松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

現代まで続く円山・四条派の系譜

2015-07-24 | 画人伝・伊勢

文献:伊勢の画人 磯部百鱗三重の画人展

伊勢には南画をはじめ、狩野派、長崎派、岸派などいろいろな画法を学ぶものがいたが、主流となったのは円山・四条派だった。伊勢に初めて円山・四条派を広めた岡村鳳水の門からは上部斎、榎倉杉斎、荘門為斎が出て、さらに上部斎の門から林棕林が出て、その棕林の門から磯部百鱗(1836-1906)が出た。

磯部百鱗は中村左洲(1873-1951)、伊藤小坡(1877-1905)ら多くの門人を育て、さらに中村左洲の門からは、のちの京都画壇の重鎮、宇田荻邨(1896-1980)をはじめ、鈴木三朝(1899-1997)、嶋谷自然(1904-1993)ら多くの日本画家が出ている。

『伊勢の画人 磯部百鱗展図録 』に掲載されている「伊勢の画人系譜」によると、磯部百鱗には、左洲、小坡のほかに、井村方外、田南岳嶂、江村隆章、川口呉川、磯部百舟、上地天逸、阪口雨邨、吉田百僊、鈴木紫陽、久保田俊章、山本玉陽、小西柳子、小西左文、原豊村、橋本鳴泉、西田章山、小林松鱗、横地玉華、水谷百碩、井上百汀、向井耕雪、横川小波、坂井桜岳らの門人がいる。

また、中村左洲の門人としては、荻邨、三朝、自然のほかに、出口対石、奥田正治良、中井左琴、小川孤舟、井村岳陽、増田無相、佐藤吟月、松本荻洲、岩本豊年、野呂清水、中村百松、宮原左江らがいて、その系譜は現代まで続いている。

磯部百鱗(1836-1906)
天保7年代々磯部九大夫を名乗る内宮の御師磯部元延の長男として、五十鈴河畔の宇治今在家町に生まれた。若い時から画を志し、はじめに伊勢の林棕林に、のちに京都の長谷川玉峰に師事して四条派を学び、歴史画を得意とした。明治維新前後に京都から伊勢に戻り、明治4年に神宮に奉職してから24年に退任するまで神官の職にあった。中林竹渓に故実を、伊勢の為田只青に俳諧を、八羽光穂、鷹羽龍年に詩文の教えを受けた多才多芸の人で、久保田米僊、今尾景年、鈴木松年、川端玉章らと交友して画の研鑚にも励んだ。神官退任後は画道一筋で、多くの門人を育てた。明治39年、69歳で死去した。

中村左洲(1873-1951)
明治6年度会郡二見町生まれ。本名は左十。漁師の家に生まれ、幼くして父を失い、漁業で家族を支えながら郷土の三村亘翁の援助で、磯部百鱗に学んだ。明治28年には百鱗のすすめで、第4回内国勧業博覧会に出品し褒賞を受け、その後も日本美術協会、全国絵画共進会、日本画会、文部省美術展覧会などで入選を重ねた。鯛を得意とし「鯛左洲」の異名をとった。昭和28年、81歳で死去した。

伊藤小坡(1877-1905)
明治10年宇治山田市生まれ。猿田彦神社宮司・宇治山公貞幹の長女。本名は佐登。18歳の時から磯部百鱗に師事し、明治30年には百鱗の紹介で京都の森川曽文に師事し「文耕」の号を受けた。曽文没後は谷口香☆(☆は「山」+「喬」)に師事して「小坡」の号を受けた。大正4年に第9回文展に初入選、三等賞を受賞した。大正8年に日本自由画壇の結成に参加したが、栖鳳のすすめで退会し、帝展に復帰した。大正末期頃から歴史風俗をよく描くようになった。昭和43年、91歳で死去した。

三重(16)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

隠れたる画家 野村訥斎

2015-07-22 | 画人伝・伊勢

文献:隠れたる画家 野村訥斎展

度会郡に生まれた野村訥斎(1831-1864)は、地元の住職・慧剣に画を学んだ後、江戸に出て円山派の大西椿年に師事し、4年後に帰郷して地元で制作活動をした。その後、万延元年(1860)年には再び郷里を出て京都の円山応立のもとで学ぶが、4年後、34年の短い生涯を閉じた。

訥斎に関しての資料としては、1919年に刊行された『隠れたる画家 野村訥斎』(大野和平著)に詳しい。また、1990年には書籍と同名の展覧会「隠れたる画家 野村訥斎」が南島町体育館と三重県立美術館県民ギャラリーで開催されている。

展覧会図録によると、訥斎は34年の生涯の中で、画号を「月岑」「窓雪」「訥斎」と3度変えている。最初の号である「月岑」は、子供の頃に住職・慧剣に学んだ際に与えられたもので、画風は「いくらかたどたどしい筆致とともに、いかにも少年らしい初々しさを残している」と図録には記されている。

次の号「窓雪」は、『隠れたる画家 野村訥斎』の著者・大野和平氏の説では、訥斎が江戸を去って帰郷する際に師から記念に与えられたもので、この号をもつ作品は、郷里南島町を中心とする伊勢・志摩地方にひろく分布している。作風について図録では、「円山派風はもちろんのこと、琳派風あり、南画風あり、というように多彩を極めるし、技法は、彩色をつけたものから水墨まで、形式も、掛軸のような小画面で比較的描きやすいものから、幟や屏風、襖絵にまで及んでいる。屏風や襖のようなおおきな画面を破綻なく構成し、描ききるのは並大抵のことではない。広範な依頼者の要求に応えられる画家としての技術とレパートリーのひろさを訥斎は江戸で身につけて帰ったのである」としている。

最後の号となった「訥斎」は、再び郷里を出て京都で円山応立に師事していた時に、皇女和宮の徳川家降嫁に際してあつらえられた衣装の下絵(あるいは絵付け)の仕事が応立に命じられ、その代作を訥斎がつとめ、その功に報いるために応立から与えられたものであるという(大野和平氏の説)。訥斎時代の作品は少なく、今後の新たな作品の発見が待たれる。

野村訥斎(1831-1864)
天保2年度会郡小方竈生まれ。名は敏、通称は萬兵衛。幼くして画を好み、16歳の時に江戸に出て大西椿年について円山派の画を学んだ。4年の修行後、師の椿年は京都に行って学ぶように勧めたが、伊勢の両親が反対したため結婚して実家にいた。しかし、父親の死をきっかけに志を家人に告げ、京都に出て円山応立に師事することとなる。応立門下では並び立つものはいなかったという。元治元年、34歳で死去した。

