松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま長崎県を探索中。

森鴎外と原田直次郎

2017-01-24 | 画人伝・島根


文献:鴎外と画家原田直次郎、鴎外と美術展図録
関連:岡山の近代洋画、松岡寿と原田直次郎


明治の文豪・森鴎外(津和野町生まれ、1862-1922)は、陸軍軍医、小説家、翻訳家など多方面で活躍したが、美術においても大きな足跡を残している。軍医だった鴎外が美術と深く関わるようになったのは、衛生学研究のために留学していたドイツで西洋芸術に触れたことであり、ミュンヘンで生涯の友となる画学生・原田直次郎(1863-1899)と知り合ったことにある。鴎外は原田の奔放な生き方に憧れ、自らも芸術の世界にかかわりたいと文筆を志し、二人は、国際的芸術都市・ミュンヘンで青春を謳歌し、お互いを高めあった。

明治21年、鴎外がドイツから帰国すると、一足先に日本に帰っていた原田の苦境を知ることになる。当時の日本の美術界は、洋画を排斥しようとする国粋的な風潮が高まっており、明治22年に開校した東京美術学校にも西洋科はなかった。それでも原田は日本初の洋画団体・明治美術会の結成に参加するなど洋画普及のため積極的に活動し、さらに本郷に画塾鐘美館を開設して洋画教育につとめた。

明治23年、原田が第3回内国勧業博覧会に出品し、のちに原田の代表作となる「騎馬龍観音」を巡って論争が勃発する。空想的神話世界を迫真的に描いたこの大作は大変な評判になったが、東京帝国大学教授・外山正一が「宗教心のない現代の画家は神仏を描くべきではない」などと酷評したのである。これに激怒した鴎外は、原田の擁護のために「外山正一氏の画論を駁す」という論文を発表、外山に反論した。この一連の批評が鴎外を美術評論家として印象付けるものとなった。

明治24年、東京美術学校の岡倉天心の依頼により鴎外は美術解剖学の講義をはじめる。鴎外はいつかは原田を教授に招くという野心を秘めつつこの依頼を受けたという。しかし、5年後、開明派の文部大臣・西園寺公望が美校改革に手をつけた頃には、原田はすでに病床にあり、明治32年、36歳で死去した。原田に代わって西洋画の指導者として美術学校に招かれたのは黒田清輝だった。

原田の没後も鴎外の美術活動は続き、美術界の重鎮として要職を歴任した。明治40年に文展が開設されると同時に第2部(洋画)の審査員となった。大正6年、55歳の時には帝室博物館の総長兼図書頭に就任。さらに大正8年に帝国美術院の初代総長となった。帝室博物館では、博物館が所蔵する図書に一冊ごとに丁寧な解説と、その著者に関する略伝を執筆した。しかし在任中の大正11年、60歳で死去した。


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松江洋画研究所を設立して島根の美術振興に貢献した草光信成と木村義男

2017-01-19 | 画人伝・島根


文献:島根の美術

森本香谷、草光信成(1892-1970)、木村義男(1899-1985)を中心メンバーとして設立された松江洋画研究所は、大正末から昭和初期にかけて島根の洋画振興に大きな役割を果たした。島根にはすでに森本香谷が結成したワカバ会や、平塚運一、清野耕らが主催する洋画研究所郷土社といった洋画の研究団体があったが、これらの研究会に関わった者たちの活動が次第に松江洋画研究所へと移行していったものと思われる。夏期講習には中央から斎藤与里、大久保作次郎、須田国太郎ら中央画壇を代表する作家たちを講師として招き、モデルも東京、大阪から迎え本格的な裸体画の演習も行なわれた。第二次世界大戦の激化のため研究所は自然閉鎖となったが、島根画壇に大きな足跡を残した。

草光信成(1892-1970)
明治25年出雲市生まれ。明治44年中学を卒業、同年大下藤次郎を迎えて松江で開催された水彩画講習会に参加。大正5年東京美術学校洋画研究科に入学、和田三造に師事した。大正11年帝展に初入選、翌年旧制松江高等学校図工科の嘱託講師となった。昭和2年には和田三造の招きによって再び上京し、同年から3年連続で帝展で特選を受けた。松江洋画研究所の講師として毎年のように夏の講習会には帰郷し、森本香谷、木村義男、青山襄、三谷長博らとともに指導にあたった。昭和18年には戦火をさけて松江に疎開、昭和21年には木村義男、山中徳次らと島根洋画会を結成した。昭和31年には新世紀美術協会の創立委員となり、晩年まで日展とともに出品した。昭和45、78歳で死去した。

木村義男(1899-1985)
明治32年松江市生まれ。大正3年、松江で丸山晩霞を迎えて開催された水彩画講習会に参加。平塚運一、清野耕ら主催の洋画研究所郷土社でも学んだ。大正4年、運一の勧めで上京、川端画学校で藤島武二に師事した。大正5年日本美術院展に初入選。大正7年に帰郷し、その後は制作の拠点を島根に置き、中央画壇と島根とのパイプ役として島根画壇の振興に貢献した。松江洋画研究所の発足にあたっては佐藤喜八郎、桑原羊次郎といった地元の有力者の助力を得て、森本香谷、草光信成らとともに結成に参加、後進の指導にあたった。昭和20年には島根洋画会の創立に参加、会長をつとめた。昭和60年、85歳で死去した。


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島根の水彩画普及に尽力した森本香谷

2017-01-16 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編

明治38年、大下藤次郎、丸山晩霞らが開設した水彩画講習所は、各地で水彩講習会を行ない、全国的に水彩画ブームをひきおこした。明治44年には松江でも大下藤次郎を講師に迎えて水彩画講習会が開催されている。そして大正元年、島根でも水彩画ブームが起こりつつあるなか、長野県飯山中学に教師として赴任し、丸山晩霞とも交友のあった森本香谷(1867-1937)が松江に帰郷する。香谷は、絵画研究グループ「ワカバ会」を結成し、石井柏亭や丸山晩霞らを講師に迎えて水彩画講習会を開催するなど、島根における水彩画の普及に尽くした。この講習会には、のちに創作版画のパイオニアとして活躍する平塚運一(1895-1997)も参加していた。運一は、講習会で石井柏亭に作品を称賛されたことから画家を志し、上京して伊上凡骨に師事し版画の道に進み、当時の創作版画運動の中心となって活躍した。

