松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま長崎県を探索中。

唐絵目利石崎家初代・石崎元徳らを輩出した小原慶山の画系

2017-07-25 | 画人伝・長崎


文献:唐絵目利と同門、長崎絵画全史

初期の長崎画壇に大きな影響をあたえた小原慶山(不明-1733)は、丹波に生まれ、京都を経て江戸に出て狩野洞雲に学んだ。その後、長崎に移り住み河村若芝に師事した。作品には雪舟派や狩野派の筆致がみられ、唐絵風の作品も残っている。花卉禽類の描写に長け、人物なども巧みで、黄檗僧の肖像などには喜多元規の影響がみられる。墨梅や墨龍なども得意とし、沈南蘋が長崎に渡来してきた際には、墨龍を送ったとされる。門人に石崎元徳がおり、それからつながる荒木元融、石崎融思の長崎におけるひとつの重要な画系の祖となった。

小原慶山(不明-1733)
丹波生まれ。名は雅俊、字は霞光。別号に渓山、景山などがある。京都に出て、その後江戸で狩野洞雲の門に入った。さらに長崎に移り住んで漢画の法を河村若芝に学んだ。花卉人物山水すべてすぐれていた。唐絵目利兼御用絵師をつとめたともされるが定かではない。門人に唐絵目利石崎家初代となる石崎元徳らがいる。享保18年死去した。

小原巴山(1693-1777)
元禄6年生まれ。小原慶山の子。通称は勘八、名は克紹、字は子緒。別号に敬斎、敬修斎などがある。儒学を向井元成に、画を父慶山に学んだ。好んで墨画の龍を描いた。安永6年、85歳で死去した。

小原才蔵(不明-不明)
石崎元章の三男、小原巴山の養子となり、書物改手伝役をつとめた。

小原東洋(不明-1781)
通称は一左衛門、名は玄溟。のちに野口姓となり、野口市左衛門と称した。天明元年死去した。



石崎元徳(1693-1770)
元禄10年生まれ。通称は清次右衛門、字は慶甫。館を香雪斎といい、別号に香雪斎がある。はじめ西崎氏でのちに石崎氏と称した。父は西崎威山。幼いころから画を好み、古人の筆蹟を研究し、のちに小原慶山に師事した。特に仏像を得意とした。享保9年、上杉九郎次の後を継いで、唐絵目利手伝となり、元文元年唐絵目利本役になり御用絵師を兼ねた。宝暦7年、65歳の時に病のため役を辞した。明和7年、78歳で死去した。

石崎元章(1731-1778)
通称は文十郎、字は士朴、『長崎画人伝』には石崎元徳の養子とある。宝暦3年唐絵目利見習となり、宝暦9年唐、24歳の時に唐絵目利兼御用絵師となった。幼いころから画を得意とし、養父元徳の教えを受けた。安永7年、48歳で死去した。

石崎元甫(1768-不明)
通称は周蔵、石崎元章の子。唐絵目利仲間に入ったのは、父の生存中であったか、その病没後であったかは定かではない。若くして没したため、その後を石崎融思が継いだ。

元鎮(不明-不明)
通称は喜八。銀屋町の住んでいた。石崎元徳に師事した。

篠島元琪(不明-不明)
通称は伝吉。石崎元徳に師事した。多くの門人の中でも冠たりと称された。家貧にして、妻子なく、本鍛冶屋町に住んでいた。

安田元志(不明-1792)
通称は新蔵、のちに嘉右衛門。素亭と号した。長崎画人伝には安田元糸とある。石崎元徳に師事し、特に肖像画を得意とした。寛政4年死去した。

安田素教(不明-不明)
安田元志の子か弟、あるいはその一族。

井手定賢(1789-1799)
寛政元年生まれ。通称は茂七郎、字は承慶。鶴翁と号した。石崎元徳に師事した。寛政11年、11歳で死去した。

松井慶徳(1721-1782)
享保6年生まれ。通称は潤助、または順助、字は元仲、さらに慶徳と改めた。広山と号した。石崎元徳に師事した。天明2年、62歳で死去した。

松井元仲(不明-1813)
松井慶徳の子。通称は代蔵、字は元仲。霞山と号した。文化10年死去した。

松井慶仲(1781-1819)
天明元年生まれ。松井元仲の子。通称は甚八郎。硯山と号した。文政2年、39歳で死去した。

荒木元融(1728-1794)
享保13年生まれ。通称は為之進、字は士長。円山と号した。居は鶴鳴堂、薜蘿館などと称した。石崎元徳に師事して画法を学び、蛮画の法をオランダ人に受けたとされる。幼くして経学を真宗の僧教戒に学び、さらに詩文を長崎の渡辺暘谷について修めた。明和3年、荒木元慶の跡を継ぎ唐絵目利兼御用絵師となった。寛政6年、67歳で死去した。


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長崎唐絵の奇才・河村若芝とその画系

2017-07-21 | 画人伝・長崎


文献:肥前の近世絵画、長崎絵画全史、隠元禅師と黄檗宗の絵画展

渡辺鶴洲と並び、逸然性融門下の双璧と謳われた河村若芝(1630-1707)は、師の奇狂な造形美をさらに増幅させた画風で、長崎唐絵の代表的な奇才と称されている。若芝は、肥前佐賀の豪族の出身で、故あって長崎に隠遁したと伝えられ、長崎では黄檗僧と交友し、画を逸然性融に学び、喜多元規の画風も参考にしたとみられる。また、木庵から腐食象嵌法を学び、鍔細工にもすぐれ、若芝を継ぐものとしては画系と鍔細の二系統があった。作域は道釈人物を主体とするが、山水や花鳥も散見され、なかには伊藤若冲を先取りしたような、不思議な石灯篭図も近年発見されている。その画系は、弟子の若芝一山、上野若元、子の山本若麟、芦塚若鳳、さらに若麟の子・牛島若融、上野若瑞へと続いた。上野若瑞の子・上野彦馬は、日本初のプロカメラマンとして活躍した。

河村若芝(1630-1707)
寛永7年生まれ。僧名は蘭溪若芝。俗称は河村。名は喜左衛門または道光、風狂子、烟霞比丘、烟霞道人、烟霞野衲、烟霞野僧、紫陽山人、普聲などがある。煙霞比丘(逸然から踏襲)、風狂人、散逸道人などと号し、僧名を蘭溪道光といった。佐賀の豪族の出身で、故あって長崎に隠遁したと伝えられ、一時は鍋島本藩に絵師として迎えられたという。画は中国から渡来した黄檗僧・逸然性融に学び、また喜多元規の画風もならって一家をなした。また、木庵から腐食象眼の技術を学び、若芝鍔細工の祖となった。宝永4年、70歳で死去した。