三重(15)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

伊勢に円山・四条派を広めた岡村鳳水と門人たち

2015-07-17 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳、伊勢市史第三巻近世編

岡村鳳水の主な門人である上部斎、榎倉杉斎、荘門為斎の門からも優れた画家たちを輩出した。とくに上部斎の門から出た林棕林(1814-1898)は、江戸に出て谷文晁や渡辺崋山らと交遊し名声を高めた。さらに棕林の門からは磯部百鱗らが出て、伊勢における円山・四条派の系譜が確立していった。

林棕林(1814-1898)
文化11年生まれ。名は維幸、字は善卿、通称は刑部。神職・松田幸益の子で、神職・林直信の養子となった。13歳で上部斎の門に入った。それ以来、昼夜をたがわず、天地間に存在する森羅万象、大は山嶽河海から小は鳥獣蟲魚に至るまで写生し、その写生帳は30余巻に及び、すべてがいい出来だったという。天保7年に彦根の城主・井伊直亮が大老の職につくと、棕林は祈祷師として江戸に上がり、谷文晁、渡辺崋山、春木南湖、鏑木雲潭、椿椿山、大窪詩仏、菊池五山、市川米庵ら多くの文人と交流し、名を高めた。江戸から戻ったのちも、諸国を漫遊し各地の文人たちと交遊した。門人は200人を下らず、その中から磯部百鱗、中野素梅、為田秋齋、溝口春塘らが出た。明治31年、85歳で死去した。

山口耕雪(1810-1849)
文化7年生まれ。山田浦口町に住み、幼い頃から画を好み、荘門為斎の門人となって画をよくした。嘉永2年、40歳で死去した。

廣田篁齋(1818-1881)
文政元年度会郡大湊生まれ。名は正陽、別名は範恒常陵、通称は筑後、幼名は丑三郎。大湊八幡の神主・中須左近治興の二男。廣田正方の養子となった。はじめ上部斎に学び、のちに京都の横山清暉の門に入った。明治14年、64歳で死去した。

飯田素亭(1821-1871)
文政4年山田上中之郷町生まれ。名は和義、幼名は為四郎、諱は御船、俗称は久太夫、のちに久平、公利ともいった。河崎清厚の四男で、飯田家の養子となった。画を好み、上部斎について学び「素亭」と号し、のちに横山清暉の門に入って「竹外」と号した。常に囲碁を好んだ。明治4年、51歳で死去した。

林連舟(不明-不明)
山田中之郷の人。名は周防。幼い頃から画を好み、荘門為斎の門に入って修業し、のちに狩野派風の画を描いた。丹後国で死去した。

三重(14)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

伊勢の円山・四条派

2015-07-14 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳、伊勢市史第三巻近世編

伊勢地方の円山・四条派の画人としては、松阪の曾和温山(1748-1797)が京都に出て四条派を学んでいる。また、歌人でもある垣本雪臣(1777-1839)は松村月渓に師事し、円山派の森徹山の養子である森一鳳(1798-1871)も養父に師事して円山派の絵を描いた。しかし、伊勢に円山・四条派が広まったのは丹波から来た岡村鳳水によるところが大きい。

丹波に生まれた岡村鳳水(1770-1845)は、京都に出て円山応挙の門に学び、応挙十哲の一人に数えられるようになった。伊勢を訪れたのは、伊勢出身の同門・笠井末清が帰郷したため、翌年、末清を訪ねて伊勢に来たもので、その時に上部斎、荘門為斎らが計って、鳳水を外宮前野問屋旅館に長く滞在させ、その間に画を学んだという。その後、縁あって鳳水は山田下中之郷(現宮町)の岡村家に入り、長く伊勢の地で活動し、上部斎、榎倉杉斎、荘門為斎ら多くの門人を育てた。

曾和温山(1748-1797)
寛延元年松阪愛宕町生まれ。通称は利右衛門。別号に枇杷、晩翠がある。幼い頃から神童と称され、事情があって僧となって養泉寺に養われ、のちに度会郡南島の鳥海寺に住んだ。四条派の画を学び、のちに諸種の画法を加味して一家をなした。彫刻も好み、書も巧みだった。寛政9年、50歳で死去した。

垣本雪臣(1777-1839)
安永7年生まれ。伊勢の人。本姓は菅原、通称貢。幼い頃、京都に出て龍草廬の門に入って漢学を学び、伴蒿蹊について和歌を研究した。また、有識故実を橘經亮に学び、のちに賀茂季鷹について謌を修め、出藍の誉高かった。すこぶる多能で、特に詩をよくした。画は松村月渓に学び一家をなした。性格は磊落不覇にして事を事とせず、家は極めて貧しかったが、酒を愛し毎夜酔っぱらっていた。天保10年、63歳で死去した。

森一鳳(1798-1871)
寛政10年一志郡久居町生まれ。名は敬之、俗称は文平。円山派の画人である森徹山の養子となり画法を養父に学び、骨法を得て「藻刈船」図をよく描いた。「藻を刈る」は「モウカル」に通じ、商家などが競って所蔵したという。明治4年死去。

荘門為斎(1778-1836)
安永4年生まれ。名は直在、字は其中、通称は此面。松本求馬光信の二男。山田浦口町の荘門直時の養子となった。岡村鳳水が山田に来た時に上部斎らと共にその門に入り画を学んだ。天保13年、66歳で死去した。

上部斎(1781-1862)
天明元年山田常盤町生まれ。名は光済、字は子海、幼名は雅楽之助、のちに左衛門。上部光映の養子、伊勢神宮外宮権禰宜。岡村鳳水について画を学び、多くの門人を育てた。文久2年、82歳で死去した。

榎倉杉斎(1798-1867)
寛政10年山田上中之郷町生まれ。名は武賛、幼名は新、通称は靱負。岡村鳳水に師事し、花鳥人物を得意とした。豊前小倉の小笠原家の居城新築にあたって、9年の歳月をかけて障壁画を描いた。慶應3年7月、69歳で杉斎は死去するが、同年8月に小倉城は火災で焼け落ち、障壁画も焼失したという。

正住肅叟(1808-1868)
文化5年山田下中之郷生まれ。字は千鐘、諱は弘美、幼名は正治郎、のちに将監、または隼人と改めた。父親は岡村鳳水。のちに正住平九郎の養子となった。幼い頃から父・鳳水に画を学び、自ら研究を積んで技術は大いに進歩した。茶道も好んだ。慶応4年、61歳で死去した。

水溜米室(1817-1882)
文化14年山田一之木町生まれ。名は由義、幼名は吉太郎、通称は吉太夫。はじめ蓬壺と号し、のちに米室と改めた。山路五兵衛の子。水溜吉太夫の養子となった。はじめ岡村鳳水に師事し、のちに京都に出て鳳僊に学び、さらに横山清暉について研究を積んだ。また中瀬米牛について俳諧を学び、俳号を表裏といった。性格は淡泊で、芸術以外には欲望を示さなかったが、常に甘味を愛し、そのため慢性胃病に悩まされていたという。明治15年、66歳で死去した。