森本香谷(1867-1937)
慶応3年松江市生まれ。本名は兼之丞。内村鱸香に漢学を学び、16歳の時、横浜より帰郷していた小豆澤碧湖に洋画の技法を学んだ。さらに広島の塩田銕香、京都の望月玉泉に師事して日本画を学んだ。明治19年に松江師範学校を卒業し、県内の小学校、中学校の教員を務め、明治36年には長野県に転出、長野県立飯山中学校の教諭となった。当時は全国的に水彩画隆盛の気運があり、明治39年、飯山中学校の生徒とともに水彩画研究グループ素絢会を結成し、翌年の夏に長野の上林温泉で丸山晩霞が講師をつとめた水彩画講習会に素絢会のメンバーとともに参加した。明治41年に太平洋画会展に出品。明治42年本部より晩霞を迎えて設立された日本水彩画研究所長野支部の会員となり、翌年には自宅に日本水彩画会研究所飯山支部を設立した。大正元年に松江に帰郷し松江高等女学校に勤務した。大正2年日本水彩画会研究所が日本水彩画会に組織変更されると同会に所属し、第1回展より出品、大正5年第3回展で会員に推挙された。また大正2年松江において絵画研究グループワカバ会を結成し、その年の第1回夏期講習会に石井柏亭、第2回には丸山晩霞を迎えて水彩画の講習を行なった。大正末には松江洋画研究所の開設と運営に尽力し、島根の美術振興に貢献した。昭和12年、70歳で死去した。

平塚運一(1895-1997)
明治28年松江市生まれ。生家は宮大工。大正2年松江市で開催された石井柏亭の水彩画講習に参加し、柏亭に作品を称賛されたことから画家を志し上京、柏亭の紹介で伊上凡骨に彫版を学んだ。昭和3年には畦地梅太郎、棟方志功らを同人に迎え、版画と随筆の雑誌『版』を創刊した。昭和5年には国画会会員となり、国画会版画部創立に参加するなど、当時の創作版画運動の中心となって活躍した。昭和20年の東京美術学校版画教室の設立時には木版の講師として指導した。昭和37年に渡米し、平成7年に帰国するまでワシントンで制作を続けた。渡米中は特に裸婦をモチーフに女性像を多く制作した。平成9年、102歳で死去した。


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小豆澤碧湖にはじまる島根洋画

2017-01-12 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、出雲ゆかりの芸術家たち

島根の洋画は、横浜で写真と洋画を学んだ小豆澤碧湖(1848-1890頃)によってはじまった。松江の豪商の家に生まれ、はじめ中島来章に日本画を学んだ碧湖は、明治初期に上京し、写真家で洋画も得意とした横山松三郎の塾に入り、写真油絵の技術を受け継ぎ洋画の研究をした。明治15年頃には松江に帰り、島根に洋画を伝えた。島根洋画の普及に大きく寄与したのが、碧湖に洋画の技法を学んだ堀櫟山(1856-1909)である。櫟山は、松江藩士の長男として松江市に生まれ、幼いころから狩野派を学んだ。碧湖が松江に帰ってくると洋画を学び、特に写生に力を注いだ。明治17年には方円学舎と称する洋画の私塾を開設し、良家の子弟や学校の教員などに画法を教え、洋画の普及を試みた。のちに肖像画家として活躍する石橋和訓(1876-1928)が、はじめて洋画の技法を学んだのは櫟山からであり、その後和訓は渡英し、イギリスの伝統的肖像画の画風を身につけた。

小豆澤碧湖(1848-1890頃)
嘉永元年松江生まれ。本名は亮一。松江の豪商・小豆澤浅右衛門の長男。はじめ中島来章について日本画を学び、明治8年に上京して横山松三郎に写真の技術を学んだ。師である松三郎は油彩も得意とし、高橋由一の協力を得て「写真油絵」を完成させた。松三郎の没後は碧湖が受け継ぎ、明治18年に「写真油絵」として印画紙への着色写真の特許を取った。明治15年には帰郷し、島根にはじめて洋画の技法を伝えた。明治23年頃に死去した。



堀櫟山(1856-1909)
安政3年松江生まれ。本名は宗太郎。松江藩士の長男。幼いころから狩野派を学んだ。明治15年頃、小豆澤碧湖が油絵の技法を習得して帰郷した際、碧湖について油絵を学んだ。明治17年、第2回内国絵画共進会に出品、同年方円学舎と称する私立画学校を松江に開設し、絵を教え、島根に洋画を広めた。明治42年、54歳で死去した。



石橋和訓(1876-1928)
明治9年飯石郡反辺村生まれ。本名は倉三郎。幼いころから画才に恵まれ、明治25年に松江に出て師範学校絵画担当の後藤魚州に南画の手ほどきを受け、堀櫟山の方円学舎でも学んだ。明治26年、18歳の時に上京して本多錦吉郎に洋画を学び、南画家の滝和亭の内弟子となり本格的に日本画を学んだ。27歳の時に師の一字をもらい「和訓」と改名した。明治36年にイギリスに渡り、肖像画家のJ.S.サージェントらに学び、明治39年にはロイヤル・アカデミーに入学、イギリスの伝統的肖像画の画風を身につけた。大正12年に帰国するまでにロイヤル・アカデミー展や文展などに出品した。帰国後は、東京にアトリエを構え、肖像画、南画風の花鳥画などを描いた。昭和3年、52歳で死去した。


