松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま島根県を探索中。

紀伊の近代・日高昌克ら個性的な画家を輩出

2015-10-07 | 画人伝・紀伊

 

文献:日高昌克 米国個展記念特輯

徳川御三家として栄えた紀伊の地では、紀伊狩野を中心とした御用絵師の系譜が長く続いたが、従来の絵画に飽きたらず新しい表現を探った儒者・祇園南海らを始祖とした南画家の登場や、様々な師系や独修の画家たちが活躍した。

近代に入ると、日本美術院創立に参加して日本画の革新を目指した下村観山(1873-1930)や、日本美術院を出て青龍社を結成、のちに文化勲章を受章する川端龍子(1885-1966)らが中央画壇で活躍した。また、国画創作協会の創立に参画した野長瀬晩花(1889-1964)や、独学で南画を学び、57歳で医師から転身して東洋古典南画と西洋後期印象派との融合を目指した日高昌克(1881-1961)など、個性的な日本画家も輩出している。

日高昌克(1881-1961)
明治14年和歌山県日高郡御坊町生まれ。医師・木村元寿の長男。35年和歌山市の親戚に入籍し池田と改姓した。38年京都府立医専を卒業。在学中に水彩画に興味を持ち独習した。44年和歌山市南汀町に耳鼻科医院を開業。大正3年、郷土の日本画家・坂井芳泉について四条派を学ぶが、一年余りで画風に嫌気がさし、南画の描法を独習する。以来数年間は南画、北画、浮世絵などの模写に没頭する。大正5年、勝田蕉琴が和歌山に三か月の漫遊に来た際に設色の法を学んだ。

大正6年、36歳の時に、橋本関雪への入門を試みるが、関雪の豪壮な邸宅を見て嫌気がさして入門を断念。翌7年には富岡鉄斎を尋ね弟子入りしようとしたが、鉄斎は、昌克が博物館で名作の模写をしたり、山に登ったり、各地を旅行したりして勉強しているというのを聞いて、絵の勉強には師匠につくより、名作や自然を師とするほうがよいと諭した。それから昌克は熱心に美術館通いをはじめ、雪舟、王石谷、牧谿、浮世絵などの名品を模写し、西洋の後期印象派、特にセザンヌやゴッホの作品にも深く傾倒していった。その頃、当時国画創作協会を作って日本画界の革新運動を起こしていた土田麦僊、村上華岳、榊原紫峰、入江波光らとも知り合い、その影響を受けた。

昭和12年5月、東京の資生堂画廊で第1回個展を開催、翌13年、57歳の時に医院を廃業して、東京に出て画道に専念、無所属で個展を中心に活動した。昭和32年10月には、当時の和歌山大学学長・岩崎真澄の紹介により米国フィラデルフィア美術館美術大学をはじめ、サンチャゴなどの美術館で展覧会を開催、その反響は『日高昌克 米国個展記念特輯』に詳しい。

晩年は家族を和歌山に残し、紀ノ川流域随一とされる景勝地・背山の里に閑居し画業一途に良き、昭和36年、79歳で死去した。

日高昌克は『日高昌克 米国個展記念特輯』で自分の画家としての姿勢や目指すところについて次のように記している。(以下引用)

画家としての私の念願は東洋古典南画と西洋後期印象派との融合を成し遂げ、私独自の画風を打ち立てたいという柄にもない慾望だった。瞑想的感想的で規律に覇束さるるのを欲しない私の性格がこうした画境に憧がるることは当然である。中国晩唐張彦遠が説かれた「外は造化を師とし、内は心源に得たり」という作画の理念と、後年西欧のセザンヌのいう「目を開いて自然を見、眼を閉ぢて自然を見る」というこの東西共通の、物象を心眼で見るとする理論は夙に私が抱懐せる表現形態だったのである。また南画の始祖とされている五代董源の画を評した沈括の言葉「近づきこれを覩れば幾んど物象に類せず、遠観すれば即ち景物燦然、幽情深思、異境を覩るが如し」もまた私の画境に通ずるものであり、中国古典の南画と、西欧後期印象派の統一こと私の衷に潜む画魂を勇躍せしめたのだった。

紀伊(14)-ネット検索で出てこない画家


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紀伊の円山・四条派

2015-09-30 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

紀伊の円山・四条派としては、松村景文の門人である鎌田景麟(1808-1864)、景麟に学んだ塩谷景山(不明-不明)、挿図を多く描いた塩路鶴堂らがいる。また、月僊の門に学んだ森月航(不明-1814)も、円山派から出た一種の風格を門人たちに伝え、和歌山の画壇をにぎわした。

鎌田景麟(1808-1864)
文化5年生まれ。名は方至、字は子炳、通称は惣平。和歌山城下の北の新地の茶屋青棲の主人。京都の四条派である松村景文の門に学び、出藍の誉れとうたわれ、当時大坂の西山芳園らと共に景文門下の秀才とされた。茶屋を営んでいたことから、幕末の志士とも親交があったようで、大坂の会合に行った際に襲われて殺害されたとも伝えられる。画は景文の作風を伝え、花鳥画を得意とした。元治元年、57歳で死去した。

塩谷景山(不明-不明)
和歌山北新西仲間町の表具師。鎌田景麟に師事し、円山派の画をよくした。専ら仕入れの襖絵を描いた。

塩路鶴堂(不明-不明)
天保嘉永の頃の円山派の画家。名は義明、字は思。本草学者・小原良直の著書『桃洞遺筆』に多く挿図を描いている。他に自著として『鶴堂畫譜』がある。

森月航(不明-1814)
名は行貞、字は子暉、本姓は清原氏。豊後岡の出身だが、紀伊に永住していた。画僧・月僊の門人で、月僊の画風を伝えて人物画を得意とした。当時は野呂介石や崖熊野ら南宗画の大家が門戸を開いて庶民の子弟を教育していたが、月航はこれに対して門人を育て、円山派から出た一種の風格を伝えて、寛政文化の頃の和歌山の画壇をにぎわした。文化11年死去。文化6年刊行の「南紀若山新書画展展覧会目録」の中に奥田明斎、成田白圭、松廣月澗、木下月洲が、森月航の門人として掲載されているが詳細は不明。また、「名数画譜」の中に竹林七賢の図がある中村圭峰も月航の門人とされるが詳細は不明。