若芝一山(不明-1726)
別峰一山とも称した。河村若芝に画法および鍔細工法を学び、若芝の称を継いだ。享保11年死去した。

上野若元(1668-1744)
寛文8年生まれ。本姓は小川、上野家に養子に入った。河村若元とも称した。諱は道英、名は道昌、道英。別号に痴翁、篁洲、梅久軒、華山などがある。長崎の人で、画は河村若芝に学び、河村姓を名乗った。元禄年間、鍋島綱茂に絵師として抱えられたが、のちに長崎に帰った。延享元年、77歳で死去した。

山本若麟(1721-1801)
享保6年生まれ。上野若元の長子。幼名は丹宮、長じて長次郎、名は長昭。別号に瑞翁、温故斎、魯石などがある。画は父の若元に学び、山水、花鳥、獣、人物などをよくし、特に虎図を得意とした。享和元年、81歳で死去した。

芦塚若鳳(1723-1780)
享保8年生まれ。山本若麟の弟。通称は勇七、または勇七郎、名は英祥、字は文徳。別号に梧亭、蘆囿などがある。安永9年、58歳で死去した。

牛島若融(1754-1817)
宝暦4年生まれ。山本若麟の子。通称は甚左衛門、字は叔和、居を方壺斎と称した。父に画法を学び、花鳥人物を得意とした。文化14年、64歳で死去した。

上野若瑞(1758-1827)
宝暦8年生まれ。山本若麟の子。牛島若融の弟。通称は泰輔、諱は長英、字は稻光。父に画法を学び、花鳥人物をよくし、肖像画も得意とした。文政10年、71歳で死去した。

上野若龍(1790-1851)
寛政2年生まれ。通称は俊之丞、諱は常足。居を停車園と称した。上野若瑞の子。写真家の上野彦馬の父。文政5年に長崎の御用時計師の家柄である幸野家を継いだが、天保10年に上野姓にもどった。舎密学に造詣が深く、オランダで発明されたダゲレオタイプの写真機材をいち早く輸入したことで知られる。天保年間、中島に精錬所を設立し塩硝を製造していた。画は父の若瑞と叔父の若融に学び、花鳥人物などを描いた。嘉永4年、62歳で死去した。


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続長崎画人伝を記した鶴洲の高弟・荒木千洲とその画系

2017-07-14 | 画人伝・長崎



文献:唐絵目利と同門

長崎画人伝によって唐絵目利の画系を後世に残す渡辺鶴洲の仕事は、その高弟である荒木千洲(1807-1876)によって引き継がれた。千洲が編纂した続長崎画人伝では、師の鶴洲およびその系統に属する人々、荒木元融系の人々、南宗画家の鉄翁、逸雲、梧門の系統に属する人々らの略歴がまとめられた。さらに、その仕事は千洲の甥で門人の熊本峻斎(1820-1890)によって引き継がれ、叔父の千洲ならびにその門人の略歴が加えられ、峻斎自ら後書きを記した。千洲は別の甥・盛之助を養子としていたが、盛之助は唐絵目利の広渡氏の株を引き受けて広渡と称し、そのうえ早世したため、千洲に相続者はいなかった。そのため、門人である長沢春卿(1838-1902)が奔走し、荒木氏一族が協議し、野口豊十郎が荒木家を継ぐことになり、荒木豊十郎と称した。千洲の遺品である鶴洲直筆の長崎画人伝、千洲の遺稿続長崎画人伝は野口家所有となった。

荒木千洲(1807-1876)
文化4年生まれ。町年寄久松氏の家来・萩尾順右衛門の子。通称は千十郎、諱は宗彜、名は一、字は世万。別号に春潭がある。居を従宜堂と称し、これによって従宜堂主人、従宜主人とも称した。唐絵目利荒木氏の株を譲り受け、荒木の名跡を継いだ。幼いころから画を好み、若くして渡辺鶴洲に師事し、特に肖像画を得意とした。文政9年唐絵目利となり、長崎奉行内藤安房守の命により、続長崎画人伝を編纂して奉呈した。安政元年、唐絵目利頭取に命じられた。明治9年、70歳で死去した。

熊本峻斎(1820-1890)
文政3年生まれ。本姓は小林氏。小林百治郎の長男。通称は陽蔵、諱は宗孝。唐土風の名は熊秀といった。居は成美書屋と称した。熊本陽平の後を継いで書物目利とつとめた。明治に入り、長崎製鉄所に奉職し、さらに長崎県庁につとめた。文政10年に叔父の荒木千洲に師事し、以後25年間絶えずその指導を受け、千洲没後は元明清の諸大家を研究した。明治23年、71歳で死去した。

長沢春卿(1838-1902)
天保9年生まれ。もと田中氏で、長沢氏の名跡を継いだ。通称は房次郎、または謙騰。落款には起雲従輝とある。荒木千洲に師事した。明治35年、65歳で死去した。

平野秋声(不明-不明)
通称は与市、諱は武実。荒木千洲の実弟。画法を兄に学んだ。

石崎桂洲(不明-不明)
通称は慎三郎、諱は良清。荒木千洲に師事した。

山本春濤(1829-1890)
文政12年生まれ。通称は初め此二郎、のちに賢三、諱は保之、のちに保英。維新前反物目利の役を勤めた。荒木千洲に師事した。明治23年、62歳で死去した。

山村春耕(不明-1862)
通称は免馬治、諱は雅朝、字は子旭。荒木千洲に師事した。文久2年死去した。

大宮荷江(1833-1871)
天保4年生まれ。通称は友太郎、字は士貞。長崎市中相対買商人仲間の一人。絵事を好み、荒木千洲に師事した。明治4年、39歳で死去した。

鈴木棠皐(不明-不明)
通称は佐野吉、諱は礼行、字は九囲。長崎会所につとめていた。荒木千洲に師事した。

今井佳相(不明-不明)
通称は政治郎、字は貴本、翰香と号した。荒木千洲に師事した。

吉田雨香(不明-不明)
通称は久之助、諱は善実。荒木千洲に師事した。

佐藤柳村(不明-不明)
通称は豊吉、諱は直温、字は子玉。荒木千洲に師事した。

石崎蓼洲(1842-1877)
天保13年生まれ。砲術家・中島名左衛門の子。通称は麒一郎、諱は喜起、字は伯煕。家庭の都合で一時唐絵目利の石崎氏の株を引き受け、荒木千洲に画法を学び、唐絵目利となった。のちに本姓の中島に戻した。明治10年、36歳で死去した。


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長崎画人伝を著した唐絵目利渡辺家七代・渡辺鶴洲

2017-07-10 | 画人伝・長崎


文献:唐絵目利と同門

唐絵目利渡辺家7代を継いだ渡辺鶴洲(1778-1830)は、長崎画人伝の著者としても知られる。長崎画人伝は、一度途絶えたような形となった渡辺家を継いだ鶴洲が、唐絵目利の中での渡辺家の存在の挽回をはかるために代々の唐絵目利について書き残したもので、唐絵目利研究の重要な資料となっている。その遺稿は高弟の荒木千洲に伝わり、嘉永年間、朝岡三次郎が千洲よりその写しを得て、これをその名著古画備考に収めた。鶴洲自筆の長崎画人伝遺稿は、千洲没後、その親族野口家に残り、一時は玉園文庫の所蔵となっていたが、現在では所蔵不明となっている。

