松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

南画の衰退、そして近代日本画へ

2015-02-27 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑

近世尾張画壇の特徴としては、画を学ぶ者の多くがその場を京都に求めたことにある。牧墨僊のように江戸詰めの尾張藩士は江戸で師を見出すことはあったが、彭城百川、中林竹洞、山本梅逸、田中訥言ら著名な画家たちのほとんどが京都を意識し、京都に活躍の場を見出そうとした。ただ、尾張画壇にとって幸いなことは、京都で活躍した画家たちの多くが尾張の地に戻り、後進にその画法を伝えたことである。

また、この時代はひとつの流派にこだわらず、各派の画法や精神性を取り入れてながら、独自の制作活動を展開したものが目立った。様々な流派が受け入れられ、復古大和絵、四条派、浮世絵などで代表画家を生みだしたが、人々の間に根をおろし、人気の主流にあったのは南画だった。技術の巧拙にかかわらず気持ちさえあれば描くことができるという南画の基本的な性格が、多くの人に支持されたのかもしれない。

その尾張南画も、中林竹洞、山本梅逸らの登場で全盛を迎え、それをピークにやがて衰退していった。後に続くものたちが、竹洞、梅逸の個性の枠を越えて発展させることができず、時代の流れに乗りきれなかったことも停滞の要因といえる。そして、その弟子たちも明治に入ると次々と世を去っていった。

その頃、目立った動きをしていたのが、半田地方を拠点に独自の南画活動を展開し、明治以降に始まった全国の展覧会に多くの入選者を送り込んだ山本梅荘を中心とする一派だった。しかし、時代的な要求はすでに南画からは遠ざかり、人々の興味は東洋よりも西洋へと移り、南画を理解するのに必要な漢詩文の素養を持つものが少なくなってきたことも要因のひとつとなり、尾張南画はやがて大きな時代の波に飲まれるようにその姿を失っていき、近代日本画へと移り変わっていくことになる。

山本梅荘
弘化3年8月碧海郡新川鶴ケ崎村に生まれ、のちに半田に出た。通称は倉蔵。別号に半村、半邨、楳荘がある。書画骨董を商う養父公平の特殊教育により独修し、のちに京都に出て貫名海屋に学び、さらに三谷雪えんに従って画を修めた。帰郷後、元明清の古蹟を臨模し、王石谷に私淑し、山水を最も得意とした。明治15年の第一回内国絵画共進会で金牌を受け、南宗水墨画では梅荘に及ぶものがないといわれた。晩年には彩色の花鳥画も多く描き、大正元年には中部からはじめて文展委員となり、3年から審査員をつとめ、旧派の代表だった。大正10年2月、76歳で死去した。

竹内梅嶺 
嘉永2年10月知多郡阿久比村草木生まれ。竹内伊勢守の長男。名は浦弌。山本梅荘に師事した。神職で知多郡神職会理事をつとめた。大正4年12月、67歳で死去した。

中根雪窓 
嘉永2年3月額田郡岡崎町生まれ。名は正貞、字は子寧、通称は甚太郎。別号に松北、拙叟がある。経史を曽我耐軒に学び、画をはじめ谷口靄山につき、のちに山本梅荘に師事した。各地の山川を巡り、山水を得意とした。帝国絵画協会・中央南宗画会の会員で、俳画もよしく、茶をたしなんだ。岡崎町長をはじめ公職を歴任した。大正13年10月、76歳で死去した。

脇田水石
万延元年葉栗郡極楽寺村生まれ。名は重三郎・謹、字は子洲。はじめ村田香谷に学び、のちに山本梅荘につき、さらに大坂の森琴石に師事した。南宗画を描けば当地方随一と称せられた。明治41年に浅井町長となり3年間町政に参与した。昭和16年、72歳で死去した。

岩田心斎
万延元年葉栗郡高田村生まれ。別号に石斎がある。森琴石と山本梅荘に師事した。とくに四季の山水を得意とした。昭和12年、78歳で死去した。

沢梅谷
文久元年9月碧海郡刈谷生まれ。刈谷藩大監察・沢健次郎俊盛の子。名は理、通称は理喜三郎、字は黄中。幼い頃から漢籍を学び、山本梅荘の門にはいって南画を学んだ。明清の古画の風景を模写し、四方を遊歴して風景を写生した。のちに京都の滝和亭に花鳥の描法を学び、新機軸を打ち出した。知多郡の小学校で教鞭をとり、また私塾を開いて門生を教育した。昭和3年7月、68歳で死去した。

神谷石洞
元治元年10月碧海郡冨士松村逢見生まれ。庄屋・神谷又蔵の長男。名は有馬之助、山本梅荘に師事し、山水を得意とした。昭和11年2月、73歳で死去した。

牛田松南
明治3年1月知多郡豊浜町山田生まれ。牛田与兵衛の三男。名は円空。幼い頃に僧籍に入り、かたわら山本梅荘に画を学んだ。仏門修業のため大阪に移ったが、還俗して金沢に長く住み、画家として一本立ちができるようになったので東京に出た。戦況が厳しくなり、大正14年頃一時富山に疎開。そこで戦災、負傷の悪化が原因で、昭和20年、75歳で死去した。

山本石荘
明治5年4月知多郡半田町生まれ。名は謙、字は自牧、通称は一蔵。別号に石叟がある。山本梅荘の長男。幼い頃から父に従い画法を学んだ。また、父に伴い諸国を遊歴して風景を描写、各展覧会に出品して受賞した。さらに修練のため門下生に蜜画を臨写させ、その純益を公共施設に寄付して社会に貢献した。昭和19年3月、72歳で死去した。

山本梅英 
知多郡半田生まれ。山本梅荘の娘。父から南宗画を学んだ。

平井梅 
明治6年5月知多郡阿久比村草木生まれ。通称は喜間太。幼い頃から画を好み、山本梅荘に学んだ。とくに山水を得意とした。明治39年日本美術協会に<松渓山水>の図を出品して三等褒賞を受けたほか、各展覧会で受賞、帝国絵画協会会員として活躍した。写真、盆栽もたしなんだ。昭和15年5月、67歳で死去した。

山本香雲
明治7年8月29日知多郡半田町生まれ。名は卓、字は子立、通称は二六。山本梅荘の二男。幼い頃から父に従い画法を学んだ。その筆致は、ほとんど父子の区別がつかないくらい似ていた。山水、花鳥を得意とし、博覧会・共進会などで銅牌、賞状を受け、宮内省御用品も2回なった。多くの門人を育成いた。昭和25年2月、77歳で死去した。

野倉鉄真
明治9年1月名古屋金沢町生まれ。名は成忠。別号に天龍山人がある。8歳で仏門に入り、かたわら画を志し、はじめ盛田南郊について唐画を学び、のちに山本梅荘、山本石荘に師事して南宗画を修めた。各地の展覧会で受賞した。のちに知多郡小鈴谷の玉珠院住職となり、仏事のかたわら帝国絵画協会会員として活動した。昭和36年7月、86歳で死去した。

早川梅亭
明治11年11月知多郡高横須賀村生まれ。加藤小助の三男で、八幡村中村の早川家の養子となった。名は丈太郎。山本梅荘に師事し、のちに石荘についた。各展覧会で受賞し、宮内庁御買上もあった。大正中頃に八幡村の村長をつとめた。昭和36年10月9日、83歳で死去した。

平松梅洲
明治17年4月1日知多郡八幡村中島生まれ。名は三郎。生まれつき片目が見えなかったが、少年の頃から画を志し、山本梅荘に学んだ。大正3年8月、31歳で死去した。

簗瀬梅畝
明治17年碧海郡刈谷生まれ。名は祐。はじめ沢梅谷に学び、のちに山本梅荘の門に入り石荘の教えを受けた。将来を期待されながらも、大正9年2月3日、37歳で死去した。

竹内梅汀
明治17年知多郡東浦生まれ。名は志き。名古屋の私立清流女学校を卒業後、山本梅荘に学び、山水を得意とした。

稲吉雲洞
明治21年3月幡豆郡一色村味浜生まれ。稲吉吉蔵の長男。名は佐市(才知)。別号に大雲、大雲洞がある。山本梅荘に師事して南画を修め、江南画塾を主宰して、中央画壇で活躍した画家を育てた。明治26年に寄進された豊川稲荷の大提灯の絵を描いた。和歌、俳句もたしなんだ。昭和29年8月、67歳で死去した。

山内半畝
明治23年知多郡半田町生まれ。印刷業・山内悦次郎の子。名は専一師。中川南巌に書を学び、画ははじめ山本梅荘の門で学んだが、梅荘没後は京都の池田桂仙の門に入った。父の死後は家業をつぎ、画業と両立させた。昭和25年4月8日、60歳で死去した。

高須半湖
明治28年6月幡豆郡一色村開正生まれ。名は英一。別号に半香がある。山本梅荘の門に入り、石荘、香雲の指導を受けた。のちに東京に出て松林桂月の塾に学んだ。御大典記念全国絵画展覧会で褒状を受けるなど各展覧会で受賞した。

高須白雲
明治33年幡豆郡一色村生まれ。別号に白玉、耕心艸堂がある。山本梅荘について学び、のちに京都の水田竹圃に師事した。日本南画院同人として活動した。

芳野宗石
明治35年碧海郡和会村田端生まれ。弘願寺一五世心海の四男。名は智海。はじめ四条派の画を学び、のちに山本梅荘に師事した。梅荘没後は京都の水田竹圃の門に入り、新南画の樹立を目指して精進した。戦後は大きく変わった日本画の流れに添って南画を去り、新しい日展系の画へと転換して、池田遙邨の特別指導を受け、日展に数回入選、名声も高まり、京都美術展、関西美術展などに出品した。昭和40年2月25日、64歳で死去した。

