辰姫(石田三成の娘)研究とエッセイ

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津軽信義の行動から見える、辰姫の”石田三成の血統”である事に対する精神

2016年12月11日 14時20分39秒 | 辰姫研究 (辰姫の人生)
 前回(昨日)の辰姫研究記事の「津軽信義の行動から見える辰姫の母としての深い愛情」でも述べましたが、津軽信義の行動の背景と信義の生い立ちをしっかり見ていくと、史料には無い辰姫の人柄の一端が垣間見えてきます。

 「津軽信義の行動から見える辰姫の母としての深い愛情」の記事で触れなかった津軽信義の行動からも辰姫の人柄が見えます。


 それは、津軽信義が津軽家当主となってから自分は石田三成の孫であると公言しそれを誇っていたという事からも垣間見えます。
 もし仮に津軽信義でなくてその子孫であったとしても、石田三成の血統であるという事が大切に受け継ぎ教授されていたかで、その発祥となるのが辰姫という事であるから、辰姫がいかに石田の血統である事に肯定的であったかが見受けられます。


 時代は徳川の世となり、それ以後も石田一族や関係者・関連物の抹消に徳川幕府は必要に行動をとり続けています。後世に言う「石田狩り」です。

 その時代であるにも関わらず、津軽信枚は自身が石田三成の孫にあたると誇らしげに周囲に発言しているのです。
 これは津軽家にとってまさに自殺行為に匹敵する行為です。津軽家にとって特になる事は一切ないどころかリスクの身の行動です。
 しかし津軽信義ははばかりませんでした。

 自身が石田三成の血を受け継いでいる事、その血は辰姫から受け継いでいるものであり、実母・辰姫も自身と同様に石田三成を血を受け継いでいた事は当然津軽信義は幼い日に知らされていたはずです。
 津軽家の長男でありながら大館の地に母・辰姫とひっそりと暮らさなければならなかったその原因の根本(石田の血統である事)を幼い信義(幼名:平蔵)自身も知りたがったのではないでしょうか(推測ですが)。

 史料に”大館の地に幽閉同然”と例えられるほどの境遇を幼い日々に体験しつつも、成人後、しかも津軽家当主であり、全国の外様大名の一人という立場になったにもかかわらず、石田三成の孫であるという事を口にするのは、信義が余程に石田の血統に誇りを持っていたという事以外にありません。

 また、母・辰姫と過ごした幼い日々の中でもし母である辰姫が石田の血統である事を嘆き悲しみ周囲に口にしたという事があったのであれば、その姿を記憶にとどめていたであろう信義は石田の血統を自慢するどころか、その事実の抹消に努め、自らの血統を呪ったはずです。

 つまり、母である辰姫が自分に流れる石田の血統を大切に毅然と振る舞っていたからこそ、信義は成人後も石田の血統を誇る人格になったという事が解ります。


 すなわち、置かれた境遇や環境がいかなるものであったとしても、辰姫はその境遇や環境を招く根源である石田の血統を嘆き悲しんだり悲観する事無く、むしろ大切にしていたという事になるのです。

 夫(津軽信枚)と遠く離れた大館の地に正室から側室に降格されても、その夫と年に一回の参勤交代の時にしか会えなくても(他の研究記事に詳しく述べています。参照下さい)、正室に徳川家康の養女・満天姫が居座っても、幼い一人息子の信義の将来に不安を抱いても、辰姫は石田の血統を悲観しそれを態度に出すなんて事は無かったはずなのです。そのような態度は信義の目の前では微塵も見せた事が無い筈です。
 それ以前に悲観する事自体なかった可能性の方が大でしょう。


 辰姫は石田(三成)の血統であるという事を誇りとして信義に態度にして見せ、言って聞かせ(であろう)たに違いないでしょう。そして津軽信義はそんな母・辰姫の存在と精神と愛情を生涯忘れる事無く抱き続けたと言い切れます。


 ・・・また、周囲から”ジョッパリ殿様”のアダ名を言われるほど強情で奇行を繰り返そうと、津軽信義の本心・本当の人間性は”お母さん、大好き!”な一人息子だったのかがわかりますね。
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