片山蘆雪(不明-不明)
安政文久頃の人。和歌山岡林泉寺町に住んでいた。円山派の画家で、よく風俗人物を描いた。谷井蘆岳の師。

谷井蘆岳(不明-1907)
通称は種八郎。別号に雙葉庵がある。片山蘆雪の門人。明治40年、59歳で死去した。

水嶋春水(1869-1894)
明治2年和歌山本町生まれ。名は秀穂、幼名は幾三郎。はじめは春汀と号し、のちに春水と改めた。父は藩の御用医師。幼い頃から早熟で、4歳で書を芳山石雨に、5歳で画を筑紫翠雲に学び、ともに出藍の誉れをうたわれた。明治21年、感ずるところあって南宗の筆を捨て、京都に出て幸野楳嶺の画塾に入り、塾長の菊池芳文について学んだが、体が弱く、明治27年、26歳で死去した。

岡崎秀巴(不明-不明)
名は信之助、別号に晴山、桂仙などがある。はじめ榎本遊谷に師事し、のちに京都で竹内栖鳳に学んだ。帰郷して画に専念したが、広隆、玉洲、白雪、介石らの偽物を作り名声が落ちたという。

中島南英(不明-1932)
名は貫一、別号に観月がある。和歌山市の人。京都絵画専門学校を卒業し、和歌山市第一・第二高等女学校で教鞭をとり、修徳学校も兼務した。京都の土田麦僊に師事し、四条派の画をよくした。和歌山黒鳥社の同人。昭和7年、33歳で死去した。

紀伊(13)-ネット検索で出てこない画家


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紀伊の大和絵師・岩瀬広隆

2015-09-24 | 画人伝・紀伊

文献:岩瀬広隆-知られざる紀州の大和絵師-紀州郷土藝術家小傳

岩瀬広隆は京都で生まれ、20代前半には「菱川清春」の名で、菱川師宣五代目を自称し、多くの版本挿画を手掛ける浮世絵師として京都で活躍した。若くして才能を開花させた広隆は、天保年間に『紀伊国名所図会』の挿絵画家として紀伊に招かれ、これをきっかけに名を菱川清春から小野広隆、岩瀬広隆などに変え、制作活動の拠点も京都から紀伊へと移した。紀伊藩10代藩主・徳川治宝のもとでは、復古大和絵派の浮田一や冷泉為恭らとともに『春日権現験記絵巻』の模写なども行ない、のちに紀伊藩のお抱え絵師となって生涯紀伊の地で活躍した。古典に取材した大和絵や風俗画の優品を多く残し、また、様々なジャンルや画題に挑戦し、多種多彩な表現を試みている。

岩瀬広隆(1808-1877)
文化5年京都生まれ。出自についてはほとんで分かっていない。名は広隆、のちに可隆、字は文可、通称は俊蔵または彦三郎とされる。若い頃は俳優の群に身を投じていたが、のちに画を志したとされる。改姓を繰り返し、多くの画号を用いている。『紀州郷土藝術家小傳』によると画号には、曄齋、清晴、清春、青陽齋、雪艇、広隆、仲昭、昭年、海響、櫻塢、琴泉、文可、鞠園、春窓、崖、菊園、延年、文峰、碧田、可隆、谷、梅軒、松溪、琴屋、琴谷、黄萃、汀梅、雨山、鉄鑾、鐵幹、董庵、林屋、風外、竹石、白雲、米年、半夢などがある。晩年は沙門鉄翁に私淑し南画を描き、林屋、白雲、竹石、米年などの号を用いた。最後の号は「半夢」だといわれる。居を水鏡山房と称し、のちに東郊楠右衛門小路に移ってからは松竹山房、黄心居などと称した。明治10年、70歳で死去した。

玉置邦山(不明-1890)
名は豫、字は萬年、通称は次郎平。居を鏡花水月居と称した。別号に萬齢がある。家号を亀屋と呼んだ。和歌山萬町の造酢家で、岩瀬半夢に学んで南宗画を修めた。詩文を好み、また滑稽洒脱の文を書いた。戯号を酢荷擔幽人と称した。『三名家略年譜』(一名墨林清芬)の著書がある。明治23年、64歳で死去した。

山沢与平(1813-不明)
文化10年生まれ。紀伊藩江戸定府の武士。遠藤広実の門人で、大和絵の名手と称された。紀伊藩10代藩主の徳川治宝の命を受け、古典を題材にした大和絵を描き、古い絵巻の模写なども行なった。

彦坂虎山(1837-1899)
通称は平次郎。別号に虎寒子、嘯仙子がある。幼い頃から書を好み、6歳の時に藩主の前で大書を揮毫したといわれる。維新の頃、岩瀬広隆と同居して画を学び、のちに藤本鉄石について南宗画の画法を修めた。明治32年、62歳で死去した。

福井石叟(不明-不明)
通称は善平。もとは黒江の蒔絵師で、はじめ鎌倉景麟に学んで麟山と号し、のちに岩瀬広隆に師事した。明治初年には中西耕石の門に入って南画に転じ、石叟と号した。明治19年頃には大阪に住み、時世の風潮に従い南画を捨て、再び写生派に戻った。明治30数年に同地で死去した。

栗本梅谷(不明-1919)
名は諦念、幼名は房五郎。貴志久大夫の三男。梅原の徳号寺に婿に入り、学を修め住職となった。風雅を愛好し、画を岩瀬広隆に、書を芳山石雨に学び、いずれも巧みだった。特に梅を得意とし、和歌も好んだ。大正8年、70歳で死去した。

古谷深翠(不明-不明)
海草郡貴志村生まれ。名は周平、字は寛。医師の家だったが、岩瀬広隆の門に入って南画をよくした。中年になって越後に住んだが、晩年になって帰郷し画に専念した。

金原白玉齋(不明-1826)
名は文禮、字は内記、通称は彌三郎。別号に露性齋がある。住吉派の画をよくし、肖像を描くのが得意だった。文政9年、42歳で死去した。

畠山菊處(不明-不明)
名は義孝。岩瀬広隆の門に入り画道を修めた。

紀伊(12)-ネット検索で出てこない画家


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紀伊の南画家たち

2015-09-16 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

紀州三大南画家である祇園南海、桑山玉洲、野呂介石を輩出した紀伊には、その門人の他にもさまざまな師系の南画家が活躍した。大江龍眠の実弟で小田海僊に師事した大江霞岳、本草学者で南画をよくした坂本浩雪、『小梅日記』で知られ、当時の和歌山における女性画家の第一人者と称された川合小梅、山本梅逸風の南宗画を描いた岡本緑邨をはじめ、諏訪鵞湖、崖熊野ら多彩な南画家がいる。