渡辺鶴洲(秀実)(1778-1830)
安永7年生まれ。渡辺秀詮の子。通称は常次、字は元成、号は鶴洲、または鶴洲道人。邸を親文堂、居易堂などと称し、親文堂主人、親文主人、居易堂主人、居易主人とも号した。幼くして父秀詮に画法を学び、また真村蘆江に師事して、南蘋風および方西園風の画法を修めた。享和2年、25歳の時に父の跡を継いで唐絵目利になり、同時に渡辺家7代の家督を継いだ。長崎画人伝の著者として知られる。文政13年、53歳で死去した。

渡辺秀乾(1809-1829)
文化6年生まれ。渡辺鶴洲の嫡子。通称は乾、名は秀乾、字は元巽。黿洲と号した。父鶴洲の指導を受け、宋元明清諸大家の作品を臨模した。また渡辺家伝来の画風以外、沈南蘋、費漢源、方西園など来舶の諸大家の筆致にも十分意を留め、特に南蘋流の花鳥を得意とした。文政12年、21歳で死去した。

渡辺秀彰(1821-1870)
文政4年生まれ。鮫目利頭取富田惣太夫の子で渡辺家の養子になった。通称は清次郎、字は元史、あるいは元施。晴洲と号した。鶴洲の門人村田鶴皐に画法を学び、鶴洲の後を継いで唐絵目利になった。明治3年、50歳で死去した。


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唐絵目利の祖・渡辺秀石とその画系

2017-07-07 | 画人伝・長崎


文献:唐絵目利と同門、長崎の肖像 長崎派の美術家列伝

唐絵目利とは、長崎の地役人のひとつで、江戸時代唯一の開港地だった長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを鑑定、さらにその画法を習得することを主な業務とした。当初、絵目利と呼ばれていたが、元禄10年に渡辺秀石の時に唐絵目利と改められ、秀石がその祖と称された。世襲制で引き継がれ、はじめは渡辺、石崎、広渡の3家だったが、享保19年に荒木家が加わり4家となった。また、長崎奉行所には御用絵師がおかれたが、唐絵目利が兼務することが多かった。渡辺家は、秀石の弟・秀岳は唐絵目利の就任を拒否したが、子の秀朴が跡を継ぎ、元周、秀渓、秀彩、秀詮と続いた。秀溪や秀彩の没年時の年齢が不明なことから、秀彩の代で一度渡辺家の流れが途絶えたようにも考えられる。

渡辺秀石(1642-1707)
寛永16年生まれ。岩川甚吉の長男。のちに渡辺に改姓した。通称は甚吉、字は元章、または元昭。仁寿斎と号した。別号に嬾道人、煙霞比丘などがある。幼いころから画を好み、逸然性融に師事して北宗画を学び、同門の河村若芝とともに長崎を代表する画人となった。肖像画もよくした。元禄10年長崎奉行近藤備中守に、唐絵目利兼御用絵師に任命され、唐絵目利の祖となった。元禄12年に勘定頭荻原近江守、目附林藤五郎らが長崎港巡視に来た時、唐人屋敷、阿蘭陀屋敷二箇所の絵図を作ることを命じられた。唐通事会所目録秀石の作品には落款・印章のないものがあり、また秀岳、秀朴、元周、秀溪、秀彩にも落款・印章のないものが多いと考えられ、区別が非常に難しいといわれる。宝永4年、69歳で死去した。

渡辺秀岳(不明-1734)
渡辺秀石の弟。岩川甚吉の二男。通称は三郎兵衛生、字は元英、号は安斎。画を兄秀石に学んだ。画才は秀石に劣らず、秀石に「吾れ実に其兄たり難し」と言わせたいう。余暇に天文兵法を修め、騎射撃剣をよくした。世間に合わせようとしない人柄で、唐絵目利を任命されたが辞退し、その後、肥後の細川公の招聘も辞退した。晩年は鳴滝の地で過ごし、時に門人を集め、兵法を説き、歴史を談じた。享保19年、91歳で死去した。

渡辺秀朴(不明-1756)
渡辺秀石の子。通称は源吉、字は元寿、号は壺溪。若いころからよく画を写し、画の六法を備えた。元禄10年父秀石とともに唐絵目利兼御用絵師となった。寛保2年まで45年間勤め、老齢を理由に70歳で辞職し、己然居士と号した。題材に似せようとせず、人物や鳥獣を描いても、体は大きくて頭が小さかったり、脛が長くて腕が短かったり、手の指が多すぎたり少なかったりし、顔付きや表情は怪異であり、不思議であることが、かえって人々から敬慕されたという。宝暦6年、84歳で死去した。

渡辺元周(不明-1735)
渡辺秀岳の子。通称は八郎兵衛、字は文明、号は真斎。絵事は父に劣らなかった。詩をよくし、武を好んだ。享保18年唐絵目利兼御用絵師となった。享保20年、60歳で死去した。

渡辺秀溪(1700頃-1751
渡辺元周の子。通称は文次郎または文治郎、字は元俊、号は雅徳斎。生まれながらに画才があり、幼いころからいろいろなものを写生し、その絵は真に迫り工夫も多く、人々を驚かせたという。これを知った秀朴は自らの職を自分の子ではなく、秀溪に譲った。享保16年沈南蘋が長崎に来舶した際に、孔子および関羽二像を描いて南蘋に贈ったところ「秀溪先生は唐代の画人の意気を持ち、宋代の画人と相競う実力者であり、ここに鳳凰と麒麟の絵を描きました」という書状と絵を貰っている。この時、南蘋は50代、秀溪は30代だった。享保20年父元周の死に伴い、唐絵目利見習となり、寛保2年秀朴の辞職に伴い、唐絵目利本役兼御用絵師となった。宝暦元年、50余歳で死去した。

渡辺秀彩(不明-1750)
渡辺秀溪の子。通称は丹次または丹治、字は元素、号は文帝。宝暦元年父の秀溪の死に伴い、その跡を継ぎ唐絵目利兼御用絵師となった。宝暦11年、40余歳で死去した。

渡辺秀詮(1736-1824)
元文元年生まれ。渡辺秀溪の養子。字は元論、号は自適斉、為章道人。本姓は石津氏。はじめ吉十郎、のちに正助と改めた。宝暦11年養父秀溪の没後、21歳で唐絵目利兼御用絵師となった。絵は石崎元章に師事し、石崎元徳の指導も受けたと考えられる。渡辺家の家法もよく伝えたとされるが、一度の秀彩の代で渡辺家の流れが途絶えたように考えられる。そのことは秀溪や秀彩の没年時の年齢の不明なことからも感じられる。虎を描くことを得意とした。渡辺家では、秀石以降、画上にほとんど落款・印章を付さなかったが、秀詮の時から付すことになった。文政7年、89歳で死去した。


