉洲と改めた。別号に鹿鳴書屋、櫻香館、鴎夢樓がある。同郷の跡見復山に学んだ。昭和4年5月23日、66歳で死去した。

柳沼玄泉
父は漢学をもって吉田藩に仕えた儒者。豊橋中学から陸士を卒業し、陸軍歩兵少佐で戦前に退職した。白井永川に師事し、山水、花鳥を得意とした。別号に陽谷がある。豊橋市役所食堂に絹本山水画がある。太平洋戦争とともに召集され、胸を病んで60歳前後で死去した。

横田琴荘
豊橋市牟呂町坂津生まれ。名は安治。陸軍主計中佐で終戦を迎えた。戦前、白井永川に師事して画を学び、のちに上京して関屋雲外の門に入った。篆刻もよくした。戦後は東京に住んだ。

村上華谷
名は啓八。村上家は村上源氏の末裔で、代々信州に住んでいた。父清平は石巻神社の神職。農耕、養蚕の傍ら、大河戸晩翠に師事して画を学んだ。昭和2年10月29日、61歳で死去した。

東三河(7)-ネット検索で出てこない画家


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東三河における小華門(2)

2014-11-28 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝

大河戸晩翠
弘化2年2月12日吉田指笠町生まれ。真宗高田派願成寺の住職・福沢諦聞の四男。名は挺秀、幼名は霊台、字は守節。別号に梅笠、六聰散人、吉祥山人、馴雀園などがある。安政2年、11歳の時に、同派牛川の名刹正太寺の養嗣子として迎えられ十一代住職となった。仏典は伊勢の松山忍成師に、漢学は関根痴堂、小野湖山について学んだ。幼い頃より絵を描くのが好きで、稲田文笠の門に入り画を学び、梅笠と号した。

この頃の作品としては、文久2年に大村珠光院不動堂の内陣天井画作成に文笠一門として参加して描いた草花図三枚が残っている。安政5年には稲田文笠主催の書画展覧会に出品、この展覧会には、後に師と仰ぐ渡辺小華と、終生のライバルとなる鈴木拳山も出品している。明治6年文笠が66歳で死去すると、崋椿系南画に傾注しはじめた時代の風潮に従い、小華の門に入り南画の奥儀を極め、東三河における小華門の第一人者として名声を高めた。

小華の上京後は、深く画を研究するため、大分県日田市の専念寺住職、田能村竹田門下の平野五岳をたずね、その画風の会得につとめたりもした。生涯仏道のために身を尽くすかたわら、興学にもつとめ、正太寺では江戸時代中頃から寺小屋を創設し、晩翠自ら読み書き、算術を指導して村民の教育につとめ、明治5年の学制発布により寺小屋が廃止された後は、小学校創設の必要性を説き、明治6年に牛川村中郷に第九中学区第四十二番小学牛川学校が開設され、歴代校長に名を連ねた。大正10年10月18日、77歳で死去した。

井村常山
茨城県鹿島町の人。名は貫一、初号は百籟で、のちに常山と改めた。明治11年に愛知県八等警部として赴任、12年に渥美郡書記に転任した。書を中沢雪城に師事し、画を小華に学んだ。晩年は各地を遊歴し、大正14年、東京で86歳で死去した。

植田衣洲
安政2年10月16日渥美郡高須新田生まれ。吉田藩御用達植田七三郎(六代敏樹)の二男。幼名は耕三郎、名は新寛、字は耕圃、通称は七三郎。松月堂古流の活花を幽照軒五道に学び、垂蔭亭苔石と称した。画は小華に学び、崋椿系南画を受け継ぎ、牡丹、菊を得意とした。三ツ相栄昌寺観音堂天井画作成には大河戸晩翠、森田緑雲らとともに小華一門として参加。緑雲、晩翠なきあとは、三河のおける小華門の長老として活躍した。大正14年4月19日、71歳で死去した。

渡辺華石
名古屋の旧藩士で、名は小川静雄。明治10年頃、渥美郡役所の書記として在任した。小華門人の中でも前途を嘱望され、明治15年に小華が東京に転出した際には、前後して上京し引き続き小華の教えを受けた。明治20年に小華が死去すると、渡辺姓を名乗り、華石と号した。晩年は小室翠雲とならぶ南画界の両大関の観があったといわれる。崋山、椿山の鑑定にもすぐれていた。昭和5年11月6日、79歳で死去した。

井上華陵
田原の旧藩士で、通称は井上泰次郎。別号に華斉、明聲館がある。小華に師事した。八名郡の小学校、仁崎小学校などで教鞭をとり、退職後は神官となった。崋山の鑑定に精通し、同郷の鏑木華国とともに、崋椿系の鑑識には定評があった。昭和5年、71歳で死去した。