大江霞岳(不明-1850)
名は一郎。大江龍眠の実弟。南画をよくし、小田海僊に師事した。嘉永3年死去。

井爪丹岳(1832-1900)
天保3年有田郡生石村生まれ。名は脩祐、字は敬肅、通称は與次兵衛。別号に晩茶翁がある。井爪與次兵衛の子。幼い頃から学問や画を好み、はじめ田辺の大江霞岳について学び、のちに京都に出て小田海僊の門に入った。研究熱心で、南北合法を以って新機軸を打ち立てた。師の海僊も丹岳を養子に迎えたいと願ったが、家業を継ぐために成らなかったという。しかし丹岳は公事の傍ら終生画を描いた。明治33年、69歳で死去した。

東山琴堂(不明-1912)
椒村光明寺の住職。名は義賢。幼い頃から画を好み、井爪丹岳に師事して南画を学んだ。四君子を得意とした。大正元年、65歳で死去した。

坂本浩雪(1800-1853)
寛政12年生まれ。名は直大、字は櫻宇、通称は浩然。別号として香村、永齋、寫蘭、櫻香などがある。紀伊藩江戸詰の医師・坂本順庵甫道の長男。父から医学を学び、かたわら本草の学問を研究、余暇に筆をとって画を研究した。天保15年45歳の時に医業を廃し、画道に精進し、草木花卉などの写生に専念した。桜の花に力を入れ、『浩雪櫻譜』を著している。また、諸国を歴遊し、奇木異草や多数の菌類も写生し、『菌譜』2巻を著した。ほかにも『百卉存眞圖』『百花圖纂』など多くの著書がある。嘉永6年、54歳で死去した。

川合小梅(1804-1889)
文化元年生まれ。羅浮洞仙と号した。藩儒の川合豹蔵梅處の妻。野際白雪に師事したとされ、南画をよくした。特に花鳥、美人画を得意とした。当時の和歌山における女性画家の第一人者と称された。身辺の雑事を記した『小梅日記』でも知られる。明治22年、86歳で死去した。

岡本緑邨(1811-1881)
文化8年生まれ。紀伊出身だと思われる。名は邦直、字は子温。山本梅逸風の南画をよくした。画域が広く紀伊各地に作品が残っている。明治14年、71歳で死去した。

諏訪鵞湖(1764-1849)
名は維、通称は兼次郎。岡本小平太道率の二男に生まれ、江戸の諏訪新左衛門親次の養子となり、明和8年に跡を継いだ。武官の職にあって画をよくした。10代藩主・徳川治宝に同行して紀州へ行った際、熊野を遊歴し、那智滝を模写した。また、公命で富士山に登り、その真景を写生して藩主に献上した。嘉永2年、86歳で死去した。

崖熊野(1734-1813)
享保19年熊野生まれ。紀伊藩の儒学者。名は弘毅、字は剛煥、はじめ順助と称し、のちに權兵衛と改めた。学問を好み、画をよくした。紀伊藩に仕えて文学となり『仁井田好古紀伊続風土記』の編纂をした。文化10年、80歳で死去した。熊野に子はなく明の崖南☆を養子とし、南☆は養父の業を継いで書画をよくした。南☆の子・蘭☆、その子・雲☆と続いた。また、文化6年刊行の『南紀若山新書画展展覧会目録』のなかに中村翠宇は岸熊野の門人とあるが詳細は不明。(☆はすべて「山」+「喬」)

中田熊峰(不明-1886)
田辺の人。名は確、通称は泰平。別号に一簑、孤山などがある。幼い頃から読書を好み、書画もよくした。泉州の日根野対山に師事して南画の画法を学び、山水を得意とした。門人に小山雲泉がいる。明治19年、72歳で死去した。

小山雲泉(不明-不明)
田辺の人。名は袁榮、字は秀水、通称は要助。別号に芝石道人がある。明治11年に同地の中田熊峰に学んで南画を修めた。のちに大坂に出て堀江に住み、烟草業のかたわら筆をとった。其間、琴石、玉江、竹外らの先輩と交遊して研究に励んだ。また余技に篆刻を学び『千字文百顆印譜』を著した。赤松雲嶺はこの門から出た。

水野花陰(1850-1887)
嘉永3年生まれ。名は子、別号に華仙がある。三州田原藩主三宅泰直の三女。幼い頃に渡辺崋山の妻たかめ守役として仕え、長じて紀州新宮藩主の水野家に嫁いだ。画を好み、椿椿山、渡辺小華に学び、明治20年に小華の没後は滝和亭に師事した。大正9年、71歳で死去した。

酒井梅斎(不明-不明)
字は子文。戯れに鳥巣閣主人と称した。尾張の山本梅逸の門を出て、巧みに師の画風を伝えた。和歌山山本町に住んで絵筆をとった。明治12年頃に神戸に行き、海外輸出の陶器画の筆をとった。

堀田霞岳(不明-1931)
海草郡内海町の人。名は重蔵、別号に醉山荘主がある。15歳頃に青木梅岳の門に入り、さらに小室翠雲の門に入って学んだ。帰郷してからは藤白山麓に住んで醉山荘主と称した。昭和6年、35歳で死去した。

諏訪醉古(不明-不明)
紀州伊都郡九度山の人。名は寛。若い頃から画を好み、郷里を離れて田能村直入の門に入って学んだ。明治10年頃に死去した。

松韻(不明-不明)
日高郡御坊町島の人。画を志して京都に遊び、田能村直入の門に入って学んだ。画技は巧みだったが夭折して名を残せなかった。

吉田南涯(不明-不明)
明治年間の人。名は直、字は子和、通称は庄太郎。旧和歌山藩御勘定方の武士。畑屋敷榎丁に住んでいた。京都の南画家・重春塘について南画を学んだ。山水を得意とした。

竹中南渓(不明-不明)
和歌山米屋町の商人。中西耕石について南画を学び、米法山水を得意とした。明治12、3年頃病死した。

神保江村(不明-不明)
名は市右衛門。南紀古座中湊の人。代々醤油醸造を業としていた。風雅を好み、山下蕉雨に南画を学び、花鳥を得意とした。

依岡三交(不明-1901)
有田郡石垣村生まれ。和歌山藩の町与力。名は道義、字は子徳、通称は豫十郎。住居を碧梧翠竹草房と称した。師系は定かでないが南画をよくし、四君子、山水を得意とした。明治34年、62歳で死去した。

田崎藍涯(不明-不明)
牟婁郡の人。通称は伊兵衛。師系は定かでないが南画をよくし、山水を得意とした。明治15年の内国絵画共進会に那智瀑布の図と富岳の図を出品している。