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長崎漢画の祖・逸然性融

2017-07-04 | 画人伝・長崎


文献:長崎の肖像 長崎派の美術家列伝、隠元禅師と黄檗宗の絵画展、長崎の美術-300年展、長崎絵画全史

隠元隆琦によって長崎に伝えられた黄檗宗には、黄檗肖像法によって肖像画を描いた喜多氏ら肖像画工のほか、興福寺の僧・逸然性融(1601-1668)を開祖とする漢画(唐絵)のグループがあった。漢画とは、江戸時代に中国から伝わった明清画風の影響を受けて成立した絵画様式を指すもので、そのひとつの中心として黄檗宗が機能していた。逸然は中国の浙江省抗州府の人で、貿易商として長崎に渡来し、黙子如定のもとで出家、興福寺の3代住持をつとめるかたわら、画家としても活躍した。画技は独学で習得したものと思われ、そのほとんどが仏画や高徳画だったが、背景には好んで山水などを描いている。逸然の門人には、のちに長崎を代表する画人となる渡辺秀石と河村若芝がおり、漢画は、渡辺家や石崎家といった唐絵目利の画家たちに受け継がれ、長崎画壇の主流となっていった。

逸然性融(1601-1668)
万暦29年明国浙江省生まれ。李氏出身。名は性融、字は逸然。号に浪雲庵主、烟霞比丘、煙霞道人がある。正保元年明末の反乱期に長崎に渡来し、翌2年から明暦元年まで興福寺3代住持をつとめた。承応3年には中国から隠元禅師を招き、日本黄檗宗発展に貢献した。また、画僧として北宗画系統の新画風を伝え、長崎漢画の祖となった。門人に、渡辺秀石、河村若芝がいる。代表作に、巌上観音菩薩像、並賢・文珠菩薩像双幅、芦葉達磨図、布袋図などがある。寛文8年、68歳で死去した。

隠元隆琦(1592-1673)

万暦20年中国福建省生まれ。俗姓は林。29歳の時に中国の黄檗山萬福寺で出家し、その後各地を遍歴、臨済宗の高僧・密雲円悟のもとで禅の修業をかさねたのち、密雲に随従して黄檗山に帰り、住持費隠通容から法を継ぎ、黄檗山の復興発展に尽くした。隠元の名声は日本にも及び、長崎興福寺の住持・逸然性融が再三にわたって来日を招聘していたため、承応3年多数の弟子や諸種の職人を伴い来日した。はじめ3年で帰国する予定だったが、臨済宗妙心寺派の龍溪性潜、竺印祖門らの働きかけなどで帰国を断念、寛文元年山城国宇治郡に中国と同じ名前の黄檗山萬福寺を開創し、日本黄檗宗の開祖となった。寛文4年には住持を木庵に譲り、山内の松隠堂に退隠、寛文13年、82歳で死去した。


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黄檗肖像画家・喜多元規とその画系

2017-06-28 | 画人伝・長崎


文献:長崎の美術-300年展、長崎絵画全史

17世紀中頃、黄檗宗の僧・隠元隆琦が渡来し、我が国に黄檗宗を伝えると、木庵性稲や即非如一、独立性易ら黄檗僧が続々と渡来し、長崎は黄檗文化の一大中心地となった。中国黄檗僧の渡来によって盛んになった黄檗宗は、頂相として祖師の肖像画を必要とした。その肖像画法を中国から伝えたのは、正保元年長崎に渡来して興福寺第3代住職となった逸然性融である。

黄檗肖像法は、喜多氏の画系によって引き継がれ、その中心的な存在が喜多元規(不明-不明)である。元規は、承応から元禄までの約50年間に、黄檗僧はもちろん在家や他宗の僧に至るまでの肖像画を多く描いた。その画風は、顔貌や着衣に濃淡による陰影をほどこし、油彩画的ともいえる彩色法を用い、肖像の迫真性を強くあらわしており、中国と西洋の折衷画法ともいえる。この画法は、後の18、9世紀における長崎の洋風画につながるものだった。

喜多元規(不明-不明)
17世紀後半の寛文・元禄年間に活躍した黄檗肖像画の第一人者。一説には喜多宗雲を父か師とする。また薩摩藩士で鉄牛門人説もある。中国、ヨーロッパ画法の折衷による陰影法を用い、写実主義の迫真的肖像画を多く描いた。代表作に重要文化財の宇治萬福寺所蔵「隠元和尚像」をはじめ、長崎の四福寺に隠元、独湛、悦峯像、福済寺に木庵、慈岳像、崇福寺に隠元倚騎獅像、即非、千呆像、聖福寺に隠元、木庵、鉄心像が伝わっている。その画像は他宗派から全国各階層に及び、中国移入のモダンな黄檗肖像画を完成させた。江戸に住んでいたとみられる晩年作として、東京・弘福寺所蔵の稲葉泰応居士像が知られている。元規の画系には、元喬、元香、元眞、元珍、元貞らがいる。

喜多宗雲(不明-不明)
喜多氏一家の者に違いないが、略歴は分からない。肖像画に長けていた。名古屋東輪寺に「隠元禅師獅子図」、長崎崇福寺に「隠元禅師騎獅子図」が残っている。肖像画としては道者、隠元、木庵、即非ら比較的初期の来朝黄檗僧にとどまり、寛文以後の作品は見当たらない。


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南蛮美術と長崎の南蛮絵師

2017-06-26 | 画人伝・長崎


文献:原色日本の美術 20 南蛮美術と洋風画、長崎の美術-300年展、南蛮絵師・山田右衛門作、長崎絵画全史

天文12年、種子島に漂着したポルトガル人が日本に鉄砲を伝え、続く天文18年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられた。この時に来日したポルトガル人やスペイン人を総称して南蛮人と呼び、彼らがもたらした西洋文化に刺激されて形成された異国情緒豊かな美術を南蛮美術と称した。

多彩な南蛮美術が発達した長崎に初めて西洋画を伝えたのは、キリスト教布教のために長崎を訪れた宣教師たちだった。彼らは、布教活動のために西洋技法で描かれた聖母子像を持ち込み、その絵画を求めてキリスト教信者が殺到した。信者は急増し、ヨーロッパから持ち込まれる聖母子像だけではその要求を満たすことができず、その不足を補うために、セミナリヨやコレジヨなどのほかに、絵画や銅版画などの技法を教育する施設として画学舎が設置され、ここで教育を受けた日本人画家たちによって宗教画が盛んに制作されるようになった。

画学舎で教育にあたったのは、天正11年に来日したイタリア人画家、ジョヴァンニ・ニコラオで、このニコラオの指導のもと、画学舎で制作されたものに「泰西王侯図屏風」がある。この図は、他の王侯図などの西洋風俗図と同様に「古代ローマ皇帝図集」などを参考にして制作されたとみられる。画学舎で学んだ南蛮絵師としては、ヤコブ・ニワ、レオナルド木村、山田右衛門作、生島三郎左衛門らがいる。