尾張(21)-ネット検索で出てこない画家


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尾張の岸派、喜田華堂と門人

2015-02-26 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑

尾張の岸派では、喜田華堂、そのあとを継いだ中島有年らがいる。喜田華堂は岐阜県不破郡今須村に生まれ、若くして京都に出て岸駒、岸良に学んだ。20年にわたり東国を遊歴して各地の名勝を写生し、文人墨客と交わった。嘉永の初めに名古屋の広井水車町に住み、尾張藩御用絵師となった。清廉風雅な生活を愛し、門人も多かったというが、華堂に子はなく、門人の弟子たちもやがて南画系などへと転じていった。

中島有年
天保4年伊勢神戸生まれ。喜田華堂に岸派の画を学び、とくに花鳥を得意とした。華堂に子がなかったため、その祭祀を司ったという。

柴田芳洲
天保11年愛知郡柴田新田生まれ。名は弘、字は子道、通称は栄三郎。名古屋に出て長者町に住み、はじめ喜田華堂について岸派を学び、のちに村田香谷に従い南画に転じた。上京して活動したが奇行が多かったという。明治23年10月10日、51歳で死去した。

柴田年人
柴田芳洲の妻。名はのぶ。画才があり、浮世絵を好み、上京後は水野年方に師事した。明治43年頃死去。

柴田小蘭
慶応2年10月27日名古屋中市場町生まれ。柴田芳洲の娘。名はかね。幼い頃から父に学び、明治17年に第2回内国絵画共進会に出品した。

水谷芳年
明治12年10月名古屋本重町生まれ。名は勝挙、字は平卿、通称は千代吉。はじめ中島有年に岸派の画を学び、のちに石河有りんについて南北合法を修めたが、山本梅逸を崇拝し、その遺法を研究した。昭和3年8月7日、50歳で死去した。

牧野竹亭
文久元年11月生まれ。挙母藩士・牧野利幹の長男。名は敏太郎。明治9年挙母郷学校を卒業、挙母の助教試補をはじめとした教職についた。田部井竹香、神谷紫水、柴田芳洲に南画を学び、19年頃に名古屋洋画研究会に入り、野崎華年に師事して西洋の鉛筆画を修めた。昭和12年11月、77歳で死去した。

立松宏年
明治27年名古屋台所町生まれ。名は鉱一。8歳の時に水谷芳年の門に入り、南北合法を学び、12歳で第2回内国絵画共進会で褒状を受けた。

田中有芳
明治35年生まれ。別号に篠原荘がある。はじめ水谷芳年につき南北合法を学び、のちに上京して服部有恒に師事した。

富田范渓
明治16年名古屋生まれ。名は賢太郎。はじめ水谷芳年に学び、明治43年の新古美術展に出品、のちに上京して池上秀畝に師事し、文展・帝展に出品した。大正3年東京美術学校を卒業。花鳥を得意とし、下谷区真島町に住んでいたが、昭和18年に帰郷して名古屋市東区東片端町に住んだ。佐藤空鳴と東西を分ける当代の人気画家といわれた。昭和22年、55歳で死去した。

渡辺幾春
明治28年名古屋生まれ。幼い頃から水谷芳年に学び、のちに京都の山元春挙に師事し、文展などに出品した。大正14年に京都絵画専門学校別科を卒業。13年には名古屋在住の朝見香城、喜多村麦子、織田杏逸らと名古屋地区の日本画の革新を求め、中京美術院を創設した。昭和50年、80歳で死去した。

尾張(20)-ネット検索で出てこない画家


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尾張の四条派、張月樵の門人

2015-02-25 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑

呉春に四条派を学んだ張月樵(1772-1832)は、彦根に生まれ、名古屋に来て活躍した。南画の山田宮常の画才を慕い、四条派系でありながら南画系の画家たちと交流し、合作も多く残している。活躍期は竹洞、梅逸の若年期にあたり、若い梅逸に画を教えたのも張月樵である。また、各地で障壁画を制作したり、山車の幕の下絵を描くなど、多彩な活動を見せている。大石真虎、貝谷采堂、織田共樵、沼田月斎、横井金谷ら多くの門人がいる。

糠谷蘭汀
知多郡大野の人。名は東四郎。別号に浄秀がある。張月樵の知多巡遊の折りに入門し、南北合法の画法を受け、真野桃蹊の『近世名家画譜』に掲載された。文政2年2月23日死去。

富田古観
知多郡古見村の旧家忠左衛門の子。名は道寧、通称は忠兵衛。別号に日月亭がある。幼い頃から画を好み、知多巡遊中の張月樵を招いて画を学んだ。巣見来山に次いで、この地方では名声があったという。天保3年2月16日死去。

大石真虎
寛政4年春日井郡生まれ。名は真虎、通称は衛門七・小門太。別号に樵谷がある。医師の小泉隆助の二男。故あって名古屋に住み、幼い頃から画が巧みで、15歳の時に張月樵に学んだ。のちに江戸に出て故実を研究し、中年になって吉川一渓に仏画を学び、さらに渡辺清の門に入って土佐派を学び、一生の師とした。長崎・厳島に遊び名古屋に帰って画を業とした。『百人一首一友話』『神事行燈』初編の板下絵を描いた。天保4年4月14日、42歳で死去した。

貝谷采堂
天明6年熱田須賀町生まれ。名は善、字は公器、通称は吉兵衛。砂糖商清吉の子。幼い頃から画を好み、はじめ山本蘭亭について浮世絵を学び、のちに張月樵の門に入り南北合法の画をもって藩の絵用達を命じられ士格に列した。熱田神宮年中行事の絵七四図を描いた。天保6年5月5日、52歳で死去した。

寄田九峯
尾張藩士。名は保延、通称は清太郎。別号に水竹居がある。張月樵に学び、のちに宮崎きん圃に南宗の画法を受けた。また元明諸家の画を模して金氏画譜を翻刻した。天保10年4月4日死去。

織田共樵
張月樵のために薪水の労をとり、月樵のいるところ必ず共樵ありといわれた。使役のかたわら画を学んだ。藩主の命によって船遊びの岐阜提灯の画を描き、また東照宮や東別院対面所の彩色をなした。月樵没後はその子晋斎を指導した。文久2年8月26日死去。

張晋斎
文化10年生まれ。名は行寛、字は得象、通称は卯之吉。別号に月戴がある。張月樵の長男。画を父に学び、また書を蝸庵に受け、ともに巧みだった。明治8年11月27日、63歳で死去した。

浜島月濤
文化9年知多郡北尾村新屋敷生まれ。通称は弥寿七のちに新右衛門。知多巡遊していた張月樵に師事した。月樵没後は高弟の貝谷采堂に南北合法の画法を学んだ。采堂没後は家督を継ぎ庄屋となり、職業画家をやめ多くの文人墨客と交流し、多くの粉本・書画帖を残している。明治25年6月、81歳で死去した。

司馬老泉
天保12年生まれ。名は柴田常次郎。別号に弘斎、対梅、明仏庵がある。名古屋裏門前町でうどん屋「一六」を営んでいた。幼い頃から画を好み、はじめ喜田華堂に学び、事情があって破門され、のちに張月樵に師事した。はじめ弘斎と号し、文久2年に長崎に行き3年して帰った。また木下逸雲に従って南画を学び、諸国を遊歴して住居を定めず、放浪のすえ、明治43年11月26日、76歳の時に旅宿で死去した。

尾張(19)-ネット検索で出てこない画家


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名古屋四条派、松村景文の系譜

2015-02-23 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑

呉春の異母弟である松村景文に師事し四条派を修めた名古屋の画家としては、立松義寅、浅井星洲、小栗伯圭らがいる。かれらの系譜もまた、四条派特有の写実性を生かした抒情的な表現で世に受け入れられた。

立松義寅
文化7年熱田大瀬子町生まれ。富豪・鈴木七左衛門長の八男。名は義寅、字は長寅、通称は太左衛門。号は嘉陵。幼い頃は野村玉渓について四条派を学び、のちに京都に出て松村景文に師事した。また、清水雷首の教えも受けている。中国南海の山水、名勝をさぐって研鑚につとめ、名古屋に戻り宇治川先登の図を熱田神宮に納めて画名をあげた。笠寺の富豪・立松太左衛門義民の養嗣となり、家業のかたわら画を描き、のちに名古屋市島田町に隠棲した。明治16年12月16日、74歳で死去した。

浅井星洲
天明8年中島郡苅安賀生まれ。名は正永、通称は勘兵衛。幼い頃から京都に出て、呉春の門人・柴田義董に学び、のちに景文に従って、猿の画を得意とした。なかでも赤翕毛の写生につとめ、その妙は森狙仙に譲らなかったといわれた。尾張藩主に愛賞され、御留筆と称して許可がなければ、みだりに人の求めに応じることができなかった。文久2年10月7日、75歳で死去した。

小栗伯圭
寛政4年知多郡半田生まれ。通称は半七、字は士復。別号に素軒・修同館がある。呉春・景文に師事して四条派を学んだ。山水、花鳥、人物を描き、また詩文和歌をたしなんだ。書は王羲之の古法帖に学び、隷書をよくした。天保8年5月17日、47歳で死去した。

小田切春陵
安政4年生まれ。小田切春江の長男。名は忠和、通称は多芸雄。画を父と立松義寅に学び、図案に専心し実用に供した。また、父の遺稿を集めて『奈留美加多続編』を出版し、さらに地図作製に長じていて『銅版三河国全図』の著書がある。