沼野棠宇(不明-1778)
名は国幹、字は子禮。和歌山の沼野家八代の孫で、南画をよくした。安永7年死去。

今川了所(不明-不明)
文化年中の人。名は忠懿、字は君美。南画をよくした。

富松蘭溪(不明-不明)
文化年中の和歌山の人。名は長辰。南画をよくした。名数画譜の幽詩7月のうち「猗彼女桑」の図を描いた。

多賀春泉(不明-不明)
和歌山吹屋丁般若院の住職。名は良潭。南画をよくし、花鳥を得意とした。

的場南岳(不明-不明)
寛政文化の人。和歌山中の島に住んでいて南画をよくした。

藤江石鼎(不明-不明)
名は椿、字は八千。文化文政期の和歌山に住んでいた。名数画譜の中に五岳嵩山の図がある。

塩路五水(不明-不明)
名は久雄、字は徳善、通称は彦右衛門。日高郡島村の人。南画の山水をよくした。

千本碧龍(不明-不明)
和歌山藩士で本町御門番の頭役。通称は左門八。余技で南宗画を修め、山水を得意とした。明治10年頃、鳴神村に移って悠々自適に過ごした。

快處(不明-不明)
名は法潤。日高郡御坊町浄国寺の第九世。安政6年より13年間同寺に住んでいた。仏事の傍ら南宗画の山水をよくした。

水野巨海(不明-不明)
通称は澣二郎。新宮藩主土佐守の弟。椿山と交友があり、沈南蘋風をよくした。

紀伊(11)-ネット検索で出てこない画家


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野際白雪と門人たち

2015-09-12 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

野呂介石の高弟で、紀伊藩のお抱え絵師を務めた野際白雪(1773-1849)は、介石に学びながらも、南画だけでなく、狩野派や四条派風の花鳥画も学んだようで、研究熱心で画域が広かった。また、多くの門人を育てており、その門には紀伊藩士の鈴木景福、鍵野石耕、谷口南洲らが学んでいる。

野際白雪(1773-1849)
安永2年生まれ。紀伊藩のお抱え絵師。名は徴、字は伯亀。別号に石湖がある。居を群玉齋と称した。父は紀伊藩御先手の同心でのちに浪人となった。野呂介石に師事し、高弟と称された。はじめ表具屋を営んでいたため、壮年になってからも古画名蹟に接する機会があるごとに、それを自らの研究の良材に画域を広げていったという。師である介石の死後、介石が生前に語った内容を『介石画話』にまとめた。嘉永2年、77歳で死去した。

野際蔡眞(不明-1871)
名は眞。別号に石居、石湖、白鴎山人がある。本姓の松田氏を出て野際家を継ぎ、白雪の次女と結婚した。養父の後を受けて紀伊藩の絵師となった。明治4年、53歳で死去した。

野際蔡春(不明-不明)
名は春、字は白亀。野際蔡眞の子。画法を父に学び、出藍の誉れの声もあったが、父に先だって夭折し、後を継ぐものはいなかった。

野際小鶴(不明-不明)
野際白雪の妻。夫に師事した。

野際梅亭(不明-不明)
野際白雪の娘か、蔡眞の妻とみられる。父・野際白雪に師事した。

鈴木景福(不明-不明)
通称は治右衛門。紀伊藩士で御留守居番を勤めた。風雅を愛し、野際白雪に師事して花鳥などを描いた。白雪の画風をよく伝えている。

鍵野石耕(不明-不明)
名は長純、通称は幸左衛門。紀伊藩士。野際白雪に師事して、余技に画を描いた。

谷口南洲(不明-不明)
通称は房之助。紀伊藩士。野際白雪に師事して、余技に画を描いた。

久保田矮松(不明-不明)
通称は彌左衛門。紀伊藩に仕え表御右筆組頭を勤めた。野際白雪に師事した。元寺町に住んで余技に画をよくした。

畔柳孤峰(不明-不明)
通称は甚左衛門。紀伊藩に仕えて小普請支配役を勤めた。風雅を愛し、野際白雪に師事して、余技に画を描いた。

石本雪溪(不明-不明)
明治の人。名は芳隆、初号は溪樵。野際白雪に師事した。和歌山西紺屋町の表具師。津田香の著書『木國名勝詩誌』に挿絵を描いている。

瀬本石梁(不明-不明)
天保頃の人。石梁山人と号した。野際白雪の門に学んで山水をよくした。

岩橋鷺洲(不明-不明)
名は藤蔵、岩橋屋と称した。野際白雪に師事して山水を描いた。

池部絢霞(不明-不明)
通称は熊太郎。野際白雪に師事して山水を描いた。師の画風に似ていた。

稲生松林(不明-不明)
名は要人、通称は加兵衛。野際白雪に師事して山水を描いた。

富田翠霞(不明-不明)
通称は與兵衛。野際白雪に師事して山水を描いた。

朝陽(不明-不明)
本姓は不明。通称は次郎四郎。新通に住んで紋書を業とした。野際白雪に師事した。

小川恒貞(不明-不明)
天保時代の人。名は秀平。野際白雪に師事した。

橘翠徑(不明-不明)
名は為綱。野際白雪に師事した。

中村素行(不明-不明)
名は玄同。野際白雪に師事した。

中筋東川(不明-不明)
海草郡禰宜中筋の人。野際白雪に師事した。

中川石峰(不明-不明)
名は正是。野際白雪に師事して、墨竹などをよくした。

中井石雄(不明-不明)
名は與市。野際白雪に師事した。

福富皐松(不明-不明)
字は石眞、通称は半左衛門。野際白雪に師事した。

紀伊(10)-ネット検索で出てこない画家


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野呂介石の門人たち

2015-09-07 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

池大雅の高弟として全国的に名前を知られるようになった野呂介石のもとには、各地から多くの文人たちが訪れてきた。その中には田能村竹田や頼山陽など次世代の南画壇を担う画家たちも含まれていた。また、紀伊でも多くの弟子たちが介石の門に入り、野際白雪、前田有竹、愛石ら多くの南画家が育っている。

前田有竹(不明-不明)
文化文政の人。名は世美、字は子濟、俗称は山田屋總十郎。野呂介石に師事した。介石の高弟とされ、介石と行動を共にすることが多かったとみられる。山水を得意とした。

前田紫石(不明-不明)
前田有竹の妻。夫とともに野呂介石の門に学び、よく師の画風を修得したという。

愛石(1764-不明)
明和元年生まれ。名は直瑞。紀伊の画僧。幼い頃から画を好み、野呂介石に師事し、のちに元明の遺蹟や本朝の先哲の画風を研究して技術が進み、ついに一家をなした。野呂介石と、讃岐の長町竹石(1757-1806)とともに、南画の三石と呼ばれる。

馬上清江(不明-1842)
名は徳五郎、有田郡湯浅の人。通称は馬徳。野呂介石の門に入り、平林無方や浜口灌圃らとともに画を学んだ。天保13年死去。

平林無方(1782-1837)
天明2年有田郡湯浅町生まれ。名は瑞宝。有田郡湯浅の福蔵寺の住職。浜口灌圃らとともに野呂介石の門に学んだ。天保8年、56歳で死去した。

