松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

南部(5)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-17 | 画人伝・南部

文献:青森県南部書画人名典

松島芝谷
明治16年新潟に生まれる。小坂芝田に師事。日本南画院を中心に発表し、最高賞、特選などを受賞。明治末には大東南宗院同人となるが、大正6年に芝田が急逝すると、絵行脚の旅に出る。県南(八戸、三戸、五戸、七戸)などに多くの南画の作品を残しており、津軽、秋田県北にも多く見られることからこの地方を遊歴したとみられる。昭和25年東京で死去した。
      
村井芳雲
彫刻家。明治42年八戸市鳥屋部町に生まれる。日本画家の村井芳流の二男。父の影響で早くから作家の道を進み、上京して加藤景雲の内弟子となる。戦時中は武器の木型工場などに動員され、戦後は帰郷した。作品は朔日町の来迎寺観音像など、無記名のものが多く詳細はつかめない。昭和54年死去。
       
村井芳流
明治13年八戸市生まれ。本名は勇蔵、旧号は静古。東京美術学校で日本画を学び、その後、藤島静村に師事する。日光東照宮の塗り替え作業に従事したと伝えられる。帰郷後、遠縁にあたる村井家に婿入りした。作品は長者山、神明宮の奉納額、襖絵など、八戸市を中心に多く残されている。昭和28年死去。

吉田朝太郎
明治35年京都に生まれる。京都絵画専門学校で日本画を学ぶが、在学中に鳥瞰図で活躍していた吉田初三郎を知り師事した。旧姓は不詳。昭和7年、師とともに十和田取材の途中、鮫の石田屋に宿泊したのを機に、八戸種差に居を構え、京都の師との間を往来する生活を居宅が火災に遭う昭和19年まで続けた。昭和の初め、子息に恵まれなかった初三郎は、朝太郎を実子として入籍、画風は師に酷似している。昭和53年頃に京都で死去した。                           

吉田小南
明治9年野辺地に生まれる。本名は泰治。野辺地小学校を卒業後、医学を志し上京。東京済生学舎に学ぶが、漢詩漢学に興味をおぼえたのが昂じて南宗画の児玉果亭の門をたたき、さらに小室翠雲の門下となる。七戸の鳥谷幡山と交友があり、南画展に出品、東奥日報の客員でもあった。昭和14年に青森市で一度だけ個展を開催した。昭和20年4月死去。

量林
寛政頃の八戸藩御抱え絵師。当時の八戸藩と交流があった絵師は藩江戸屋敷を通してだったようだが、量林は八戸に長く逗留しており、八戸藩二十景のほか、八戸南部城内の襖絵は量林の作だと伝えられる。生没年不詳。

渡辺直堂
明治19年秋田市に生まれる。本名は直吉。秋田中学を卒業後、上京し寺崎広業の門をたたくが、長沢蘆雪に強く傾倒しており、作風も蘆雪風だといわれる。旅に明け暮れ山水画を描いたが、のちに武者絵に移っていった。晩年上北郡百石町に10年ほど逗留、武者絵を中心に多くの作品を残している。昭和29年、68歳で死去した。

南部(5)-ネット検索で出てこない画家


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南部(4)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-15 | 画人伝・南部

文献:青森県南部書画人名典

原佑知
文政10年三戸郡三戸町に生まれる。工藤数馬から維新後、原佑知と改めた。経典を修め、槍術、馬術に練達し、安政3年盛岡に出て3年間家老東中務に仕えた。その間、文武を磨き、安政6年三戸に帰り塾を開き子弟を育成した。維新後は奥入瀬川、切田川を分流、相坂、折茂を経て下田に達する上水工事を計画し、資金調達などで奔走するが未完のまま明治26年死去したといわれる。翠葉亭竹山と号し、水墨画をたくさん残している。
     
福田寛
明治34年八戸市上徒士町に生まれる。県立八戸中学校から東京美術学校に進み、大正10年卒業。香川県高松高等師範学校をはじめ、函館女子校、八戸高等女学校、青森女子師範学校、そして母校の八戸中学校の教諭を務めた。画業では帝展に出品、昭和9年に十和田湖風景画会を組織し後進の育成に努めた。昭和25年、50歳で死去した。

藤島北泉
鋳造家。明治25年盛岡市に生まれる。本名は藤島兵右エ門。明治末盛岡の鋳造家・初代宮昌太郎に師事した。昭和初期には岩手水沢羽田村にて砂鉄を使って鋳造技術を指導していたという。同時期、岩手県工業試験場技師の蒔田三千蔵にこわれ、八戸番町の蒔田炉において職人として鉄瓶、茶釜、香炉、置物、ブロンズ、花瓶、半鐘、火鉢などを制作した。帝展工芸部出品。