高鍬義穆
天保元年愛知郡本星崎村生まれ。高鍬素道の子。名は藤重郎。幼い頃から画を好み、立松義寅の門に入って四条派を学んだ。尾張志摩紀伊西京を遊歴した。俳諧を永井士前に師事して巴陵と号した。明治19年6月2日、56歳で死去した。

河村光文
慶応3年名古屋生まれ。河村穆堂の子。名は竹彦。はじめ父に学び、のちに立松義寅に師事して四条派を修めた。

菅井義秋
安政2年11月7日名古屋関鍛冶屋町生まれ。菅井海霜の子。通称孫右衛門。立松義寅に師事した。

吉田蘇川
伝来の酒造家の子として中島郡小信中島に生まれ、長じて父の跡を襲名した。画を浅井星洲に学び、のちに名古屋の小島老鉄に師事した。弟の稼雲とともに画名をあげたが、文久元年旅の途中で死去した。

小栗晩翠
寛政7年生まれ。小栗伯圭の弟。通称は仙八郎、字は徳卿。別号に先慎、愛善、松下堂がある。兄とともに呉春・景文に学んだ。画のほかに俳諧、狂歌、和歌をたしなんだ。文政9年の『をはり田のみ』に尾張の名所画4枚のうち東浦図を描くなど、俳書の挿絵もした。明治4年6月、77歳で死去した。

新見東谷
享和元年生まれ。通称は角左衛門。小栗伯圭に師事し、山水、花鳥、人物いずれも得意とした。明治7年、74歳で死去した。

小栗美成
文化7年2月7日知多郡半田生まれ。通称は兵作。別号に春江、成美がある。12歳の時に小栗伯圭に画を学び、のちに京都の岡本豊彦に師事し四条派を修めた。

小栗豊水
文化9年生まれ。小栗伯圭の長男。半七家の七代目。通称は半七、字は士績。画を岡本豊彦に学んだが、家業を守り、弟たちに画業を継がせた。弘化4年10月4日、36歳で死去した。

小栗俊彦
小栗伯圭の二男。通称は友松、別号に岡本舎人がある。はじめ父に学び、のちに京都の岡本豊彦について四条派を修めた。豊彦の嗣となって岡本の姓を名乗ったが、故あって離縁したため、青蓮華光院の近侍となって、岡本舎人と称した。明治22年7月24日死去。

小栗亮彦
文政元年生まれ。小栗伯圭の四男。通称は保吉、字は士朗。別号に暁翠、澄神斎がある。はじめ父に学び、のちに岡本豊彦について四条派を修めた。兄の俊彦が豊彦のあとを嗣いだが、離縁になった後、その嗣となって岡本姓を名乗った。中年中風にかかり、左手の自由がきかなかったが、右手だけで自在に描き、中国・北陸地方を遊歴して評判を得て、画名をあげた。明治17年、67歳で死去した。

小栗錦水
文政11年10月生まれ。小栗伯圭の六男。通称は六平。父に学び、のちに呉春派から北派に転じ、また南画派に入った。芥子園佩文らの画伝を閲して、明清諸家の画法を学んだ。とくに写生を好み、各地を遊歴して名勝地を実写した。明治25年3月30日、65歳で死去した。

尾張(18)-ネット検索で出てこない画家


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名古屋四条派、野村玉渓の流れを汲む門人たち

2015-02-20 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑

野村玉渓の門は多くの有能な門人を輩出し、さらにその弟子たちも多くの四条派の画家を育てた。とくに松吉樵渓、鷲見春岳、奥村石蘭らの門人たちは明治に入ってから内国絵画共進会をはじめ各地の展覧会に積極的に出品、明治期の中京画壇を盛り立てた。

立松春渓
天保13年中島郡中牧村生まれ。立松義之の子。通称は孫左衛門。松吉樵渓に師事して四条派を学んだ。明治17年の第2回内国絵画共進会に出品した。

酒井椿渓
嘉永4年11月丹羽郡小口村生まれ。庄屋・市郎兵衛の長男。名は唯一。別号に山茶園がある。画を松吉樵渓、奥村石蘭に学び、のちに川端玉章の門に入り四条派を学んだ。第2回内国絵画共進会で受賞した。大正10年、71歳で死去した。

佐藤静渓
嘉永5年生まれ。名は正教、字は子訓、通称は利助。別号に椿園、本立堂などがある。はじめ松吉樵渓に学び、のちに立松義寅に師事し、幸野楳嶺、磯部百鱗らと交遊した。晩年は応挙を慕った。明治42年2月15日、58歳で死去した。

日比野文僊
安政元年生まれ。名古屋宮町の釘屋を営んだ商人。通称は文吉。はじめ松吉樵渓に学び、のちに奥村石蘭の門に入った。明治45年3月17日、59歳で死去した。

三浦石斎
嘉永2年4月生まれ。尾張藩石工の子。名は厚隆、字は為美、通称は伝八。別号に雲鶴がる。はじめ若林素文に学び、ついで鷲見春岳に従い、さらに奥村石蘭の門に入った。家業を廃して画を業とし、主に実業に応用した図案模様に力を入れ、篆刻に長じて碑文の書をよくした。名古屋陸軍幼年学校・曹洞宗第三中学林・日本陶器学校の教師となる。のちに職を辞して不老洞画塾を開き門人を育てた。

鷲見有竹
安政元年7月名古屋白山町生まれ。鷲見春岳の二男。名は豊、字は白山人、別号に比君庵主、婆娑亭主、有竹画房がある。幼少より父につき四条派を修め、とくに山水、人物を得意とした。税務官吏の職にあったが、退官して画業に専念した。帝国絵画協会・名古屋春秋会などの会員として活躍した。

鷲見秋岳
名は芸宜。鷲見春岳の弟。兄に四条派を学んだ。名古屋白山町に住んでいた。明治37年8月28日死去。

兼松蘆門
元治元年7月生まれ。尾張藩士・兼松正峯の長男。名は亀四郎。別号に松泉がある。はじめ鷲見春岳の門に入り、のちに転じて神保木石、中野水竹に師事して南画を修め、さらに菅原白龍について研鑚し山水を描いた。大正6年8月、54歳で死去した。

鷲見春鄰
慶応4年生まれ。鷲見春岳の三男。名は広治。はじめ父について四条派を学び、さらに京都に出て菊池芳文に学んだ。のちに東京の本郷区湯島に住んだが、その後名古屋に帰り画を業とした。鯉、虎などの動物の写生を得意とした。昭和24年4月、82歳で死去した。

松田樵洞
明治3年名古屋生まれ。名は一吉。鷲見春岳に師事して四条派を学んだ。宝飯郡国府町に住んで画を業とした。

波多野一岳
明治10年4月東春日井郡篠岡村大草生まれ。名は金次郎。はじめ奥村石蘭に学び、石蘭没後は鷲見春岳、織田杏斎に師事した。日本陶器に入り陶器の図案と師弟の養成につとめ、また小寺雲洞に教えを受け、はやくから諸展に入選した。鹿の画を最も得意とした。昭和32年4月、79歳で死去した。

島沢柳亭
嘉永2年9月21日生まれ。名は孝忠。島沢閑叟の子。奥村石蘭に師事した。第2回内国絵画共進会に出品した。。

柳田樵谷
嘉永2年生まれ。奥村石蘭に師事した。名古屋市島田町に住んで画を業とした。

矢吹璋雲
嘉永5年7月5日備中吉備郡服部村生まれ。通称は熊次。別号に紫竹園、雲岳がある。三好雲仙の門に入り雲岳の号を受け、名古屋にきて奥村石蘭につき四条派を学んだ。のちに東京に出て川端玉章に師事した。

渡辺杏堂
文久2年8月5日生まれ。尾張藩士・渡辺新左衛門の子。名は正網、通称は覚助。14歳の時に奥村石蘭に学び、のちに幸野楳嶺に師事した。

太田百香
文久3年10月19二井生まれ。太田良哉の子。名は藤吉。奥村石蘭に師事した。

服部石仙
元治元年12月生まれ。服部雲仙の長男。名は貞博、通称は熊次。別号に石僊、杉村、松柏庵がある。はじめ父に学び、のちに奥村石蘭に師事、さらに京都に出て岸竹堂に従い花鳥をきわめた。小田切春江と尾三各地をまわって古社寺を写生し、また図案所で小田切春江、鬼頭道周とともに補佐として花鳥を写した。大正9年7月、57歳で死去した。

薮本莱山
慶応元年11月11日生まれ。薮本八左衛門の子。名は健次郎。奥村石蘭に師事した。

渡辺秋谿
慶応元年10月生まれ。尾張藩士・斉藤正喬の次子として生まれ、伯母方の渡辺氏を嗣いだ。名は永吉。はじめ奥村石蘭に四条派の画法を学び、のちに久保田米僊に師事し、京都府立画学校教授となった。その後名古屋に戻り仙洞画塾を開き多くの門人を育てた。晩年は南画に専念し、東海美術協会顧問として中京画壇のために尽くした。昭和15年5月、75歳で死去した。

河原木鶏
慶応2年名古屋冨士塚町生まれ。名は鉄次郎。河原彦治郎の養子となり、奥村石蘭に師事した。

小寺雲洞
明治4年12月生まれ。尾張藩士・小寺竹洲の子。名は鈴彦。はじめ奥村石蘭の門に入り四条派を修め、のちに京都に出て竹内栖鳳に師事した。鶏を得意とし、東海美術協会理事長などをつとめ中京画壇のために尽くした。昭和5年1月、60歳で死去した。