浜口灌圃(1778-1837)
安永7年生まれ。有田郡広村出身の町人。字は恭、幼名は儀三郎、通称は儀兵衛。浜口教表の長男。その居を風信亭と呼んだ。幼い頃から画を好み、平林無方らとともに野呂介石の門に学んだ。天保8年死去。

阪上漱雪(1765-1847)
明和2年生まれ。名は正巳、字は立禮または楽中、通称は傳兵衛といい、田平と表記することもあった。家号は岡崎屋と称した。野呂介石の門人。弘化4年、83歳で死去した。

阪上梅圃(不明-不明)
名は謙、字は皆吉、通称は岡崎屋吉左衛門。別号に熈春齋がある。野呂介石の門人。漱雪の子とみられる。

阪上淇澳(不明-不明)
名は正行。漱雪、梅圃と同じく岡崎屋の出で、野呂介石の門人。特に竹の画を得意としたとされる。

阪上素玉(不明-不明)
名は淑充。淇澳の妻。夫と共に野呂介石に師事した。

薗部屋東渠(不明-不明)
名は久敬、通称は薗部屋百助。別号に清静がある。画を好み野呂介石の門に学んだ。

雲嶺(不明-1839)
名は俊應。寺町護念寺二十世住職。画を好み檀家の野呂介石に師事した。天保10年、68歳で死去した。

小山渭泉(不明-不明)
文化頃の人。名は萬年、字は玄鶴、通称は笹屋孫右衛門。野呂介石の門人。

内田九山(不明-不明)
別号に紀九山人がある。紀州伊都郡高野下九度山の人で、それにちなんで号を「九山」とした。医業のかたわら野呂介石に学び画をよくした。

直川屋梅亭(不明-不明)
名は亦章、通称は次左衛門。家号は直川屋と呼んだ。画を好み野呂介石に師事した。

前田蕉庵(不明-不明)
名は寛、字は襄平、通称は山口屋。野呂介石に師事した。

貞玄(不明-不明)
浄心寺の住職。別号に禹洲がある。野呂介石に師事した。

渥美白濱(不明-不明)
名は政要、字は伯善、通称は甚五郎。別号に雲松斎がある。野呂介石に師事した。

三宅看雲(不明-不明)
西浦と称した。備前の人だが、紀伊に住み野呂介石に師事した。

紀伊(9)-ネット検索で出てこない画家


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最も古い赤富士図を描いた画家・野呂介石

2015-09-02 | 画人伝・紀伊

文献:野呂介石-紀州の豊かな山水を描く-、日本の美Ⅴ 富士山、阿波画人名鑑

紀州三大南画家のひとりである野呂介石(1747-1828)は、鶴亭と池大雅に学び、木村兼葭堂ら関西の文人たちと交流して才能を開花させていった。同じ紀州三大南画家のひとりである一歳年長の桑山玉洲(1746-1799)とは、教えを受けたという説もあるが、お互いに影響しあい高めあう関係だったようである。独学で学び、常に作品に創意を盛り込もうとした玉洲に比べ、介石は真面目で几帳面な性格だったようで、画や画題に多くの情報を書き込んでいる。画に漢詩を引用すればその詩人の名前を記し、中国のスタイルにならった作品にはその画家の名前を冠した。また、名勝を訪れた際には、生で景観を見た時の感動なども丁寧につづっている。日本で最も古い赤富士図を描いた画家とされる介石だが、その「赤富士図」を描いた経緯も、画の中の「賛」に書き込んでいる。

野呂介石(1747-1828)
延享4年和歌山城下生まれ。父は町人である野呂方紹。名は隆、俗称は九一郎、幼名は弥助、字は松齢。別号に斑石(班石)、休逸、第五隆、徴湖、十友、矮梅、台岳樵者、四碧斎などがある。若い頃から学問を好み、紀伊藩の儒者・伊藤蘭嵎に学んだ。本格的に画を学ぶようになったのは、14歳で京都に出てからで、『介石画話』などによると、墨竹を好み、中国の絵を見て練習したものの上達しなかったため、黄檗宗の僧・鶴亭に画を学んだとされる。その後、21歳の時に、池大雅に師事した。安永5年に大雅が死去すると、京都や大坂を往来して、木村兼葭堂ら関西の文人たちと交流を重ね、さまざまな影響を受けながら才能を開花させていった。

47歳の時に紀伊藩士となったが、お抱え絵師のような立場ではなかったため、職務の傍ら画を描いた。寛政5年に公務で江戸を訪れる際、その途中ではじめて見た富士山に感銘を受け、さまざまな場所からみた富士山を描いている。享和元年、再び江戸を訪れる機会があり、その際に昇る前の朝日を受けた紅色の富士山をみた。大変感動した介石だったが、はじめてみる現象のためうまく表現できず、江戸に着いてから友人の儒者・柴野栗山(1736-1807)や菅茶山(1748-1827)らにこの景色のことを尋ねた。すると、彼らはすでにこの現象を知っていて、「紅玉芙蓉」と名付けていた人もいたという。

それから20年ほど経った文政4年、介石はその経緯を賛に記して「紅玉芙蓉峰図」と題した赤富士を描いている。この赤富士図は、天保2年頃に描かれた葛飾北斎の赤富士よりも10年ほど早い。また、近年ではさらに5年ほど早く描かれた介石の赤富士図も発見されている。

野呂介于(1777-1855)
安永6年生まれ。名は隆忠、字は周輔。野呂隆基の子。野呂介石に学び、のちに介石の養子となった。特に山水を得意とした。安政2年、79歳で死去した。

野呂松盧(不明-不明)
『阿波画人名鑑』によると野呂介石の孫という。名は饒蔵。美馬郡半田町に住み、門人を教えていたらしい。伝記ははっきりしないが、介石が丈六寺の百川の師匠として阿波に来たと考えられるので、その縁によって松盧が徳島に住むようになったのではないかとされている。

紀伊(8)-ネット検索で出てこない画家


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紀州三大南画家・桑山玉洲の画業と画論

2015-08-26 | 画人伝・紀伊

文献:桑山玉洲紀州郷土藝術家小傳

紀州三大南画家のひとり、桑山玉洲(1746-1799)は、若くして実業家として成功し、生涯を紀伊の地で過ごした。事業のからわら画法を研究し、理想郷を描いた山水画や真景図など多くの作品を残している。また、池大雅、木村兼葭堂らと交流し、独自の画論も展開している。のちに形骸化していく狩野派のシステムを『嗣幹画論』で早くから指摘していたり、当時異端とされていた池大雅の本質を見抜き『絵事鄙言』で高く評価するなど、近世絵画史研究の上でも重要な画論を多く残している。