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橋本明治ら島根出身の現代日本画家

2017-01-05 | 画人伝・島根


文献:島根の美術

昭和期に活躍した島根県出身の現代日本画家としては、まず橋本明治(1904-1991)が挙げられる。太い線描、明快な色彩を用いた橋本様式と呼ばれる独自の作風を展開し、日展で活躍、文化勲章を受章している。また、隠岐島に生まれた松浦満(1908-1998)は、海や港の郷土色豊かな風景や鯉など、水にちなんだ作品を多く描いた。野々内保太郎(1902-1985)は花鳥画を得意とした。保太郎の三人の子、野々内良樹、井上稔、野々内宏はいずれも日本画家となった。日本美術院では、島根の美術団体創成期を率いた和田翠雲の長男・和田悠成(1901-1997)がいる。横山大観夫人の紹介により61歳で堅山南風に師事して院展に出品、島根県日本画協会理事長、島根県展日本画審査員をつとめ、地元の日本画普及に貢献した。創画会の石本正(1920-2015)は、ヨーロッパ中世のフレスコ画に傾倒し、舞妓や裸婦をモチーフに官能美あふれた女性像を描いた。

橋本明治(1904-1991)
明治37年那賀郡浜田町生まれ。大正15年東京美術学校に入学、在学中の昭和4年に帝展に初入選、昭和6年同校日本画科を首席で卒業、研究科に進み松岡映丘に師事した。昭和12年新文展で特選、翌年も特選となった。昭和15年、文部省から中村岳陵、入江波光らとともに法隆寺金堂壁画模写主任に任命され、昭和25年まで模写に携わった。戦後、昭和23年に日本画の新団体創造美術が結成され創立会員となるが、25年に脱退して日展に復帰した。昭和27年芸術選奨文字大臣賞、30年に日本芸術院賞、46年日本芸術院会員、47年日展常務理事、49年文化功労者となり、文化勲章を受章した。平成3年、86歳で死去した。

松浦満(1908-1998)
明治41年隠地郡都万村生まれ。上京し萩出身の松林桂月に入門した。昭和9年帝展に初入選。戦後は日展に出品し、22年日展特選、25年日展白寿賞、26年日展特選となった。審査員もつとめ日展会員となった。特に海や鯉など水にちなんだ作品を得意とし、港で生活する人々の暮らしを多く描いた。平成10年、90歳で死去した。

木村広吉(1912-1990)
明治45年松江市生まれ。呉服問屋を営んでいた十代木村重石衛門の二男。昭和7年京都市立絵画専門学校に入学、卒業後に同校研究科に進んだ。西山英雄に師事し、在学中に文展初入選、昭和21年からは日展に出品、特選、白寿賞を受賞、日展会員となった。平成2年、78歳で死去した。

野々内保太郎(1902-1985)
明治35年八束郡出雲郷村生まれ。農業を営む野々内豊太郎の二男。本名は安太郎。堀江有声、国井応陽、小村大雲らに学んだ後、昭和5年京都市立絵画専門学校に入学し、中村大三郎に師事、在学中に帝展に初入選した。大三郎没後は西山翠嶂に師事し、翠嶂没後は牧人社を結成し西山英雄に師事した。子に野々内良樹、井上稔、野々内宏がいる。昭和60年、82歳で死去した。

河部貞夫(1908-1987)
明治41年邑智郡市木村生まれ。昭和5年東京美術学校に入学、松岡映丘に師事した。在学中に映丘門下の山本丘人、杉山寧らと瑠爽画社を結成した。昭和10年同校日本画科を首席で卒業し、昭和11年から13年まで四日市市立商工学校に勤務した。戦後は昭和22年から瑠爽画社展の継続的グループ・一采社に参加した。創造美術展、新制作展、日展にも出品した。昭和62年、79歳で死去した。

和田悠成(1901-1997)
明治34年松江市生まれ。和田翠雲の長男。本名は成一郎。書道の号は観雪。大正8年に水郷社を結成、松江城山興雲閣で第1回展を開催し、新日本画研究の道に進んだ。昭和6年山陰書道会を設立、松江毛筆授産場を経営し、松江筆の製作指導にあたった。昭和37年横山大観夫人のすすめで、61歳で堅山南風に入門し、昭和41年再興院展に初入選、昭和44年院展院友に推された。島根県日本画協会理事、島根県展日本画審査員をつとめ、地元の日本画普及に大きく貢献した。平成9年、95歳で死去した。

石本正(1920-2015)
大正9年那賀郡岡見村生まれ。農業を営む石本寛一の長男。昭和19年に京都市立絵画専門学校を卒業、昭和22年に日展に初入選し、以後も日展に出品するが、昭和25年創造美術展に出品し初入選、翌年創造美術は新制作派協会と合流して新制作協会日本画部になったため、昭和31年新制作協会日本画部会員となり同展を主に活動するようになる。昭和46年日本芸術大賞および芸術選奨文部大臣賞を受賞した。昭和49年新制作協会日本画部が創画会を結成したため以後は創画会会員として活躍した。京都市立芸術大学と京都造形芸術大学の教授をつとめ、後進の育成にも尽力した。平成27年、95歳で死去した。


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平田ゆかりの日本画家、小村大雲と落合朗風

2016-12-29 | 画人伝・島根


文献:生誕130年 小村大雲島根の美術、出雲ゆかりの芸術家たち、島根の美術家-絵画編

出雲市平田出身の小村大雲(1883-1938)は、山元春挙の画塾・早苗塾門下生の四天王と称され、帝展委員などをつとめた。作域は広く、山水、人物、動物など多岐に渡ったが、なかでも綿密な時代考証による歴史画を得意とし、自ら甲冑を制作するなど研究に没頭した。父親が平田の出身である落合朗風(1896-1937)は、遠縁にあたる小村大雲に師事したのち、文展、院展、青龍社展などに出品するが、画壇の組織と馴染めず、昭和9年、明朗なる芸術の確立を唱え、明朗美術連盟を設立、毎年展覧会を開催していたが、まもなく病に倒れ急逝した。体制に属さない自由な活動を目指した朗風は、モダンで清新な作風による個性的な作品を残しており、生まれるのが早すぎたとも評されている。