神戸凌雪
明治4年名古屋門前町生まれ。名は直三郎・直盛、字は盛卿。別号に操軒、蔔邦、喬松軒、玄遠斎がある。20歳の時に奥村石蘭の門に入り四条派を学んだ。石蘭没後は、京都の森川曽文、今尾景年に従い、景年の塾頭となった。修業ののちに名古屋に戻り、名古屋青年絵画会を設立した。その後東京に居を移して橋本雅邦に師事して研鑚を重ねた。

伊藤華城
明治5年生まれ。はじめ奥村石蘭に学び、のちに石川柳城に師事した。

奥村石亭
明治7年5月生まれ。奥村石蘭の長男。名は季彦。はじめ父に学び、のちに磯部百鱗の門に入った。家業をつぎ四条派の画を描いた。名古屋高等工業学校および愛知県立工業学校の画学教師を30年務めた。日本美術協会で銅賞5回、大阪博覧会で褒状を受けた。春秋会幹事を務めるなど中京画壇のために尽くした。昭和20年3月、72歳で死去した。

石井春鳳
明治8年9月16日葉栗郡葉栗村生まれ。石井義翁の孫。別号に子葉がある。はじめ奥村石蘭に学び、のちに望月金鳳に師事して四条派を修めた。

立松輝石
明治9年9月17日名古屋鉄砲町の森家に生まれ、のちに立松氏を嗣いだ。名は秀、字は如晦、通称は新三郎。別号に五采堂主人がある。はじめ奥村石蘭に学び、のちに京都に出て幸野楳嶺、竹内栖鳳に師事して栖鳳会の部長となった。一時名古屋に戻り、それから東京に出て大村西崖、結城素明と無声会に入って活動した。

牧野松亭
明治12年生まれ。奥村石蘭、奥村石亭について四条派を学んだ。名古屋市中区東橘町に住んでいた。

竹内吉鳳
明治15年名古屋生まれ。名は鈴樹。別号に柏雪、畊雪、雪家がある。はじめ奥村石蘭につき、ついで久保田金僊、渡辺秋谿に学び、福井江亭に師事した。さらに西山翠嶂の指導を受け、大鵬会同人として活動した。

水野清亭
明治26年12月17日生まれ。名は清。京都絵画専門学校卒業、はじめ奥村石蘭につき、のちに福井江亭に学んだ。文展に連続入選し将来を嘱望されたが、大正9年6月22日、28歳で死去した。

尾張(17)-ネット検索で出てこない画家

 


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名古屋四条派の祖・野村玉渓

2015-02-17 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑

尾張における四条派は、必ずしも表立ったものではなかったが、写実的で温厚な画風は、浅く広く受け入れられ、多くの画家に影響をあたえた。

円山応挙に師事した人物としては、名古屋の味噌商の家に生まれた月僊(1741-1809)がいる。のちに伊勢山田の寂照寺の住職となってその復興と社会福祉事業にあたったことで名高く、作品も伊勢を中心とした地方に多く残されている。名古屋・三河地方にも多い。岡崎市の随念寺と昌光律寺には、障壁画をはじめ多数の月僊画が伝わっている。
                   
呉春(松村月渓)の画風を名古屋に伝えたのが、名古屋四条派の祖とされる野村玉渓であり、常に呉春の画風を慕った佐々木月岱である。玉渓は多くの弟子を育て、松吉樵渓、鷲見春岳、奥村石蘭らが活躍した。月岱の門人には、佐々木介堂、河村穆堂らがいる。

野村玉渓
天明5年生まれ。通称は参吾。幼い頃から画を好み、文化4年に京都に出て呉春(松村月渓)の画僕をしながら画を学んだ。5年後に帰郷して画を業とし、多くの門人を養成して「名古屋四條派の祖」と称された。田中訥言、小島老鉄、秦鼎、植松茂岳らと親しく交わり、俳諧も巧みだった。安政4年3月20日、73歳で死去した。

佐々木月岱
尾張藩持筒組の小吏で、はじめ吉川君渓について狩野派を学び、のちに京都に出て岡本清暉の門に入り四条派を修め、常に呉春(松村月渓)の画風を慕い、月岱と号した。子に介堂、英春の兄妹がいて、ともに四条派の画をよくした。明治3年5月27日死去。

松吉樵渓
張月樵に学んで樵渓と号した父の跡を継ぎ、のちに野村玉渓に四条派の画法を受け、同門の中で第一の達筆と称されるようになった。その後、尾張藩最後の御用絵師となった。明治3年11月13日死去。

木村雲渓
文政12年生まれ。名は元雅、字は士尚、通称は六右衛門。別号に雪渓、見外山人がある。名古屋本町の扇子商・玉屋六右衛門の長男。野村玉渓に師事して四条派の画を修めた。明治13年、52歳で死去した。

鷲見春岳
文政5年生まれ。名は利恭、通称は豊助または徳蔵、別号に澹斎、鹿芝翁がある。尾張藩の勘定方同心で、公務の余暇に画を野村玉渓に学び、四条派の画をよくして奥村石蘭と並び称された。文雅の士との交流を楽しみ、また席上揮毫をして門下生に技を競わせた。のちに春秋書画会を門前町大光院に開き、斯道の興隆に尽くした。明治26年6月24日、72歳で死去した。

若林素文
文政11年5月4日熱田須賀町生まれ。名は金吾。医師・浅井杏庵の三男。尾張藩士・若林氏を嗣ぎ、名古屋下前津に住んだ。13歳の時に野村玉渓について画を学び、最も臨模に長じていて、馬島明眼院にある応挙の襖絵を写した。明治17年5月美濃に遊歴中に、57歳で死去した。

奥村石蘭
天保5年4月名古屋白山町生まれ。名庸、通称源吾または大助、字可均。別号に楓斎、庸堂主人、知芳園がある。尾張藩士・奥村佐平の子。13歳の時に野村玉渓の門に入り四条派の画を学び、のちに京都に出て横山清暉に師事、名古屋に帰り門人を多く育てた。明治28年2月、62歳で死去した。

服部雲仙
天保2年6月18日生まれ。通称は平八。春日井郡杉村の服部平右衛門の子。画を鷲見春岳に学び、のちに野村玉渓、森義章について四条派を修めた。明治28年1月29日、62歳で死去した。

佐分柳喬
名古屋鍋屋町の銭屋という質商。画を好み、野村玉渓に師事した。尾張藩士・跡部氏が桜草を好み園中に栽培していて、異花奇種があるたびに柳喬に写生させていたので、桜草の作品が多い。安永6年11月24日死去。

佐々木介堂
佐々木月岱の子。父に四条派を学んだ。名古屋の同好画会のため尽力した。明治28年8月21日死去。

豊田松堂
天保4年1月4日名古屋辰巳町生まれ。字は義峰、通称は惣兵衛。別号に可楽、喜雅、耕雲がある。佐々木月岱に師事し、月岱没後は森義章について写生画を研鑚、山水、花鳥を得意とした。明治天皇御慶事の際に富士山の図を献上した。帝国絵画協会会員。

佐藤精斎
天保7年生まれ。名は重昌。名古屋白山町に住んでいた。嘉永5年から佐々木月岱に師事。のちに元明諸家および費晴湖の筆意を学んだ。門人に長坂昌斎がいる。

河村穆堂
天保10年生まれ。名古屋の人。佐々木月岱に四条派を学び、のちに柴田義董、岡本清暉を慕い、京都に遊学した。明治13年、41歳で死去した。

尾張(16)-ネット検索で出てこない画家


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尾張の浮世絵、牧墨僊を軸に展開

2015-02-13 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑

尾張地方の浮世絵は、すでに19世紀初頭に、駒新こと駒屋新兵衛が劇場の看板絵を描いたりしていたが、文化年間、葛飾北斎が二度にわたって、いずれも長期間名古屋に滞在したことによって、飛躍的な展開を見せる。北斎は、最初の時は永楽屋の依頼により『北斎漫画』の下絵を描くために名古屋を訪れ、牧墨僊(1775-1824)宅に滞在した。二度目の来名も絵手本の下絵を描くことが主目的だったらしい。名古屋の浮世絵は、喜多川歌麿と葛飾北斎に学んだ、この牧墨僊を軸に展開する。

牧墨僊は、尾張藩士であったが、公用で江戸詰になった折りに喜多川歌麿の門に学び、喜多川歌政と落款のある本や摺物を残している。北斎が名古屋の自宅に長期間滞在した際には北斎に学び、摺物を中心に多彩な活動を展開、近世名古屋における風俗画の隆盛に寄与した。また、墨僊の重要な業績として銅版制作があげられる。医学書の挿絵を銅版でおこしたり、暦などを作っている。墨僊自身の肉筆画は多くないが、門人の森高雅、沼田月斎は肉筆美人画を得意とした。

駒新
享和文化の頃に美人画をよく描き、劇場の看板絵などで名声をあげた。滝沢馬琴の『覊旅漫録』に名古屋名物のひとつに数えられている。門人に山本蘭亭、その門人に鈴村景山がいる。

山本蘭亭
文化・文政の人で、駒新に師事し、名古屋門前町および日置蛭子町に住んでいた。

鈴村景山
山本蘭亭および張月樵に師事。古渡東輪寺に住んでいた。

沼田月斎
天明7年生まれ。名は正民、通称は半左衛門。別号に歌政、凌雲、落舟がある。尾張藩士で、はじめ牧墨僊に浮世絵を学び二世歌政と称したが、のちに張月樵、山本梅逸に学んだ。世俗に疎く極めて清貧で、老後は画をたのしみに風流人として生きた。元治元年6月、78歳で死去した。門人に埴原月岬、川崎千虎、沼田荷舟らがいる。

