松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま鳥取県を探索中。

2月27日(月)のつぶやき

2017-02-28 | つぶやきまとめ

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鳥取にはじめて本格的な油絵を伝えた郷土教育の父・遠藤董

2017-02-27 | 画人伝・鳥取


文献:鳥取県立博物館 美術資料(絵画)目録 1980近代洋画・中四国の画家たち展、鳥取女子短期大学研究紀要第41号・遠藤董と鳥取県立鳥取図書館の設立

鳥取県にはじめて本格的な油絵を伝えたのは、のちに「鳥取の郷土教育の父」と称される遠藤董(1853-1945)である。遠藤は、狩野派の藩絵師・根本雪峨に学んだのち、東京に出て高橋由一の画塾「天絵社」に入り、油絵の技法を習得した。明治12年には師の油絵を持参して帰郷し、鳥取に西洋画を広めた。その後、高等小学校の校長をつとめ、退職後は私立鳥取図書館、私立鳥取女学校、私立鳥取盲唖学校の創設などに尽力、教育者として活躍した。

遠藤董(1853-1945)
嘉永6年鳥取市材木町生まれ。遠藤重嘉の長男。幼名は東造、のちに藤蔵、さらに董と改めた。8歳で藩校尚徳館に入学し、学問を修めた。画は狩野派の藩絵師・根本雪峨に学んだ。明治8年に広島師範を卒業すると、当時の新しい思想に共感して翌年には上京、高橋由一の画塾「天絵社」に入り、油絵による西洋画を習得した。明治12年に師の油絵を持参して帰郷、鳥取に西洋画を広め、鳥取洋画壇の創始者となった。その後は、明治41年に鳥取高等小学校校長を辞任するまで23年間初等教育に従事した。明治23年、因幡高等小学校の専任校長だった時、学校内に「久松文庫」の名称で図書収集を開始し、これが鳥取県の近代図書館のはじまりとされる。明治35年には鳥取市教育会長に就任し、「久松文庫」を「鳥取文庫」に改め、図書館として正式に発足させ、自ら文庫長となり、明治40年には規則を改正して「鳥取文庫」を「私立鳥取図書館」とした。大正7年、私立鳥取図書館の建物、図書などの一切を鳥取市に寄贈し、鳥取市立図書館とし館長をつとめた。また、明治41年には私立鳥取女学校(のちの静修高女)を設立、校長兼教諭として女子教育に尽力した。明治43年には私立鳥取盲唖学校(現:県立盲学校・県立鳥取聾学校)を創立して初代校長となり、昭和15年に辞めるまで、県特殊教育確立のために尽力した。昭和20年、93歳で死去した。


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2月24日(金)のつぶやき

2017-02-25 | つぶやきまとめ

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明治・大正生まれの鳥取出身の日本画家

2017-02-24 | 画人伝・鳥取


文献:米子美術館所蔵目録Ⅱ、倉吉の美術100年展、甦る郷土の美術家たち、前田直衞-鳥取が生んだ孤高の画人、情熱と郷愁の画人中島菜刀、八百谷冷泉 ふるさと鳥取に残した足跡

鳥取市の左官の家に生まれた八百谷冷泉(1887-1959)は、地元の中住道雲に師事したのち、京都に出て山元春挙に入門した。大阪美術学校で後進の指導にあたるとともに、矢野橋村、小杉放庵、福田平八郎、菅楯彦らと「墨人会」を結成して技術向上につとめた。ほかには、京都市立絵画専門学校で学んだ勝谷木僊(1894-1978)、中島菜刀(1902-1955)、持田卓人(1906-1995)、桑野博利(1913-2008)らがいる。また、伊東深水、橋本明治に師事した濱田台児(1916-2010)は、日展で活躍、理事長をつとめた。

八百谷冷泉(1887-1959)
明治20年鳥取市職人町生まれ。家業は左官。本名は甚一。幼いころから画を好み、はじめは同じ職人町に住んでいた中住道雲に師事して「起雲」と号した。またこの頃には青谷町出身の恩田節園にも日本画を学んでいる。明治43年、日露戦争、旧満州の守備兵として配属されるが、かたときも画帳を離さず写生に励んだという。2年後、帰郷し浪華絵画競技会や巽画会で褒章を得るなど、次第に頭角をあらわしはじめ、大正4年、意を決して京都に出て、山元春挙に入門、雅号を「其雲」に改めた。昭和9年、矢野橋村からの要請で大阪美術学校助教授となり、のちに教授となった。この年に雅号を「大樹」に改めた。学校で後進の指導にあたるとともに、矢野橋村、小杉放庵、福田平八郎、菅楯彦らと「墨人会」を結成するなど、さらなる技術向上につとめた。9年にわたって大阪に居住したが、戦争の激化により大阪美術学校が閉鎖、さらに軍医少尉としてラバウルに赴任していた長男の戦死もあり、失意のなか、神経痛のため家族を残して単身鳥取へ帰郷した。その際、温泉が体によかったということで雅号を「冷泉」に改めた。鳥取では県展、市展の審査員をつとめるなど郷土の美術振興に尽力した。その後再度大阪に戻るが、再度病を得て、昭和34年、72歳で死去した。

