松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま福岡県を探索中。

3月25日(土)のつぶやき

2017-03-26 | つぶやきまとめ

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3月24日(金)のつぶやき

2017-03-25 | つぶやきまとめ

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豊前小倉藩御用絵師・高木豊水と小倉の町絵師

2017-03-24 | 画人伝・福岡


文献:北九州ゆかりの絵師たち、御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム福岡県日本画 古今画人名鑑、日本画 その伝統と近代の息吹き

小倉藩の御用絵師に関しては、残された史料が乏しく、存在さえも断片的にしか追跡できていない。記録に残るもっとも古い小倉藩御用絵師は、雲谷等益の門人で萩藩の絵師だった黒川等育で、小倉藩二代藩主・小笠原忠雄の時代、絵の修業のため九州を巡り、小倉を訪れた際、忠雄の所望に応じて描いた画が気に入られ、召し抱えられたとされる。次いで嘉永4年の『分限帳』に「画師」として山本一計と高木豊水の名前がある。山本に関しては経歴や作品がまったく不明である。高木豊水(不明-1858)は豊後日田生まれで、京都で四条派の岡本豊彦に学び、その後小倉に移り住んだ。門人に小倉藩の支藩である千束藩御用絵師の柏木蜂溪(不明-1879)がいる。小倉の町絵師としては、文化文政の頃に加賀国から小倉に移り住んだ四条派の石南園(不明-不明)、京都留守居役の西田直養との親交で小倉に来た円山派の村田応成(1816-1877)らがいる。

高木豊水(不明-1858)
豊後日田生まれ。小倉藩御用絵師。名は巌。別号に青峨、筆庵などがある。桑屋和兵衛の二男で、のちに高木家の養子となった。広瀬淡窓と交遊があり、淡窓の日記にしばしば登場する。それによると日田で冀龍に画の手ほどきを受け、のちに京都に出て岡本豊彦に学んだとされる。淡窓の日記によると天保12年に小倉に移り住み、その後小倉藩に絵師として召し抱えられたとみられる。門人に柏木蜂溪がいる。安政5年死去した。

柏木蜂溪(不明-1879)
豊前京都郡大橋の人。初号は豊渓、のちに蜂渓と改めた。修業をはじめた時期は定かではないが、はじめ小倉に住んでいた四条派の画人・石南園に学び、その後同じ四条派で小倉藩御用絵師の高木豊水に師事した。嘉永年間に小倉藩の支藩である千束藩の御用絵師になったとされる。門人に馬場不別がいる。明治12年死去した。

村田応成(1816-1877)
文化13年生まれ。京都の出身で、円山派の絵師・円山応震に師事した。弘化2年、京都留守居をつとめ国学者としても知られる小倉藩士・西田直養の知遇によって小倉に移り住んだとされる。明治10年、62歳で死去した。

石南岳(不明-不明)
越前国大聖寺の出身で、小倉城下大坂町に住んでいた。円山派に属し、設色の花鳥画を得意とした。



石南園(不明-不明)
加賀国金沢の出身で、30歳くらいの時に小倉に移住した。四条派の画人で、石南岳の没後その画系を継いで石姓を名乗った。『龍銀成夢』では南岳の子としている。文政年中に死去した。



玉江蓬洲(1779-1848)
安永8年生まれ。小倉藩領の旧京都郡行事村(現行橋市)に本店を構える豪商・飴屋の七代当主。通称は彦右衛門、字は孝道。画を村上東洲に学び、咲羅屋旭の俳号を持つなど趣味人で、頼山陽、田能村竹田、岡本豊彦、雲華上人らと交遊した。弘化3年、70歳で死去した。


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3月22日(水)のつぶやき

2017-03-23 | つぶやきまとめ

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筑後柳河藩御用絵師・梅沢晴峩と北島勝永

2017-03-22 | 画人伝・福岡


文献:柳川の美術Ⅰ御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム福岡県日本画 古今画人名鑑、日本画 その伝統と近代の息吹き

柳河藩においては、江戸初期から中期にかけての文書や書画類が多く焼失しており、御用絵師の存在を確認できるのは江戸後期になってからである。それ以前の柳河藩には、福岡藩の尾形家や久留米藩の三谷家のように代々家系を引き継いだ国住の御用絵師は存在しなかったのではないかと考えられている。確認できている御用絵師としては、江戸で御用をつとめた一代限りの絵師として梅沢晴峩(不明-1864)がいる。晴峩は木挽町狩野家で学んだ狩野派の絵師で、江戸城西ノ丸の障壁画復旧にも携わった。同じ頃、国元の柳川では、雲谷派に学んだ北島勝永がおり、仙蝶斎素峯、北野等永中野春翠も御用絵師であった可能姓は高い。