川崎千虎
天保7年12月名古屋生まれ。通称は源六、のちに鞆太郎。はじめ沼田月斎について風俗画を学び、のちに京都に出て土佐光文に師事した。明治11年上京して官職につき、19年に宮内省属帝室博物館につとめ美術品整理にあたった。30年に東京美術学校の教授となるが、翌年の岡倉天心校長を罷免する騒動の際に辞任し、天心による日本美術院の設立に参加した。大石真虎を慕い、有識故事に通じ、歴史画の名家として知られる。『名古屋浮世絵類考』の著書がある。明治35年11月27日、67歳で死去した。

沼田荷舟
天保9年名古屋水筒先町生まれ。名は正之。別号に朴斎がある。沼田月斎の孫。幼い頃から祖父に学び、花鳥を得意とした。東京に出て画を業とし、旧皇居の障壁画を描いた。『荷舟花鳥画譜』の著書がある。明治34年2月、64歳で死去した。

後藤月洲
通称は衛門七・加蔵。画を沼田月斎に学んだ。

広瀬敬斎
天保10年5月11日名古屋七小町生まれ。名は高景。天野梅渓の子で、広瀬弾平の養嗣となった。はじめ沼田月斎に学び、のちに奥村石蘭に師事して四条派を修めた。丹波、播磨、摂津を遊歴した。

尾張(15)-ネット検索で出てこない画家


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尾張の復古大和絵派、森村稲とその門人

2015-02-10 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑

尾張の復古大和絵派は、祖とされる田中訥言、それを受け継いだ渡辺清、森高雅、さらに日比野白圭、木村金秋らに続き、森村稲とその門人たちによって引き継がれた。

森村稲(1871-1938)は、名古屋梅園町に生まれ、木村雲渓に四条派を学んだのち、日比野白圭、木村金秋に師事して大和絵を修め、歴史画、花鳥風景に独自の画境を拓いた。「稲香画塾」を主宰し、多くの門人を育てるとともに、古典絵画研究に取り組み、田中訥言にはじまる復古大和絵派を世に紹介した。門人には小寺稲泉、森村紫峰、喜多村麦子、森村宜永、堀尾実らがいる。

服部芳泉
明治8年6月海部郡津島生まれ。名は経太郎、字は子徳。森村稲に師事して土佐派の画法を極め、人物、花鳥を得意とした。明治44年の名古屋勧業博覧会にを出品して褒状を受けたほか、諸展で受賞した。生地の海部郡津島に住んで画を業とした。

前田香陵
明治13年生まれ。はじめ香蘭に学び、のちに森村稲に師事して土佐派の画法を修めた。明治43年の新古美術展にを出品した。名古屋市中区御器所町北山町に住み画を業とした。

小寺稲泉
明治16年名古屋葛町生まれ。別号に公僊がある。森村稲に師事して土佐派の画法を修めた。のちに中区御器所町小針に住んだ。日本美術協会展などで受賞した。昭和20年6月5日、63歳で死去した。

岩田昇斎
明治16年生まれ。はじめ森村稲に土佐派を学び、のちに織田杏斎、毛受昇堂に学んだ。

森村紫峰
明治21年7月名古屋生まれ。名古屋伊藤家の出。名は田鶴子。別号に峯光がある。はじめ酒井道一について光琳風の画を学び、森村稲と結婚して、稲に土佐派の画法を学んだ。戦後、「稲光画塾」を主宰し駐留軍夫人に日本画の手ほどきをするなど文化交流にも尽くした。昭和31年2月、68歳で死去した。

赤堀禅稲
明治24年丹羽郡野寄村生まれ。9歳の時に桂林寺一四世森川師に得度、のちに曹洞宗大本山永平寺に修行、森村稲に土佐派を学んだ。甲府市外富士見村少林寺住職を経て、昭和17年に桂林寺住職となった。画は流派にとらわれず、歴史、美人、仏画を描き、永平寺高祖大師七百年忌に三間四面の永平寺全図を四年半の歳月をかけて描いた。昭和39年1月、73歳で死去した。

臼井応真
明治25年名古屋市生まれ。はじめ森村稲に学び、のちに京都で竹内栖鳳に師事した。名古屋在住の京都系新派として活躍した。

三輪千稲
明治29年生まれ。森村稲に師事して土佐派を学んだ。市美術展・愛知社展に出品した。

小田切春光
明治32年名古屋市生まれ。別号に春峰、春江がある。森村稲に師事して土佐派を学び、春峰と号した。

喜多村麦子
明治32年4月名古屋市生まれ。名は林吉、旧姓は内藤。18歳のころ森村稲の稲香画塾にはいり薫陶を受けた。大正9年に京都絵画専門学校別科に入学。京都時代には土田麦僊、福田平八郎に師事した。京都画壇の新潮流だった国画創作協会の影響を受けた作品を作成した。名古屋に戻り、大正13年には日本画界の革新を求め、朝見香城や渡辺幾春らと中京美術院を創設した。昭和61年、87歳で死去した。

福岡稲城
明治32年名古屋市生まれ。森村稲に師事して土佐派を学び、ついで小堀鞆音、松岡映丘について歴史・人物画を学んだ。第9回帝展に入選、のちに東京豊島区宮仲町に移ったが、戦後は名古屋に帰った。

和田比左夫
明治36年生まれ。はじめ森村稲に学び、のちに横山葩生の主宰する青樹社同人となった。風景を得意とし、戦後、日本美術院に出品して院友となった。

森村宜永
明治38年6月生まれ。名は永、通称は行雄。別号に稲門がある。森村稲の子。東京美術学校卒業後、東京都文京区根津に住み、松岡映丘に師事して歴史・人物画を修めたが、山水を得意とした。第10回帝展に初入選し、15回展まで連続入選、新文展にも2回入選している。戦後は東京と名古屋の間を往来し、東京の「稲香会」と名古屋の「稲光画塾」を主宰して門下生を育てた。日展に10回入選、日本美術協会総裁賞を受賞した。また、日本画院を創設した。文化庁の依頼で現状模写など古典美術品の保存伝承にも活躍した。昭和63年5月、83歳で死去した。

堀尾実
明治43年名古屋市生まれ。13歳の時に森村稲に師事し土佐派の技法を学んだ。昭和5年京都絵画専門学校に進み、9年卒業後上京、15年福田豊四郎、吉岡堅二らの新美術人協会に出品、24年には日本アヴァンギャルド美術クラブの会員となった。また翌年には美術文化協会日本画部の会員として参加するが、同29年に退会。以後は匹亜会などのグループ展や読売アンデパンダン展に参加し、従来の日本画の枠を超える制作をめざし意欲的な作品を出品した。昭和48年、63歳で死去した。

尾張(14)-ネット検索で出てこない画家


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尾張の復古大和絵派、日比野白圭・木村金秋の門人たち

2015-02-06 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑

森高雅の門人の中でも多くの弟子を育てたのが、日比野白圭(1825-1914)と木村金秋(1833-1917)である。白圭は、はじめ竹田景甫に学び、ついで鈴村景山の門に入り、さらに森高雅に従って土佐派を修めた。ひとつの派の画法にとどまらず、各派をとりいれ独自の画風を切り拓いた。門人には村上華雲、鬼頭道周、尾関圭舟、日比野圭文らがいる。

金秋は、森高雅に土佐派を学び、日比野白圭と競いあいながら、古画を模写研究し、とくに藤原信実、田中訥言を私淑した。葦原眉山、小田切春江、奥村石蘭らと同好社を組織し、後進の指導にあたった。また小田切春江と『凶荒図録』を著し、工芸品の意匠改良につとめ、明治期の美術振興に尽くした。門人には、岡本硯農、加藤雨艇、堀暁中、太田研斎らがいる。

村上華雲
文久2年4月2日丹羽郡生まれ。通称は敬一。日比野白圭に学び、その後奥村石蘭につき、さらに鈴木松年に師事する。各種博覧会で銀賞・金賞を受賞した。

岩沢松圭
知多郡大野生まれ。通称は勘兵衛。日比野白圭の門に入り、土佐派の画法を学んだ。昭和6年12月1日死去。

鬼頭道周
明治7年1月名古屋日出町生まれ。名は道周、通称は隆三郎。鬼頭道恭の子。はじめ父道恭と日比野白圭に学び、のちに上京して橋本雅邦に師事した。日本橋箱崎町に住み、主に土佐派を研究し、自ら新狩野の一派を興した。昭和18年3月、70歳で死去した。

田中青桃
明治12年12月中島郡一宮生まれ。明治39年に名古屋に移って教育に従事した。公務の余暇に画を土岐三江、日比野白圭に学び、のちに秦金石に師事、また森半渓にも学んだ。

前田秀邦
明治15年3月9日名古屋生まれ。名は豊七。日比野白圭について土佐派の画法を修め、のちに上京して橋本雅邦に学んだ。

尾関圭舟
明治16年名古屋生まれ。別号に圭秋がある。日比野白圭に土佐派を学び、中区南鍛治屋町に住み、専門名家として知られ、中京画壇で活躍した。

日比野圭文
明治22年生まれ。日比野白圭の子。父に土佐派を学んだ。名古屋東区桜町に住んでいた。

佐々白鶯
戦国武将・佐々成政の子孫といわれる。日比野白圭に土佐派を学び、名古屋市中区大井町に住んで画を業とした。

岡本硯農
嘉永2年5月生まれ。名は久敬。はじめ木村金秋に土佐派を学び、山菊を得意とした。のちに来朝した清人・胡鉄梅から南画を学び、各地に同行して研鑚した。南画を描くかたわら顔料調製法を修め、自ら製造して用いた。大正12年10月19日、74歳で死去した。