三重(13)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

伊勢の狩野派・長崎派・岸派

2015-07-09 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳、伊勢市史第三巻近世編

伊勢地方の狩野派の画人としては、小川(河)地竹園(1808-1872)が知られている。竹園は内宮の神主を務めていたが、江戸に出て狩野洞益に師事し、伊勢に狩野派の画風を伝えた。また、女性画家の小林珮芳(1799-1879)は、鉄翁祖門から奥儀を受け長崎派の南画を描いた。珮芳は、亀井小琴、梁川紅蘭、江馬細香ら女性文人と盛んに交遊し、女性の学問普及にも尽力した。他に岸派を学んだ画人としては、草川華山、岡田静虫、高士北岳、阿部蘭坡らがいる。

小林珮芳(1799-1879)
寛政11年生まれ。名は蝶、字は戀花。紀伊藩の地主・小林榮秀の三女。21歳の時に山田の詩人・東夢亭の妻となった。はじめ月僊の遺墨をもって蘭石図を学び、のちに小橋香村について山水を学んだ。画の巧みさは評判で、増山某が長崎に行く時、珮芳の画を持っていき画僧・鉄翁に見せたところ、鉄翁はその筆意に非凡さを感じ、壁に掛けていた清人・顧海蘋の山水をはずし、増山某に託して珮芳に贈ったという。その後、弘化3年に鉄翁が伊勢に遊んだ際、珮芳を訪ね、樹法、葉法、石法、皴法、山法、蘭竹法などを一々筆を下し、奥儀を授けた。それから珮芳の画風は一変し、名声は高まり、画を請う者が続出したという。嘉永2年に夫の夢亭が没したのちは夢亭の遺志を継ぎ、門人の村井漠所、江川閑雲、松田葵亭らとともに東夢亭詩集三巻を刊行した。珮芳に子はなく、林棕林の子・吉貞を養子とした。多芸であったが、画を最も得意としていた。晩年は女徒を集め習字、裁縫、国文学を課し専ら家庭学を教えた。明治13年、81歳で死去した。

村井漠所(1821-1862)
文政4年伊勢山田生まれ。東夢亭の門人。夢亭の没後は同僚の江川閑雲、松田葵亭とともに夢亭の妻である小林珮芳を助けて遺著書、東夢亭詩集三巻を刊行した。余技に画を描いた。文久2年死去。

江川閑雲(1835-1874)
天保6年伊勢山田生まれ。東夢亭の門人。名は約之、通称は半九郎。川上葆に学び、常に文墨を友としていた。明治7年、40歳で死去した。村井漠所らと東夢亭詩集三巻を刊行した。

松田葵亭(不明-不明)
伊勢山田の人。東夢亭の門人。画もよくした。村井漠所らと東夢亭詩集三巻を刊行した。

草川華山(1832-1908)
天保3年鈴鹿郡生まれ。名は高通。先祖は奥州白河より移住してきた名門とされる。亀山で神職についていた。幼い頃から画を好み、京都に出て岸連山の門に入って学び、山水を得意とした。明治41年、77歳で死去した。

岡田静虫(不明-不明)
松阪川井町生まれ。幼名は徳蔵、通称は誠良、俗称は紋徳。別号に天放堂百仙、阿彌廼舎などがある。大工の藤兵衛の二男で、長じて西町の岡田家の養子となった。酒を好み素行が悪かったが、元来器用だったため紋章を描いて生活していた。30歳になった頃に悟るところがあって酒を慎み、岸澤喜安の門に入って常磐津を習い、また、牧田長次郎に篠笛を、橋本鶏足に須磨琴を、そして京都の岸派に画を学んだ。特に画は得意とし、ある年の春、松阪の有志に頼まれて長さ六間、幅四間の大凧に得意の画を描いたところ、構図がすばらしく、遠くから見るとさらによいと評判になったという。明治初年頃死去。

高士北岳(不明-不明)
安濃郡多門の人。名は榮吾。医者を業としていた。幼い頃から画の才能を認められ、岸駒が安濃郡の素封家・林宗右衛門の家に数年間寄寓した際、阿部蘭坡とともに師事した。それからは年に一度京都に出て、円山応挙の画を見て模写し研究を重ねた。とても達筆で、技巧は非凡だったという。富士を写生するため、富士北麓に13年住んでいたことから、号を「北岳」にした。酒が好きで、飲めば必ず乱れたという。65歳で死去した。

阿部蘭坡(不明-不明)
安濃郡八幡の人。名は國香、通称は彦一。別号に三刀居士がある。岸駒が安濃郡に寄寓している時に高士北岳とともに師事した。

三重(12)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

伊勢の南画

2015-07-06 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳、伊勢市史第三巻近世編

伊勢地方の南画家としては、尾張の山本梅逸に師事した笠松梅西(1798-1871)、藤本鉄石と交遊し竹中文輔の門に学んだ奥山金陵(1807-1866)、谷口靄山に師事した橋村並子(1816-1884)と橋村香圃(1831-不明)親子、はじめ岸派を学びのちに田能村直入らに師事して南画に転じた有馬百鞭(1835-1905)らがいる。豊受大神宮神楽職で書画・篆刻で名をなした小俣蠖庵(1765-1837)も南画派の画を描いた。また、近江水口の神主でのちに伊勢に移った山口五水(不明-1831)の門からは、久志本博石(1864-不明)、奥村耕烟(1852-1923)、秋田九水(1860-1924)、森岡顕道(1852-1925)、松葉鶴荘(1861-1916)らが出て、伊勢における南画の普及に貢献した。

奥山金陵(1795-1866)
寛政7年伊勢山田生まれ。名は家憲、字は叔章、通称は中書。別号に桃蔭、閑窩がある。
京都に遊び竹中文輔の門に入って治瘍及痘科の学問を専攻した。また松本愚山に経史を、広瀬旭荘に詩法を問んで帰郷した。慶応2年、72歳で死去した。

橋村並子(1816-1884)
文化13年生まれ。橋村主膳正立の妻。名は萬須。画を好み、京都の谷口靄山に学んで南画をよくした。また、足代弘訓に歌を学び、和歌が巧みだった。明治17年、69歳で死去した。

橋村香圃(1831-1875)
天保2年山田上中の郷町生まれ。名は正克、字は禮卿、幼名は壽丸、通称は宰記肥前大夫。橋本並子の子。幼いころから画を好み、母と同じく京都の谷口靄山に学んで南画をよくし、足代弘訓に歌を学んだ。茶は小川流を修めた。また、著名な文人と交遊し、特に貫名海屋とは常に交流していた。明治8年、45歳で死去した。