小村大雲(1883-1938)
明治16年楯縫郡平田町生まれ。穀物荒物商を営んでいた小村豊兵衛の長男。本名は権三郎、字は厳坐あるいは子荘。別号に豊花、豊文、碧雲湖畔人、赤松子などがある。明治31年、15歳の時に両親の許しを得ずに単身上京し、橋本雅邦、川端玉章の門をたたくが断られる。その後、広島の宮田英春に師事し、明治33年京都に出て森川曾文、橋本菱華、都路華香に学んだのち、明治36年山元春挙の門に入った。大正元年文展に初入選、翌年より3等賞を3年連続、特選を2年連続で受賞し、大正8年推薦・永久無鑑査となり、大正13年帝展委員に就任した。その後も帝展に出品を続け、久邇宮家の襖絵や明治神宮絵画館の壁画なども制作した。昭和13年、郷里平田市の大雲山荘に帰省した折、病のため58歳で死去した。



落合朗風(1896-1937)
明治29年東京生まれ。島根県平田市出身で写真業を営んでいた落合常市の二男。本名は平次郎。幼いころは平田に住み、本籍は終生平田市にあった。4歳の時に母と死別し、クリスチャンの父に育てられた。大正元年商業学校を卒業し、東京銀座のレコード店に勤めながら川端画学校で学んだ。当時京都にいた遠縁にあたる平田市出身の小村大雲に半年ほど師事し、また菊池契月の画塾にも学んだ。大正5年文展に初入選。大正8年には院展に異国の神話をモチーフにした大作「エバ」を出品して注目され、これが出世作となった。その後も院展に出品したが同人に推挙されることはなく、院友の朝井観波とともに院展を去り京都に転居、当地を題材にした作品を帝展に出品しはじめたが、帝展でも不遇であり、昭和6年には、川端龍子が創設した、会場芸術を唱える青龍社展に大作を出品、青龍賞を受賞した。しかし、画壇の組織とはなかなか馴染めず、昭和9年には明朗なる芸術の確立を唱え、朗風自身が主宰者となって「明朗美術連盟」を設立し、毎年展覧会を開催したが、昭和12年、病のため42歳で死去した。


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島根を代表する近代南画家、西晴雲と木村棲雲

2016-12-26 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、出雲ゆかりの芸術家たち、島根の美術家-絵画編

島根を代表する明治期の南画家としては、西晴雲(1881-1963)と木村棲雲(1885-1967)が挙げられる。西晴雲は、上京して吉嗣拝山に南画を学んだが、当時の南画界の動向に不信を抱き、中国画壇に可能性を求めて渡航、上海に移住して上海南画院を創設した。木村棲雲は、上京して小室翠雲に師事し、文展、帝展などに出品するが、やがて展覧会出品を嫌い、全国各地を遊歴、田能村竹田に私淑して研鑽を積み、主に個展を発表の場とした。また、森琴石に師事した嘉本周石(1889-1976)は、日本南画院の出品依頼を固辞し、故郷で南画家らしく無欲枯淡の生涯を送った。

西晴雲(1881-1963)
明治15年安濃郡波根西村生まれ。農業と穀物販売を営んでいた西村幸七の三男。本名は和作。明治35年彫刻を志して奈良に行くが、左目を病んだため絵画に転向する決意をし、上京して吉嗣拝山に師事して南画を学んだ。しかし、当時の南画界の動向に不信を抱き、大正3年、中国に南画の源流を求めて渡航、北京の金清源、斉白石に師事し、書を王源翁に学んだ。昭和2年には上海に移住し、上海画壇の南画の重鎮・呉昌碩らと交友、昭和5年には上海南画院を創設して南画指南をした。この頃雅号を中国名の「西晴雲」と改めた。中国をしばしば訪れていた徳富蘇峰を知り、大徳寺の雪窓とも親交を結んだ。昭和12年には一時帰国し、大阪大丸百貨店で第1回個展を開催。徳富蘇峰・奥田信太郎(毎日新聞社社長)らによる後援会が発足し、蘇峰が序文を寄せた画集も刊行された。昭和20年、戦争が終結すると中国から帰国し、最大の後援者だったサントリー社長・鳥井信治郎邸内のアトリエで制作を続けた。鳥井の没後は郷里大田市に帰り、西晴雲美術館の開館を間近にしながら、大正4年、81歳で死去した。



木村棲雲(栖雲)(1885-1967)
明治18年能義郡安来町生まれ。呉服店を営んでいた原長蔵の二男。本名は蓮三郎。のちに木村家の養子となった。幼いころから画を好み、実家の商売につながる紋描きを行なっていたが、大正元年地元の有志の援助を受けて画業修業のため京都に出て宮崎竹叢に入門し棲雲と号した。その後、東京に出て小室翠雲に入門、大正5年文展に初入選、以後も文展、帝展に入選するが、大正9年より玉川米井山荘に居を構えて画業に専念し、以後は公募展に出品することをやめた。それからは、全国各地を遊歴し、田能村竹田に私淑し研鑽を積んでは個展を開催するという独自の活動を続けた。昭和15年に玉川上野毛不二草廬に転居した。昭和28年には号を「栖雲」と改め、以後しばしば帰郷し安来や松江、出雲などで個展を開催した。昭和42年、83歳で死去した。



嘉本周石(1889-1976)
明治22年出雲市上島町生まれ。本名は亮。島根師範学校卒業後、画家を志し上京し、森琴石に師事した。大正9年帝展に初入選した。また中国盧山や韓国に渡り研鑽を積み、大正11年に大阪で支那周景70点展、昭和9年には東京で挿花の小原光雲との共同展を催した。昭和20年日本南画院無鑑査の推薦を固辞し、大社町円山荘で無欲枯淡の生涯を過ごした。昭和51年、88歳で死去した。