加藤雨艇
安政4年4月名古屋呉服町生まれ。名は彬、字は経明、通称は菊三郎。別号に梧雲、蘿石、臨池堂がある。16歳の時に木村雲渓につき四條派を学び、かたわら川崎千虎に有識故実を修め、のちに木村金秋に師事した。その後南宗画に移り、元明の古法を学び、達磨を得意とした。渡辺秋谿、森村稲たちと研美会を組織し、画界の発展に尽くした。大正5年2月、59歳で死去した。

生駒石渓
文久2年石川県生まれ。名は筍吉。名古屋に来て、木村金秋、奥村石蘭、久保田米僊に学び、山水・花鳥を描いた。

今泉楳渓
明治2年名古屋生まれ。別号に梅渓、楳啓がある。はじめ木村金秋に土佐派を学び、のちに竹内栖鳳に師事した。

島田素言
明治2年7月28日名古屋生まれ。名は束稲。奥村石蘭に四條派を学び、木村金秋について土佐派を修めた。名古屋市中区大池町に住んで画を業とした。

堀暁中
明治8年岐阜生まれ。はじめ佐脇波登麿につき、さらに木村金秋の門に入り土佐派の画法を学んだ。明治43年の新古美術展にを出品ている。森村稲に次ぐ巧者といわれたが、世才に乏しく名利にこだわらず、清貧のうちに画をたのしんだ。人物を得意とした。妻は柴田芳洲の娘で、また画を描いた。昭和7年11月9日死去。

小関秋華
明治8年8月海部郡甚目寺村西今宿生まれ。名は玉三郎、字は禎。別号に可信園、竹陰居がある。菊池芳文、木村金秋、渡辺秋谿に師事し、山水と得意とした。

太田研斎
木村金秋につき土佐派の画法を修めた。名古屋市中区南鍛治町に住み画を業とした。

下村春章
知多郡大高生まれ。生年は不明だが明治34年に川崎千虎の門に入り、同36年に木村金秋についた。38年に上京して川端玉章の塾に入り、6年にわたり研鑚を重ね、知多郡大高町に住み画を業とし、名声が高かったと伝わっている。

尾張(13)-ネット検索で出てこない画家


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尾張の復古大和絵派、森高雅の門人たち

2015-02-03 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑、尾張の絵画史

尾張において渡辺清とともに土佐派を広めたのが森高雅(1791-1864)である。高雅ははじめ吉川一渓に狩野派を、ついで中林竹洞に南画を学び、さらに歌麿・北斎に師事した牧墨僊について浮世絵、美人画を修め、「玉僊」の雅号で浮世絵師として名声をあげた。しかし、晩年になると土佐光貞の門に入り、土佐の遺風を慕い、有識故実の学を極め、大和絵を加味した風俗画を描いた。

残された作品も多彩で、尾張名所団扇絵を描いたり、肉筆美人画を描くなど、浮世絵系の墨僊の弟子としての側面を見せる一方で、典雅な色彩の大和絵を描き、南画風の作品も残した。日比野白圭、木村金秋、鬼頭道恭ら土佐派を継承した門人も多い。

鬼頭道恭
天保11年2月生まれ。名は道恭、通称は玉三郎。名古屋本町の平八の子。森高雅に学び、のちに京都に出て、巨勢派の北村季隆に仏画を学び、かたわら岡田為恭について土佐派を修めた。甲斐身延山六角堂内部の装飾に従事した。のちに名古屋に帰り門人を育てた、仏画が得意で、その第一人者と称された。明治37年4月、65歳で死去した。

児島基隆
文政2年生まれ。名は吉隆。幼い頃から画を好み、はじめ森高雅に学び、のちに浮田一の門に入り、田中訥言を慕った。和歌を好み、勤王の士と交わった。明治15年の内国絵画共進会で受賞、同18年に愛知県絵画共進会の審査員となる。稲武町の古橋懐古館に大作が残っている。明治20年7月28日、69歳で死去した。

太田仙草
天保9年春日井郡下小田井村生まれ。青物問屋を営む。太田三郎の父。森高雅に土佐派を学んだ。日比野白圭、木村金秋、鬼頭道恭らと愛知同好会を組織して中京画壇で活躍した。明治24年、54歳で死去した。

時田光稲
天保7年生まれ。名は光稲、字は寛卿、通称は金右衛門。別号に流翠、松蔭斎がある。名古屋大船町の商家。森高雅に学び、のちに土佐光文に師事して土佐派の絵を描いた。また、流翠の号で俳諧をよくした。明治10年4月14日、42歳で死去した。

丹羽閑斎
文化7年名古屋長塀町生まれ。字は氏常、通称は左一郎。尾張藩士。画を森高雅に学ぶ。妻は高木大翁の娘。明治13年1月20日、71歳で死去した。

古川玉応
文化4年6月3日生まれ。愛知郡高畑村八幡社の祠官・古川観太郎の子。13歳の時に玉僊時代の森高雅に浮世絵を学び、高雅の画風の変化にともない土佐派風の画を描いた。明治19年、80歳で死去した。

成田松園
文化10年5月生まれ。通称は松三郎。別号に玉竜、素竜がある。森高雅について土佐派を学び、仏画を吉川一渓に学んだ。明治初年頃死去。

石川不成
天保4年生まれ。名は信守、通称は吉太郎。尾張藩士。幼いころから画を好み、森高雅について土佐派を学んだ。明治17年の第2回内国絵画共進会に出品している。明治34年、69歳で死去した。

下郷采蘭
文化15年5月鳴海の下郷家に生まれる。名は禎斎。幼少より小島老鉄について南画を学び、さらに森高雅から有識故実を学んだ。19歳で家督を継ぎ、鳴海宿村の諸役を歴任するからわら画を楽しんだ。明治33年、83歳で死去した。

尾張(12)-ネット検索で出てこない画家


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復古大和絵派の祖・田中訥言

2015-01-30 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑復古大和絵-田中訥言とその周辺-

江戸時代後期、平安時代以来の伝統を持つ大和絵の古典を学び、大和絵を復興しようとした画家たちを、後の時代に「復古大和絵派」と称した。その先駆者が尾張出身の田中訥言である。

田中訥言(1767-1823)は名古屋に生まれ、京都に出て土佐光貞の門に入り土佐派の画法を学び、さらに藤原信実、春日光長の画巻を研究し、古土佐の復興を唱えた。花鳥山水いずれにもすぐれ、有識故実にも詳しく、考証を極めた。その精神を受け継いだのが、名古屋の門人・渡辺清(1778-1861)と京都の浮田一(1795-1859)である。さらに訥言の没年に生まれた岡田為恭(1823-1864)に継承されていった。

渡辺清は14歳で名古屋の町狩野の吉川英信の門に入り、英信没後はその子義信に従ったが、親しかった竹洞と梅逸の助言により土佐派に転向、京都に出て土佐光貞と田中訥言に師事した。門人としては、大石真虎、吉田蓼園、日比野白圭、木村金秋、小野四郎(高久隆古)、不動院香園、尾関東園、近藤芙山、夏目周岳、御塩春章、吉田逸言らがいる。

中年になって名古屋に来て渡辺清の門で学んだ高久隆古(1810-1858)は、清の没後京都に出て浮田一に学んだ。のちに江戸に戻り活動するが、隆古に刺激されて、菊池容斎が狩野派から転じて歴史画家となり、さらには山名貫義、小堀鞆音、吉川霊華が現れ、次いで松岡映丘が出て新興大和絵を興した。

吉田蓼園
文政10年5月名古屋堀切筋長者町生まれ。名は貞通のちに貞、通称は喜太郎、喜左衛門、別号に南甫、生斎がある。尾張藩士・吉田八郎の子。幼い頃から画を好み、長じて渡辺清につき土佐派を学んだ。国学、和歌を氷室長翁に学び、吉野に随行して『吉野紀行』の挿画を描いた。また、白川町法応寺の大和志貴山毘沙門開帳に際し、鳥羽僧正筆の志貴山縁起三巻を模写した。明治33年1月、74歳で死去した。

吉田逸言
明治7年12月名古屋市中区新柳町七丁目生まれ。名は冬彦。別号に有峰軒がある。吉田蓼園の長男。父につき土佐派の画法を学び、渡辺清を慕い隔世の師とした。古今の名画を模写し、土佐派を中心として淡彩画に一新機軸を出した。意匠図案に心がけ、古今の文様を集め、茶道、華道なども好んだ。昭和22年8月、74歳で死去した。

不動院香園
海東郡津島の不動院の住職。僧名は宥如、姓は矢野。画を渡辺清に学び、高久隆古とも親交があり、互いに深く有識故実を研究した。また、蒔絵、彫刻もよくした。文化12年4月4日死去。

尾関東園
天保5年2月生まれ。名は祐命、通称は弥兵衛、別号に永がある。名古屋橘町の紙商柏彌の三代目主人。渡辺清に大和絵を学び、花鳥を得意とした。隠居したのちは東雲庵で画を描き、茶道、連歌を楽しんだ。明治36年10月、70歳で死去した。

近藤芙山
文化2年生まれ。通称は忠三郎、別号に煙霞斎、雪翁がある。名古屋伝馬町八丁目の武兵衛有隣の子。17歳の時に渡辺清の門に入り土佐派を学び、のちに松野梅山について狩野派の画法を修めた。安政3年5月11日、51歳で死去した。