有馬百鞭(1835-1905)
天保6年鳥羽町生まれ。幼名は麿助、字は希駿。別号に醉漁、醒仙がある。鳥羽藩士・有馬千里の子。18歳の時に藩主に命じられて久井藩の高井某について山鹿流の兵法を学んだ。のちに江戸に遊び小濱大海の門に入り、大海の没後は安井息軒の門に転じて経学・文学を修めた。幼い頃から詩を好み、鷹羽雲淙に師事した。他にも多芸で書画、詩文、和歌、茶、花、謡曲などにも優れていた。画は父の有馬千里に学び、次いで父の師である岸駒の高弟である馬外翁に学んだが、のちに魚住荊石と田能村直入について学び画風が一変、南宗画を主とするようになった。明治39年、72歳で死去した。

小俣蠖庵(1765-1837)
明和2年山田上中之郷生まれ。名は孟寛、のちに孟彝、字は子猛、のちに名六、通称は七代茂四郎。別号に栗斎がある。父は六代茂四郎孟箇、母は五代茂四郎の娘で名は薗明。
代々豊受大神宮神楽職で、家は代々味噌屋を営んでいたが、のちに家が衰えて享和2年には山田八日市場町に移り住み、書画、篆刻に専念し名声を得た。中山精舎で書画会を開催した際には古森厚保も同席していた。「蠖庵」は晩年の号で、主として書画に用い、篆刻には「栗斎」の号を用いた。天保8年、73歳で死去した。

福井端隱(1801-1885)
享和元年山田上中之郷町生まれ。名は末彰、字は孔彰、幼名は武熈皆千代造酒、通称は帯刀後權亮大弼。荒木田姓にして榎倉勘解由武繁の三男。福井帯刀の家を継ぎ山田一志久保町に住んだ。学問をだれに学んだかは定かではないが、常に蘇東坡を信じ研鑚に励んだ。書画・篆刻は小俣蠖庵に学び、特に鉄筆を得意とした。また、茶道は藪内流を修めた。鑑定にも巧みだったという。明治18年、85歳で死去した。

孫福梅知(1829-1889)
文政12年伊勢山田の足代家に生まれ孫福家に入った。幼名は鐵次郎、通称は公好。文雅風流を好み、国学を足代弘訓に学び、また南画ははじめ高木聞泉に学び、のちに日根野対山に学んだ。明治22年、62歳で死去した。

森岡顕道(1852-1886)
嘉永5年尾張知多郡生まれ。のちに伊勢山田に移り住んだ。幼いころから中山弘斎について漢学を学び、石橋知空について国学を、村田梅邨に詩を、横井藻誉に書道を習い、山口五水に師事して南宗画を修めた。もっとも画を得意とし、常に研鑚を怠らず、神都雅人の重鎮といわれた。明治19年死去。

服部小瓶(1840-1951)
天保11年伊勢山田古市町生まれ。津藩儒・土井ゴウ牙について経史・詩文を学び、晩年は江村香巌について南画を修めた。明治26年、55歳で死去した。

江川近情(1852-1921)
嘉永5年伊勢山田生まれ。名は成之、字は士信。別号に夜春房、両日庵、月心、春雲などがある。幼い頃から家学を受け、長じて三井戴星について書道を学び、のちに龍三瓦について漢学を修めた。大正10年、70歳で死去した。

三重(11)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

伊賀の画人

2015-07-02 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

伊賀出身の文人としては、全国的に名高い俳人の松尾芭蕉(1644-1694)、江戸中期の俳人・菊岡沾凉(1680-1747)、江戸後期の歌人・田山敬儀(1766-1814)らがいて余技に画をたしなんだが、画人としては狩野山楽に師事した上西山徳、曾我蕭白と交遊した成瀬古仙、岡田米山人に師事した築山楽山をはじめ、池田雲樵、三村竹山、譽田歴山、立入快堂らがいて、藤堂家に仕えた武士が多い。ほかには浦上春琴に師事した筒井永年らがいる。

上西山徳(1619-1697)
元和5年伊賀上野生まれ。名は正勝、字は宗牧、通称は庄五郎。別号に山遊がある。狩野山楽について画を学び、画を以って藤堂家に仕えた。元禄10年、79歳で死去した。

成瀬古仙(不明-1809)
享保年代伊賀上野生まれ。藤堂家の重臣。性格は洒落で奇行が多かったという。羽衣と名付けた空中飛行機を作り月夜に乗じて飛行させて人々を驚かせ、藩主の叱責を受けて減禄させられたこともある。文学に長じ書画をよくし、画は曾我蕭白と交遊してその筆意を受けたといわれる。文化6年死去。

築山楽山(不明-1837)
伊賀上野の人。名は穣、諱は玄厚、通称は平野屋忠右衛門。別号に米園、平穣、平彦などがある。幼い頃から画を好み、岡田米山人に師事して一家をなした。特に山水を得意とした。篆刻もよくし、文人墨客との交遊も広かった。天保8年死去。

筒井永年(1817-1856)
文化14年伊賀上野生まれ。幼名は鹿之助。幼くして画才があり、浦上春琴の門に入って画を学び、その秘法を得たという。そのため無款のものは春琴の作と間違えられるほどだったが、永年は名を売ることを好まなかったという。安政3年、39歳で死去した。

神田耕雲(1817-1888)
文化14年伊賀上野生まれ。諱は通成、通称は禮之進。詩文をよしく、画も巧みで、特に画法に詳しかった。明治21年、72歳で死去した。

三村竹山(不明-1904)
伊賀上野生まれ。のちに津に移り西堀端町に住んだ。名は武、諱は忠得、通称は郷右衛門。書を以って藤堂侯に仕えた。画は叔父の神田耕雲に学んだ。多くの文人と交遊し、当時京阪の文人雅客で伊勢に来たもののほとんどが竹山を訪ねたという。明治37年、80歳で死去した。

富山方亭(1820-1870)
文政3年阿山郡柘植村に生まれ上野町に住んだ。名は謹、字は子温、通称は保定。別号に水哉亭古堂がある。医学を京都の中尾東龍の門に学び、のちに長崎で蘭学を修めた。医業のかたわら詩歌を好み、画もよくした。明治3年、51歳で死去した。

池田雲樵(1825-1886)
文政4年伊賀山田郡喰代村生まれ。名は政敬、字は公維。別号に半仙がある。幼い頃から画を好み、内海雲石、前田暢堂、中西耕石に画を学び、斎藤拙堂について詩文を修めた。画をもって藤堂家に仕えた。明治維新後は京都に移り住み、明治12年に京都府立四宗画学校が設立されると南宗画の教授となった。全国絵画共進会などの展覧会でもたびたび受賞した。明治19年、62歳で死去した。

清水☆山(不明-不明) (☆は「糸」+「兼」)
文政中の人。藤堂歸堂の奮臣で家老の職にあった。南蘋風の画をよくし花鳥山水いずれも巧みだったという。その子・謙斎、孫・謙堂もみな画をよくした。