桑山玉洲(1746-1799)
延享2年紀伊和歌浦生まれ。幼名は新太郎、ついで茂平治(茂平次)、のちに左内と改めた。名は嗣燦、字は明夫。文爵、継昇、嗣幹、嗣杵、嗣粲、嗣燦、鶴麓などと称し、別号に明光居士、清瀲子がある。住居は、鶴跡園、蘆蔭舎、阿雪堂、聴雨堂、勤耕舎、幽興堂などと称した。父・桑山昌澄は廻船業・両替商を営んでいた。父の没後に家業を継いで、新田開発事業にも着手するなど、若くして実業家としての手腕を発揮する。

幼い頃から独学で書画の研究に励み、20代の頃には本格的に画を学ぼうと、江戸の諸名家を訪ねている。その時に書かれたものと思われる『嗣幹画論』によると、狩野派の画家に積極的にコンタクトをとったが、本格的に画を学ぼうと上京した玉洲は実情に失望したらしい。

2006年に和歌山市立博物館で開催された「桑山玉洲展」の図録から引用すると、『嗣幹画論』で玉洲は「狩野派は探幽の上を学ばないため、百年余が経った今に及んでも探幽と肩を並べる画家は一人も出ていない。絵を学ぼうとするものはまず先生につかなければステップアップできず、能力あるものでもその力を発揮できない。これは家というものに覆われているためである」と述べ、のちに形骸化していく狩野派のシステム上の問題を指摘している。

ほぼ独学で画を学んだ玉洲の作品からは、ひとつの型に収まるのではなく、常に創意を盛り込もうとしていたことがうかがえる。玉洲の画風がひとつの方向性を見出していくのは、池大雅、木村兼葭堂、高芙蓉らと交流を始めた30歳頃からで、それは理想郷を描いた山水画であり、実在の景色を描く「真景図」だった。

真景図では、地元の和歌浦、富士、熊野などを描いているが、なかでも寛政5年、50歳の時に紀伊藩医の今井元方、名草郡奉行の小田仲卿、画友の野呂介石とともに行った南紀熊野への遊歴は、玉洲にとって貴重な体験で、これをもとに描かれた真景図や、和歌浦を題材にした作品群が玉洲芸術のひとつの到達点とされている。寛政11年、54歳で死去した。『嗣幹画論』『桑氏扇譜考』『玉洲画趣』『画苑鄙言』など多くの画論を残しており、『絵事鄙言』は玉洲の没後、木村蒹葭堂によって刊行された。

桑山曦亭(1774-1806)
安永3年紀伊和歌浦生まれ。名は奎、字は大圭、通称は茂平次。桑山玉洲の子。のちに朝日村に引っ越した。農業のかたわら詩を作り、『南紀風雅集』に掲載されている。文化3年、33歳で死去した。

紀伊(7)-ネット検索で出てこない画家


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日本南画の祖・祇園南海

2015-08-19 | 画人伝・紀伊

文献:祇園南海とその時代紀州郷土藝術家小傳

紀伊の儒者・祇園南海(1676-1751)は、「詩画一致」の思想を打ち立て、高度な教養に裏打ちされた、画、書、詩が渾然一体となった作品を創出し、彭城百川(1697-1752)、柳沢淇園(1703-1758)らとともに日本南画の祖とされる。また、桑山玉洲(1746-1799)、野呂介石(1747-1828)とともに紀州三大南画家のひとりでもある。

日本における南画は、中国から輸入された『八種画譜』や『芥子園画伝』などの木版画譜類を手本に、日本の教養人たちが画を学んだことにはじまり、南海もこれらの画譜をはじめ、伝唐寅「山水図巻」など、日本にもたらされた中国画をもとにして、絵画技法を修得したとみられる。南海の絵画学習の実態は不明な点も多いが、友人である泉州佐野の豪商・唐金梅所にあてた書状の中では、自分の画の師は長崎で活躍した黄檗画僧・河村若芝であり、上野若元とは同門であると語っている。

南海は書画のみならず、漢詩人として数多くの著作を残しており、南海の詠んだ詩を集めた『南海先生集』のもととなった自筆本『南海詩集』をはじめ、十数点の著書を残している。

祇園南海(1676-1751)
延宝4年、紀伊藩お抱え医師の子として江戸で生まれた。名ははじめ汝斌で、のちに瑜と改めた。字は正卿、または伯玉、通称は與一。別号に箕裾散人、鉄冠道人、信天翁、湘雲主人などがある。14歳で京都の儒者・木下順庵に入門し、早くから詩文の才能を発揮し、榊原篁洲、新井白石、南部南山、雨森芳洲らとともに木門十哲と称された。22歳で家督を相続し、紀伊藩の儒官となったが、25歳の時に不行跡という理由で、知行召し上げのうえ、和歌山城下を追放となり、那賀郡長原村(現在の紀の川市貴志川町)に謫居させられた。

宝永7年、35歳の時に五代藩主・徳川頼方によって謫居は解かれ、その翌年、来日した正徳度の朝鮮通信使の応接役の任を受け、公義筆談に務めた。期待通りに南海の漢詩は朝鮮側の李東郭からも高く評価され、その功績が認められ禄高も元に戻された。その後、徳川頼方によって紀伊藩の藩校である講釈所(湊講舘)が創設され、南海は督学となり、宝暦元年、76歳で死去するまで藩の学事を司った。

祇園餐霞(1713-1791)
正徳3年生まれ。祇園南海の二男。名は尚濂、字は師援、通称は餘一。はじめの名は孫三郎。別号に鉄船、百懶などがある。父の業を継いで紀伊藩に仕え、詩書をよくし、画も巧みで、特に黒梅を得意とした。餐霞もまた、不行跡ということで、府城二十里外鉛山の地に13年間謫居させられ、のちにもどって儒者として仕えた。寛政3年、79歳で死去した。

紀伊(6)-ネット検索で出てこない画家


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狩野派から南画へ・笹川遊原と門人たち

2015-08-12 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

狩野派の画人の中には、諸派の画風を取り入れながら画技を模索するものも出てきた。養父である二代笹川遊泉の後を継ぎ、紀伊藩の御絵師をつとめた笹川遊原(1828-1881)は、壮年の頃は純然とした狩野派だったが、その後、俵屋宗達の画風を慕い、さらに南宗画の筆法を学んだ。遊原の門から出た筑紫翠雲も、諸派の長所を取り入れながら研鑚にはげみ、ついに南画で一家をなした。

