松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま佐賀県を探索中。

薔薇の花を育てた画家

2014-02-12 | 画家外伝

美術家調査の文献に村上護『落合文士村』を追加しました。
→『落合文士村

 

昭和初期には、落合界隈に住む新進作家によって文学運動や雑誌の創刊が盛んに行なわれていました。

昭和3年(1928)に創刊された「女人芸術」もそのひとつで、執筆や編集などをすべて女性が行なっており、多くの新進女性作家がかかわっていました。中でも異彩を放っていたのが林芙美子(1903-1951)で、この雑誌に掲載された『放浪記』が大きな反響を呼び、その後『放浪記』シリーズはベストセラーになりました。

幼い頃からの放浪を描いた『放浪記』で一世を風靡した林芙美子は、恋の放浪者でもありました。信州出身の画学生、手塚緑敏(1902-1989)と結婚してからも、その奔放な恋愛は収まることはなく、緑敏の穏やかで献身的な性格なくして成立しないような結婚生活でした。

緑敏の慈愛あふれる行動は、様々なところで見られますが、薔薇の生育にかけた愛情もそのひとつでした。

現在では「林芙美子記念館」になっている自宅裏で、緑敏は薔薇の花を育てていました。その花の出来はとても素晴らしく、隣に住んでいた刑部人(1906-1978)をはじめ、梅原龍三郎(1888-1986)や中川一政(1893-1991)など、数多くの画家たちが好んで緑敏の薔薇を題材にしました。

中でも梅原龍三郎は「緑敏氏の薔薇でなくては描く気がしない」とまで言い、薔薇の絵のほとんどが緑敏の花を題材にしたものといわれています。あの力強い薔薇の傑作は、緑敏なくして生まれてこなかったのかもしれません。

画家として名を残さなかった緑敏は、薔薇の花を育て、梅原龍三郎や中川一政の薔薇の名作を生み出しました。また、才能豊かな芙美子の活動を献身的に支え、芙美子の死後には、自宅を記念館として開放し、丁寧に保管していた書簡や資料などによって芙美子の仕事を後世に伝えました。

奔放に生き、鮮やかに才能を開花させた林芙美子の薔薇のような人生もまた、緑敏が育てた花のひとつなのかもしれません。


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ひきこもりの美学

2014-02-05 | 画家外伝

美術家調査の文献に村上護『阿佐ヶ谷文士村』を追加しました。
→『阿佐ヶ谷文士村

 

関東大震災後の阿佐ヶ谷界隈には、安いアパートが立ち並び、多くの若い文士たちが住んでいました。その住民たちは錚々たるメンバーで、本書では「この界隈に住んだ文士たちが、昭和に入って、文壇のイニシアチブを常に取りつづけている」と記しています。

そんな中でも古くからこの地に住み、中心的な存在であったのが井伏鱒二(1898-1993)と青柳瑞穂(1899-1971)で、文士たちは二人を中心に将棋をさし、酒を飲み、少なからぬ向上心を燃やしていました。

詩人の青柳瑞穂は骨董品蒐集家でもあり、尾形光琳の唯一の肖像画といわれる「中村内蔵助像」を古道具屋で見つけ出したことでも知られ、この絵はその後、重要文化財に指定され、現在は大和文華館に収蔵されています。

青柳瑞穂の骨董に対する思いは熱く、気に入った骨董を見つけるとそれを幾日も眺め続けるために、せっかく軌道に乗っていた翻訳の仕事も滞りがちだったといいます。

また、こんなエピソードもあります。

たまたま北海道に旅をすることになったので、青柳は旅の途中でも楽しめるように茶碗を二つ持っていきました。しかし、阿佐ヶ谷の家ではあれほど精彩を放っていた茶碗が、北海道では、ちっぽけで、ひねこびて、取るにたらないものに見えたそうです。このことで、青柳は改めて阿佐ヶ谷のわが家にこもって骨董を鑑賞することの楽しさを発見したそうです。

つまり、ちっぽけで、ひねこびて、取るにたらないものに見えた茶碗を嫌うのではなく、そう見せた大自然を否定したわけです。その考えはまさに「ひきこもりの美学」そのものであります。

そんな文士たちが熱烈に過ごした阿佐ヶ谷界隈ですが、多くの文士たちが貸家住まいで引越しも頻繁だったため、現在では住居跡などその面影はないものの、若いクリエーターたちが好んで住み、夕方ともなれば小さな路地が酔客で大賑わいを見せています。おそらく熱や狂気を持った文士たちの向上心が連綿としてこの地に留まり、この街の活気を導いているのでしょう。