山田右衛門作(1575-1657)
天正3年頃生まれ。有馬直純に仕え、口之津村大屋に住んでいた。幼児の頃に洗礼を受けたキリシタンだった。慶長時代に当時有馬地方にあったイエズス会の学院で西洋画法を学んだ。寛永14年島原の乱では反乱軍の天草四郎の側近部将をつとめ、原城に立てこもり、落城の際には唯一の生存者となった。落城後は松平信綱に随伴して江戸に赴き、キリシタン目明しとなり、罪人処刑の模様などを洋風の画法で描いたという。のちに再びキリシタン信仰を教布して終身禁錮刑となったが、晩年許されて長崎へ帰り、明暦3年、八十余歳で死去したとされる。

生島三郎左衛門(不明-不明)

山田右衛門作と同時代の画人と思われる。『先民傳』によると、少年の頃、薩摩に行って南蛮人に西洋画法を学んだとされる。また、弟の藤七は螺鈿を得意とし、弟子の野澤久右衛門は螺鈿をよくし、絵事も得意だったとも記されている。『長崎夜話草』によれば、藤七は、濱田彌兵衛について眼鏡の製法を学んだとされる。その後の生島三郎左衛門の画系は明らかになっていない。


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佐賀美術協会の創立と佐賀出身の画家たち

2017-06-16 | 画人伝・佐賀


文献:佐賀幕末明治500人、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち-アカデミズムの潮流-

大正2年、東京上野の茶屋に久米桂一郎、岡田三郎助ら佐賀県出身の画家が集まった。メンバーは久米、岡田のほかに、田雑五郎、山口亮一、御厨純一、北島浅一、さらに藤田遜ら東京美術学校の在学生たちも加わった。この会合で佐賀で展覧会を開くことが決まり、さっそく佐賀美術協会が創設された。第1回展の出品者は、日本画が高取稚成、納富介次郎、水町和三郎ほか7名。洋画は久米桂一郎、岡田三郎助、小代為重、高木背水、松本弘二ほか8名だった。第12回展からは公募となり、「佐賀の帝展」と称され、佐賀の美術家を多く輩出した。昭和に入るとアバンギャルド運動を展開した古沢岩美や池田龍雄が活躍、最後の美人画家と称された立石春美も佐賀出身である。

高取稚成(1867-1935)
慶応3年神埼郡東脊振村松隈生まれ。通称は熊夫。別号に山桜がある。土佐派を学んだ。文展に出品し、審査員もつとめた。また、宮内省嘱託となり、大正天皇御大典の九大絵巻、伊勢神宮遷宮絵巻などを描いた。明治神宮絵画館には、「征東大正軍京都御出発の図」の壁画がある。晩年は宮内省御用のみを描いた。昭和10年、69歳で死去した。

腹巻丹生(1877-1951)
明治10年神埼郡千歳村渡瀬生まれ。本名は勝太郎。明治36年東京美術学校日本画科を首席で卒業。佐賀高等女学校教諭、熊本県鹿本中学、佐賀龍谷中学、成美女学校、有田工業学校の教諭を歴任した。昭和4年神埼高等女学校教諭を最後に退職。晩年は千歳村の自宅「七合庵」の画室で制作に専念した。教え子に古賀忠雄がいる。昭和26年、74歳で死去した。

高木背水(1877-1943)
明治10年佐賀市生まれ。本名は誠一郎。義兄に広津柳浪がいる。明治22年に上京し、26年頃に岡田三郎助を知り、翌年大幸館画塾に入り堀江正章らの指導を受け、のちに白馬会洋画研究所に通った。明治36年ベルツ博士の朝鮮行に同行、翌年渡米し39年に帰国した。さらに明治43年には渡英、滞英中にロイヤル・アカデミーにも出品した。大正4年「明治天皇像」を制作。同年から8年まで朝鮮に滞在し、9年に再渡欧した。その後朝鮮美術展設立に尽力し、帝展、光風会展、白日会展にも出品した。昭和18年、67歳で死去した。

三根霞郷(1883-1946)
明治16年武雄市生まれ。本名は貞一。多良尋常小学校から明治30年長崎尋常中学校入学したが、翌年退学。明治33年に洋画を志し上京した。翌34年小山正太郎の画塾不同舎に入門し、青木繁、坂本繁二郎らと知り合う。明治37年帰郷し、翌年から肖像画揮毫を仕事とした。その後は佐賀市に移り住んだ。明治41年に青木繁の来訪を受けた記録が残っている。明治42年シベリア経由でフランス留学を志し、ウラジオストックに2年間滞在し、44年に帰国した。大正1年伊万里円通寺に参禅。大正3年からはたびたび京都に滞在した。昭和9年小倉山滝口寺が創建され堂主として隠棲した。昭和21年、63歳で死去した。

武藤辰平(1894-1965)
明治27年佐賀市生まれ。佐賀中学校で森三美に洋画の手ほどきを受けた。同級生に池田幸太郎がいた。大正2年佐賀美術協会設立に参加。大正5年第5回光風会展に出品。大正9年東京美術学校西洋画科を卒業した。昭和5年に渡仏、サロン・ドートンヌに入選した。昭和9年に帰国し、渡欧作品展を佐賀市公会堂で開催した。昭和40年、71歳で死去した。

松本弘二(1895-1973)
明治28年佐賀市生まれ。明治45年佐賀中学校を中退、高木背水を頼って上京した。大正3年白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝の指導を受けた。このころ広津和郎と知り合う。大正6年雑誌「解放」の編集に関与し、アルス企画部長をつとめるなど出版活動に従事した。明治10年二科展に初入選。昭和4年に渡仏し、グラン・ショミエールで学び、昭和6年に帰国、同年新美術家協会に入った。昭和36年二科会理事となり、45年には二科展で内閣総理大臣賞を受賞した。昭和48年、78歳で死去した。


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北島浅一ら東京美術学校に学んだ佐賀の洋画家

2017-06-12 | 画人伝・佐賀


文献:東京藝術大学百年史、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち-アカデミズムの潮流-

明治20年に東京美術学校が創設され、29年に西洋画科が新設されると、佐賀県の若者たちも上京して洋画を学ぶようになった。明治期に東京美術学校西洋画科に学んだ佐賀県出身の者としては、明治35年に入学した陣内貞義が最初である。次いで、38年入学の北古賀順橘、39年の山口亮一、中溝四郎、40年の北島浅一、御厨純一、41年の藤田遜がいる。40年入学の北島と御厨は卒業後はともに渡仏、帰国後は美校の同期生「40年社」の同人たちや、先輩の青山熊治、吉田久継らと昭和4年に第一美術協会を結成した。かれら東京美術学校の卒業生たちは地元で指導的な役割を果たし、佐賀の洋画振興に貢献した。