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早世した逸材・中原芳煙と中央画壇を離れた竹田霞村

2016-12-23 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

邑智郡都賀行村(現島根県美郷町)生まれの中原芳煙(1875-1915)は、東京美術学校日本画科を首席で卒業し、将来を嘱望されながらも病を得て帰郷、中央画壇に戻ることを望みながらも39歳で早世した。また、神戸郡下横村(現出雲市下横町)生まれの竹田霞村(1884-1955)も、東京美術学校日本画科で下村観山に学び秀才の誉れ高かったが、当時の日本画壇間の抗争を嫌い、会派に属さず文展などにも出品することはなく、33歳の時に父の病報を受けて帰郷、以後地元に住み中央画壇に出品することはなかった。

中原芳煙(1875-1915)
明治8年邑智郡都賀行村生まれ。鉄山を経営していた中原源吉郎の二男。本名は佐次郎。島根県第二尋常中学校卒業後、明治29年東京美術学校に入学し、川端玉章に師事した。在学期間、明治32年の美術学校生徒成績品展覧会で一等褒状を受賞、明治33年日本絵画協会第9回連合絵画共進会に出品するなど、美術学校在学中から頭角をあらわした。明治34年東京美術学校日本画科を首席で卒業、島根県立中学校教諭ならびに師範学校教諭に任じられたが、病のため辞職。明治35年第12回連合絵画共進会で一等褒状を受けた。明治37年宮内省に奉職し正倉院御物の整理を担当、明治38年から43年まで大村西崖が設立した審美書院に勤務した。明治40年第5回内国勧業博覧会に出品、ほかに巽画会、美術研鑽会、帝国絵画協会などにも出品した。大正3年結核を患って帰郷し静養につとめていたが、翌4年、39歳で死去した。



竹田霞村(1884-1955)
明治17年神戸郡下横村生まれ。竹田門太郎の長男。本名は豊太郎。別号に水鶏舎、悦々、大愚がある。幼いころから画才に恵まれ、杵築中学校に在学中から逸材と評価された。明治37年東京美術学校に入学し、下村観山に学んだ。在学中から校内水彩画展で第一席となるなど秀才の誉れ高かった。卒業後も観山、川端玉章に師事し制作を続けたが、当時の日本画壇内における旧派、新派間の抗争を嫌い会派に属さず、文展などにも出品しなかった。大正5年、33歳のとき、父の病報をうけて帰郷、その後も郷土で制作を続けたが、中央画壇に出品することはなかった。昭和2年頃、霞村を支持する協力者が集まって高松霞村会が結成され、同会が主催となって出雲市今市の片岡で個展が開催された。さらに、昭和6年に松江市の興雲閣で、昭和29年に高松小学校で個展を開いている。昭和30年、72歳で死去した。


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田中頼璋と島根出身で川端玉章に学んだ日本画家

2016-12-21 | 画人伝・島根


文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

明治期になると、東京に出て学ぶ島根県出身の日本画家も多く出てくる。田中頼璋(1868-1940)は、はじめ萩に出て森寛斎に学んだが、のちに上京して川端玉章に師事した。明治・大正期を中心に活躍し、川端画学校の教授などをつとめた。写実に基づいた温和な色彩で構成された風景画が多く残っている。ほかに島根県出身の玉章門下としては、池田興雲(1876-1962)、田平玉華(1878-1923)、田平玉華(1878-1923)らがいる。次項に出てくる、東京美術学校日本画科を首席で卒業し、将来を嘱望されながらも39歳で早世した中原芳煙(1875-1915)も川端玉章に師事している。

田中頼璋(1868-1940)
慶応2年石見国木村生まれ。庄屋・田中助佐衛門の二男。本名は大治郎。別号に豊文、豊秋、芳州がある。13歳のころから父について漢書を学び、17歳の時に画家を志して萩に出て森寛斎に師事し、明治35年に上京して川端玉章に入門した。日本美術協会展で受賞を重ねる一方、巽画会審査員、日本画会評議員をつとめ、川端画学校の教授となった。明治40年文展が開催されると出品を続け、入賞、特選を重ね、旧派の実力者として活躍した。帝展の委員をつとめた。また、自宅に天然画塾を開くなど後進の指導にも尽力した。関東大震災後は広島に住み悠々自適の生活を送った。昭和15年、73歳で死去した。

池田興雲(1876-1962)
明治9年松江市雑賀町生まれ。本名は弘。松江修道館卒業後上京して川端玉章の画塾に入った。帰郷後、30年間図画教育に携わった。郷土画壇の長老として活躍した。昭和37年、87歳で死去した。

田平玉華(1878-1923)
明治11年大田市生まれ。大谷津三郎の三男。本名は善蔵。20歳の時に長久町延里の田平常二郎の養子となった。明治32年大田尋常高等小学校の教員となったが、翌年画家を志して上京、川端玉章に入門した。その翌年には日本美術協会展で受賞し、その後も各展覧会で受賞を重ねた。雪景を最も得意とした。東京で10年ほど暮らしたのち、健康を害して帰郷、各地を歩きながら制作に励んだ。大正12年、再上京の夢を抱きつつ45歳で死去した。

三浦玉亭(1881-1926)
明治14年松江生まれ。三浦正祐の三男。はじめ狩野派を学んだが、のちに川端玉章に学んでからは山水画を得意とした。大正15年、死去した。

釈台鞍(1881-1959)
明治14年安来市生まれ。繭仲買商・天野宗右衛門の長男。本名は天野熊市。父の宗右衛門の弟・大三郎は陶芸家・河井寛次郎の父。22歳の時に京都の望月玉泉に入門して玉珖と号した。のちに川端玉章に師事した。昭和34年、78歳で死去した。

内藤玉青(1890-1911)
明治13年松江市天神町生まれ。内藤甚蔵の子。川端玉章に学び、のちに東京美術学校に入学したが、卒業前の明治44年、22歳で死去した。


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天野嗽石と松江の門人

2016-12-19 | 画人伝・島根


文献:島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

松江に住んでいた天野嗽石(1837-不明)は、小田海僊の門人・近藤桃江に師事し、のちに金子雪操に学んだ。京都、山陽、四国、九州などを遊歴し、四国松山にも一時住んだとされるが、没地などは不明である。松江の門人としては、松江の名士である佐藤愛山(1845-1920)や岡崎雲隣(1850-1919)らが壮年になって入門し、南画を学んでいる。