鏑木華国
慶応4年渥美郡田原生まれ。祖父は田原藩士。名は武輔。銀行に勤務する傍ら小華に師事した。井上華陵とともに崋椿系の鑑識に定評があった。明治40年10月、「崋山先生七十年祭記念遺墨展覧会」を田原町で開催した際に、出品作300点の中から200余点を選び、これに不出品の名作20点を加えて「渡辺崋山遺墨帖」を編集するなど、崋山顕彰のため尽力した。昭和17年6月5日、75歳で死去した。

東三河(6)-ネット検索で出てこない画家


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東三河における小華門(1)

2014-11-22 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝

明治7年に渡辺小華が豊橋に移り住み、従来の石峰・文笠一門であった画家たちも南画一色となり、小華門は最盛期を迎える。小華門下では、遠江の山下青、豊橋の深井清華、大河戸晩翠、稲田耕山、鈴木梅巌、田原の井上華陵、鏑木華国らが名声を高めた。

深井清華
名は諌雄。深井家は代々吉田藩主大河内家の家老職で、廃藩当時は御中老だった。明治初期に写真家で画家の下岡連杖に師事し、はじめて豊橋に写真術を移入、大手に深井写真館を開業した。渡辺小華が豊橋に来たのを機に、小華について画を学んだ。明治21年、62歳で死去した。

大平小洲
信州飯田の人で、小華を慕い豊橋に来て小華門に入った。豊橋と飯田の間を往来していたが、のちに飯田に定住し、門人も多く育てた。作品は豊橋地方に散見される。

関根痴堂
本名は録三郎、字は美意または美柔、別号に致堂がある。長兄は関根杏村。藩校時習館教授。小華とは交友が深く、文人画を余技として描いた。明治23年9月21日、51歳で死去した。

稲田耕山
渥美郡堀切の名門、藤波平太夫の子。稲田文笠の養女の配偶として養嗣となった。各地の小学校で教鞭をとるかたわら、小華に画を学んだ。明治27年2月25日、42歳で死去した。

長尾清江
吉田藩の経士。小華に師事し、墨竹を専門に学び、竹以外は描かなかった。別号に聽竹がある。明治44年死去。

森田緑雲
名は光文。渥美郡牟呂村の牟呂八幡社世襲の神主である森田光尋の子で、父光尋についで神職となった。明治9年から小華に学び、崋椿系南画を受け継ぎ、小華なきあとは、晩翠、衣洲らとともに三河における小華門を盛り上げた。多くの展覧会に出品しており、明治17年の第2回内国絵画共進会には、原田圭岳、長尾華陽、深井清華、稲田耕山、鈴木拳山らとともに出品。明治17年には、三ツ相栄昌寺観音堂天井画作成に大河内晩翠、植田衣洲らと小華一門として参加。明治23年には第3回内国勧業博覧会で褒状、明治24年に日本青年絵画共進会で一等を受けている。大正2年8月25日、61歳で死去した。

小野杜堂
天保11年8月29日生まれ。本町の酒造家久兵衛の子。幼名は柳三郎、通称は久六で、のちに道平と改めた。諱は正爾。画は百花園に通って小華に師事し、号は掃石。俳画をよくした。明治25年に豊橋町の三代目町長となったが、39年の市制施行後の市長選にやぶれ、その後はいっさいの俗事をのがれ、俳諧書画の世界に遊んだ。大正4年10月14日、76歳で死去した。

鈴木梅巌
天保7年花園町生まれ。名は五平次。本家に子がなく、本家に入って鈴木吉兵衛を襲名した。本町の大山梧平とともに上京し、梧平は表具師を、梅巌は画家を志し塩川文麟に四條派を学んだ。帰郷後まもなく明治の時代となり、四條派から南画へと嗜好が移りゆくなか、梅巌も明治7年に小華が豊橋に来たのを機に、小華について文人画を学んだ。書も能筆で、書画の鑑定にもすぐれ、崋椿一派はもちろん、故人の書画鑑定にも信頼があったという。大正7年、83歳で死去した。

村田小圃
三ツ相生まれ。名は周作。最初は文笠に画を学び、表具師となって船町に住んだ。小華が豊橋に住むようになって、小華の門に出入りするようになり、自然に小華の影響を受けるようになった。大正10年死去。

加藤玉壺
名は皆蔵。船町で表具屋をしていて、小華が豊橋に来たのちに親近の間柄となり、画を学んだ。花道で高名で、松月堂古流の日本総会頭だった。大正8年6月3日、91歳で死去した。

東三河(5)-ネット検索で出てこない画家


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崋椿系が根付く前の東三河画壇(2)