北島浅一(1887-1948)
明治20年小城郡牛津町生まれ。小城中学校を卒業して上京、本郷研究所に学んだのち、明治40年東京美術学校西洋画科に入学した。同級生には萬鉄五郎や同郷の御厨純一らがいる。明治45年に同校を卒業し、同年第1回光風会展に3点出品。大正2年には第7回文展に初入選した。その後、大正8年に渡仏しアカデミー・コラロッシに学んだ。滞仏中には大正10年サロン・ドートンヌに入選、翌11年に帰国した。大正13年に白日会に参加した。この頃満谷国四郎の家の離れに住んでいた。大正14年第6回帝展で特選受賞。昭和4年第一美術協会創立に参加した。昭和23年、62歳で死去した。

御厨純一(1887-1948)
明治20年佐賀市高木町生まれ。明治39年佐賀中学校を卒業、上京して白馬会菊坂洋画研究所で長原孝太郎に学んだのち、明治40年東京美術学校西洋画科に入学した。同級生に同郷の北島浅一がいる。明治45年同校を卒業、卒業制作が学校買い上げとなった。大正4年に美術学校の同窓生と40年社を組織して同人となった。大正15年渡欧、パリではサロン・ドートンヌ、サロン・ナショナルに出品した。昭和3年に帰国、翌4年に青山熊治、片多徳郎らと第一美術協会を創立した。昭和12年海軍省の委嘱となり海洋美術協会会員となり、その後は海軍従事画家として多数の戦争画を発表した。昭和23年、62歳で死去した。

山口亮一(1880-1967)
明治13年佐賀市生まれ。6歳の時に佐賀市与賀町の医師・山口亮橘の養子となった。佐賀中学校、早稲田中学校を経て、明治39年に東京美術学校西洋画科に入学した。明治43年第4回文展に初入選し、以後官展に出品した。翌年美校を卒業し帰郷。大正2年岡田三郎助らの指導を得て佐賀美術協会を創設。大正10年佐賀師範学校に勤務。大正13年与賀町に佐賀洋画研究所を設立。昭和21年には佐賀美術工芸研究所を設立した。昭和37年佐賀県知事より文化功労者として表彰された。昭和42年、87歳で死去した。


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明治洋画壇で指導的役割を果たした久米桂一郎と岡田三郎助

2017-06-09 | 画人伝・佐賀


文献:西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち-アカデミズムの潮流-

黒田清輝とともに日本洋画に外光派の画風を取り入れ、洋画団体白馬会を結成するなど、明治洋画壇で指導的役割を果たした久米桂一郎(1866-1934)は、佐賀城下に生まれ、8歳の時に家族とともに上京した。幼いころから画に関心を示していた久米は、18歳で藤雅三に師事、その後は藤の紹介により渡仏し、外光派の画家、ラファエル・コランに入門した。ここで同門の黒田清輝(1866-1924)と出会い、以後行動をともにすることとなる。

久米より3歳年下の岡田三郎助(1869-1939)も佐賀城下に生まれ、幼いころに上京、同郷の画家・百武兼行の油絵を見て西洋画を志すようになった。明治27年に同郷の久米桂一郎を介して黒田清輝と知り合い、黒田がフランス留学で修得した明快で明るい色調の画風を授かることになる。黒田の清新な色彩感覚に魅了された岡田は、黒田に作品の批評を乞いつつ、初めて屋外の明るい光の下で人物を描くことを試みた。

以降、三人は活動を共にし、明治29年には日本の洋画壇に新境地を拓くべく洋画団体白馬会を結成、明治洋画壇に新風を巻き起こした。

久米桂一郎(1866-1934)
慶応2年佐賀城下八幡小路生まれ。明治7年、8歳の時に家族とともに上京し築地に移り住んだ。9歳の頃には役者絵を写したり、単色版の挿図に着色したり、絵画への関心を示した。明治12年尋常小学校を卒業し、工部大学への進学を望んだが、父の方針で進学せず、父の傍らで左伝、史記、戦国策などの漢籍を読まされた。明治14年に第2回内国勧業博覧会出品のコンテ画を見て西洋画研究を志し、明治17年、18歳の時に藤雅三の門に入った。明治19年に渡仏し、ラファエル・コランに入門、同門の黒田清輝を知り行動を共にするようになる。明治26年に帰国し、黒田とともに天真道場を開設、明治29年には白馬会を創立するなど画壇に新風を吹き込んだ。明治31年東京美術学校教授に就任。その後は制作発表から遠ざかり、美術教育、行政、啓蒙活動などに尽力した。大正11年から昭和6年まで帝国美術院幹事をつとめた。昭和9年、69歳で死去した。

岡田三郎助(1869-1939)
明治2年佐賀城下生まれ。旧姓は石尾。幼いころに上京し、少年期を東京麹町区葵坂の鍋島直大邸で過ごした。そこで見た同郷の洋画家・百武兼行の油絵に深い感銘を受け、洋画を志すこととなった。明治20年小代為重の紹介で曾山幸彦の門に入り徹底した素描教育を受け、曾山の没後は堀江正章に学んだ。明治27年同郷の久米桂一郎を介して黒田清輝と知り合い、黒田、久米が指導する天真道場に入門した。明治29年白馬会の結成に加わり、また、同年新設された東京美術学校西洋画科の助教授になった。翌30年に渡仏し、ラファエル・コランに師事した。留学を通して古代から近代に至る西洋美術の様々な美術思想や表現様式などを学び、帰国後は美校教授に就任、官展の中心作家として活躍した。大正8年帝国美術院会員、昭和9年帝室技芸員となり、昭和12年第1回文化勲章を藤島武二、竹内栖鳳、横山大観らと受章した。昭和14年、70歳で死去した。


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百武兼行によってはじまる佐賀洋画

2017-06-06 | 画人伝・佐賀


文献:西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、近代洋画の開拓者たち-アカデミズムの潮流-、佐賀幕末明治500人

佐賀藩最後の藩主となった鍋島直大は、維新後は新政府の要職につくほか、明治4年には政府派遣の欧米視察団としてアメリカに渡り、その後はイギリスに留学した。その時に直大に随行したのが、御相手役として直大に仕えていた百武兼行(1843-1884)である。百武は、明治7年と12年に一時帰国しているが、15年までロンドン、パリ、ローマに滞在し、公務のかたわら洋画の研究を続けた。このイギリスにおける百武の洋画技法の修得によって、佐賀県の近代洋画がはじまることになる。のちに佐賀洋画を牽引する岡田三郎助は、8歳の頃に鍋島直大邸に掛けられていた百武の絵を見て、陰影を入れた絵を描きはじめ、小代為重(1860-1951)は百武を通じてはじめて本格的な油絵にふれることになる。百武は明治15年に帰国し、その2年後に病を得て42歳で没しているが、その存在は佐賀出身の若者が洋画を志す大きなきっかけとなった。