清水謙堂(不明-不明)
近代の伊賀の人。津藩士。通称は兼三郎、祖父は清水☆山(☆は「糸」+「兼」)、父は謙斎。三代にわたって画をよくした。

譽田歴山(不明-1966)
伊賀上野町の人。幼名は仙吉で、のちに隠居して茂樹と改めた。別号に金鉉堂がある。家は代々道具及び屏風を業として、歴山はその四代目で、家名は仁兵衛。多芸で業務のかたわら画を描き、彫刻をし、和歌もよくした。明治41年、69歳で死去した。

立入快堂(不明-不明)
近代の伊賀の人。名は奇一、はじめ上西庄五郎と称した。痴堂と号していたが、病気がちで薬が手放せなかったため、ある人に号に起因するのではないかと指摘され、すぐに快堂に改めたという。代議士になったことがあり、余技で画を描いたという。

三重(10)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

松阪の画人

2015-06-29 | 画人伝・伊勢

文献:本居宣長と津の門人たち三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

関連:池大雅と韓天寿

松阪の文人としては、全国的に名高い国学者の本居宣長(1730-1801)がいる。宣長の門人は伊勢地方にも多くいるが、その中に目立った画業を残したものは見当たらない。他には、北海道の名付け親として知られる冒険家の松浦武四郎(1818-1888)、豪商で私立図書館をつくるなど教育と細民の救済にあたった竹川竹斎(1809-1882)、女性歌人の高畠式部(1785-1881)らが余技で画を残している。画人としては、谷川士清の門に学んだ三井丹丘、春木南溟の高弟とされる亀井南皐らがいる。

荒木是水(1657-1713)
明暦3年松阪町生まれ。名は山三郎、字は蔵六。佐々木志津麻に師事して書を学び、特に大字を得意とした。画もよくした。正徳3年、57歳で死去した。

三井丹丘(1729-1811)
享保14年飯高郡丹生生まれ。名は、字は伯顧、通称は建章。医を業とし、谷川士清の門で学び、師の要請により肖像を描いたものが残っている。文化8年死去した。

長井槐斎(1730-1786)
享保15年松阪中町生まれ。通称は環、別号に逸堂がある。医を業とし、書道に長じ、画も巧みだったという。天明6年、57歳で死去した。

鈴木豹斎(不明-1835)
松阪湊町の人。通称は小野屋利右衛門、名は英仲、字は禎吉、別号に有儘室がある。画法に心を傾け、年少の頃から四方に周遊し、蝦夷の地に入った。特に豹を多く描いたので豹斎と号したという。天保6年死去。

小津石斎(1785-1857)
天明5年松阪本町生まれ。通称長澄、別号に陳三碧、天青、崖釣隠などがある。伯母・小津慈源の養子となって新五郎と改名、のちに結婚して清左衛門と改めた。幼い頃から画を好み、13歳から津藩士・烟崖について山水花鳥を学んだ。のちに明清の名蹟を追慕し研究した。また、本居春庭に和歌を学び、千認得斎に学んで點茶の道にも入った。安政4年、73歳で死去した。

亀井南皐(1798-1855)
寛政10年松阪町大字殿町生まれ。名は退蔵、幼名は繁三郎、字は源密。幼い頃から画を好み、春木南溟に師事し高弟とされた。当時の松阪の画家はおおむね南皐の門に入ったという。安政2年、58歳で死去した。

三重(9)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

拙堂門下と津の画人たち

2015-06-25 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

川北梅山、中内樸堂と並び、斎藤拙堂門下三傑のひとりに数えられる土井ゴウ牙もまた書画をたしなみ、墨竹を多く残した。また、ゴウ牙の三男・宮橋慥軒、娘婿の須山素朴、拙堂に師事した櫻木春山、拙堂の子・斎藤誠軒らも書画にすぐれていた。ほかに津の画人としては、当時の名士と広く交友があった浜地庸山、岡田半江に師事した木村卓素、田能村竹田に師事した倉田澤上らがいる。

土井ゴウ牙(1817-1880) 「ゴウ」の漢字は「螯」の「虫」を「耳」
文化14年津生まれ。名は有恪、字は士恭、通称は幾之輔。初号は松径。津藩儒医・土井篤敬の二男。12歳で家を継ぎ、文学組冗員に充てられ、学を川村竹坡に受けた。のちに石川竹に経義を、斎藤拙堂に古文を学んだ。すべてにおいて優れており、拙堂が老いると藩の子弟はこぞってゴウ牙の門に入ったという。書画もよくし、特に墨竹を好んで描いた。紀州高野山の僧・大鵬の描いた墨竹巻物を所蔵し、この巻物により画技を研究したとされる。明治13年、64歳で死去した。

宮橋慥軒(1854-1886)
安政元年生まれ。名は得、通称は参三郎。土井ゴウ牙の三男。山田の宮橋家の養子となった。詩文および書画をよくした。明治19年、33歳で死去した。

須山素朴(1838-1865)                   
天保9年生まれ。須山三益の嗣子。字は徳夫、通称は道益。土井ゴウ牙の娘婿。ゴウ牙の門に入って儒学を修めた。ゴウ牙はその英才を愛し娘との結婚をとりもった。詩書に長じ、画も巧みで特に花鳥を得意とした。慶應元年、28歳で死去した。

櫻木春山(1822-1903)
文政5年津東検校町生まれ。須山三益の二男。諱は正宏、字は士毅、通称は彌十郎。櫻木家の養子に入った。はじめ楽山と号し、のちに春山と改めた。学問を好み、年少の頃に藩儒・三宅棠陽に学び、のちに斎藤拙堂、川村竹坡らにつき、詩文をよくした。余技に画を描き、山水が巧みだった。明治36年、83歳で死去した。

斎藤誠軒(1826-1876)
文政9年生まれ。名は正格、字は致卿、通称は徳太郎。のちに父の名を継いで徳蔵と改めた。斎藤拙堂の子。性格は温良で寡黙、しかも学力は深邃にして詩が巧みだった。余技で画をよくしたという。明治9年、51歳で死去した。

浜地庸山(1775-1835)
安永4年生まれ。櫛形の人。幼名は大助、名は任重、字は伯仁、通称は十郎兵衛。別号に画痴斎がある。幼い頃から詩文を好み、また画が上手かった。当時の名士たちと広く交友があった。貫名海屋、津阪東陽、大窪詩佛、岡本花亭、巻菱湖らとは詩文を語り、日根野対山、野呂介石、浦上春琴、岡田半江らと画法を論じたという。天保6年、71歳で死去した。