船越霊戒
明治7年岩手県宮古の金浜に生まれる。本名は元孝。月浦山凌雲寺二十一世住職。達磨の霊戒と称され、達磨を得意とした。若い頃から画才に優れ、菊池黙堂に師事、戦時中は、曹洞宗本山布教師として全国を絵行脚、八戸にもたびたび訪れ多数の達磨図、蘭画などを残している。昭和22年8月、73歳で死去した。

槇玄範
安政5年下北郡田名部に生まれる。幼名は謙治。本職は漢方医、製薬業だが、隣仙と号して絵を描いた。大正10年、70歳で死去した。

蒔田三千蔵
鋳造家。明治26年八戸番町に生まれる。県立八戸中学校を経て、東京美術学校鋳造科を卒業。大正12年岩手県工業試験場に金工部長として勤務。昭和3年全国産業博覧会審査員、同4年秋田県工技師転任、同7年退官し八戸で自営をはじめる。昭和2年と3年に帝展工芸部連続入選、商工省展2等受賞。同8年より青森県工産物共進会の審査員を務めた。昭和47年死去。

松尾少輔
彫刻家・版画家。明治38年三戸郡三戸町に生まれる。本名は庄助。大正13年京都芸大に入学、森鳳声に師事した。昭和6年帰郷し、彫刻・版画の制作をした。彫刻では、昭和元年日本美術協会展入選、昭和12年東奥美術展で《ある日の西有穆山》が特選になった。版画では、昭和10年版画協会展に出品、同36年には日本板画院の会員となっている。昭和43年、63歳で死去した。

南部(4)-ネット検索で出てこない画家


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南部(3)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-10 | 画人伝・南部

文献:青森県南部書画人名典

田口豊洲
明治40年十和田市に生まれる。京都の臨済宗大本科を修め、京都山本山妙心寺教務執事を経て、南宗寺十七世住職になる。そのかたわら八戸夜間中学講師なども務め、県立八戸高校長、青森県教育委員、八戸市文化財審議委員、八戸市社会教育委員などを歴任した。竹、霊芝などの水墨画を残している。昭和46年、64歳で死去した。

竹村悦人
文化11年三戸に生まれる。旧姓は池野。南部三戸藩の医者。叔父の陽庵の影響で幼少の頃から文名高く、藩士竹村平佐衛門にこわれ養子となり、竹村姓を名乗り藩の代官史生となる。詩や画もよくし、「書画を乞う物列をなし、又弟子百余人に達す」との記録がある。文久2年、48歳で死去した。

種市精一
明治21年岩手県福岡に生まれる。福岡中学を経て新潟医大に進み、のちに八戸市番町で医院を開業した。若い頃から独学で木彫をし、美術に造詣が深く、美術品コレクターとしても知られたが、60余歳にして木版画を始めたとされる。昭和31年日本板画院に出品、同33年には日本板画院の会員となった。棟方志功らが中心の『日本百景』に作品が掲載されている。昭和39年死去。
      
長崎春雨
明治末から大正の中頃まで八戸に滞在していた南画家。生没年不明。京都の重春塘の門下といわれ、絵行脚の途中で八戸に長逗留になったらしい。

奈須川紫狂
明治8年八戸に生まれる。本名は葆光。八戸町長などを務めた奈須川光宝の長男、洋画家・福田剛三郎の実兄。父に伴って上京し、橋本雅邦の画塾に入門、狩野芳崖にも師事したといわれる。兵役ののち帰郷し、八戸新聞社の役員や奥南新報記者などを務めた。昭和9年、61歳で死去した。

七尾対山
文化14年八戸に生まれる。初め清助、のちに清四郎と称した。七尾英鳳は孫。対岳に師事し、恵比須、大黒など慶事用の絵柄を多く描いた。明治30年、82歳で死去した。
                       
袴田恒男
明治44年八戸鮫に生まれる。昭和の初めに画家を志して上京、太平洋美術学校に入学、同期に麻生三郎がいる。同校卒業後は第一美術に出品、すぐに会友に推挙され将来を嘱望されたが、酒におぼれるなどして不遇だったといわれ、僅かな発表の場はグループ五亥会などだけだった。昭和31年、46歳で死去した。

南部(3)-ネット検索で出てこない画家


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南部(2)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-07 | 画人伝・南部

文献:青森県南部書画人名典

菊池九江
天保9年下北郡大畑に生まれる。本名は貞蔵。別号九皇、起。漢詩人としても知られる。明治12年雑誌「桂林一枝」を発刊、同14年に朝陽新報社を創設した。作品は下北一円の寺院、旧家に残されている。明治33年、71歳で死去した。

北川観雪
文化年間の人。生年は不詳。八戸藩お抱え絵師。本名は小川潤、通称は六三郎、字は士達、別号に墨亭、菊麿、喜久麿、月種。江戸の小伝馬町に住み、草双紙に錦絵を描いていたが、八戸七代藩主信房のとり立てられ、浮世絵をやめ名を観雪に改め画風も一変したと伝えられる。観雪の描いた信房の肖像画は八戸俳諧倶楽部に受け継がれており、八戸藩屋敷にも襖絵や屏風が残っている。文政13年死去。