梅沢晴峩(不明-1864)
柳河藩江戸詰めの御用絵師。別号に素絢斎、春香がある。江戸木挽町狩野家の晴川院養信のもとで学び、天保9年に焼失した江戸城西ノ丸の障壁画復旧にも晴川院の弟子として加わった。生年は不明だが、北島勝永と同世代であったと思われる。晩年は、鬼童小路の西に屋敷を賜って移り住んだとされる。子供がいなかったので、北島勝永の高弟、中島某を養子としたが夭折。その後、養子となった馨は絵師として後を継がなかった。 文久4年死去した。



北島勝永(1795-1867)
寛政7年上宮永村生まれ。北島利平太善春の二男。名は十造。別号に幽谷がある。8歳の時に久留米藩御用絵師三谷家五代永錫映信に学び、ついで16歳の時には筑前博多に住む狩野派・眠蝶斎耕景に学んだ。さらに2年後に大坂に行き、森周峯に入門。その4年後には肥後細川藩御用絵師の矢野良勝のもとを訪れ雲谷派の画法を修めた。文政4年に師の良勝が没し、その翌年か翌々年に柳川に戻ったとされるが、その後の動向は明らかではない。慶応3年、73歳で死去した。

仙蝶斎素峯(不明-不明)
出来町竜蔵院の住職。多芸多能の人で、筑前の狩野派・眠蝶斎耕景の門人とされる。旧柳河藩主の立花家に作品が4点伝わっていることから、藩の御用絵師であった可能性は高い。福厳寺の板戸に描かれた人物密画は素峯の筆とされる。活動期は、北島勝永と同時期の江戸後期と思われる。弟子に冨次郎(南汀)がいる。

北野等永(1839-1915)
天保10年上宮永村生まれ。北島勝永の二男。別号に暘谷山人、山樵などがある。万延元年に北野甫哉の養子となって北野姓を継いだため、勝永と姓が異なる。御用絵師であったかどうかの史料は残っていないが、柳河藩分限帳に等永の藩への出任が確認される。また、北野家に伝来する史料の中に、藩用ととれる粉本がある。大正4年、77歳で死去した。

中野春翠(1838-1917)
天保9年北柳小路生まれ。中野彦市の二男。幼名は虎之助、のちに彦一。父の南強は柳河藩士で漢詩をよくした。幼いころから画を好み、はじめは隣家の斉藤末蔵に手ほどきを受け、さらに北島勝永に学んだ。文久元年、本格的に画を学ぶため京都に出て、鈴木百年の門に入った。元治元年、父にうながされ帰郷し、多病の兄にかわり嫡子として御広間御番をつとめた。維新後は、任一等黄隊伍長、陸軍軍曹給養掛、戸長、警察探索懸雇、町会議員をつとめ、そのかたわら画塾を開き、門弟を教育した。53歳から73歳まで高等小学校で図画教員をつとめた。大正6年、80歳で死去した。


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3月20日(月)のつぶやき

2017-03-21 | つぶやきまとめ

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雲谷派が祖となった筑後久留米藩御用絵師・三谷家

2017-03-20 | 画人伝・福岡


文献:御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム福岡県日本画 古今画人名鑑、日本画 その伝統と近代の息吹き

安芸国広島に生まれた雲谷派の三谷等哲(不明-1630)は、主家の断絶とともに浪人となり、子の等悦とともに筑後の久留米に移住した。久留米藩二代藩主・有馬忠頼は、等哲・等悦父子の人格技量を認め、等哲没後に等悦を藩の御用絵師として召し抱えた。等悦には安俊(1634-1671)、安常(1634-1671)と二人の子がおり、ともに中橋狩野家の狩野永真安信に師事し雲谷派から狩野派に転じた。以後三谷家は狩野派を学んでいる。兄の安俊が家督を継ぎ、弟の安常は江戸で第一分家を興し初代となった。さらに安常の長男・永恕(不明-1761)は第二分家を興し、三谷家は三家に分裂した。
→参考:近世前期の広島画壇で主流として活躍した雲谷派