木村卓素(不明-1872)
安濃郡新町古河の人。岡田半江に師事した。明治5年、91歳で死去した。

安藤五琴(1806-1871)
文化3年生まれ。伊勢久居藩士。諱は参世、通称は榮左衛門、のちに權太夫と改めた。別号に静穏がある。3歳で父を亡くし、長じて儒学を佐野竹亭、河原田春江に学び、剣術を塚原流師範家に、槍術を宗藩内海雲石に、画を幸田皆春に学んだ。すべて堂に入ったものだったが、特に画に優れていた。文政10年に江戸詰めになった際には南宗画も研究したとされる。明治4年、66歳で死去した。

中尾篁汀(1840-1902)
天保11年生まれ。通称は平兵衛、字は元長。家は伊勢津北町にある代々続く旅館・野口屋。狂言師で藤井六三郎と称した。幼い頃から画を好み、野田半谷、池田雲樵に師事し、山水を得意とした。明治35年、63歳で死去した。

岡野石圃(不明-不明)
文政中の伊勢久居本町の人。名は享、字は元震、別号に雲津、大和主人がある。京都に住んでいて画名は高かった。清人・李漁の芥子園画伝による粉本の布置を初めて成し、これによって李漁の説が世に広まった。『石圃娯観集』『石圃百名山譜』など著書も多い。

岡松濤(不明-不明)
近代の人。津に住み画をよくしたと、明治初年版の津諸名士番附中に画家として掲載されている。

加藤豊春(不明-不明)
近代の人。一斗亭と称した。津市入江町に住み、染物を業とするかたわら画をよくした。

曾谷宗淨(不明-不明)
通称は彦右衛門。長曾我部家の画臣だったが、藤堂高虎の懇望によって津藩に仕えた。土佐派の名手とされる。大黒天を得意とした。

倉田澤上(不明-不明)
近代の人。名は孝信、字は子順。聲畫舫澤上漁人の号がある。津市澤の上で米問屋を営んでいた。田能村竹田に学び南画をよくした。

三重(8)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

斎藤拙堂の門人・宮崎青谷とその周辺の画人

2015-06-23 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

津藩士として藤堂家に仕えた斎藤拙堂(1797-1865)は、漢学者として名高く、多くの儒学者や文人と交流し、土井ゴウ牙、川北梅山、中内樸堂をはじめ多くの門人を育てた。その中には宮崎青谷のように画人として名をあげたものもいた。

宮崎青谷(1811-1866)
文化8年生まれ。名は定憲、字は士達、通称は彌三郎。津藩士。幼い頃から学問を好み、斎藤拙堂に従って学び養正寮句読師となるが、その翌年に暇をもらい京都に遊び、猪飼敬所に従って経学を学び、頼山陽に文章を学んだ。その後江戸に出て昌平黌で一年間学び帰郷した。画は米村醉翁に学び、「出藍の誉れあり」と賞賛された。のちに藩主・藤堂家が所蔵していた王建章の画法を学んで一家をなし、名は一時にして高まった。斎藤拙堂が大和の月ケ瀬に遊んだ際には青谷らも従って行き、帰ってから著した拙堂の代表作である『月瀬記勝』には、青谷が描いた梅渓の図が掲載されている。慶應2年、56歳で死去した。

米村醉翁(不明-不明)
文政年中の人。津の人で画をよくした。宮崎青谷は醉翁の門から出たとされる。

江村晴虹(不明-不明)
文政頃の人。津藩士で、南画をよくした。宮崎青谷、またはその門に学んだとされる。

富岡九峯(1845-1892)
弘化2年津市大門町生まれ。名は定礎、字は介石、幼名は石之助、通称は太郎兵衛。家は代々呉服商を営み、九峯は九代目。宮崎青谷と藤澤南岳について和漢の学を修め、詩画をよくした。画ははじめ青谷の画風を学び、のちに元明の画法に学んで山水を得意とした。多芸で、音楽、茶道などもよくした。明治25年、48歳で死去した。

永田梅石(1842-1880)
天保13年生まれ。安濃津東町の人。父は片岡五郎右衛門。幼い頃から画を好み、宮崎青谷に学んだ。明治13年、39歳で死去した。

谷口湘客(不明-不明)
近代の人。通称は徳蔵、俳号に之有がある。津藩士で、城西古河に住んでいた。川北梅山に漢学を、宮崎青谷に画を、中澤雪城に書礼を、八木芹舎に俳諧を学び、すべてにおいて優れていたという。大正の初年頃に80歳で死去した。

三重(7)-ネット検索で出てこない画家

 


この記事をはてなブックマークに追加

伊勢津藩主・藤堂家と津藩士の画業

2015-06-19 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

伊勢津藩の藩主を代々つとめた藤堂家は文雅を好み、2代・高次、3代・高久、10代・高兌、11代・高猷、そして最後の藩主となった12代・高潔らは『三重県の画人伝』に掲載され、その画業が伝えられている。また藤堂家に仕えた津藩士にも、幸田皆春、高木文仙ら多くの画人が出ている。

幸田皆春(不明-1830)
伊勢久居の人で藤堂家に仕えた。通称は次右衛門。別号に静山、君晴、隨分軒などがある。画を好み公務の余暇に宋紫石に師事して山水花鳥をよくした。門人に安藤五琴、森田二齋らがいる。文政13年、77歳で死去した。

高木文仙(不明-1872)
江戸旗本の家に生まれ、画を好み、弟に跡を継がせ自身は藤堂家に仕えて津市下部田に住んだ。初号は耳白、のちに文泉と号すが、藤堂家に仕えるようになってから泉の字をはばかり、文仙に改めたという。はじめ江戸で谷文晁の門に入り、のちに長崎の木下逸雲について南画を学んだ。斎藤拙堂、土井ゴウ牙、藤堂凌雲、池田雲樵、宮崎青谷、井野勿斎らと交友した。明治5年死去。

藤堂凌雲(1809-1886)
江戸の人で、津に来て住んでいたが、晩年はまた江戸に戻った。名は良驥、字は千里。藤堂梅花の子。山本梅逸の高弟で名をよく知られた。藤堂家の一族にして、斎藤拙堂、宮崎青谷、井野勿斎、池田雲樵らと共に藤堂高猷に仕えた。子の石樵もよく画をした。明治19年、78歳で死去した。

藤堂石樵(不明-不明)
津藩士。名は凌驥、通称は喜四郎。藤堂凌雲の子。詩書に巧みで養正寮書道副師となったが、維新の前に飄然と津を去った。

藤堂歸雲(1816-1887)
文化13年生まれ。名は藤堂高克、字は士儀、法号は常山。藤堂高芬の庶長子。津藩家老で、多技にして最も画を好んだ。明治20年、72歳で死去した。

松岡環翠(1818-1887)
文政元年生まれ。名は光訓、通称は橘四郎。はじめ幕府の儒員として翠山と号し、津に来て環翠と改めた。別号に蓮痴がある。五十嵐竹沙の門に学び、墨蓮画を得意とした。明治20年、58歳で死去した。