笹川遊原(1828-1881)
文政11年生まれ。名は昌信、通称は蕭々齋、別号に瑟がある。祖先は丹波笹山で、養父遊泉の後を受けて紀伊藩の御絵師となった。壮年の頃は純然とした狩野派だったが、中年になるとおおいに感じるところがあって、光琳派に着眼し、俵屋宗達の画風を慕い、没骨の用墨法を研究して取り入れた。また、元治慶應の頃からは、南宗画の筆法を学び、意の欲するままに縦横に筆を運び描いた。筑紫翠雲、榎本遊谷、岡本遊汀らはこの門から出た。明治14年、54歳で死去した。

筑紫翠雲(1837-1905)
天保8年和歌山生まれ。名は廣寧、通称は熊次郎。別号に遊岱、霞谷などがある。伊藤周峰の門に遊び、経史を修め、堀端養恒について狩野派の画法を学んだ。のちに笹川遊原について更に画法を学び、それより諸派の長所を取り入れながら、岩瀬半夢、諏訪蕉雨らと研鑚にはげみ、ついに南画で一家をなした。明治38年死去。

榎本遊谷(1848-1923)
嘉永元年和歌山生まれ。名は信敬、字は士行、通称は貫一。別号に醒石がある。少年の頃に笹川遊原について狩野派を学び、のちについにこれをもって身を立てた。大正12年、76歳で死去した。

岡本遊汀(1854-1914)
安政元年和歌山生まれ。名は支樹、字は黄白、通称は季四郎。別号に煙嶺、不識庵などがある。紀伊藩士・岡本一郎の四男。笹川遊原、筑紫翠雲に師事して南宗画をよくした。のちに大阪博物場に勤めた。大正3年、61歳で死去した。

松廣松琴(不明-1891)
名は禎。幼少の頃から画を好み、明治14、5年に筑紫翠雲に師事した。明治24年、21歳で死去した。

田中五峰(1861-1929)
文久元年生まれ。名は又一郎。田中芳助の子。若くして筑紫翠雲に学んだ。昭和4年、59歳で死去した。

紀伊(5)-ネット検索で出てこない画家


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紀南田辺の狩野派・真砂幽泉

2015-08-07 | 画人伝・紀伊

文献:真砂幽泉展

紀南田辺で活躍した狩野派の画人としては、真砂幽泉がいる。近世の田辺では、医者や学者らが余技として画を描くものはいたが、師系のはっきりした画人としては幽泉のほかはみあたらない。幽泉は、十代の頃、京都の鶴澤探索に入門し、その子の探泉に学んだとされる。鶴澤派は狩野探幽の高弟である鶴澤探山(1655-1729)を祖とする江戸狩野に連なる画派のひとつである。「幽泉」はこの初代探山が初期の頃に用いていた雅号で、それを幽泉が譲り受けたようである。幽泉の作品は親交のあった月潭和尚が住職をしていた和歌山県西牟婁郡上富田町岡の普大寺に多く残されている。

真砂幽泉(1770-1835)
明和7年生まれ。田辺領三栖組の大庄屋・新左衛門友穎の長男。名は友親、幼名は紋之助、はじめ順蔵と称し、のちに順助、新助、元右衛門、富右衛門、幸右衛門と改名した。安永5年に父が31歳で急逝したため、当時下秋津村の庄屋役であった目良利兵衛が真砂家の家督を相続し、幸右衛門久富と改名して三栖組大庄屋役を勤めた。そして幽泉の養父となった。

幽泉は養父・久富の世話により十代の頃に数年間京都に滞在し、狩野探幽の高弟と伝えられる鶴澤探山を祖をして京都で栄えた鶴澤家の三代目・法眼探索に入門し、探索とその子・探泉に狩野派の技法を学んだとされる。享和3年、幽泉が34歳の時に養父・久富が官職を辞して隠居したため、三栖組大庄屋本役に就いて家督と相続することになった。残った資料によると、この間も公務の合間に京都に出て絵手本の模写などを積極的に行っていたようである。また、文化10年には八代紀州侯重倫の命で人物山水図を献上したり、同じく重倫の奥女中から菩提寺の西方寺を通じての依頼により是徳上人や法然上人の肖像画を描くなどした。

天保2年に大庄屋役を辞して御画師御用人支配となってから、本格的に画業に専念するようになり、特別な親交のあった月潭和尚が住職をつとめる普大寺に寄宿し、龍虎の襖絵をはじめ多くの作品を残した。天保6年、66歳で死去した。

紀伊(4)-ネット検索で出てこない画家


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紀伊の狩野派の画人たち

2015-08-04 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

紀伊藩に仕えた狩野派としては、岩井泉流のように江戸紀伊藩に仕えたものと、和歌山の紀伊藩に仕えたものがいた。江戸の木挽町狩野の流れを組む画人としては、山本養和、堀端養恒らがいる、堀端養恒の門人らもその流れを守った。また、町狩野としては鎌田堅白やその門人らが活動した。

山本養和(1776-1829)
安永5年生まれ。別号に松壽齋がある。江戸木挽町の山本泉和の養子。養父と狩野典信に師事した。紀伊藩の御絵師。紀伊藩10代藩主の徳川治宝に仕えた。治宝に同行して紀伊に来ることが多く、紀三井寺の障壁画などが紀伊に残っている。文政12年、64歳で死去した。

堀端養恒(1801-1880)
享和元年生まれ。名は養恒、通称は晴野、別号に南岡がある。江戸木挽町の狩野養信に師事し、その画法を伝えてよく家風を守った。筑紫翠雲、中尾松榮らもはじめはこの門から出たと伝えられる。明治13年、80歳で死去した。

山本養和(2代)(不明-1917)
初代との関係は不明だが孫ではないかとみられる。江戸木挽町の狩野雅信の門人。はじめ承和と号し、のちに勝和と改めた。初代養和が没したのちに、二代目を襲名した。明治45年、83歳で死去した。

中尾松榮(不明-1917)
名は祥重。和歌山駿河町の人。印判彫刻を家業としていた。余技に狩野派の画をよくした。堀端養恒の門人。大正6年、75歳で死去した。

森養齋(不明-1928)
和歌山市内出口端ノ丁に住んでいた。堀端養恒に師事し、のちに岡本緑邨にも学んだ。市役所の戸籍係として勤めていた。昭和3年、70余歳で死去した。