勝谷木僊(1894-1978)
明治27年米子市生まれ。その後大阪に移った。本名は滋夫。父は南画家の勝谷米荘。京都市立絵画専門学校に入学して西山翠嶂に師事、在学中に帝展に初入選した。卒業後も翠嶂門下生として学び、堂本印象、上村松篁らと青甲塾の同人となった。戦時中は作品制作を中止し短歌や茶道に明け暮れるが、戦後再び日展で活躍する。師の翠嶂没後は世間からも遠ざかり、写実一筋に大山山容に取り組んだ。昭和53年、87歳で死去した。

金沢虹坡(1900-1990)
明治33年米子市高尾生まれ。本名は善正。明治44年上京して東京美術学校日本画科に入学し川合玉堂に師事し、卒業後も門下生として学んだ。中央展で受賞するが、その後は師の玉堂の教示に従い公募展出品を断念した。以来中央画壇から離れ、古来の日本画の探求に徹した。平成2年、91歳で死去した。

中島菜刀(1902-1955)
明治35年八頭郡生まれ。本名は益雄。家業は旅芝居をしていた。17歳で京都に出て山元春挙の画塾「早苗会」で学び、2年後京都市立絵画専門学校に入学、養鶏場で働きながら苦学して24歳で卒業した。この頃より「菜刀」と号し、冨田溪仙に私淑するようになる。昭和4年院展に初入選、以後院展に出品した。昭和30年、53歳で死去した。

持田卓人(1906-1995)
明治39年西伯郡生まれ。大正14年に京都市立絵画専門学校を卒業し、冨田溪仙に師事した。昭和4年春の院展に初入選し、以後院展に出品した。昭和13年大阪朝日新聞社の従軍画家として北支戦線に派遣された。同年、関西院展派の中堅と「白御会」を結成した。
平成7年、90歳で死去した。

桑野博利(1913-2008)
大正2年倉吉市秋喜生まれ。京都市立絵画専門学校を卒業後、中井宗太郎に学びながら研究科に進み、榊原紫峰に私淑した。昭和14年新文展に初入選、以後、戦後の日展まで出品した。昭和20年から24年まで京都市立絵画専門学校で指導にあたった。昭和28年池田遙邨に師事し青塔社に入った。昭和46年の紫峰没後は日展を離れ、広く指導を続けた。平成2年から3年まで司馬遼太郎が週間朝日に連載した「街をゆく」の挿絵を担当した。平成20年、94歳で死去した。

前田直衞(1915-2008)
大正4年鳥取市用瀬町鷹狩生まれ。父親が24歳で没したため、母の実家の前田家で育てられた。小学6年生の時、祖父母をたよって大阪に出て、3年後に洋画家の松原三五郎の紹介で菅楯彦の内弟子となった。さらに楯彦の推薦により橋本関雪に師事、関雪にとって最後の弟子となった。昭和35年院展に初入選、以後院展に出品した。平成20年、93歳で死去した。

濱田台児(1916-2010)
大正5年鳥取県気高郡浜村町生まれ。本名は健一。19歳の時に伊東深水の内弟子となり、深水没後は橋本明治に師事した。昭和16年新文展に初入選、以後も日展を中心に活動し、昭和50年に日展内閣総理大臣賞を受賞、平成7年から9年まで日展理事長を務めた。昭和55年日本芸術院賞を受賞、昭和59年日本芸術院会員になった。平成22年、93歳で死去した。


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2月22日(水)のつぶやき

2017-02-23 | つぶやきまとめ

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浪速の町絵師・菅楯彦

2017-02-22 | 画人伝・鳥取


文献:没後五十年 菅楯彦展 浪速の粋 雅人のこころ、大阪商業大学商業史博物館紀要第9号、菅真人遺作展図録

鳥取に生まれた菅楯彦(1878-1963)は、幼くして父で日本画家の菅盛南とともに大阪に移住した。父の没後は特定の師にはつかず、諸派の画法を研究し、独自のスタイルを確立した。常に勉学を怠ることなく、画事のみならず、漢学、国学、雅学などを身に付け、その歴史観をもとに浪速の風俗を描く町絵師として活躍、自らを「浪速御民」と称した。晩年には日本画家として初の日本芸術院賞・恩賜賞を受賞した。楯彦の異父姉の子にあたる菅真人(1896-1983)は、楯彦に師事しその画風を継承、楯彦没後は顕彰活動の中心となり活動した。