太田棲雲(1843-1901)
天保14年津市丸の内生まれ。幼名は熊之亟、字は朝周。別号に雨香堂、鳳仙、観伯などがある。津藩士で、代々弓術をもって仕えた。先祖は太田道観だと伝わっている。画を好み、幼い頃に池田雲樵に学んで画才を認められ、のちに椿椿山の門に入って研鑚を積んだ。また詩を土井ゴウ牙に、書を井野勿斎に学んだ。性格は恬淡磊落で、酒を好んで奇行が多かったという。門人には、横田地松雲、小津琢堂、田中洞仙らがいる。子の米所も画を描いた。明治34年、59歳で死去した。

曾谷定景(不明-不明)
津藩士。代々土佐派の画をもって仕えていた家柄で、曾谷家の七代。若い頃から画の才能を認められ、数代のうちでも特に達筆だったため、藩主の命で江戸に出て、住吉内記について研究していたが、嘉永の中頃、40歳に満たず死去した。

内海雲石(不明-不明)
文化天保頃の人。通称は左門。津藩士で鎗術の名家。余技に書画および文章をよくし、また俳諧に長じていた。池田雲樵は雲石の門から出たと伝わっている。

磯坂煙崖(不明-不明)
文化文政の人。津藩士で画をよくしたという。

中内江上(不明-不明)
明治初期の人。津藩士で、藩儒・中内撲堂の長男。余技に画をよくした。

中村竹汀(不明-不明)
近代の人。津藩士で書画をよくし、特に書が巧みで、画も雅致に富んでいた。

前田翠崖(不明-不明)
近代の人。津藩士で高田派鎗術の名家。画をよくした。

服部松斎(不明-不明)
近代の人。通称は十太夫。津藩士で余技に画をよくした。

野田半谷(不明-不明)
近代の人。津藩士で鎗術の名家。篆刻をよくし書画も巧みだった。

三重(6)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

増山雪斎と桑名の画人

2015-06-16 | 画人伝・伊勢

文献:増山雪斎~大名の美意識~三重県の画人伝

桑名の画人としては、沈南蘋風の花鳥や水墨を描き、文人大名と呼ばれた伊勢長島藩主・増山雪斎(1754-1819)が知られている。雪斎は文雅を好み、十時梅(1749-1804)や春木南湖(1759-1839)を招き、伊勢長島の文化の振興に尽くした。また、多くの文化人と交流し、木村兼葭堂(1736-1802)が過醸罪に問われた際には長島藩領の川尻村に隠棲させ庇護した。晩年は巣鴨の下屋敷で自適の生活を過ごし、虫類の精密な写生画である「虫豸帖」(東京国立博物館蔵)を残した。桑名には他に、雪斎の子である雪園、真宗高田派の住職・帆山花乃舎らをはじめ、桑名に移り住んだ星野文良らがいる。

増山雪園(1785-1842)
天明5年生まれ。増山雪斎の長男。父の影響を受けて自らも筆をとり、書画などを残している。また、漢詩もよくし、菊池五山の『五山堂詩話』にも、巻七、補遺一と二度にわたり計7作が掲載されている。天保13年死去。

星野文良(1798-1846)
寛政10年奥州白河生まれ。名は文輔。楽翁公に仕え、主家移封ののちに桑名に住んだ。公の命によって谷文晁の門で学んだ。巨野泉祐の兄弟子。弘化3年、49歳で死去した。

帆山花乃舎(1823-1894)
文政6年桑名町生まれ。名は唯念。真宗高田派の崇寺の住職。幼い頃から画を好み、渡辺周渓に学び、のちに浮田一に学んで土佐派を修め、これを固く守り決して私意を挟まず、人物花鳥、山水を描いた。安政年間に画院に入り、藤原信實、土佐光信らの古法を研究し、画所に招聘されて、師の一とともに土佐光文を補佐して、聖賢御障子の画に従事した。明治27年、72歳で死去した。

南合果堂(1798-1863)
寛政11年陸奥白川城内北小路に生まれ、のちに桑名町に移り住んだ。名は龍橘。南合蘭室の三男。幼い頃から文才を認められ、朱子学を志した。藩校の教授をつとめ、仙台藩士・大槻盤渓、会津藩士・山内香雪、熊本藩士・白木柏軒、幕臣・羽倉簡堂らと主に交友した。画を好み、谷文晁の門人である根本愚洲について画を学び、特に山水を得意とした。文久3年、65歳で死去した。

大塚南窓(不明-不明)
享和以前の人。名は龍雄、別号に桑海がある。桑名船馬町の荷問屋・大塚松兵衛の家に生まれた。画をよくし、美濃国に客居して同地に門人が多いと伝えられている。

栗本柳崖(不明-不明)
桑名の人。藩の分領・越後柏崎陣屋詰めの会計吏となった。画をよくし、特に山水を得意とした。

三重(5)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

伊勢の浮世絵師

2015-06-12 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

伊勢で浮世絵を描いた画人としては、月僊の高弟とされる西岡邦教に画を学び、月僊風の画を描いていた喜多村邦穀(1793-1853)が、のちになって浮世絵を試みた。『三重県の画人伝』には「浮世絵を画くに頗る妙を得たりと云う」と記されており、その技術の高さを伝えている。邦穀の画法は、その子豊春らによって引き継がれた。

喜多村豊春(1822-1882)
文政5年山田浦口町生まれ。名は光政、字は以讀、幼名は嘉四郎、のちに嘉讀と改めた。幼い頃から画を好み、父・邦穀に学んで浮世絵の画法を修め、さらに自ら研究を重ねた。名声を得て、当時の市の内外を問わず氏神祭礼の日に各所に掲げた大額の似顔絵は、多くが豊春の筆であったという。明治15年、60歳で死去した。

喜多村豊景(1842-1888)
天保13年山田浦口町生まれ。名は與太治、字は子明。喜多村豊春の弟。水溜米室の画流を汲んで、さらに改めた。神宮宮掌の職を拝し、明治2年、両大神宮御遷宮御図を描き、神宮文庫に収蔵されている。明治21年、47歳で死去した。

喜多村豊洲(1850-1901)
嘉永3年山田浦口町生まれ。幼名は嘉四郎。喜多村豊春の長男。幼い頃から父・豊春について浮世絵を学んだ。明治34年、51歳で死去した。

喜多村豊谷(1862-1893)
文久2年山田浦口町生まれ。名は豊谷。喜多村豊春の四男。父・豊春について浮世絵を学び、山水花鳥を得意とした。はじめ浦口町に住んでいたが、のちに八日市場町に移り住んだ。明治26年、32歳で死去した。