天野嗽石(1837-不明)
天保8年生まれ。松江宇賀明王院の二男。松江灘町に住んでいた。名は静、字は修郷、初号は燕石、別号に松湖、墨魔居士がある。近藤桃江の門に入り、のちに金子雪操に学んだ。花鳥画を得意とし、明治17年、第2回内国絵画共進会に山水、花鳥を出品している。のちに京都、山陽、四国、九州などを遊歴し、四国松山に一時住んだとされるが、没地などは不明である。

近藤桃江(不明-不明)
名は晃、別号に橘僊がある。松江市天神町生まれ。小田海僊に師事した。のちに長崎の熊斐の画風を慕って長崎に行き門人となった。

中野南涯(1822-1890)
文政5年生まれ。通称は惣造。安来市荒島町の人。天野嗽石に師事した。明治23年、69歳で死去した。

佐藤愛山(1845-1920)
弘化2年松江市白潟本町生まれ。通称は喜八郎、諱は長経、字は伯徳。別号に静古堂がある。明治23年頃に出雲地主農談会を創設して会長となり、のちに貴族院議員に任命された。茶事に通じ、壮年になって天野嗽石の門に入って南画を学び、山水梅花を得意とした。晩年は世事を離れ、画業に専念した。大正9年、76歳で死去した。

岡崎雲隣(1850-1919)
嘉永3年松江市生まれ。通称は運兵衛、字は真清。公共事業に尽力し、明治15年には山陰における最初の新聞だった山陰新聞を勝部氏と創刊した。衆議院議員を数回つとめている。壮年になって天野嗽石の門に入って南画を学び、静渚と号し、のちに長田雲堂の来遊に際してその門に入り雲隣と改号した。山水竹石を得意とした。晩年は政界から退き、画業に専念した。大正8年、70歳で死去した。

金山鴎隣(1863-不明)
文久3年生まれ。通称は常太郎。松江の人。天野嗽石に師事したのち、寺西易堂の娘と結婚したがまもなく離婚し帰郷した。のちに米国に渡って絵画を描いて成功したといわれている。

鈴木雪鱸(不明-不明)
松江の人。天野嗽石に師事した。


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備中から移り住み画塾を開いた塩田銕香と出雲の門人

2016-12-16 | 画人伝・島根


文献:出雲ゆかりの芸術家たち、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

備中(岡山県)に生まれた塩田銕香(1850-1889)は、26歳の時に出雲を訪れて以来、この地に住み、画塾を開いて画技の指導をした。このため出雲市近辺では絵画に対する眼識を開いた人が多くなったといわれる。また、明治11年に出雲に逗留していた田能村直入に入門して南画を習得した。門人には大津の板倉米頓、高松の増原松湖、平田の伊藤鴎外、大社の北逸斎らがいる。

塩田銕香(1850-1889)
嘉永3年備中生まれ。塩田荘吉の子。名は瓊、字は楳郷。別号に梅郷がある。石川晃山、守山湘帆に学び、花鳥山水を得意とした。明治8年、26歳の時に簸川郡大津村に遊歴して、門人・板倉米頓家の裏に住み、制作に励むかたわら、画塾を開き地元の人たちに画を教えた。また、明治11年頃に下古志村神田に逗留していた田能村直入に入門し南画を習得した。第2回内国絵画共進会で褒賞を受けたのをはじめ、各地の共進会で受賞した。明治22年、40歳で死去した。

中村銕曹(1841-不明)
天保12年生まれ。塩田銕香に師事した。

田部香雲(1854-1930)
安政元年出雲市大津町生まれ。通称は種次郎。山田勝之助の二男で、飯石郡田部長右衛門の分家に婿として入ったが、のちに大津町に戻った。塩田銕香の高弟とされる。別号に鉄操、田美、遙碧楼主人、白梨紅榴園主人、梨雪があり、晩年には南嶺と改めた。昭和5年、77歳で死去した。

伊藤鴎外(1857-不明)
安政4年生まれ。平田の人。通称は猪一郎。塩田銕香に師事した。

松本芝巌(1865-1920)
慶応元年平田町本町生まれ。通称は善次郎。別号に鬼村外史がある。塩田銕香に学び花鳥を得意とした。明治天皇の銀婚式の際に桐樹に菊花と瑞雲を描いて献上した。四条派的色彩をよく取り入れ、花鳥を得意とした。清貧にあまんじ芸道三昧の生活を送ったという。昭和5年、56歳で死去した。

北逸斎(不明-1887)
簸川郡大社町字流れ下の医師。塩田銕香に師事し、花鳥山水の着色画を描いた。明治20年頃死去した。


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出雲地方に南画鑑賞の土壌を培った田能村直入と出雲の門人

2016-12-14 | 画人伝・島根


文献:島根の近世絵画展島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

江戸後期になると、出雲・石見地方でも文人趣味の機運が起こり、この地を訪れる南画家を歓心を持って迎え、揮毫を依頼したり、漢詩や南画の指導を受けたりした。尾張の南画家・中林竹溪(1816-1867)は、天保年間に大田市の恒町家に一年余り逗留し、恒町家所蔵の絵画を見聞し、また求めに応じて作品を残している。幕末の三筆として知られる貫名海屋(1778-1863)は、弘化3年から翌年にかけ出雲・石見地方を遊歴し、出雲では知井宮の山本家、石見では宅野の古和家、藤間家や大田の恒松家などに逗留し作品を残している。

明治に入ると、田能村直入(1814-1907)が出雲地方を訪れている。直入は、吉田村の田部家、宍道町の木幡家、横田町の絲原家、仁多町の桜井家など、出雲の名家を歴訪し、この間に出雲の名勝、旧蹟を見聞し作品を残した。中央画壇ですでに著名だった直入を、出雲地方の数奇者は歓迎し、競って画法の指導を受けたという。直入の出雲における足跡は大きく、出雲地方に南画鑑賞の土壌を培ったといえる。