菅楯彦(1878-1963)
明治11年鳥取市生まれ。本名は藤太郎。菅盛南の長男。幼いころ父とともに大阪に移住した。11歳の時に父が病に倒れたため高等小学校を2年で中退し画業に入り、「盛虎」と号して襖絵を描くなどして生計を助けた。父の没後は特定の師につくことなく、襖絵や幻灯絵の彩色を手伝いながら、自作の縮図帖により、四条派、狩野派、土佐派、浮世絵派などを模写し研究した。さらに寸暇を惜しんで勉学を怠らず、漢学を山本梅崖に、国学・有識故実を本居派の鎌垣春岡について学んだ。この際に師の春岡の楯彦の号をもらった。楯彦とは「国を守る男子」という意味で、『万葉集』から引用したものであるという。また、明治34年に大阪陸軍地方幼年学校の嘱託となり美術と歴史を教えていた時には、ここで松原三五郎に洋画を学んだ。さらに翌年には、森正寿に師事して雅亮会に入って舞楽を学んだ。晩年には四天王寺舞楽協会長を勤め、伝統の雅楽保存に貢献。昭和33年に日本画家として初めてとなる日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、昭和37年には初の大阪名誉市民に選ばれた。昭和38年、85歳で死去した。



菅真人(1896-1983)
明治29年倉吉市生田生まれ。本名は昇。菅楯彦の異父姉の子。大正2年に陸軍幼年学校受験のため東京に出るが失敗し、大阪まで戻り菅楯彦に師事した。その後一時帰郷したが、昭和6年に再び大阪に行き、以後楯彦の助手をつとめた。昭和12年には大森富平、直原放青らと三艸社を結成、大阪三越で展覧会を開催した。楯彦の画風を継承し、歴史風俗画を多く描いた。昭和38年の楯彦没後には顕彰活動の中心となり、昭和49年の倉吉博物館開館にあたっては、楯彦を美術部門の柱とするべく貢献した。昭和58年、86歳で死去した。


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2月20日(月)のつぶやき

2017-02-21 | つぶやきまとめ

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四条派を学んだ青木図南と門人の菅盛南

2017-02-20 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち、菅盛南展図録

京都に出て四条派の柴田義董に学んだとされる青木図南(1790-1859)は、特に人物画を得意とし、一見して誰を描いたかが分かるほどの技量だったと伝わっている。しかし、同時代の鳥取藩内には、御用絵師の沖一峨(1797-1855)、鳥取藩の学制改革につとめ南画をよくした儒者・正墻適処(1818-1875)、土方稲嶺の門人で鯉の名手と謳われた黒田稲皐(1787-1846)らがおり、図南は彼らの影に隠れた存在だったといえる。門人には鳥取の近代日本画を代表する菅楯彦の父・菅盛南(1844-1897)がいる。

青木図南(1790-1859)
寛政2年生まれ。鳥取藩の家老・荒尾近江の家臣。活動の詳細は不明な点が多いが、土方稲嶺の息子・稲林や稲嶺の門人らとの合作が伝わっていることから、一時期稲嶺について学んだ可能性が考えられる。また、京都に出て四条派の柴田義董に学んだとされる。安政6年、70歳で死去した。



菅盛南(1844-1897)
弘化元年生まれ。菅楯彦の父。名は大次郎、字は直方、旧姓は三輪。幼いころから画を好み、はじめ青木図南に学び、師の一字をもらい「南保」と号した。ついで、丹後の宮津から父の蟠龍を慕ってきていた長谷川盛嶺について学んだ。この時、前の師匠の一字を残し、盛嶺の一字をもらい「盛南」と改号した。その後、京都に出て塩川文麟に学んだとされるが、残された作品や資料が少なく詳細は定かではない。京都から帰ってからは、山陰各地を遊歴し、旅絵師のような生活をしていたと思われる。明治30年、54歳で死去した。

三輪蟠龍(1803-1879)
享和3年生まれ。菅盛南の父。儒学者で医者。名は泰然、字は芳喬。筑後国浮羽郡大石村の旧家佐藤家の長男。学問の志をたて家督を弟に譲り、15歳で豊後国日田にあった広瀬淡窓の私塾「咸宜園」に入り漢学を修めた。その後、長崎から京都を巡り、儒学および医学を学んだ。さらに江戸に出て研鑽を積み、江戸で医療を開始、それにあわせて私塾を開き門下生を教育した。明治12年、77歳で死去した。