夏目周岳
文化5年生まれ。通称は重八。別号に桐井堂がある。三州吉田上伝馬町に住み、表具師を業とした。渡辺清に土佐派を学んだ。俳諧、狂歌を好んだ。明治8年6月16日、68歳で死去した。

御塩春章
文政8年8月14日名古屋生まれ。御塩春造の子。渡辺清に土佐派を学び、のちに松吉樵渓について四条派を修めた。飛騨地方を遊歴した。

尾張(11)-ネット検索で出てこない画家


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尾張南画の歳寒三友、竹洞、梅逸、そして伊豆原麻谷

2015-01-27 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑、尾張の絵画史、伊豆原麻谷~麻谷とその周辺~

竹洞、梅逸と並び称され、尾張南画の「歳寒三友」の一人とされた「松谷」こと伊豆原麻谷であるが、その経歴に不明な点は多い。三河の農村に生まれ、僧侶になるはずが画の道に入り、当時最先端だった長崎で修業。京都、大坂、名古屋で絵画を業として生き、同時代の文化人たちと盛んに交流、画家としての名声も高かった。にもかかわらず、現在では竹洞、梅逸ほどの評価が得られておらず、後継者も見当たらない。

伊豆原麻谷(1776-1860)は、安永7年三河国加茂郡北莇生村西山に生まれた。名は彬・迂、字は大迂、通称は橘蔵。莇生(あざぶ)の音を取って「麻谷(まこく)」と号した。10歳で名古屋禅寺町の寺に入り、16歳で京都に出て、20歳で長崎に行き10年間修業し、30歳で京都に戻った。ここですでに京都にいた竹洞、梅逸といわゆる「歳寒三友」の契りを結び、号を「松号」に改めたという。しかし思うような結果が出せず、京都を離れて大坂に行き、そのあと各地を転々とし、文政10年、50歳の時に名古屋に戻り、号を「麻谷」に戻したという。その後は名古屋を拠点として活動、万延元年、83歳で死去した。

経歴不明の中でも特に師系が定かでない。10歳で入った寺で師僧が画才を見抜き、就かせたという画家の名が伝わっていない。16歳からの京都での修行も史料が少なく師系は推論の域を出ない。さらに、長崎では方西園及び費晴湖について学んだとされるが、否定的な見解を持つ研究者もいる。また、改号に関しても、京都に出て「松谷」と改めたとされるが、現在に至るまで「松谷」と号した作品が確認されておらず、確証があるわけではないが否定するだけの確証もない、というのが現状である。

麻谷の人物像について、図録『伊豆原麻谷~麻谷とその周辺~』(三好町立歴史民俗資料館)では、交流のあった南合果堂、貫名海屋、村瀬藤城、村瀬秋水、高橋杏村、吉原仲恭らが記載している書物などから判断して、「素朴で飾らない人物であり、無口で、将来のことを考えて三味線を習うような一面を持つ、一種奇人でありながら、皆に愛される好人物であった」とし、画家としての評価は、「画は気韻を尊び、古淡であり、名古屋の画工として成功していたことは、その名声の高さ、注文の多さ、そして貯えのあったことなどから伺える」としている。

謎に包まれながらも画家として名声が得て、行動範囲も広く、各地の知識人たちと盛んに交流した好人物と評される麻谷だが、分かっている弟子も少なく、麻谷の作風を忠実に、あるいは発展させて受け継いだものを見出すことはできない。

牧野錬石
美濃長良の生まれ。はじめ伊豆原麻谷につき南宗の画法を学び、のちに山本梅逸の養子となったが、素行が修まらなかったので離縁となった。明治18年7月8日死去。

林稼亭
文政7年2月生まれ。通称は源助。海部郡蟹江の林源左衛門の子。はじめ伊豆原麻谷の門に入り南宗の画法を学び、ついで小島老鉄、村瀬秋水の教えを受けた。半生は西三河地方を巡遊したが、晩年は不遇のうちに生涯を終えた。明治28年10月、82歳で死去した。

加藤甘谷
海部郡佐屋の人。名は正利、通称は五左衛門。別号に江南がある。師承は明らかではないが伊豆原麻谷とみられる。好んで描く山水は、人柄を反映し、非常に生真面目で、厳格なものであったという。天保12年死去。

尾張(10)-ネット検索で出てこない画家


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尾張南画の全盛・山本梅逸の門人たち

2015-01-23 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史

郷里に帰る竹洞と別れ、全国各地の遊歴の旅に出た梅逸は、京都から大坂、山陽、四国とめぐり、さらに北陸へと足を延ばし、いったん名古屋に戻ったあとは、江戸に姿を現すなど、再上洛するまで名古屋を拠点に活発な動きを見せ、新進の南画家として、各地で学者や文人と交わりを持った。天保3年に京都に居を構えた後は、画作と向き合いつつ、煎茶道具を自作したり、煎茶の会を主催したりもした。また、印を自刻するなど、多芸多趣味の人であった。晩年は名古屋にもどり後進の指導にあたり、藩の御用をしたりもした。

梅逸の弟子たちは、梅逸の画風を忠実に守るか、まったく離れてしまうかの両極端な画風を示す傾向にある。小島老鉄や風花翁雲阿などは梅逸の山水とは異なった方向を示しており、奥野碧潭は竹洞の影響が強い。また、山本梅所や青木蒲堂らは梅逸の風俗画の延長線上にあるもので、加藤石華や沼田月斎ら美人画浮世絵を得意とした画家もいる。

柴山東巒
寛政12年生まれ。名は準春、字は志賀三、通称は先之。別号に漂麦園、愛蝶軒がある。尾張藩士で前津飴屋町に住んでいた。画を梅逸に学び、特に墨竹を得意とした。風流を好み儒雅との交わりも多く、篆刻もよくした。嘉永元年、59歳で死去した。

舎人葵園
安永9年生まれ。名は経栄、字は華卿、通称は平兵衛。別号に鼓腹がある。尾張藩士。画を梅逸に学び、写生にすぐれていた。嘉永元年2月18日、64歳で死去した。

加藤石華
東春日井郡瀬戸生まれ。名は半二、別姓に亀井。別号に玉暁、玉山がある。製陶業・川本半助の職工で、文政ころ森高雅の門に入り美人画を学び、のちに梅逸に師事、花鳥画にとりくんだ。また、絵画技巧を陶磁器のデザインや絵付けに活かし、瀬戸染付の進歩に貢献した。嘉永4年3月17日死去。

小島老鉄
寛政5年4月18日生まれ。通称は友七郎、左一郎。別号に采風外史、絵屋友七がある。知多郡松原村の小島平八の一族で、名古屋伏見町に生まれた。はじめ狩野派の吉川一渓の門に入り、梅逸のもとに移ってからは頭角を現し、高弟の一人に数えられるようになった。淡彩による潤いのある山水画に特色があり、師とは違う世界を創りだした。無欲清淡いにして奇行が多かったという。嘉永5年6月8日、60歳で死去した。

奥野碧潭
寛政2年生まれ。名は友之、通称は津之国屋喜兵衛。中須賀町の津之国屋という筆墨商。画を梅逸に学び、山水画を得意としていた。筆が巧みで、梅逸の花鳥や竹洞の山水を贋作して破門されたという。嘉永6年、64歳で死去した。

野村竹外
文政3年生まれ。名は惟叙、字は子哥、通称は新次郎。別号に橋左堂がある。名古屋五条町で塩問屋を営んだ。画を梅逸に学んだ。文雅風流を好み、儒学を国松国宇に受け、書を柳沢維賢に学び、神波即山、青木蒲堂らと親しく交流した。慶応2年11月27日、47歳で死去した。

上田桃逸
中島郡片原一色に生まれ。名は為民。別号に常春軒がある。名古屋に出て画を梅逸に学んだ。明治2年6月22日死去。

青木蒲堂
文化7年生まれ。通称は知多屋庄次郎。名古屋大船町の塩問屋の二男として生まれ、独立して正萬町で酒造を営んだ。幼い頃から画を好み、梅逸に学んだ。明治5年3月15日、63歳で死去した。

山本梅所
天保3年越後五条生まれ。名は双吉。梅逸の妻の姪と結婚して後嗣となる。絵に打ち込むよりも行動を好む性格を持ち、幕末の際は志士と結び東奔西走し、明治2年には初めて新聞を発行。断髪、洋服の着用など開化の先導者となった。明治6年、42歳で死去した。

中川梅岳
文化8年名古屋城御土居下生まれ。名は正有、字は玉保、通称は貞三郎、左一郎。別号に梅華斎、友山子、雪華園、芳春亭がある。梅逸に学び、藩主斉朝に召されて席画を試み、また殿中の襖に画を描いた。明治11年12月16日、68歳で死去した。

風花翁雲阿
文化3年生まれ。名は雲阿、通称は円龍。別号に天竺花老人、月道人、六字吟叟がある。東照宮別当尊寿院16世。梅逸に花鳥を、日根野対山に山水を習った。絵の他に書、詩歌、陶磁器、など多方面に才能を発揮した。明治13年1月12日、75歳で死去した。

平野泥江
文化10年名古屋巾下四間道生まれ。名は卓章。別号に竹仏がある。父は木綿問屋を営んでいた。梅逸に学び、墨竹を得意とした。明治17年、72歳で死去した。

岡本梅英
文化6年4月9日生まれ。名は伸夫、通称は唯三、字は考棋。別号に銀香斎がある。尾張藩士・岡本唯右衛門正利の長男。幼い頃から画を好み、15歳で梅逸の門に入った。尾張侯より将軍家へ献上する岐阜提灯の絵を描いた。明治23年6月10日、82歳で死去した。