2014-11-11 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝とよかわの美術家たち

星野田斉
関東地方の出身で、文久、慶応の頃に吉田に足を止め、本町の金子家に長く滞在した。別号に天福道人ある。鉄筆画を得意とした。

土井平所
御油の問屋役で、通称は竹屋権四郎、別号に蒲碧堂、蘭竹草堂がある。

榊原翠塘
湊町の表具屋で、名は孫兵衛。石峰門下で、表具屋の傍ら彫刻をよくした。湊町神明社の二尊の大額、悟真寺専称軒の涅槃像が代表作である。明治3年、62歳で死去した。

了覚
札木本陣・山田新右衛門の子。仁連木の臨済寺で得度し、僧籍に入った。豊橋市中八町神明社の掛額一面は了覚の筆といわれる。

佐藤梅鄰
船町の佐藤新兵衛大寛の子。佐藤新兵衛を襲名、のちに孫平とした。名は維淳、字は伯還。幼い頃から石峰について学んだ。のちに志をたて、京都の鈴木南領の門に入る。さらに岡本豊彦に師事し、四條派の画をよくした。茶道は堀田宗完に学び、豊彦の門にいた頃には、原田圭岳、柴田是真と特に親交があった。文政の頃、家政を継ぐが、終生画を描き、多くの遺墨を残している。明治6年、69歳で死去した。

夏目周岳
上伝馬町の表具師・夏目三之助の弟で、通称は重八。名古屋の渡辺清について土佐派を学び、和歌、俳句もよくした。明治8年、68歳で死去した。

山田永豊
吉田藩のお抱え絵師・山田洞雪の孫で、香雪の子。字は修、別号に秋錦堂がある。父・香雪が早逝し、9歳で家を継いだ。画筆をもって藩に仕える家柄のため、幼い頃から佐竹永海について画を学んだが、成年した頃に明治維新の廃藩のため祿を失い、画業も完成の域に達したとはいえない。明治17年11月、36歳で死去した。

内藤飛雪
豊橋上伝馬町の笹屋という金物屋で、名は源蔵。本町の大問屋で勢力のあった九文字屋源兵衛の実弟。で知られる夏目可敬の家を株付で買って別家とした。俳人・佐野蓬宇の高弟で、俳画もよくした。明治の初めに隣地に家を新築し、鋒々舎と称して、新刊書籍の販売と新聞の配達を創始した。明治19年死去。

山田太古
札木町本陣江戸屋の主人で、名は新一郎。篆刻を得意とし、墨画もよくした。明治21年、41歳で死去した。

東三河(4)-ネット検索で出てこない画家


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崋椿系が根付く前の東三河画壇(1)

2014-10-31 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝

後に絶大な勢力となる崋椿系が根付く前の東三河では、円山・四條派を学んだ恩田石峰や原田圭岳、そして谷文晁に学んだ稲田文笠らが中心的な画人だった。ほかには海山宗恪、三宅友信、金子豊水、大河内信古らがいた。さらに文笠の門下である鈴木拳山、大河戸晩翠らが出るが、大河戸晩翠は師の文笠亡き後は、小華門下の第一人者として活躍した。

中村石鶴
文政・天保頃の医者・画家。田原の中村家は刀圭(医術)界の名家で、石鶴は医術の傍ら京都の田中日華に画を学び、余技としてよく描いた。

岸翠
蒲郡の人。永島蕉六という。京都に出て岸派に画を学んだ。

楽庵
通称は茶七、別号に一樹道人がある。港町に住み、書道をもって一家を成し、余技として画も描いた。弘化元年に死去。

辻内文福
徳川幕府の役人で、谷文晁に画を学んだ。吉田橋架け替え工事の際に、弘化2年11月から翌年の5月まで服部弥八方に宿泊し、作品を残している。

福谷水竹
本名は福谷藤左衛門、諱は世黄。吉田西町で油屋を営む素封家(大金持ち)で、岡崎の青々處卓池に師事した。俳名は涼石居水竹といい、狂名を赤守と称した。吉田に正風俳諧を広めたのは水竹の力といわれる。茶道は不蔵庵龍渓和尚に学び、傍ら俳画をたしなんだ。嘉永3年正月、64歳で死去した。

佐藤大寛
字は栗、若水の子。叔父の南澗に育てられた。茶道を堀内宗完に学び、画を鈴木鳴門に学んだ。嘉永元年、75歳で死去した。

鈴木三岳
新銭町の人。通称は與兵衛。別号に再少年・椎の舎三岳がある。青々處卓池に俳句を学び、俳画をたしなんだ。渡辺崋山とは特別に親密で、崋山の作品を吉田で頒布し、崋山幽囚後の渡辺家の家計を助けたという。嘉永7年9月4日、60歳で死去した。