三重(4)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

尾張の画僧・月僊と伊勢の門人

2015-06-09 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

月僊(1741-1809)は、尾張国名古屋の商家に生まれ、7歳で得度し、10代で江戸の芝増上寺に入寺した。修行のかたわら桜井雪館に師事し、雪館の高弟の一人として目された。その後、江戸を離れて京の知恩院に移ったが、京における月僊の動向を伝える資料は乏しく詳細は明らかではないが、円山応挙に師事し、与謝蕪村に私淑していたようで、京都東山妙法院障壁画制作には応挙門人の一人として参加している。

34歳の時に当時荒廃していた伊勢の寂照寺の住持を命じられ、以後69歳で没するまで、この地で寺院復興に尽くし、貧民救済などの社会活動を積極的に行なうかたわら、多くの作品を残し、門人を育てた。伊勢の門人としては蒔田暢斎、西岡邦教、大谷蘭室、鈴木月湖らがあげられる。

蒔田暢斎(1738-1801)
元文3年生まれ。山田の人。通称は喜兵衛、隠居して亀六と改めた。別号に彪山、空波、鴻雁堂などがある。幼い頃から書を好み、長じてから古體の書風を学び、当時の名士、皆川淇園、月僊、元瑞、韓天寿らと親しく交遊した。特に月僊に書法を授け、また月僊から画を学んだ。書は唐宋などの古體文字を好んだ。また、開拓事業に熱心で、出資を惜しまなかったという。享和元年、64歳で死去した。

西岡邦教(1739-1815)
元文4年山田浦口町生まれ。諱は榮弘、俗称は右兵衛。画を月僊に学び、月僊の第一の高弟とされる。家号を「ゑびや」という。文化12年、77歳で死去した。

大谷蘭室(1789-1828)
寛政元年生まれ。山田上中之郷の人。字は公壽。土佐派の絵をよくしたが、月僊の弟子とされている。文政11年、39歳で死去した。

鈴木月湖(不明-不明)
安濃郡新町八丁の人。本名は主息、通称は四郎兵衛。画を好み、月僊の門に入って学んだ。

古森癡雲(1790-1858)
寛政2年山田浦口町生まれ。幼名は保の亟、通称は善右衛門、諱は厚保、字永信。別号に宜三小雲がある。退隠後は善佐と称した。幼い頃から画を好み、月僊の高弟とされる西岡邦教に学び、のちに小俣蠖庵について南画を学んだ。篆刻を好み、俳諧もよくし、多くの文人墨客と交遊した。安政5年、69歳で死去した。

三重(3)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加

池大雅と韓天寿

2015-06-05 | 画人伝・伊勢

文献:韓天寿とその周辺三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

曾我蕭白とともに伊勢地方を訪れた代表画家に、池大雅(1723-1776)がいる。大雅は特に松阪に多くの作品を残していて、これは京都に生まれ松阪に移り住んだ韓天寿の存在を抜きには語れない。

韓天寿(1727-1795)は、享保12年京都の青木家に生まれた。姓の「韓」は青木家の祖と言われる馬韓の余璋王によるもので、字は大年、本名は中川長四郎。中国・東晋の書家である王羲之や王献之に心酔し、号を「酔晋」とした。15歳の時に京都で池大雅、高芙蓉と出会い、この頃に松阪で両替商などを営む中川家の養子となり松阪に移り住み、33歳で第5代中川清三郎を継いだ。

松阪に移ってからも池大雅、高芙蓉との交遊は生涯変わらず続き、天寿が26歳の時には池大雅と玉瀾の結婚の晩酌をしている。34歳の時に3人連れ立って白山、立山、富士山を登山し、互いに「三岳道者」と称した。「書画」の大雅、「篆刻」の芙蓉、「法帖」の天寿として中国文人趣味の神髄に迫った。

天寿は、当時の摸刻墨帖の第一人者と称され、来日した朝鮮通信使たちにも賞賛されたという。その代表的な作品が『岡寺版集帖』である。『岡寺版集帖』は、親集帖十巻、子集帖十巻、孫集帖十巻、曾孫集帖七巻の計37巻からなり、親集帖は安永9年頃の刊行で巻末に天寿と無倪の跋文がある。子集帖は寛政10年の刊行で天寿はすでに没しており、継寺八世住職の無倪和尚が天寿の遺志を継ぎ、刊行に尽力した。

池玉瀾(1728-1784)
享保13年京都生まれ。池大雅の妻。名は町、別号に松風、葛覃居などがある。玉瀾の母・百合は祇園の茶店で働いており、文学を好み、和歌をよくした。娘の玉瀾にも文学を推奨し、柳里恭(柳沢淇園)が在京の日、その門に入れた。淇園は自分の別号である「玉奎」の一字を取って玉瀾の号を与えたという。百合は自らの品行を慎みながら娘を育て、玉瀾は評判の佳人となった。池大雅との縁も百合が取り持ったもので、百合は池大雅が、貧窮を顧みず、書画を楽しみ、俗世間から離れた崇高な姿勢を貫いていることに痛く感じ入り、玉瀾に薦めて嫁がせたという。人々はお似合いの良縁だと祝福した。
玉瀾の画風は大雅によく似て、筆跡は巧みで、山水、四君子を得意とした。大雅は文学上の教育にも理解があり、結婚数年後には夫婦ともに名高くなり、高貴な席に招かれるようになったが、大雅は高名な画家ながら謙虚で、妻は夫に似て純朴だったという。大雅没後は京都東山眞葛原の大雅堂に住み、天明4年、57歳で死去した。

青木夙夜(不明-1802)
名は浚明、字は大初または夙夜、通称は荘石衛門。韓天寿の実父の二男。天寿を頼って松阪にたびたび逗留し、多くの作品を残している。なかでも伊孚九を臨書した魚町・長谷川家の「離合山水図」が知られている。大雅堂二世と称していた。大雅没後は、玉瀾が居る大雅堂に住み、また月峯、清亮と相次いで住んだといわれる。『近世雅画伝』によると、夙夜が大雅堂に住んでいた時は、門を閉じてなるべく世人と隔たるようにしていた。それは夙夜の性格によるもので、画の依頼者はもちろん、意気投合する話相手もなく、真の貧居であったという。寛政元年、大雅堂で病死した。

無倪(1744-1811)
寛保2年紀州藩士の宇治家に生まれた。諱は快雄、字は大寂、号は獅子吼堂。韓天寿が養子に入った中川家に隣接する岡寺山継松寺の八世。天寿が精魂込めた『岡寺版集帖』刊行の最大の協力者で、天寿亡き後も刊行に努めた。文化8年、68歳で死去した。

悟心元明(1711-1780)
正徳3年松阪本町生まれ。松阪の外科医・松本駝堂の二男。姓は松本、名は駄堂、通称は悟心。明千庵、一雨、逍遙と号した。相可の法泉寺の六代住職で、韓天寿、池大雅とも深く交わり、文人僧として詩、書画をよくした。天明5年、73歳で死去した。

三重(2)-ネット検索で出てこない画家


この記事をはてなブックマークに追加