犬の眼
『日記』卑しさから清浄なることまで
 



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人気blogランキング←試しに貼ってみました。現在 日記・雑談ランク 圏外(2010.1.6 14:07現在)

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秋川雅史のコンサートに行ったことがあるが、その際、彼の“歌唱”ということではなく、楽曲として印象に残ったのは「グラナダ」というスペイン語の曲。

僕は、声楽もクラシックもオペラも、外国の曲にもまったく疎いし、初めて聴いた曲にはなかなかなじめない質なんだけど、その日、お目あての「千の風になって」よりもこの曲が良かった。

(秋川さんはイタリアで声楽を学び、はじめはカンツォーネのCDを出していたのだから、日本の唱歌や歌謡曲よりも、こういう若い時から歌いなれたラテン系の曲をもっと歌ったらいいと思うのだが)

この曲は、1932年にメキシコの作曲家、アウグスティン・ララという人が、まだ見ぬスペインのグラナダを想って書いたそうだ。

この曲を気に入った僕は、YouTubeを利用して、いろいろな人の「グラナダ」を聴いてみた。
(僕はYouTubeとかGoogleとかいうサイトは感覚的に相容れないんだが、ついつい便利さに負けて使ってしまう…)

残念ながら秋川さんの「グラナダ」は見つからなかったけれど、ほかの人たちの「グラナダ」をここでコレクションしてみようと思う。
じつにおおぜいの人がこの曲を歌っていて、ぜんぶ載せていたらきりがないので、今日は僕が6人ほど選んでみた。

まずは、三大テノールと呼ばれたこの方々から…


パバロッティ。


ドミンゴ。
若い時にピアノを弾きながら、という映像もあったのでアップ。
ダンディだね…


若き日のカレーラス。

日本で一般にも知られる三大テノールに続いては…


YouTubeを検索していて初めて知った、イタリア系アメリカ人のマリオ・ランツァ。
彼は1940年代半ばから50年代にかけての映画スターで、この映像は出演映画のワンシーンとのこと。


イタリアの歌手、フランコ・コレッリ。
オペラを知らない僕にとっては、この人も初見。
でも、ここに掲載しようと思ったということは、僕がこの人のどこかに魅かれたいうことだね。


最後に、先日、新聞のコラムにとりあげられていてその名を知った、ドイツの歌手フリッツ・ヴンダーリヒ。
ウィキペディアによると、パバロッティがインタビューで「歴史上もっとも傑出したテナーは?」と聞かれ、この人の名前を挙げているという。
先ほどのマリオ・ランツァも38歳という若さで亡くなっているが、この人も35歳で早世。


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『ウチくる!?』っていうテレビ番組に、中村勘三郎が出ているのを、後半だけ見た。

わが家は新聞取ってないし、テレビ番組の情報誌なんか買わないタチだから、デジタルテレビに表示される番組表がたよりなんだけど、今朝、『ウチくる!?』の欄を見たらゲストが書いてない…

それで、「まあいいや、どうせ今時の若造だろ」と勝手に決めつけて、TVKテレビ(神奈川県のローカル局)でやってる、懐かしの洋楽を流す番組なんか見ちゃってから、何気なくチャンネルまわしてハッと気づいたらすでに勘三郎が酩酊してた…(笑)

ああ、見たかったなぁ。惜しいことした…
番組表、役にたたねぇじゃねぇか…!
なにがデジタルだい!