三谷等哲(不明-1630)
安芸国広島生まれ。広島藩主・福島正則の家臣・三谷七郎左衛門隆経の子。師は定かではないが雲谷派を学んだとされる。雲谷等顔の孫・雲谷等哲とは没年の相違から別人と考えられている。父と同様に福島家に仕え、同家の断絶とともに浪人となり、長男の等悦を連れて広島から久留米に移住した。有馬家に仕え絵師となったが、分限帳などの上で御用絵師として確認できるようになるのは子の等悦の代からである。寛永7年死去した。

三谷等悦(不明-1675)
安芸国広島生まれ。三谷本家初代。三谷等哲の長男。名は信重、通称は徳左衛門。別号に雲沢がある。15歳の時に父とともに久留米に移住し、父の没後、久留米藩の2代藩主・有馬忠頼に抱えられ御用絵師になった。子に安俊、安常がいる。延宝3年死去した。

三谷安俊(1634-1671)
寛永11年生まれ。三谷本家二代。三谷等悦の長男。名は安行、あるいは安歳。主命により15歳の時に中橋狩野家の狩野永真安信に師事し、祖父の雲谷派から狩野派に転じた。安俊以降、三谷家は狩野派となった。寛文11年、38歳で死去した。

三谷安常(不明-1724)
三谷第一分家初代。三谷等悦の二男。名は仁右衛門、芳次郎などと称した。法名は永玄。兄の安俊とともに中橋狩野家の狩野永真安信に師事した。子に江戸で分家を興した永恕、家督を継いだ元就らがいる。娘は安常の兄・安俊の養子・永伯のもとに嫁いだ。享保9年死去した。

三谷永伯邑信(1663-1739)
寛文3年生まれ。三谷本家三代。筑後泉屋松島氏の子で、三谷安俊の養子となった。名は徳之助、または與助。安清、安明と称した。養父と同じく中橋狩野家の狩野永真安信に師事し、安信没後は孫の永叔の門人となった。晩年に久留米に帰った。元文4年、77歳で死去した。

三谷永雪白信(不明-1756)
三谷本家四代。三谷永伯邑信の長男。江戸に出て中橋狩野家の狩野永叔に師事し、永叔没後は同家の祐清法眼の門人となった。仙哲、永錫の2男に、娘1人がいたと伝わっている。宝暦6年死去した。

三谷永錫映信(1752-1822)
宝暦2年生まれ。三谷本家五代。三谷永雪白信の二男。兄の仙哲が早世したため5歳で家督を相続した。34歳で江戸に出て中橋狩野家の狩野法眼永徳(二代)に入門し、40歳で法橋に叙され、2年後には法眼の位に進んだ。子に勝浦と辰次郎の2男と1女がいる。15歳頃までは徳之助で以後は主常、高芳、狩野姓を得てからは映信と称した。文政5年、71歳で死去した。

三谷勝浦友信(不明-1845)
三谷本家六代。三谷永錫映信の長男。木挽町狩野の狩野伊川院栄信に入門、師没後は晴川院に学んだ。弘化2年死去した。

三谷三雄義信(1834-1880)
天保5年生まれ。三谷勝浦友信の三男。中橋狩野家の狩野永悳立信に入門したと伝わる。妻は川辺御楯の妹。虎次郎、繁記、主道などと名乗り、中年から狩野左京之進、楽山亭永錫などと号した。当時の世評は高く、「生き絵書きの三雄」などと称されたという。明治13年、47歳で死去した。

三谷友林主郷(1819-1864)
文政2年生まれ。三谷本家七代。三谷勝浦友信の弟子だった池田氏の子で、勝浦の養子となって家督を継いだ。勝浦の長男である勝竹は江戸に分家し、二男泰蔵は早世、三男三雄はまだ幼かったため、友林が養子となって三谷家に迎えられた。修業のことは明らかではないが、狩野の絵を手本に学んだらしい。文久4年、46歳で死去した。

三谷真澄澹園(1851-1928)
嘉永4年生まれ。三谷本家八代。三谷友林主郷の長男。別号に澹園、山谷がある。13歳の時から5年間は分家の勝波とその子・友信に学んだ。のちに三雄にも学んでいる。中年以降は西洋画を学び、久留米高等小学の図画教師をつとめた。昭和3年、78歳で死去した。

三谷永恕淵信(不明-1761)
三谷第二分家初代。三谷安常の長男。名は永湖、または茂信。別号に含章斉がある。狩野永叔に学び、狩野姓および「永」と「信」の字を許された。享保7年に江戸居住を命じられ、江戸に第二分家をたてた。宝暦11年死去した。