三輪可墨
天保元年生まれ。通称は喜兵衛。名古屋東袋町に住み刀剣を商い、維新後は廃業し名古屋博物館古画管掌の吏となった。はじめ山本鉄山、梅逸に学び、没後は小島老鉄、木下稼雲に師事した。明治34年3月25日、72歳で死去した。

沼田荷舟
天保9年名古屋水筒先町生まれ。名は正之。別号に朴斎がある。尾張藩士・沼田月斎の孫。幼い頃から祖父に画を学び、花鳥を得意とした。東京にでて制作活動をし、旧皇居の障壁画を描いた。著書に『荷舟花鳥画譜』がある。明治34年2月、64歳で死去した。 

尾張(9)-ネット検索で出てこない画家


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尾張南画の全盛、中林竹洞・山本梅逸の登場

2015-01-20 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史

神谷天遊ら大パトロンの存在により相当量の中国画が尾張の地に蓄積され、画家の研鑚の場も充実、画壇が活況を呈する条件が整えられていった。こうした時代にこの地で若い時期を過ごした中林竹洞、山本梅逸は、まさに時代の申し子で、彼らを中心に尾張南画が全国的規模で受け入れられるようになり、南画家の制作活動やそれを支える享受層が飛躍的に発展、尾張の南画は全盛を迎えた。

中林竹洞(1776-1853)は、名古屋の医者の家に生まれ、尾張南画の祖・丹羽嘉言が活躍する草創期に幼年期を過ごし、寛政年間に入ってから尾張南画中興の祖・山田宮常と出会い師事、その後、大パトロンである神谷天遊宅へ寄宿し修業することになる。「蓬瀛勝会」などの書画会で多彩な文化人と交流しながら刺激をうけ、画術を深めていった。享和2年、天遊の死を契機に山本梅逸とともに京都に出るが京都画壇で成功を収められず帰郷、13年後に再度上洛し、そのあとは京都に住んだ。

竹洞より7つ年少の山本梅逸(1783-1856)は名古屋の彫刻師の家に生まれ、幼少の頃から画の才能を示したが、この時期は、嘉言、清狂らが相次いで世を去り、尾張南画が変質期に入った時期だった。梅逸は浮世絵師の山本蘭亭、四條派に近い画風の奇才・張月樵ら南画とは違う師を持たざるを得なかったが、その後、神谷天遊により南画の世界に導かれた。梅逸は南画とは異なる師から受けた技術の上に、南画的な方向性や技法を加え、風俗画的人物画や装飾的傾向の強い花鳥画を自分のものとしていった。天遊の死後は竹洞とともに京都に出るが失敗、郷里に帰る竹洞と別れて全国各地の遊歴へと旅立った。そして二度目の上洛で京都に住み、晩年は名古屋に戻った。

中林竹洞の弟子たちは山水画にすぐれた作品を残したものが多い。多くは京都における弟子たちであるが、郷里の美濃に帰ってその画風を伝えた高橋杏村、江戸へ出て活躍した勾田台嶺、名古屋時代の弟子には玉井鵞渓がいる。

高橋杏村
文化元年生まれ。名は九鴻、字は景羽、通称は惣右衛門。別号に爪霜、鉄鼎、鹿遠草堂がある。美濃安八郡神戸村の人。若い頃に京都に出て竹洞に師事して南画を学んだ。帰郷して弘化元年に「鉄鼎学舎」を開き、漢籍と画法を伝授した。門人は大変多く、尾張から三河に遊歴しその地方にまで門人がいた。子の湘雲もまた画をよくした。明治元年死去。

中林清淑
天保2年生まれ。名はくに。竹洞の娘。父に南画を学び、京都に住んだ。花卉、特に梅図を得意とした。明治45年5月5日、82歳で死去した。

中林竹渓
文化13年生まれ。名は成業、字は紹父、通称は金吾。別号に画河居士がある。竹洞の子。世と相容れず、心配に思った父が梅逸のもとに修業に出した。すぐれた才能を持ち、父親譲りの品格ある画を描いたが、片意地で協調性がなく、才能を十分に発揮することができなかったとされる。慶応3年4月22日、52歳で死去した。

勾田台嶺
安永元年生まれ。名は寛宏、字は文饒。竹洞に師事し、のちに江戸に出て広瀬臺山に師事した。花鳥、水墨ともに品格ある画を描いた。嘉永頃死去。

勾田香夢
名は清。名古屋の人。勾田台嶺の妻。白猫の美人画で知られる。四君子や浅降山水も得意とした。

玉井鵞渓
名は裔、字は裔涯、通称は貞次。別号に月皋、鵞溪、鴬囀居主人がある。伊勢山田に生まれ、文化3年名古屋に来て永坂養二の門に入り外科を学び、灰取町長栄寺門前に住んで医を業とした。寂照寺の僧・月僊に円山派を学び、さらに竹洞の門に入り南画を学んだ。元明清の墨画を残した。花鳥山水すべて竹洞に似ていたといわれる。文久2年5月22日死去。

中野水竹
文化5年生まれ。名は堯教、通称は進一郎。名古屋鴬谷に生まれ、竹洞、梅逸に師事した。天保10年に尾州藩絵事御用掛となり、同門の岡本梅英と幕府献上の岐阜提灯に描いた。常に多くの仲間や門人と月次会を開いて研究し、老後は書画と詩歌を楽しんだ。明治19年1月5日、79歳で死去した。

高木雪居
名は秀真、通称は八郎右衛門、別号に大応、雪居、大翁がある。尾州藩重臣。文武両道に秀でていて、行動的な性格で、藩の世継ぎに関する陳述書で幕府より幽閉されたり、若い志士たちを集めて「金鉄堂」を組織し、明治維新に活躍するなどした。和歌や絵にも気力あふれる作が多く、はじめ谷文晁に問い、のちに竹洞に学び、本格的な作風、技術も進んで取り入れた。

尾張(8)-ネット検索で出てこない画家


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南画家を支援し方向性を示した尾張の豪商・豪農

2015-01-16 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史

尾張南画の発展に大きく寄与したのが、パトロンの存在である。神谷天遊ら大実業家は、自らも画を描くとともに、経済的な面で画家たちを支援し、研究のために明清画など多くの書画資料を提供、作画における大きな方向性を示した。

神谷天遊は、名古屋の鉄砲町に住み、質屋や醸造業を営む実業家だった。和漢の古書画を豊富に所蔵し、のちに中林竹洞や山本梅逸が初めて本格的な画学習を始めたのも、彼のコレクションによるものだった。経済的にも芸術家たちを支え、また優れた鑑識眼をもって画家を指導した。

彼らの支援によって、書画の研究会が盛んに開催され、画家だけでなく学者や文化人たちも集い交流した。七ツ寺における「蓬瀛勝会」には、神谷天遊、内田蘭渚、山川墨湖、十時梅らが参加。極楽寺の「春興余事」には、内藤東甫、丹羽嘉言、山川墨湖、西村清狂、浅井図南、伊藤三橋、鳳雛、人見黍、松平君山、岡田挺之、雲臥元淳、本田三雪らが参加、「五子の社」には近藤九渓、高間春渚、井上士朗が集った。のちに尾張南画の最盛期をささえる中林竹洞や山本梅逸らもこの会から育っていった。

こうした名古屋城下での動きに加え、鳴海にも文雅の人々が集う輪があった。その中心にいたのが下郷学海である。下郷家は鳴海にあって代々「千代倉」を称した素封家で、歴代の主人はいずれも詩文や書画を好んだ。特に松尾芭蕉との深いつながりを持って以来、俳諧にも関心を寄せ、句会を主催したりもした。

千代倉第六代の学海は、名古屋城下で南画がおこり始めた頃に、経史を宮崎いん圃に、書画を池大雅に学んだと伝えられている。彼の周りには南画を描くものや学者が集まった。その交際範囲は名古屋城下にとどまらず、京阪地方の人々も含んだ広範囲にわたるものだった。

地方の教養ある豪商、豪農の間を遊歴してやっと経済的な支えを得ていた当時の南画家や自由人にとって、下郷学海は大きな存在だった。

神谷天遊
宝永7年生まれ。名は元等、字は斎卿、通称は次平、または永楽屋伝右衛門。三河高須村の出身で、名古屋の鉄砲町に住み、質・醸造業を営んでいた。丹羽嘉言とも親しく、嘉言の絵画世界の基礎になったのは天遊の豊富な中国画コレクションだともいわれる。天遊と嘉言の周りには西村清狂、山川墨湖、巣見来山ら同好の士に加え、鈴木朖、丹羽盤桓子、岡田新川、横井也有ら幅広い学者や自由人たちが集まった。この輪に多趣味の商人たちが加わり、理想の南画を目指し尾張画壇を盛り立てた。享和元年死去。

下郷学海
寛保2年生まれ。名は寛、字は君栗、通称は千蔵・次郎八。別号に亀洞、千代倉(屋号)などがある。下郷家の第6世。下郷家は、酒造を兼ねる鳴海の豪農で、代々書画や和歌・俳諧に関心を持ち、尾張の文化人グループのサロン的役割を果たした。『尚書去病』など著書も多く、同時代の人として山田宮常、浅井図南らが学海にあてた書状が多く残っている。池大雅と与謝蕪村に「十便十宜図」を依頼して描かせたことは有名。寛政2年死去。

尾張(7)-ネット検索で出てこない画家


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