最近は、お金がないのと、客のひどいマナーにうんざりしてるのと、歌舞伎座が終わっちゃったのとで、とんと歌舞伎からごぶさたなんだが…
(なんか、歌舞伎座の閉館とともに歌舞伎も終わった、って感覚なのよ)

やっぱり、勘三郎って人は、いいねぇ…。

あらためてそう感じたよ。
人間的に魅かれる人物だ。

まず、ふつうのひとはテレビカメラの前で、あんなふうに素で酔っ払わないよ。
…で、そんな状態でも、グダグダなのにもかかわらず、品のないところを晒したりしないね。
魅力的なんだよね。
このひとは、ほんとにあのままの、チャーミングなひとなのかもしれないね、ひょっとすると、って思わせるんですよ。

もって生まれた華とパワーと親しみを、まわりにふりまいてくれる人だね。
親しい人が出演して勘三郎と接してるのを見ると、それがよくわかる。

勘三郎は酔いがまわって半分寝てしまいそうで…それに、きっと明日には覚えてないだろって感じなんだけど、それを咎めようという気にさせない。
たいした人徳ですよ、これは。

僕もあやかりたい…

(この番組の収録のあと、出演してくれた人たちと勘三郎邸で打ち上げがあったそうだけど、勘三郎はダウンしてたって、出席した人がブログに書いてた。収録の記憶も怪しいらしい…)


ずっと前に書いたけど、僕は正直、本音を言えば、勘三郎の舞台って、あんまり好きじゃないなぁ、と感じることが多い。
いい時はバツグンにいいんだけど(歌舞伎俳優として嫌いなわけじゃない)、新作とか、平成中村座の演出が、僕の好みに合わないんです…

だから、勘三郎のファンだと言うのは、ちょっとはばかられるんですが、勘三郎というひとには興味があるし、好きだねぇ…。

いまの時代、あんなひとはそうはいない。



勘三郎のように、やってる仕事は個人的に僕の好みに合わないのに、その人物には妙にひかれるっていうことが、僕にはいくつかある。

故人では、岡本太郎。
岡本太郎美術館にも行ったりしたけど、作品はあんまり好みじゃない。
でも、人物としてすごくおもしろい。
著書や人物伝を読んでみるといいです。

ほかには、C.W.ニコル。
自伝以外の著書は一冊も読んだことがない。
それなのに、あの体躯のように大らかで骨太で力強い、それでいて繊細な人間性、生き方に魅かれる。

あとは、安藤忠雄かな?
あのひとの建築も、悪いとは思わないけど、良いとも思えない。
おまけに人間性も良いのかどうかわからないし、僕自身、はっきり好きだとも言えないんだけど、気になるひと、っていう感じ…


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テレビで、瀬戸内国際芸術祭についてとりあげられているのを見た。

主に香川県の、瀬戸内海の島々を会場にして、アート作品を展示するというもの。

たまたま僕も、夏が始まる前に直島に行ってきたばかりだが、そのときに現地でも、そして今回テレビを見ても感じたことがある。


この島々では、アート(と呼ばれるもの)は美術館の中だけではなく、島の各地に点在していて、屋外にも展示されている。
なかには民家に手を加えたり改造したりして作品としているものもある。

自然の中、あるいは、昔ながらの古い集落の中に、こつぜんとその姿を現す。

じつは僕は、そういったアート(と呼ばれる)作品を見て、違和感を覚えずにはいられないのだ。

…と誰かが言うとき、作家たちはおそらく、
「その違和感を生起することを意図したのだ」
と主張するのかもしれない。

でも、少なくとも僕から見ると、アートは自然の中で卑小な印象を免れない。
自然の前では、人間の愚かしさ、小賢しさを際立たせるだけなのだ。
個人的な意見ではあるが、木々や、海を眺めているほうが、よほど精神が潤う。
もしも、神が自然を創ったとするならば、神に勝るアーティストはいない。


田畑や民家の中に置かれても、アートは異質だ。

田畑や古い集落は、すでに風景として長い年月をかけて人の記憶のなかで熟成している。
その、目に穏やかな落ち着いた景色を、アートは浸食してしまう。
アートは、それ自身に歴史(時間)を内包しないものだろうし、ごく個人的(悪く言えばひとりよがり)なものだから、そういった風景に溶けこむというのは難しいだろうと思う。