百武兼行(1843-1884)
天保14年佐賀城下片田江生まれ。幼名は安太郎。8歳の時にのちに佐賀藩最後と藩主となる鍋島直大の御相手役となり、終生側近として仕えた。はじめ古川松根に師事して絵を学び、明治4年に英国留学する直大に随伴して渡英、ロンドン、パリ、ローマと公務のかたわら画技習得に励んだ。ロンドン時代は主に風景画を描いていたが、パリでレオン・ボンナに師事して飛躍的に画技が高まり、ローヤル・アカデミーに日本服を着た英国婦人を出品して評判になった。また、明治13年には駐伊特命全権公使としてイタリアに赴任した直大の書記官として随行してイタリアに滞在、マッカリについて洋画を研究した。この頃、外務書記官で経済学を専攻していて、画業は余技だったが、数々の傑作を残している。明治15年に帰国、農商務省に出仕したが、病を得て、明治17年、42歳で死去した。

小代為重(1860-1951)
文久元年佐賀城下生まれ。旧姓は中野、小代家の養子となった。明治8年に上京して慶応義塾幼稚舎に入るが、本科を中退して工部省修技校に学んだ。明治16年千葉師範学校助教員となり、この頃郷里の先輩である百武兼行に油絵の指導を受けたとされる。明治19年工部大学校雇となり、工部大学の造家学教室で曽山幸彦と建築装飾を講じた。明治22年に明治美術会創立に会員として参加したが、退会して明治29年の白馬会創立に参加した。明治33年パリ万博事務員として渡仏し、帰国後は青山学院で教鞭をとった。昭和26年、88歳で死去した。


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天龍道人ら肥前佐賀の南画家と岸派

2017-06-02 | 画人伝・佐賀


文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀幕末明治の500人

18世紀に入ってから盛んになった南画では、文化6年に92歳で没した異数の人・天龍道人(1718-1809)がいる。天龍道人は、肥前鹿島に生まれ、のちに諸国を漫遊し諏訪で一家を成した。鷹や葡萄の画をよくし、晩年は葡萄和尚と称した。幕末期に文人趣味による画をよくした武富圯南(1806-1875)は、佐賀の文化、学術の発展につとめた。圯南に学んだ柴田花守(1809-1890)は、画論『画学南北辨』を著して絵画界に新風を吹き込んだ。成富椿屋(1814-1907)、高柳快堂(1824-1909)は長崎に遊学し、鉄翁、逸雲について学んでいる。また、写生画では、京都岸派の創始者・岸駒に学んだ小城出身の岸天岳(1814-1877)がいる。

天龍道人(1718-1809)
享保3年鹿島生まれ。鹿島藩家老・板部堅忠の四男。姓は王、名は瑾、字は公瑜。14歳の時に父が佐賀藩主の怒りにふれ改易され浪人となり、道人の流浪の人生が始まる。18歳で長崎に遊学し、沈南蘋の門人・熊斐に学んだとされる。その後諸国を漫遊、随所でその才能を発揮したようである。ある時は龍造寺主膳と称して、尊王論者・竹内式部らとともに国事に奔走し、事破れて姿をくらまし、10年余り経ってから信濃の諏訪にあらわれ、その湖畔の風光を愛してそこのとどまったという。たまたま藩主諏訪家でお家騒動が起こり、これを請われて鎮めたことから名が高まった。藩の勧めにより諏訪に一家を興し、渋河貫之と称して、諏訪の渋川家の始祖となった。鷹や葡萄の画をよくし、天明年間頃から葡萄和尚と称した。文化6年、92歳で死去した。

武富圯南(1806-1875)
文化3年佐賀市白山町生まれ。名は定保、元謨、通称は文之助。別号に密庵、碧梧樓などがある。武富坦堂の孫、安貞の子。幼いころから学問を好み、中村嘉由について経学を学んだ。壮年になって江戸に3年間遊学し、帰郷後は弘道館の教授となった。詩文、書画、音楽をよくし、佐賀の文化、学術の発展につとめた。明治8年、68歳で死去した。

牛島藍皐(不明-不明)
名は璋、通称は和三郎。別号に越山道人がある。武富圯南の幼少の頃の師。伊万里の人でのちに佐賀城下白山町に住み、儒者・古賀朝陽、古賀穀堂らと交わり画をよくした。

柴田花守(1809-1890)
文化6年小城生まれ。姓は紀氏。小城藩士・柴田礼助の子。6歳の時に武富圯南、牛島藍皐に学んだ。画にすぐれ、画論『画学南北辨』を著して絵画界に新風を吹き込んだといわれる。書画、和歌をよくし、端歌「春雨」は長崎遊学の歳、丸山の料亭「花月」で作ったものといわれる。明治23年、82歳で死去した。

成富椿屋(1814-1907)
文化11年蓮池生まれ。名は鵬明。別号に荷笠漁者がある。旧蓮池藩士。蓮池藩主に仕え、そのかたわら剣道、砲術を修めた。安政・万延の間、藩主鍋島直與の兵制改革に際して長崎に派遣され、洋法を学んで帰藩し、指南役となり藩兵を養成した。画ははじめ佐賀の中島藍皐に学び、のちに長崎で鉄翁および木下逸雲に学んだ。有田にも滞在して陶画の下絵、絵手本などを多く残している。明治40年、93歳で死去した。

高柳快堂(1824-1909)
文政7年久保田生まれ。名は高致、通称は文次。武富圯南に漢学、画法を学び、のちに大阪で篠崎小竹らに学び、特に詩文に励んだ。画は鉄翁、中林竹洞、田能村直入に学んだ。明治42年、86歳で死去した。

岸天岳(1814-1877)
文化11年小城生まれ。名は譲、通称は英作、または俊平。別号に天岳、取長堂、吟龍軒、梅津、漁耕、無聲書屋がある。のちに佐賀藩士・小林氏の養子となった。幼いころから画を好み、12歳の時に藩侯に従って上京、巨勢家の門に入った。天保5年に岸駒に師事して岸姓に改めた。星巴の紋を用いることを許され、譲の名を与えられた。天岳の号は天山に因むものと思われ、花鳥のほか虎図をよくした。明治10年、63歳で死去した。


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名所図会絵師として名を高めた長谷川雪旦と唐津藩

2017-05-29 | 画人伝・佐賀


文献:江戸の絵師 雪旦・雪堤 その知られざる世界、肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀の江戸人名志

唐津藩の御用絵師としては、文化14年以降この地を治めた小笠原氏の絵師となった江戸の画家・長谷川雪旦(1778-1843)が知られている。雪旦は、40代で唐津藩小笠原家の御用絵師となり、藩主小笠原長昌と一緒に唐津に随行した時の道中の景観や様子を画帖に仕立てている。唐津には2度ほど滞在し、江戸ではあまり見ない構図や画題の漢画系の作品を残しているが、文政6年の長昌の没後は唐津藩とは疎遠になったようである。雪旦とその子・長谷川雪堤(1813-1819)は唐津に住むことはなかったが、雪堤の門人で長谷川姓を名乗った長谷川雪塘(1836-1890)は唐津に住み、この地で維新後に没している。