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2月16日(木)のつぶやき

2017-02-17 | つぶやきまとめ

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鳥取ゆかりの近世南画家

2017-02-16 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち藩政時代の写生画と文人画、米子美術館所蔵目録Ⅱ、鳥取縣書画百藝名人集

米子の漁師の家に生まれ、のちに大山寺に入って僧となった嗒然(1796-1861)は、独学で画法を修得し、「嗒然の千枚書き」と称されるほど多くの作品を残した。おなじ米子出身の越寛一(1803-1864)は、江戸に出て谷文晁に学び、諸国を巡遊したのち京都に留まり、文人墨客と交友を重ねた。大阪堺に生まれた牧野芝石(1840-1903)は、鳥取出身の父の跡を継いで医師をしていたが、学問を好み、書画をよくし、幕末には鳥取に戻って画を描いた。奈良の寺の家に生まれた三枝真洞(1840-1868)は、幕末の混乱期に因幡・伯耆の各地を転々としながら寺子屋を開いて子弟を教え、多くの詩書画を残した。また、幕末に鳥取に生まれ、明治以降に活躍した南画家としては、黒部拈華(1856-1933)、岩越鉄庵(1846-不明)、中住道雲(1858-1943)らがいる。

嗒然(1796-1861)
寛政8年米子皆生生まれ。実家は漁師。本姓は八幡。幼いころから画を好み、指で砂に馬を描き、爪で壁に牛の図を刻んで遊んでいたという。11歳の時に大山寺西明院谷円流の僧務となり、台腎に師事し、剃髪して名を台貫と改めた。そのかたわら画をよくし、40歳ころからしばしば八幡、岸本、安来方面に滞在し、書画漢詩などに没頭した。晩年は大山寺を出て八幡村に草庵を営み、迎嶽観主人太虚と号した。「嗒然の千枚書き」と称されるほど多くの作品を残した。文久元年、66歳で死去した。

越寛一(1803-1864)
享和3年米子生まれ。船越寛一とも称した。商家・牧野家に生まれ、のちに豪農・船越龍叟の養子となった。本名は船越太郎右衛門道貞、幼名は松太郎、諱は道貞。別号に岱雲、了秀、寛冽、馬晁、了晁、牧寛一、翠雲越寛一、白嶺越寛一などがある。画を好んだ養父の影響で、幼いころから船越家に来る各地の文人墨客たちから文化的な刺激を受けて育った。19歳の時に鳥取で数カ月修行したのち、江戸に出て谷文晁に師事した。同年、父の病気のため帰郷したが、再び山陽、長崎、諫早、岡山、名古屋、京都を遊歴し、京都では四条派の岡本豊彦やその養子・亮彦と交流し、数点の合作を残している。40歳頃、父の死を機に帰郷し、船越家7代目として父の手掛けた新田開拓事業を引き継いだ。以後は米子に留まり、訪れてくる文人墨客をもてなし、風雅を楽しんだ。文久4年、62歳で死去した。

牧野芝石(1840-1903)
天保11年大阪堺生まれ。名は順造。父の佐々木北洋は鳥取鹿野の出身の医師。名は静修。佐々木伯堂と称し、のちに鳥取藩ゆかりの牧野家を継いだ。別号に雲烟眼過處主人、十梅堂主人などがある。若いころから学問を好み、書をよくし、詩文を藤井竹外、森田節斎に学び、のちに正墻適処に学び、画を父に学んだ。はじめ家業を継ぎ医師をしていたが、勤王の志を抱き、全国の志士と交友し、大和の十津川の変に際して志士を隠匿した疑いにより堺を逃れ鳥取に移住した。晩年は鳥取中学校の書道教授をつとめた。南画の普及につとめ、浄瑠璃を愛した。酒豪であったため病み、明治36年、64歳で死去した。

三枝真洞(1840-1868)
天保11年大和国生まれ。実家は浄土真宗浄蓮寺。本名は蓊、僧名は浄尚。別号に青荷、青樵堂、山跡方外史、真洞人などがある。近くの村の今村文吾の私塾に通って儒学、国学を修め、京都に出て伴林光平に国学、和歌、書を学び、藤本鉄石に南画の技法を学んだ。文久3年、天誅組の挙に応じて大和五条に馳せ参じたが失敗し、但馬を経て因幡に逃れた。その後、因幡・伯耆の各地を転々としながら、飯田年平や正墻適処らと交流し、寺子屋を開いて子弟を教え、多くの詩書画を残した。鳥取を去った翌年の慶応4年、天皇謁見途上の英国公使パークスの一行を、浪士林田衛太郎と二人で智恩院付近で襲ったが失敗し、捕らえられて処刑された。34歳だった。