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角筈に住む水彩画家

2014-01-23 | 画家外伝

美術家調査の文献に茅野健『新宿・大久保文士村界隈』を追加しました。
→『新宿・大久保文士村界隈

 

明治の終わりから終戦まで新宿・大久保界隈には、文筆家や芸術家をはじめ軍人や社会運動家など様々な人たちが住み、裕福な家系の者から貧しい絵描きまで、お互いの人生を絡ませながら刺激し合っていました。

表題の「角筈(つのはず)に住む水彩画家」とは、島崎藤村が大久保界隈のことを記した作品「芽生」に出てくるフレーズで、その部分を引用してみると

「角筈に住む水彩画家は、私と前後して信州へ入った人だが、一年ばかりで小諸を引揚げて来た。君は仏蘭西へ再度の渡航を終えて、新たに画室を構えていた。そこへ私が訪ねて行って、それから大久保辺を尋ね歩いた。」

というように、親しい画家のことを実名をあげずに記しています。この「角筈」とは現在の西新宿あたりの旧地名で、水彩画家とは三宅克己のことです。

島崎藤村(1872-1943)と三宅克己(1874-1954)は同じ明治学院に学び、小諸にある小諸義塾では同僚で、藤村が英語と国語を、三宅が図画を教えていました。

1905(明治38)年、藤村が小諸義塾を辞めて上京してくると、先に義塾を辞めて角筈に住んでいた三宅が西大久保の新居を紹介し、藤村はこの地で代表作『破戒』を完成させます。しかし、この頃の藤村は生活に困窮していて、三人の娘を栄養失調で亡くし、失意のまま一年半ほどでこの地を後にします。

三宅克己は、この大久保の素朴な風景や戸山ケ原の夕風そよぐ草原を好んで題材とし、第2回文展に出品した作品も、角筈の初冬の風景を描いたものでした。この地に住む文士や芸術家たちとも盛んに交流し、1912(明治45)年にともに光風会を創立した中沢弘光や山本森之助もこの地に住んでいました。

ツツジの名所として知られ、多くの文士や芸術家たちが交流していた新宿・大久保界隈も、現在では原色のネオンに彩られ、「近代的不良性」の交わり場として様変わりしてしまいました。


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田端モンマルトル

2014-01-17 | 画家外伝

美術家調査の文献に近藤富枝『田端文士村』を追加しました。
→『田端文士村


多くの芸術家が住んだ田端の地は、池袋モンパルナスと対比して「田端モンマルトル」と称されることがありますが、文献的にみてみると、田端文士村記念館に展示されている資料にも、この『田端文士村』にも「田端モンマルトル」という言葉は出てきません。

おそらく、1914(大正3)年に芥川龍之介(1892-1927)が田端に移り住んで以来、それまでの芸術村としての色合いよりも、文士村としての印象の方が強くなっていったのでしょう。それほど、芥川龍之介の存在が大きかったということです。

田端芸術村の始まりは、1903(明治36)年、陶芸家の板谷波山がこの地に窯を作って移り住んだことだといわれます。以後、鋳金家の香取秀真、彫漆の二十世堆朱楊成ら工芸界の第一人者をはじめ多くの美術家たちが住み、この地が上野の東京美術学校と大地続きだったこともあり、美術学校の関係者たちとも濃密な交流がなされました。

岡倉天心らによって日本美術院が再興された際、横山大観から洋画部の創設を依頼された小杉未醒もこの地の住人で、その後、小杉未醒は院展が肌にあわず仲間と春陽会を創設しました。

春陽会ホームページによると、春陽会は、1922(大正11)年、日本美術院を離れた小杉未醒、足立源一郎、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎に梅原龍三郎を加えた7名で創立された、とありますが、この7人を生年順に並べてみると

小杉未醒(1881-1964)
森田恒友(1881-1933)
倉田白羊(1881-1938)
山本鼎(1882-1946)
長谷川昇(1886-1973)
梅原龍三郎(1888-1986)
足立源一郎(1889-1973)

となり、このうち年長の4人、小杉未醒、森田恒友、倉田白羊、山本鼎が「田端人」ですので、この不惑の画家たちを中心に、新しい美術団体についての激しい議論が、田端の地で夜な夜な繰り返されていたことは想像に難くありません。

1927(昭和2)年の芥川龍之介の自殺により、室生犀星や萩原朔太郎らが相次いでこの地を離れ、文士村としての活力は失せていきました。しかし、その翌年には、浜田庄司がこの地に移り住んだという記録もあり、芸術村としての歴史は続いていそうですが、詳しい文献は見当たらず、1945(昭和20)年の空襲により、現在はその面影すら見ることはできません。


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