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2500年位前?の群馬・火山灰に埋もれた鎧兜の軍人

2017-02-09 09:55:39 | 群馬の古代・鎧兜・埴輪・古墳・時代編年基準・
2500年位以前?、群馬・火山灰に埋もれた鎧兜の軍人
・歴史ヒストリア
で数年以前に出土した群馬県榛名山噴火による鎧兜の人骨の出土(金井東裏遺跡)の放映だった。出土武人は興味深い事に長野県伊那地域出身の夫婦と子供で群馬榛名山の噴火に巻き込まれたという研究結果で、その時代を1500年前後頃と時代推定していた。私は2500年位前と推定した。以下理由
・問題は居館跡遺跡時代と今回の火山灰に埋もれた鎧兜武人出土時代と保戸田古墳の築造時代が、近似時代で、NHKヒストリア番組では保渡田古墳群八幡塚古墳等の時代(500年)頃は西日本では初期飛鳥時代=聖徳太子時代頃?ということになる。
・しかし生活科学の目で時代を検討すると保戸田八幡塚古墳等では見事な埴輪が並べられている。また初期埴輪棺の出土や葺石が葺かれた状態や100m級の前方後円墳だということ等は近くの赤い土器の箱清水式土器が多出する地域の森将軍塚古墳(長野・千曲市)との類似点が多と直感した。中で最も時代推定に関わりの深い埴輪に両古墳共に初期埴輪棺が出土し、葺石が美しく葺かれ須恵質の埴輪がないという事実が共通し、両古墳は未だ須恵器技術のない時代の古墳だという事になる。
・群馬出土人物埴輪に赤い彩色がある埴輪が何体か存在し、三角紋の盾を持った武人埴輪が出土している。盾と言えば有名な物は静岡 遺跡の木製ワラビ手赤彩文の盾が出土しているが、ワラビ手文が流行したのは縄文中期後半の長野県や関東東海一帯。その後三角縁神獣鏡や銅鐸の縁に三角紋は多く使われ、群馬の保戸田八幡塚古墳の人物埴輪の持つ盾に赤い三角紋が使われている。
・模様で時代を追うと静岡のワラビ手文の盾より群馬の三角紋の盾持つ武人埴輪は後の時代に位置付けられているが、群馬の場合も未だ埴輪の時代=土器酸化焼成(野焼)時代で赤い土器の時代で、須恵器技術が発明される以前の時代といえる。(関西では須恵質埴輪が古墳に多く飾られていたと記憶するが埴輪の製造技術から考えると一般的には関西の方が時代が新しい)
・須恵器は一般的には白色だが、黒色で須恵器に分類された土器(黒い須恵器)が存在している。筆者は黒色須恵器は見たことは有るが、黒色土器との認識程度でそれが須恵器と同じ還元焼成で焼かれた須恵器の一種として分類されていたとは気付かなかった。黒色須恵器に分類された甕が松本及び埼玉県埼玉古墳群の中の山古墳で出土している。未確認だが埼玉や松本の黒色土器を須恵器の一つとした場合(黒色須恵質埴輪と考えた場合)保戸田八幡塚古墳の埴輪は須恵器技術が出現以前の埴輪ということで時代は赤い土器の時代で、群馬の埴輪文化勢力は埼玉より少し以前の時代か。
・三角紋盾持ち埴輪と同じ模様は関西では銅鐸そして銅鏡の縁渕に多用されている。銅鏡や銅鐸に多用した理由は特別な三角を重視した文化(宗教に根差した文化?)が存在していた可能性が強い。三角縁の銅鐸・銅鏡の時代は弥生時代とされているが、①同類の模様の三角文縁の埴輪や②埴輪製造技術は酸化焼成埴輪③古墳に副葬された三角縁神獣鏡を出土する古墳は100m級の古墳も多いこと。などから保戸田八幡塚古墳の同類の焼成技術の埴輪が出土している三ツ寺遺跡居館跡などの実時代は関西・東海地域の三角縁神獣鏡と同じ頃ということになる。
・現在利用されている土器編年基準による時代設定を否定≒疑問を主張している筆者としては、群馬の保戸田八幡塚古墳等の埴輪の時代は縄文後期=紀元前の500年(今から2500年前頃)という年代と推定する。その推定からついでに考察を広げて三角縁神獣鏡の実時代は紀元前500年~紀元0年前後の時代が推定できる。この推定では当然群馬の三寺遺跡居館跡や保戸田古墳群等の繁栄時代は土器で見ると土師器=赤い土器文化≒埴輪時代=紀元0年前後までの時代の文化の中心地だった可能性が強い。東日本の群馬等は埴輪文化は関西より早い時代だった可能性が強い。また古墳も関東の方が早い時代に存在していたことが推定できる。という結論になる。西日本関西文化の銅鏡と近似時代に東日本には埴輪をシンボルにした強い勢力が存在していたと推定できる。だから三角縁神獣鏡勢力は群馬に偵察隊を派遣したのだろう。群馬で三角縁神獣鏡は三古墳から出土している。同等位の勢力でなければ偵察隊はわざわざ派遣しないだろうと推定する。
・この時代は関西では銅鐸時代を経過して銅鏡時代で文化の優位性を競い合っていた時代であり、群馬や埼玉そして千葉等の関東では埴輪を飾った100m級の古墳時代であり、民間では瓦塔を中心とした仏教文化が芽生えて既に瓦は瓦質でなく須恵質瓦が埼玉等で出土している、須恵器技術がジワジワでなく急速に文化を変える一因として広まっていた時代でもある。
・そして紀元0年前後を境に弥生時代と言われる気温の寒冷化が始まり、関東以北では主要産業・主要食糧のコメの収穫が減り、関東では文化の衰退期に入っていたと推定できる。その上群馬の榛名山の噴火は度々勢力者や人々を脅かしていただろう。
・NHK等では保戸田八幡塚古墳等の時代を500年代としていて理由の一つに、榛名山の噴火時代と一致するとしているが榛名山噴火は2度だけだっただろうか。紀元前の時代でも榛名山の噴火も大小何度か噴火し、群馬に東日本の主要文化中心地があった時代に、三ツ塚遺跡都市を衰退させた一因だった可能性が強い。
・以上日本文化を須恵器技術の発明とその以前で推定した。何故須恵器技術で時代を別けるかというと、ご存知のように①須恵器は窯で焼成するが窯の技術で高温が得られる。②須恵器を焼く窯は多量の土器生産に適しているので量産できる。③須恵器は土師器と異なり胎土が高温のため固く焼き締まり丈夫で水が染み出る等の不具合はないので使い易い。④食器等量産できれば古い土師器は美術品や祭器以外に使用用途がなくなり、土師器系土器は須恵器技術伝来以後は急速に衰退・捨てられると考えられる。須恵器のルーツは松本地域として特定し動画を配信済みなので見て下さい。
・以上の理由で日本文化の中で須恵器が開発された(紀元前1000年前後頃)以後、須恵器が多く出土する古墳時代と時代設定された時代「生活科学で見た実時代」は縄文時代の後期=紀元前1000頃には古墳が築造されていた地域があった。
・一方で須恵器が古墳から多出する紀元0年前後、以後に量産もできず生活にも質の悪い土師器系土器がわざわざ製造されたとは考えられない。故に中世頃に土師器が出土し中世に時代設定されることは有り得ない。要するに土師器系土器が出土する遺跡が中世頃に時代設定されている遺跡を時々見かけるが、生活科学の目で見た常識では考えられない。

ジャンル:
神社仏閣
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