鶏斉
生没年不詳。天保年間の浮世絵師で葛飾北斎の門下と伝わるが、絵行脚の途中に八戸に逗留して描いたと思われる。八戸風景の肉筆画、摺物絵も小品ながら残っている。

杉山光鳳
明治36年宮城県涌谷町に生まれる。東京美術学校本科卒業。横山大観に師事するが、都の区会議員選に出馬したため破門され、荒木十畝の門に入る。戦時下、夫人の実家を頼り昭和16年から37年まで、八戸類家、鮫に居住、日展、創造展、日本画院に出品するかたわら八戸の農地調整委員をつとめたり、市議会議員選に落選したりした。後年上京後は日本画院を中心に活動した。昭和58年死去。

対岳
古川の人と伝えられる。生年不詳。一説には石井東江の弟子といわれる。生年、本名など不詳。旅の途中に八戸に立ち寄り定住した旅絵師とみられ、八戸に弟子を多く持ち、七尾英鳳の祖父・対山もそのひとり。風俗画を八戸に多く残しており、三島神社、法霊神社、御前神社の額なども対岳の作といわれる。安政2年死去。

高橋愛洲
明治16年山形県飽海郡に生まれる。本名は徳蔵。幼いころから画才に優れ、小学校在学中に凧絵を描き、酒田市内の小売店に納入していたといわれる。小学校を卒業後に絵の勉強のために上京した。一説には荒木寛畝に師事したと伝えられる。大正2年、30歳の時に北海道旭川に居住、美術学校設立に奔走したが頓挫したといわれる。その後は北国各地を歴遊し下北半島に定住、同地で昭和26年、68歳で死去した。

高橋陵山
明治25年八戸番町に生まれる。本名は生悦。独学で油彩を研究。海軍軍人として南洋を従軍のかたわら南洋ポナペ島写生図を海軍省に献納している。除隊後は、家業の印刷業のかたわら日本画を研究、たこ絵も多く制作したとされる。八戸心月院に達磨の図が奉納されている。昭和31年死去。

南部(2)-ネット検索で出てこない画家


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南部(1)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-04 | 画人伝・南部

文献:青森県南部書画人名典

石井東周
石井東江の子。父から絵を学ぶ。三戸地方を中心に奉納額や絵馬などの作品が残っている。生没年不詳。

石橋一貫
明治31年八戸市十三日町に生まれる。本名は幸蔵。早くから蒔絵に興味を持ち上京して松田権六に入門、のちに寺崎広業に師事する。破滅型の作家で、酒におぼれ生活に困窮していたという。戦時中はメタリコンの技術をかわれ軍属として台湾に赴いた。昭和41年、66歳で死去した。

石橋雪渓
弘化元年八戸に生まれる。本名は幾千蔵。八戸河内屋に縁のある橋本雪蕉の高弟として知られるが、不明な点が多い。家業は八戸十三日町村福菓子舗で、若くして江戸に出て南宋画を修めたといわれる。橋本雪蕉が八戸に帰った明治3年から10年に没するまでの間が画業の全盛で、残っている作品はこの時期が多い。明治39年、62歳で死去した。

石橋一径
明治42年八戸市十八日町に生まれる。本名は山内週五郎。洋画家の石橋宏一郎の従兄弟にあたる。七尾英鳳に絵の手ほどきを受け、昭和3年に上京し尾竹竹坡の内弟子となり本郷に住み、昭和11年に師が亡くなるまで身近にいた。目黒雅叙園の襖絵や内装画を師とともに手掛けている。のちに野田九浦の門に入り帝展などに出品するが、昭和19年戦火を避けて帰郷、その後作画は行なっていない。

鵜飼東岱
文政11年三戸に生まれる。秀真、忠郷といい、和歌をよくし、武技にも通じた。代々南部公に仕え、15歳で菊池東江の門に入り修業、維新ののち北海道函館にわたった。明治3年県役所の一部新築記念三戸大神社に奉納した武者絵の掲額が残っている。明治7年、47歳で死去した。

大久保千尋
明治13年八戸徒士町に生まれる。旧姓は漆沢。八戸中学を出て、明治29年日本美術学校に入学、上級生に橋本雅邦、横山大観、菱田春草らがいた。帰郷後は一時八戸中学の教壇に立ち美術を教えるが、のちに造酒屋大久保家の長女と結婚し、大久保姓を名乗り、その後作画は行なっていない。昭和38年、84歳で死去した。

重茂勝春
明治34年八戸長横町に生まれる。旧姓は接待。柔道家のかたわら風刺漫画家としても活動した。昭和11年に明朗社を創立、雑誌「明朗」を出版し漫画想を連載した。その他、八戸新聞などにも諷刺漫画を執筆した。昭和33年死去。

南部(1)-ネット検索で出てこない画家


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