辰姫と私 ~石田三成の娘「辰姫」の研究~

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”読経”という行為の本来の趣旨と「回向文」について

2017年05月19日 15時22分16秒 | エッセイ (仏教)
 今回は読経そのものについて書き示していこうと思います。

 お経(仏教経典)を聞く機会って葬式か法事の時以外に殆ど滅多に無いと思います。
 また、変なTV番組の心霊特集や出版物などで悪霊退散とか唱えるだけで幸せになるみたいに言っているモノなどでお経に対するウンチクなどが見受けられる結果・・・

 それゆえ、”お経=死人”と思われてる方が殆どなのではないでしょうか?

 実はそれ、大変な誤解です。


 当ブログのカテゴリー”エッセイ(仏教・密教・信仰)”の他の記事を見て頂ければ解るかと思いますが、お経とはそもそもがこの世あの世に関わらずに万人が「より良くある為の教え」です。

 様々なお経を解読(現代語訳)していくと、その殆どが如来や菩薩が救いを求めてきた人にその苦境や苦しみから逃れる為の方法を述べたり、菩薩が人々の幸せを願って陀羅尼(陀羅尼の意味は他の記事を参照ください)を唱え、その陀羅尼の意味や用い方、効果を説明したり、如来や菩薩がその姿になるまでの自分が抱いてきた願い(人々を救うという本願)や経緯などが物語風に述べられているものです。

 そう、キリスト教の聖書が「主はこの時こう言われた」とか「この時主は○○をし・・・」などと、物語風に書き示しているのと変わりはありません(もちろん内容は全く異なりますが)。

 だからお経は死者に対し直接唱え、その死者を”どうこうしよう”などというものではないのです。
 当然、自分の我欲からなる個人的な願望(自分さえよければそれでいいなどという)を叶える都合の良い魔法の呪文などではない事がわかりますね。


 お経とはこの世あの世に拘わらずにより良くある為の、苦しみから逃れる、御仏の教えです。
 ゆえに、有り難い教えなので、それを聞けた事に死者は安らぎを覚え、喜びと感謝を抱くとされています。

 そして大悲心陀羅尼の記事で触れていますが、どんなお経でもお経を口にする(唱える)事で、必ず功徳(人間ではなく御仏から見ても善い行いをしたという”徳”)が生まれると言われています。
 その”善い行い””徳”を自分の大切な人や故人、更にはこの世の一切のものに巡り渡らせる事こそ読経という行為の根幹なんです。

 ここまで読んで頂けた方には、”お経=死人”なんて誤解は解けているものだと思います。


 しかし、残念な事に、どんなに一心にお経を唱えても、その功徳を大切な人や故人、更にはこの世の一切のものに行きわたらせる事にはなりません。

 その為に「回向文」というお経(というより言葉)があります。

 この「回向文」。葬式や法事など、お坊さんが数々のお経を唱え終えた後の最後にどんな宗派でも必ずと言っていいほど口にされるものです。
 すなわち・・・

 「願わくばこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と、皆ともに仏道を成ぜん事を」
 十方三世一切仏、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。
 
 という文言です。

 この文言の締めくくりによって、「この功徳をみんなに行きわたらせて、みんなと良くなるという御仏の教えと御仏の願いが成りますように」という宣言(?)で、初めて功徳がその対象や万人に行きわたると言われています。

 ちなみに私は墓前、仏壇、仏像の前では経典を持ち「願わくばこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と、皆ともに仏道を成ぜん事を」と述べた後に”十方三世一切仏、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。”まで唱えます。
 経典を持たずに思い立った時の急な読経では「願わくばこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生と、皆ともに仏道を成ぜん事を」という文言で締めくくってしまいますが、読経の際はどんなお経でも必ず回向文は唱えます。



 「せっかく自分で唱えて功徳が生じるってのに、それをぜ~んぶ他にあげちゃうんかい?・・・じゃ、自分はただ尽くすだけじゃん!」な~んて思う方もきっとおられるでしょうね。

 それ、違います。

 ”業”についての記事で述べていますが、「いい事をすればいい事が、悪い事をすれば悪い事が、形を変えて自分に必ず返ってくる」というのが”業”です。
 そしてその”業”からはお釈迦様ですら「逃れられない」と言っているほどです。
 ・・・そう、世間でいう”自業自得”というヤツですね。

 お経(御仏の教え)を自ら口にして生じた功徳を自分以外の存在、つまり皆に行き渡らせる。これって御仏から見たら最高にいい事ですよね。
 それも”業”として、必ず自分に返ってくる。つまり必ず自分のもとに形を変えて戻ってくるというのです。

 つまり、自分も皆もよいものが巡り渡り、自分も皆もより良い方向に進めるという事になるとされているのです。

 だから、お坊さんが法事などの読経の際に、最後に必ず「回向文」を唱えるのは、その故人に自分の読経で生じさせた功徳を届ける為なんです。


 これが、読経という行為の本質です。


 しかしながら、他の記事で述べていますが、数多くある(お経は細かく分類すると、この世に約三千種類くらい存在すると言われています)それぞれのお経に、その内容の中でそれぞれのお経(陀羅尼を含む)にまつわる独特の効果が述べられているのは確かです(般若心経や大悲心陀羅尼の記事に書いています)。

 ・・・こんな書き方をすると欲にかられその功徳を台無しにするようですが・・・
 自分も皆も功徳が巡り、自分も皆もよくなり、更には唱えたお経や陀羅尼の言われる効果が自分に及ぶと思えば・・・いい事尽くしですね。

 でも実際に大悲心陀羅尼の収まるお経 「千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経」の中で、釈迦如来が「こういうものが欲しかったら千手観音の○○の手にお願いしなさいね」とか「大悲心陀羅尼には○○や××などという願い事を叶える力もあるんだよ」などと言っている場面がありますから、他人を蹴落としたりないがしろにしたリといったものではない純粋な幸せを願うのであれば、その目的の為に読経を捧げてもいいのでしょうね。

 実際に私はある僧侶の方(現代宗教ではない、歴史ある仏教宗派の僧侶の人)から「御仏にお願い事をしてもいいんですよ」と言われた事があります。


 ま、多くのお経の中で述べられている事ですが、一人一人、その延長の万人の幸せが御仏の願いとされていますから。
 人の幸せって人によって形が違いますからね。


 あとがきが長くなりましたが、私のヘタクソな言い回しでも読経の本質が伝われば幸いです。
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