田能村直入(1814-1907)
文化11年豊後国直入郡竹田生まれ。岡藩士・三宮利助の三男。幼名は松太、のちに伝太と改名した。名は癡、字は顧絶。別号に小虎、忘斎、幽谷斎、布施庵、花下直入、竹翁居士、笠翁、小虎散人、青湾漁老、青椀、直入山樵、画仙堂などがある。9歳の時に田能村竹田の門に入り、竹田に見込まれて養子となり田能村姓を継いだ。明治元年京都に移り、明治11年の京都府画学校設立に参加、校長をつとめた。明治24年には南宗画学校を設立し、南画家の育成につとめた。明治29年富岡鉄斎らと日本南画協会を設立、近代京都南画壇の重鎮として活躍した。明治40年、94歳で死去した。

室田湖山(1841-1889)
天保12年生まれ。通称は竹次郎。別号に三楽、東崗がある。松江市内中原町に住んでいた。はじめは古市金峨に師事したが、田能村直入が来遊するとその門に入り、南画に転じた。八雲塗の創始者・坂田平一の作品の図案を作り、また下絵も描いた。八雲塗の創作に最も関係の深い画工だった。明治22年、49歳で死去した。

安部枕山(1851-1911)
嘉永4年生まれ。通称は由左衛門、旧姓は松本。八束郡八束町江島の人。はじめ門脇笛斎、浅井柳塘に学んだが、田能村直入が来遊するとその門に入り、直入に随行して畿内、山陰道を遊歴した。山水を得意とした。明治44年、61歳で死去した。

兼本春篁(1856-1926)
安政3年松江市外中原町生まれ。田能村直入が来遊するとすぐにその門に入り、南画を学んだ。のちに京都北町に移り住んだ。大正15年、72歳で死去した。

福本松鄰(1858-1937)
安政5年安来市荒島町久白生まれ。吉村佐平次の二男で、明治6年荒島町の福本家の養子となった。佐々木蕉雨の影響で画に興味を持ち、田能村直入が来遊した際に入門し、随行して京都に出て2、3年修業した。晩年は茶室の一室をアトリエにして作画を行なった。書画骨董の鑑定も行なった。昭和12年、79歳で死去した。

本田直針(不明-不明)
通称は佐五郎。別号に雲溪、岫雲などがある。田能村直入に師事した。



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出雲を訪れた風外禅師に学んだ横山雲南(黄仲祥)

2016-12-12 | 画人伝・島根


文献:島根の近世絵画展島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

出雲地方には白隠慧鶴禅師(1685-1768)の筆による書画がいくつか伝来している。松江市の天倫寺に伝わる「出山釈迦図」「大応・大燈・関山国師図」などで、いずれも白隠の法脈を持って請来されたものと考えられる。また、仁多町の蔭涼寺にも「辺微意知語」が伝わっているが、これは蔭涼寺の住職が白隠法弟であったことにより請来されたとされる。

宝暦5年には池大雅(1723-1776)が出雲を訪れている。これもまた、白隠法弟との縁によるもので、白隠禅師に参禅した大雅が、白隠門下の高僧として知られる松江の天倫寺住職・円桂祖純と簸川の永徳寺住職・葦津慧隆の招きにより来遊したと考えられる。大雅の来遊は3度にわたるとみられ、天倫寺や永徳寺に寄宿し、この地方に比較的多くの作品を残している。

白隠同様に諸国を遍歴した伊勢出身の禅僧・風外本高(1779-1847)も、白隠禅師の足跡を慕って出雲の地を訪れている。風外は、大雅と縁のある簸川の勝部家を訪れて同家に伝わる大雅作品に触れたことをきっかけに、大雅に私淑傾倒し、南画家に転じることとなった。風外の出雲遊歴は、少なからず土地の画家に影響を与えている。

風外に学び、最も名を高めたのは三刀屋町出身の横山雲南(1813-1880)である。雲南ははじめ堀江友声に学んだが、出雲逗留中の風外に師事してから南画家を志すようになり、京都や江戸、そして伊勢にまで足を運んで絵筆をとった。黄仲祥の別号でも知られており、門人も多い。

横山雲南(1813-1880)
文化10年生まれ。通称は祥助。別号に黄仲祥、石痴道人、奇巌などがある。父の医師・宗甫について儒学を修めた。また、易学、彫刻、詩書、歌をよくした。画は堀江友声の門に入って学んだが、たまたま風外禅師が来遊した際に画法を習い、南画に転じた。天保9年に京都に出て貫名海屋の門に入った。天保14年に帰郷したが、まもなく江戸に遊び、椿椿山、松岡環翠、福田鳴鵞らと交遊した。安政6年に江戸から京都に行き、山水画家として称賛された。万延元年に帰郷し、明治3年に再び上京、明治13年、68歳で死去した。

勝部其峰(1823-1881)
文政6年生まれ。名は景浜、字は芳光。横山雲南、浅井柳塘について学び、京都に出て上竜について美人画を学んだ。明治14年、59歳で死去した。

永瀬雲山(1830-1892)
天保元年加茂町砂子原生まれ。豪農・永瀬丈左衛門の二男。幼名は辰次郎。別号に陶陶斎、耕谷などがある。堀江友声の門に入り、上代英彦と同門だった。のちに横山雲南の画風を模して南画に転じた。諸国を遊歴し足跡は京都から長崎に及んだが、晩年は今市町八雲山に住んだ。明治25年、63歳で死去した。

福庭南隅(1844-1918)
弘化元年生まれ。飯石郡三刀屋町の人。通称は義三郎。別号に刕斎、洲屋などがある。横山雲南に学び南画をはじめ、書も巧みだった。大正7年、75歳で死去した。

儀満暢園(1849-1926)
嘉永2年生まれ。平田の人。通称は晋右衛門、諱は知信。初号は表谷、別号に頑暢がある。はじめ横山雲南に学び、のちに浅井柳塘の門に入った。大正15年、78歳で死去した。