三谷元就柳眼(1687-1748)
貞享4年生まれ。三谷第一分家二代。三谷安常の二男。別号に柳眼、桃花斉がある。兄の永恕が江戸に分家したため家督を継いだ。正徳年中に永伯、永恕らとともに久留米城内の障壁を描いた。寛延元年、62歳で死去した。

三谷宗恕主邑(1702-1769)
元禄15年生まれ。三谷第一分家三代。元就の子が幼くして亡くなったため養子となって家督を継いだ。明和6年、68歳で死去した。

三谷仙八主景(不明-1812)
三谷第一分家四代。名は仙柳。別号に一楊亭、仙立がある。宗恕に男子がいなかったため娘を妻とし家督を継いだ。文化9年死去した。

三谷永就資信(不明-1825)
宝暦10年生まれ。三谷第一分家五代。三谷仙八主景の子。狩野法眼永徳(二代)に師事した。寛政9年に法橋に叙され、62歳の時に法眼の位に叙せられた。天明6年には尚古斎と号した。文政8年、66歳で死去した。

三谷勝波方信(1805-1869)
文化2年生まれ。三谷第一分家六代。父は大島氏で、三谷永就資信の養子となった。理由は明らかではないが、本家二代の安俊以来代々師事し続けていた中橋狩野家を離れ、木挽町狩野家の伊川院栄信のもとに入門した。嘉永4年に法橋に叙され、のちには法眼の位にも叙された。明治2年、65歳で死去した。

三谷勝沢有信(1842-1928)
天保11年生まれ。三谷勝波方信の長男。幼名は虎三郎。のちに狩野勝沢と称した。安政6年、17歳で木挽町狩野家の狩野勝川院に入門し、20歳の時に狩野姓を許され狩野勝沢と称した。狩野芳崖、橋本雅邦は同門。明治に入ると長崎や東京で西洋画法を研究、県会議員、初代久留米市会議長をつとめる一方、内国絵画共進会、東洋絵画共進会などに出品した。明治40年には政界を引退して画業に専念した。大正14年、東京において84歳で死去した。


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3月18日(土)のつぶやき

2017-03-19 | つぶやきまとめ

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3月17日(金)のつぶやき

2017-03-18 | つぶやきまとめ

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福岡藩御用絵師・衣笠家と上田家

2017-03-17 | 画人伝・福岡


文献:御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム狩野派と福岡展筑前名家人物志福岡県日本画 古今画人名鑑斎藤秋圃と筑前の絵師たち

福岡藩御用絵師筆頭の尾形家が、藩主画像や城郭殿舎の内部絵付、席画や寺社の寄進画の制作などを主な仕事にしていたのに比べ、次席に位置する衣笠家が藩主画像や席画の御用にあたった形跡はほとんどなく、絵図の御用が多かったとみられる。福岡藩の御用絵師はすべて狩野派だったが、衣笠家では大和絵風の主題や趣致によるものが多く残っている。また、初代守昌は「牛馬図屏風」のような漢画風の作品も描いている。衣笠家は、初代守昌から8代続いたが、8代守正の時に明治政府ができ、御用絵師も廃業になったため、守正は市中で画塾を開き、画事を続けた。その門下からは近代福岡の代表的日本画家である冨田溪仙が出ている。上田家は衣笠家とほぼ同格の家柄で、衣笠家と同じく藩主画像や席画をつとめた形跡はなく、特徴としては仏画、道釈画、頂相などに多くの作品が残っている。

衣笠守昌(不明-1705)
福岡藩御用絵師衣笠家初代。通称は半助。駿毛翁と号した。黒田家3代藩主光之と4代綱政に仕えた。狩野探幽の門人だったとされ、探幽守信から一字を拝領し守昌と号したと思われる。幕府の命によって元禄10年に始まった国絵図の制作に子の守弘とともに携わった。宝永2年死去した。

衣笠守弘(不明-1743)
福岡藩御用絵師衣笠家2代。衣笠守昌の子。通称は半太夫、のちに半助、または守重守高などと称した。狩野探幽の門人とされる。享保19年継高公が家老吉田家にお成りの節竹翁吉田治年の命により押込の戸に鶴亀松竹の絵を描いたことで知られる。晩年にかけて入道して要人と号したらしい。寛保3年死去した。