伊能松林(不明-不明)
天保嘉永頃の和歌山の狩野派の画家。江戸晴川院の流れを汲んでいたとされる。鷹の画を最も得意とした。

西山養拙(不明-不明)
名は久抽、字は子繹、通称は與七郎。別号に養拙齋がある。紀伊藩士で狩野派の画家。

石川逢洲(不明-不明)
名は義路。和歌山の狩野派の画家。明治15年内国絵画共進会に「義家名古会の関」及び「松に鷹の図」を出品している。

加藤東効(不明-1878)
名は雄助。紀伊藩の狩野派の御絵師。明治11年、93歳で死去した。

鎌田堅白(不明-不明)
安政文久頃の人。名は好武、号は堅白で、のちに堅白齋と改めた。和歌山の町絵師。狩野派の画をよくした。

吉田満海(不明-不明)
和歌山吹上寺町大恩寺の住職。鎌田堅白について狩野派を学び、余技として描いた。明治15年の内国絵画共進会に出品している。

小宮好信(不明-不明)
和歌山新留丁の人。鎌田堅白の門に学んで、狩野派の画をよくした。時流にのらず画風を厳守した。

松井白奎(不明-不明)
天保頃の人。名は齋、通称は道榮。狩野派の画を描き、広く交友した。野際白雪らとの寄せ書がある。

中村霞峰(不明-不明)
名は玄晴。和歌山の人で狩野派の画家だったが、のちに洋画を研究して、明治14、5年頃に和歌山中学校の教鞭をとった。

紀伊(3)-ネット検索で出てこない画家


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紀伊の狩野派・岩井泉流

2015-07-31 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

岩井泉流は、江戸で活躍した紀伊藩の狩野派の画家で、師系は定かではないが、江戸木挽町に関わりがあったとみられる。紀伊藩のお抱え絵師だったが、解雇され、大坂の堺での町絵師を経て、また紀伊藩に戻ったという経歴がある。資料によると、画技は確かだったが、酒を好み、身を持ち崩していたらしい。泉流の作品は、和歌山県内の寺社などに比較的多く残っており、丹生都比売神社「繋馬図絵馬」や、紀三井寺本堂の天井画「龍図」などが知られている。

岩井泉流(1714-1772)
正徳4年生まれ。名は貞行、のちに久宗と改めた。江戸の具足師の子。師系は定かではないが狩野派の画をよくした。紀伊藩六代藩主の徳川宗直に御絵師に登用され、のちに御針医並となるが、一時解雇される。のちに再び御針医並となり、さらに御近習にもなった。一時解雇になった経緯は不明だが、この間に大坂の堺へ行き、町絵師として活躍していたという。明和9年、59歳で死去した。

『紀州郷土藝術家小傳』によると、泉流は酒を好み酒代に窮することが多く、その為に鹿画を濫作して小銭を得たりして、酷評され名声を失墜させたこともあったという。島津家が新屋を造営する際には壁画の制作を依頼され、新築の大広間三面に一面荒縄を縦横に描き、ところどころに鳴子を配し、すみずみに少しばかしの稲と5、6羽の雀を描き上げた。その出来栄えはまた格別で、多くの報酬を得たが、そのことにより驕り、度を過ぎた贅沢に溺れ、身を持ち崩したという。泉流の一派とされる画家が『紀州郷土藝術家小傳』に数名掲載されている。

岩井養月(不明-不明)
紀伊の人。岩井泉流の一派と考えられる。南紀徳川史に名前が記されている。

岩井宗泉(不明-不明)
岩井泉流を継ぐもので、堀端養恒、笹川遊原らとともに紀伊藩の絵師だった。

岩井宗雪(不明-不明)
名は芳昌。岩井宗泉の後継者とみられる。

岩井宗繁(不明-1876)
泉流の末裔で、岩井宗雪の子。代々藩の御絵師。明治9年死去。

紀伊(2)-ネット検索で出てこない画家


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狩野興以にはじまる紀伊狩野の系譜

2015-07-29 | 画人伝・紀伊

文献:紀州郷土藝術家小傳

紀伊国における狩野派の系譜は、狩野光信に師事した狩野興以(不明-1636)がはじまりとされる。興以は師である光信の没後、光信の弟・孝信の子である探幽、尚信、安信の三兄弟を教育し大成させたことにより、狩野派の中でも大きな影響力を持つ存在となった。晩年には紀伊徳川家に仕え、それを長男である興甫が継ぎ、紀伊狩野家の初代となった。また、興以の二男・興也は水戸徳川家に、三男の興之は尾張徳川家に仕え、三兄弟が徳川御三家に仕えたこととなる。

狩野興以(不明-不明)
名は定信、字は中里。下野足利の人。「興意」と表記されることもある。狩野光信に師事し高弟とされた。また、牧谿、雪舟の画風を慕い狩野の画に水墨の伝統を取り入れたりもした。光信没後は、光信の甥にあたる探幽、尚信、安信の三兄弟の後見役として彼らを教育した。のちに三人とも大成したのは、興以によるところが大きいとされ、狩野の名を名乗ることを許され、のちに法橋にも叙された。延宝年中に死去。

狩野興甫(不明-1671)
名は顕信、字は興之、はじめは彌右衛門と称し、朝雲と号した。狩野興以の長男。生まれは武蔵国で、その後山城国小川村に住んだ。紀伊藩初代藩主の徳川頼宣に登用され紀伊狩野家の初代となった。寛文11年死去。

狩野興益(不明-1705)
名は彌右衛門。狩野興甫の長男。父の跡を継いで紀伊狩野家の二代となり紀伊藩に仕えた。二代藩主の光貞は極めて画を好み、興益が師範を勤めたという。寛永2年死去。

狩野興伯(不明-1707)
名は宗信。興益の子。父の業を継いで紀伊藩に仕え、紀伊狩野家の三代となった。宝永4年死去。以後の紀伊狩野家は、六代興圓が若くして病死し、継ぐものがなく家断絶の危機となったが、天明元年に榮興が龍名、ついで八代に興元、九代に興元の養子である興永が継いだとされる。九代の興永は野際白雪らと交遊した。

並川甫雲(不明-不明)
名は利孝、通称は權右衛門。狩野興甫の門人。師の興甫の不慮の事に坐した際に、昼夜を問わず側を離れず世話をして、当時の美談となった。のちに狩野常信に師事し、益々研鑚を積んだ。

並川甫雲(2代)(不明-1748)
名は常孝、はじめ卜雲と号して、のちに二代目甫雲と改めた。父の跡目を継いで藩に仕えた。明暦年中より江戸麻布谷町に住み、享保6年に隠居して子・祐慶が後を継いだ。以後代々藩の御絵師を勤め江戸に住んだが、維新前に甫仙で系譜は止まった。

並川甫仙(不明-不明)
紀州藩狩野派の画家で、甫雲の後継者だとみられる。殿中の襖などに描いた画は粉本となって伝わっているが、詳細は不明。

紀伊(1)-ネット検索で出てこない画家


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