錦織竹香(1854-1945)
安政元年簸川町生まれ。錦織錦江の長女。幼名は久美。島根県女師教諭。奈良女高師教授をつとめるなど、終生女子教育に尽力した。画ははじめ横山雲南・天野嗽石に学び、のちに海屋門下の正林葭陽に私淑した。特に竹を得意としたので「竹香」と号し、本名とした。退職後帰郷した。昭和20年、92歳で死去した。


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津和野藩御用絵師・大島松溪と藩主亀井家

2016-12-09 | 画人伝・島根


文献:大島松溪(益田市立雪舟の郷記念館編)、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

津和野藩御用絵師・大島松溪(1758-1846)は津和野に生まれ、亀井矩貞・矩賢・茲尚の三代の藩主に仕えた。豪放な人柄で、あふれ出る才能は神がかり的だったとも伝わっている。常に大作を心掛け、彫刻も巧みだった。また、津和野藩主をつとめた亀井家は代々書画をよくしており、七代藩主の亀井矩貞(1736-1814)は、書画のほかにも陶芸の技法に通じ、「綾焼」と名づけて作陶した。

大島松溪(1758-1846)
宝暦8年津和野生まれ。津和野藩御用絵師。通称は音右衛門、または式右衛門、名は常一。別号に竹溪がある。津和野藩士・植木直悦の二男で、大島常倫の養子となった。はじめ藩主・亀井矩貞の命により北宗画を学んだが、のちに次の藩主・亀井矩賢の命のよって鏑木梅溪に師事して南宗画を学んだ。性格は豪放で他人と相容れないところがあったという。常に大作を好み、異色の作品を残している。彫刻も巧みで、戸田柿本神社拝殿前面にある龍の浮き彫りや、同社の御神像と「人麻呂御童子像及び付帯像」を彫った御用彫刻師としても知られている。高津柿本神社宝物殿にも神馬がある。弘化3年、89歳で死去した。

亀井矩貞(1736-1814)
元文元年生まれ。津和野藩七代藩主、亀井家八代。亀井茲親の孫。千山、三松斎などの号がある。書画をよくし、はじめ狩野派を学んだが、のちに宋紫石の筆意を慕った。また、陶器を愛し制陶の技に通じ、「綾焼」と名づけて自作には綾松軒またに磐山の銘を入れた。在職32年で、文武を興隆し、江戸の道学者・大島有隣を招いて領内を巡回し、道話を講釈させたりもした。文化11年、76歳で死去した。

亀井矩賢(1766-1821)
明和3年生まれ。津和野藩八代藩主、亀井家九代。亀井矩貞の長男。天明3年に家を継ぎ在職37年に及んだ。学を好み、武を励み、また殖産興業の事業を奨励した。幼いころから画を好み、三浦紫えんに学んだ。また、父矩貞と藩学養老館を創設した。文政4年、56歳で死去した。

亀井茲尚(1786-1830)
天明6年生まれ。津和野藩九代藩主、亀井家十代。亀井矩貞の五男で、文化7年に亀井矩賢の養子となった。文学詩歌を好み、狩野派の画をよくした。天保元年、45歳で死去した。


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石見の南蘋派・三浦紫えんと門人

2016-12-07 | 画人伝・島根


文献:島根の近世絵画展島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

石見地方の南蘋派としては、津和野藩士の三浦南溪・紫☆親子がいる。父の南溪は江戸に南蘋派を広めた宋紫石に学び、藩の御用絵師をつとめた。子の紫☆(「☆」は「田」+「宛」、以下同様)は、父の没後に宋紫山に入門し、南蘋派の画風を学び、花鳥図、特に孔雀画を得意とした。三浦親子の画風は、紫石画の特徴である細密描写や構図法からは変容し、独自のものとなっている。門人に大谷雲亭(1837-1886)、永安薫☆(不明-1862)らがいる。

三浦紫☆(1773-1856) 
安永2年津和野生まれ。父は三浦南溪。名は辰種。通称は恒助、のちに教と改めた。初号は蘭☆、別号に幽谷亭がある。天明7年に父南溪が没したため、家督を継ぎ翌年には藩主から家業を継ぐように命じられ、寛政3年から江戸藩邸に勤務し、宋紫山に入門して画法を学んだ。文化3年、幕府の測量方が益田高津浦に派遣された時に、その応接、待遇などを仰せつかり、製図そのほかの便宜を計った。同4年、紫山の遺言によって「紫」の字を冠することを許され、号を「紫☆」に改めた。弘化2年、津和野永明寺の客殿、庫裏などの改築に際して障壁画を描いた。安政3年、85歳で死去した。

三浦南溪(不明-1787)
津和野藩士。三浦紫☆の父。名は守倚、通称は恒助、あるいは哲之助。別号に石延年がある。明和年間に藩命により楠本雪溪(宋紫石)に師事した。天明7年死去した。

三浦楚☆(1804-1832)
文化元年生まれ。三浦紫☆の子。通称は巴之助、名は直幸、字は生軒。父に画を学んだ。天保3年、29歳で死去した。

永安薫☆(不明-1862)
通称はシゲ。鹿足郡六日市庄屋・永安仲右衛門の妻。父は津和野の庄屋・澄川紋平。幼いころから画を好み、三浦紫☆の門に入って学んだ。文久2年死去した。

斎川芳☆(1804-1892)

文化元年生まれ。通称は平内。種村の庄屋。40歳のころに役務の余暇に三浦紫☆に師事して画を学んだ。墨画の竹を特に得意とした。明治18年、89歳で死去した。

大谷雲亭(1837-1886)
天保8年那賀郡周布村生まれ。通称は貞造。初号は玉☆。14歳から5年間、三浦紫☆に学び、ついで長崎で3年間修業したのち、京都の南画家・前田暢堂に入門して5年間学び、全国を漫遊した。九州漫遊の際にたびたび直入、五岳の門に出入りしていたため晩年の画風は直入に似ているといわれる。明治19年の内国勧業博覧会で銅牌を受けた。明治19年、50歳で死去した。


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