衣笠守恒(不明-1758)
福岡藩御用絵師衣笠家3代。衣笠守弘の子。宝暦8年死去した。

衣笠守岡(不明-1789)
福岡藩御用絵師衣笠家4代。衣笠守恒の子。名は半蔵、はじめ守雄といった。寛政元年死去した。

衣笠守起(不明-1798)
福岡藩御用絵師衣笠家5代。名は要、はじめ万平次といった。寛政10年死去した。



衣笠守由(1785-1852)
天明5年生まれ。福岡藩御用絵師衣笠家6代。東長兵衛の二男。衣笠守起の養子となり家督を継いだ。通称は久之助、のちに要。福草舎と号した。黒田斉清と長溥に仕えたと思われる。桑原鳳井の最初の師とされる。嘉永5年、68歳で死去した。

衣笠守是(1822-1894)
文政5年生まれ。福岡藩御用絵師衣笠家7代。高木延蔵の子。衣笠守由の養子となって家督を継いだ。通称は半蔵。華旭斉、翻叟と号した。明治27年、73歳で死去した。

衣笠守正(1852-1912)
嘉永5年生まれ。福岡藩御用絵師衣笠家8代。通称は八郎。探谷と号した。冨田溪仙の最初の師。大正元年、61歳で死去した。

上田永朴(1656-不明)
明暦2年生まれ。名は主常、通称は権太郎。上田太兵衛の子。はじめ父に学び、のちに狩野昌運の門に入ったと思われる。その後、江戸に出て中橋狩野家永叔主信に学び、さらに木挽町の養朴常信にも師事したことが伝えられている。鷲峯斎と号した。享保13年以降、73歳以上で死去した。

上田主親(不明-不明)
上田永朴の長男。狩野主信の門人。黒田家に仕えた。

上田主治(不明-不明)
生没年および生涯についてほとんど不明だが、上田家の一族とされる。江戸の狩野家で本格的に修業した絵師であることが知られる。博多聖福寺、承天寺に作品が残っている。


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3月15日(水)のつぶやき

2017-03-16 | つぶやきまとめ

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福岡藩御用絵師尾形家の絵師

2017-03-15 | 画人伝・福岡


文献:御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム狩野派と福岡展福岡県日本画 古今画人名鑑筑前名家人物志

尾形家は、6代洞谷(1753-1817)の代になって、師家を鍛冶橋狩野家から駿河台狩野家に変更した。また、姓を公式に小方から尾形に改めたのも洞谷の代だった。7代の洞霄(1791-1863)は駿河台狩野家に入門し、江戸滞在中に洞谷の養子となった。嘉永4年、黒田藩江戸新御殿内部装飾の際には、子の8代探香(1812-1868)とともに、同門の秋元藩絵師・坪山洞山とその養子洞郁(のちの河鍋暁斎)らと、書院、座敷の障壁や天井に筆をふるった。慶応2年、洞眠(不明-1895)が9代を継いだが、明治元年家業御免となり、尾形家最後の絵師となった。

尾形洞谷(1753-1817)
宝暦3年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家6代。藩士・納屋与兵衛の子。名は与市郎。12、3歳の時に尾形家に入門したと思われる。明和5年に同門多数の中から選ばれ守厚の養子となった。この頃養父の一字をとって「守周」と名乗った。天明元年養父が急逝したため家督を継いだ。初代以来師事してきた鍛冶橋家から駿河台狩野家への師家を変更し、駿河台狩野家の狩野洞春美信に師事し「洞谷美淵」の名を授かり、以後守義以来の「守」の字を廃止することになった。文化14年、65歳で死去した。

尾形洞霄(1791-1863)
寛政3年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家7代。幼名は大機。別号に聴松などがある。博多商人の子。享和元年頃洞谷に連れられて江戸に上がり、駿河台狩野家洞白愛信に師事。江戸滞在中の文化元年洞谷の養子となった。文化8年洞白から洞霄愛遠の号をもらい、10年越の修業を終えて帰郷した。晩年は聴松と号した。文久3年、73歳で死去した。

尾形探香(1812-1868)
文化9年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家8代。尾形洞霄の長男。名は守葆。天保5年、参勤交代に従って江戸に行き、鍛冶橋狩野家に入門、探信守道に師事したと思われる。2代続いた駿河台狩野家との関係が一旦途絶えた。翌年の探信死去後は、子の深淵守真についたと考えられる。嘉永4年の黒田藩江戸新御殿内部装飾の御用を父とともに務めた。嘉永6年には長崎に赴き、来航中のロシア人使節団を活写して記録に残した。慶応4年、57歳で死去した。