佐藤白麟
船町の佐藤市十郎の子。大口蓊山の祖父・大口喜園の甥。通称は俊三郎、別号に文陵がある。幼い頃から画を好み、梅鄰・石峰に指導を受けた。その後、京都に出て塩川文麟に師事し「文陵」の号を受け、四條派の画をよく描いた。安政3年、24歳で死去した。

横山文堂
吉田藩主・松平信順に仕えた画臣で、谷文晁に師事した。信順の命でいろいろなものを写生し、これを集めて綴ったものが大河内家に残っているといわれる。安政3年に死去。

山田香雪
吉田藩の御画師・山田洞雪の子。名は意誠、別号に眞誠斉がある。父・洞雪の没後に吉田藩主の信宝・信璋に仕えた。狩野真笑の門人で、日光廟の修繕の際に師と共に従事したという。安政4年7月、40歳で死去した。

東三河(3)-ネット検索で出てこない画家


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東三河随一の画人・太田山陰

2014-10-21 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝とよかわの美術家たち

江戸中期に赤坂(現在の豊川市)で活躍した太田山陰は、当時、東海道第一の画人と称されており、東三画人伝には「文化・文政以前における東三河地方随一の画家は山陰であろう」と記されている。平成24年に豊川市桜ヶ丘ミュージアムで開催された「とよかわの美術家たち」には、色鮮やかななどが出品され、展覧会図録には「細やかな線描の人物表現の色彩の美しさには目が奪われる。絵具が退色せず現在まで高い発色を保持していることから、確かな技術を習得していたことが伺える」と記されている。また、この展覧会の際の調査で、豊川市八幡町の西明寺に残っている4点の作品が確認されており、「いずれも質の高い出来栄え」だという。

太田山陰 おおた・さんいん
享保12年赤坂生まれ。父真田某、母今村氏の9人兄弟の3男。名は皓、字は白駒、別号に田皎があり、壮年には大夢堂、宮道山樵とも号した。幼い頃より多才で、詩文の分野でも才能を発揮したが、なによりも画を描くことに長けており、画の業績は当時から高く評価され、人をして非凡の才といわしめた。画は南蘋派の影響を受けており、諸葛監に学んだと思われる。寛政4年、66歳で死去した。

政池子董 まさいけ・しどう
宝暦11年生まれ。太田山陰の甥。名は威、字は子童。別号に遠恥がある。薬種を業としていた。和漢の学に通じ、漢画をよくした。叔父の山陰に学び、異なる画風だったと伝えられるが、現存する作品は確認できていない。天保10年死去。

東三河(2)-ネット検索で出てこない画家


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近世の東三河画人

2014-10-14 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝

江戸前期の東三河画人としては、元禄年間に久世出雲守が吉田藩主だった頃にお抱え絵師として横田養休がいた。抱六町辺(現在の花園町付近)に住んでいたと言われ、喜見寺のや吉田神社の絵馬に遺墨が残っている。江戸中期から後期にかけては、大須賀鬼卵(1744-1823)や横井金谷(1761-1832)らが現れ、のちの東三河画壇に大きな影響をおよぼす渡辺崋山(1793-1841)が江戸の田原藩邸に誕生する。

佐藤南澗
船町佐藤新兵衛の二男で、名を弥次郎兵衛という。諱は徳柄、字は大謙、別号に欄干坊がある。京都に遊学し、円山応挙の門に入り、数年のあと帰郷して吉田において初めて円山派の写生画を描いた。文化4年1月24日、59歳で死去した。

湛木澄山
牛川正太寺の住職。名古屋市妙圓寺に涅槃像の大作が残っている。文化6年、62歳で死去した。

了願
花園町浄円寺の十二世。幼名は吟丸、諱は了願、号は法雲庵。漢学、国学に優れ、画もよくしたが、現存する作品は見当たらない。文政5年12月2日、57歳で死去した。

加藤宝鶏
名は立參。家業のかたわら画をよくした。祖は信州立石の城主三好長晴の二子善左衛門義廣で、武田信玄に敗れて西ノ郡に逃れ加藤姓を名乗った。作品はほとんで残っていない。

鳥居靖斉
魚町の加納屋の主人。名は新三郎。文化年間に豊川で緑毛の亀が捕獲され、これは瑞祥であるとし、靖斉が写生画を描くことになった。築満や天津がこれに賛をしたものが今も散見される。落款はなく「鳥獣之印」という印が押されている。

木村紅蓼
通称は伊佐衛門、名は正教。呉服町の富商九文字屋七代の主人。木村清蔭の孫。 天保7年、59歳で死去。

東三河(1)-ネット検索で出てこない画家


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