黒部拈華(1856-1933)
安政3年鳥取市辻売町生まれ。本部泰翁の義弟。牧野芝石と交流があった。京都に出て日根対山に南画を学んだのち、東京に出て学問を修めた。昭和8年、78歳で死去した。

岩越鉄庵(1846-不明)
弘化3年生まれ。鳥取市中町に住んでいた。長三洲の流れを汲み、山水花鳥を得意とした。第2回内国絵画共進会にも出品した。

中住道雲(1858-1943)
安政5年鳥取市職人町生まれ。中住憲梁の子。名は憲明。別号に桃生柳雨がある。幼いころから画を好み、祖父・虎岳について土佐派の画法を学び、のちに狩野派の藤岡神山に入門、ついで稲岡天真に南画を学び、さらに蓮井竹山に円山派を学んだという。全国絵画共進会で三等賞を受けるなど各展で受賞した。昭和18年、86歳で死去した。


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2月14日(火)のつぶやき

2017-02-15 | つぶやきまとめ

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鳥取藩の学制改革につとめた正墻適処とその高弟・山内篤処

2017-02-14 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち藩政時代の写生画と文人画、正墻適処とその系譜、山内篤処伝

鳥取藩の藩医の子として生まれた正墻適処(1818-1875)は、はじめ建部樸斎に経学を学び、のちに江戸、大坂に出て学を修め、多くの文人と交流した。詩文を好み、書画をよくし、温雅な作品を多く残している。諸国を遍歴したのち、36歳の時に鳥取に戻り、藩儒官となって学制改革や政務にあたり、藩士の教育にあたった。好学の青年たちがその門を叩き、その中でもっとも早く入門したのが、高弟とされる鳥取藩士・山内篤処(1835-1885)である。篤処もまた詩書画をよくし、絵は個性的で激しいものがあったという。

正墻適処(1818-1875)
文政元年鳥取生まれ。藩医泰庵の長男。名ははじめ新蔵、のちに薫。別号に朝華、研志堂がある。少年のころは武をもって身を立てようと志し、剣道、槍術を専念していたが、たまたま槍術の師の訓戒を受け、悟るところがあって建部樸斎について漢学を修めた。16、7歳の時に儒家・佐善家の養子となったが、25歳で佐善家を去り、諸国修業の旅に出た。大坂では藤沢東畡に入門し、27歳ころには江戸に出て佐藤一斎に入門、昌平黌に入学した。諸国を遍歴したのち、嘉永6年、36歳の時に鳥取に帰って藩儒官となり学制の改革につとめ、尚徳館で藩士の教育にあたった。また、幕末から維新の激動期にあって国事周施に奔走した。44歳の時に藩命で肥前、佐賀、長崎を探索、この年に「研志堂詩鈔」を発刊した。明治6年、56歳の時に久米郡松神に移り、私塾を開いて近郷の子弟の教育につとめ、そのかたわら詩書画をよくした。明治8年、58歳で死去した。

山内篤処(1835-1885)

天保6年鳥取生まれ。名は衡、字は叔平。嘉永6年に正墻適処の研志塾に入門、安政5年には江戸に出て塩谷宕陰の門に入った。翌年、鳥取藩西館藩主池田清緝の侍講になり、一度鳥取に戻るが、また江戸に出たと思われる。万延元年、清緝に従って駿河鎮護のため約一年間駿河に滞在した。文久2年、清緝が没したため侍講の仕事は消滅、翌年中老で江戸にいた矢野能登に引き取られて江戸詰めの探索となった。元治元年、沖剛介とともに水戸に探索に行った際、鳥取藩の改革を決意、矢野能登を含めた3人で江戸を出て鳥取に戻るが、途中で矢野は病死した。明治3年、福本藩改革の仕事につき、福本少参事となり改革の中心人物となる。その後は、米子教習学校、米子明道小学校、鳥取遷喬小学校などの校長を歴任し、故郷の教育に尽力した。明治17年の第2回内国絵画共進会に出品、褒詞を受けた。明治18年、51歳で死去した。


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2月12日(日)のつぶやき

2017-02-13 | つぶやきまとめ

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2月11日(土)のつぶやき

2017-02-12 | つぶやきまとめ

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2月10日(金)のつぶやき

2017-02-11 | つぶやきまとめ

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