尾形洞眠(不明-1895)
福岡藩御用絵師尾形家9代。名は守運、初名は幸吉。尾形探香の長男。画を祖父の洞霄に学んだ。10歳の時に祖父に連れられ江戸に行き、駿河台狩野の洞春陽信に師事したと思われ、洞眠陽晴と号するようになった。慶応2年家督を継いだが、明治元年家業御免となり、尾形家最後の絵師となった。明治28年死去した。

尾形洞水(不明-1807)
6代洞谷の実子として生まれたが、尾形家を継がなかった。駿河台狩野家洞白愛信に師事したと推測される。「尾形家累系」によると、狩野を学ぶかたわら洋画を研究したとあるが、遺作が少なく確認されていない。文化4年死去した。24歳の早世だったと推定される。


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3月13日(月)のつぶやき

2017-03-14 | つぶやきまとめ

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狩野探幽門下四天王と称された尾形家2代守義と狩野姓を許された3代守房

2017-03-13 | 画人伝・福岡


文献:御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム狩野派と福岡展福岡県日本画 古今画人名鑑筑前名家人物志

福岡藩の御用絵師はすべて狩野派で、尾形家、衣笠家、上田家の3家が代々世襲で家督を継いだ。他にも、熊本氏、小森氏、佐伯氏、笠間氏など一代限りまたは随時に抱えられたと思われる絵師も少なくない。最も高禄だったのが尾形家で、その中で特に優れた画技を持った画家とされるのが、2代守義と3代守房である。二人はともに狩野探幽の門人で、2代守義は探幽門下四天王のひとりと称されるほどの技量を誇っていた。3代守房は兄弟子である守義に見込まれ、尾形家の養子となって家督を継ぎ、のちに一代限りの狩野姓を許され「狩野友元」と名乗った。尾形家で唯一法橋にも叙されている。3代守房の門人には狩野派画学の入門書ともいうべき『画筌』を著した林守篤がおり、ほかには風間花車堂、小森守春、大田守章、上林房峯、中島守住、三隅房安らの名前が『筑前名家人物志』にあるが、経歴は多くは伝わっていない。

小方(尾形)守房〔狩野友元〕(不明-1732)
下野国宇都宮生まれ。福岡藩御用絵師尾形家3代。狩野探幽に師事した。そこで同門の先輩であり、探幽門下の四天王のひとりと謳われた小方守義に望まれて養子となり、のちに尾形家の家督を継いだ。旧姓は野中。その後、狩野宗家中橋家の狩野永叔の門に入り直し、宝永6年頃に一代限りの狩野姓を許され、信の一字を拝領して狩野幽元(友元)重信を名乗ることとなった。また、尾形家の絵師ではただひとり法橋に叙せられている。享保17年死去した。

小方(尾形)守義(1643-1682)
寛永20年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家2代。小方仲由の子。通称は藤助、または又兵衛。別号に柳園子がある。君主の命により狩野探幽に師事した。久隅守景、桃田柳栄、神足守周と並んで探幽門下の四天王と称された。修業時代は牛之助と名乗り、寛文6年頃に師探幽守信の一字を拝領して牛之助守義と名乗りはじめた。寛文9年の父の死去により家督を相続し、牛之助を仁兵衛に改め、仁兵衛守義と名乗った。天和2年、40歳で死去した。

小方(尾形)仲由(不明-1669)
福岡藩御用絵師尾形家の初代。名は仁兵衛。はじめ雲谷派を学び、のちに狩野探幽の門に入った。晩年は剃髪し全白と号した。寛文9年死去した。

小方(尾形)守等(1695-1772)
元禄8年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家4代。小方守房の子。名ははじめ彦七、享保16年に家督を相続して仁兵衛に改めた。この頃から父の一字をもらい「守等」と称したと思われる。別号に一角などがある。「筑前国産物絵図帳」に公務として産物の写生画を描いた。明和9年、78歳で死去した。

小方(尾形)守厚(1721-1781)
享保6年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家5代。福岡藩士・花房久氏左衛門の子。別号に鶴隣斎がある。10歳前後で尾形家に入門したと思われ、遅くとも寛保2年からは師の一字を許され「守厚」を名乗ったとみられる。翌年から修業のため江戸に滞在し、狩野家鍛冶橋家で学んだようで、探幽作品の模写が多く残っている。延享3年小方守等の養子となった。画技は後に「画墨色ウルハシク妙手ナリ」と評されるほどで、寛延4年、義父の退隠により守厚が家督を継いで以来、尾形家はかつてないほど多数の門人を迎えたという。天明元年、61歳で死去した。


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3月11日(土)のつぶやき

2017-03-12 | つぶやきまとめ

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