国立国会図書館には「雪旦・雪堤粉本」と称した、父子の大量の下絵、模写類の作品群が一括保存されている。それらによる近年の研究調査では、長谷川雪旦の師として長谷川雪嶺の名が確認されている。雪嶺は雪舟の十三代目を名乗る絵師で、雪旦の模写の中には、雪嶺や雪舟の作品が複数存在する。また、雪堤にも狩野派を含むそれに類する漢画系の模写がある。模写の中には、琳派風、円山四条派風、伝統的な仏画なども認められることから、父子は流派の枠を超えて、様々な絵を学んでいたと推測される。

雪旦の名前を一躍有名にしたのは、斉藤月岑が祖父・父を継いで三代で編纂した『江戸名所図会』に挿絵を描いたことによる。本書は、天保5年と7年の2度に分けて刊行されたもので、雪旦は650景にもおよぶ挿絵を描いている。子の雪堤も、相模国の名所旧跡のうち、徳川家康由来の事績を記録した地誌『相中留恩記略』に挿絵を描き、父親同様、名所図会画家として名を高めた。

長谷川雪旦(1778-1843)
安永7年生まれ。本姓は後藤、名は宗秀、俗称は茂右衛門、または長之助。別号に一陽庵、巌岳斎、岩岳斎、岳斎がある。住居は下谷三町橋(現台東区)で、元来彫刻大工と伝わっているが詳細はわかっていない。俳諧を好み、五楽という俳号で文人たちとの交流も盛んだった。斉藤月岑が祖父・父を継いで三代で編纂した『江戸名所図会』の挿絵を担当した。40代で唐津藩小笠原家の御用絵師となったが、その詳細は分かっていない。実際に唐津および周辺を歩いてスケッチを残しているようではあるが、文政6年の長昌の没後は疎遠となった。のちに法橋となり、晩年には法眼の位を得た。天保14年、66歳で死去した。

長谷川雪堤(1813-1819)
文化10年江戸生まれ。名は宗一。別号に梅紅、巌松斎などがある。画は父に学んだ。父親譲りの技量を発揮し、風景画や人物画を主とする作品を多く残している。幕府の地誌編纂係りとも繋がりのある相模国藤沢渡内村の名主・福原高峰の依頼により、相模国内の家康有縁の名所や旧蹟を記録した地誌『相中留恩記略』に挿絵を描いた。さらに『成田名所図会』にも挿絵を描いており、父親同様、名所図会画家として名を高めた。明治15年、70歳で死去した。

長谷川雪塘(1836-1890)
天保7年生まれ。奥州の人。本姓は清原。庄内藩松田稔左衛門の子。別号に永麟がある。安政3年20歳にして狩野永悳について絵を学んだ。慶応8年、長谷川雪堤の門人として唐津藩の御用絵師となり、姓を長谷川と改めた。廃藩後も唐津江川町に住み、一般の求めに応じて画を描いたため、唐津界隈に多くの作品が残っている。明治23年、54歳で死去した。


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草場佩川と多久の先覚者

2017-05-26 | 画人伝・佐賀


文献:佐賀偉人伝 草場佩川、多久の先覚者書画

早い時期から東原庠舎や多久聖廟が創建された多久では、文教の基盤が確立され、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した先駆者を多く輩出した。多久生まれの草場佩川(1787-1867)は、詩歌書画にすぐれ、東原庠舎、弘道館の教授として多くの人材を育てた。その子・草場船山(1819-1887)は、幼いころから頭角をあらわし、東原庠舎の教授となり、さらにその子・草場金台(1858-1933)も書画にすぐれ、佩川、船山を継ぎ、学者として、文人として草場三代と称された。また、同じ多久生まれの石井鶴山(1744-1790)は、佐賀八代藩主・鍋島治茂に才学を認められ藩校弘道館の設立に参画し、藩主の顧問として優遇された。弘道館からは、明治新政府で活躍した佐野常民、島義勇、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信らが出ている。

草場佩川(1787-1867)
天明7年多久町生まれ。肥前佐賀藩領の多久家の家臣・草場泰虎の二男。通称は瑳助。3歳にして母から口づてに習った国詩を暗誦したという。8歳で東原庠舎に入り頭角をあらわし、のちに弘道館で学んだ。画は江越繍浦に学び、特に墨竹を好んで描いた。23歳の時に江戸に出て昌平黌に入学、古賀精里に学んだ。文化8年には第12回朝鮮通信使を迎えるため対馬に派遣され、国書の草案や対応にあたった。東原庠舎、弘道館の教授となり多くの人材を育てた。詩歌書画にすぐれ、多くの作品、著書を残している。慶応3年、81歳で死去した。

草場船山(1819-1887)
文政2年多久町生まれ。草場佩川の長男。名は廉、通称は立太郎。東原庠舎で頭角を表し、19歳で東原庠舎の教官になった。天保12年江戸に遊学し、昌平黌の古賀侗庵に学んだ。昌平黌や大阪で多くの学者と交わり、帰郷後は東原庠舎の教授となり、そのかたわら私塾「千山樓」を開いた。安政2年再び京都に出て勤皇の志士らと交わった。伊万里に啓蒙塾を開いたが、まもなく西本願寺の招きにより京都に出た。多くの作品、著書がある。明治20年、69歳で死去した。

草場金台(1858-1933)
安政5年西町生まれ。草場船山の三男。幼名は謙三郎、字は士行。慶応元年東原庠舎に入学した。明治10年東京外国語学校に入学。明治12年陸軍参謀本部から北京に留学し、帰国後大阪鎮台で中国語を教授。のちに台湾総督府、朝鮮総督府などの通訳官をつとめた。隠居後は京都寺町頭に隠棲し、漢詩、絵画、彫刻三昧で、特に書画にすぐれ、佩川、船山を継ぎ、学者として、文人として草場三代と称された。書画には、絹本彩色の春景山水図、秋景山水図がある。昭和8年、78歳で死去した。

石井鶴山(1744-1790)
延享元年多久生まれ。名は有、字は仲車、通称は有助。幼いころから学問を好み、17歳で東原庠舎の塾頭となった。また、長崎諏訪神社神官青木某に伴われて京都に出て、高葛坡について学んだとされる。のちに佐賀八代藩主・鍋島治茂にその才学を認められ、藩校弘道館の設立に参画し、伴読国学教諭に任じられ、さらに藩主の顧問として優遇された。寛政元年藩主に伴い江戸に赴き、翌2年、摂津において病気のため47歳で死去した。

深江簡斎(1771-1848)
明和8年多久生まれ。通称は三太夫。弘道館に学び、弘道館監察をつとめ、のちに東原庠舎の教授となった。また邑の大監察、鉄砲物頭など諸役をつとめた。著書に多久の地誌『丹邱邑誌』(5巻)がある。嘉永元年、78歳で死去した。


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