近年、とくに日本では、自然も、郷愁を誘うような古い里も、希少なものになってしまっている。
それをアート(と呼ばれるもの)で汚すことにはあまり賛成できない。

既存の概念や価値観を破壊するのもアートの本質ではあろうが、皆が共有する希少な財産を破壊することはやめてほしい。


アートを美術館で楽しむのはいい。
僕も美術館には足を運ぶ。
ここまでお読みになって、アートを否定する人間と思われたかもしれないが、そんなことはない。
しかし、強要されるのは理不尽である。
不特定多数の人の目に、否応なく飛びこんでくるアート作品というのは、強要であり、公害ともなりうる。

作品を展示する権利もあるだろうが、見ない権利も考えてもらいたい。

もし屋外に展示したいのなら、美しい自然や里ではなく、むしろ、はなから理不尽なデザインが氾濫して殺伐としている繁華街などで行うほうが良いのではないか。
そのほうがアートの意義が生きてくる気がする。


実際、島の住民はどう受けとめているのだろうか?

テレビでインタビューを受ける住民たちは、いちように喜びの表情を見せる。
島におおぜいの人が訪れ、活気づくのがうれしいと言う。

でも、まあ、それはそうだろう。
反対派、少数派の意見は表だってはとりあげられにくい。

ことに、過疎化対策、島の活性化という大義と、かなりの効果を上げているという現況を見ればなおのことだろう。
アートには、環境汚染などといった問題も、ほとんどない。
「何が悪い?」ということになる。

たしかに、環境に負荷をかけたり、危険や騒音を伴うような産業が島にやってくることにくらべれば良いことだとは思う。
僕も、そういった従来の産業に頼るいままでの経済形態が、さまざまな問題をはらんで行き詰っている現在、アートはそれに替わる良質な“産業”(この言葉を使うことには抵抗があるが)となりうると考えなくもない。

しかし、だからといって、そこに何もかも飲みこまれてしまってもいいのだろうか。

もしかして住民の総意ではなく、権力を持ち、声の大きい人がすべてを決めたのではないか?

静かな島の暮らしが一変し、観光客が押しかけ狭い路地を闊歩して、日常生活の鼻先をすごい勢いで行きかう…
そんな変化を嫌う人。ついていけない人、気持ちの落ち着かない人がいるのではないか。
自分の古里の変貌に戸惑う人、または腹立たしく感じている人たちが。

そういう人たちが無視されているのではないか。
そして、彼らはひっそり息をひそめていなければならないのか。
せめて棲み分けはできないのか。


そういうことが思いすごしならいいのだが…

僕は直島を訪れ、テレビを見たとき、そういうことを連想して、気持ちに影を落としてしまったのである。


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近隣の騒音に関連して、思うことがあるんだけど…。

最近、フィットネスみたいなのとか、室内でも体を使うテレビゲーム(って言い方が古いか)が出てますよね。

(よく売れてるっていう、“スタン・ハンセンの雄叫び”みたいな名前のやつとか…)


それから、近頃ではカラオケ機も、昔みたいなでっかくて高価なものじゃなくて、ハンドマイクに内蔵されているような、小さくて安価で家庭でもできる商品が売り出されてます。

そんなのが出まわって、家のなかでドタバタしたり、歌を歌われたりした日には、近隣の人間はたまりません…。
人里離れた一軒家だとか、完全防音の家に住んでるんならいいけど、ふつうの建売住宅やマンションなんか、音はつつぬけですよ。

メーカーも、そういうの作るだけ作って、良識とかマナーなんて消費者に丸投げで、あとは知らんぷりなんですから。

そもそも、近所に聞こえるとかいうことをべつにしても、室内でドタバタするな、っていうのが日本の家庭の躾だったと思うんですけどねぇ…


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このブログは、時事の話題はあんまりとりあげていません。
(僕には荷が重いし…)
でも、先日テレビでたまたまニュースを見ていて聞いた言葉が耳に残って離れないので、タイミングはズレましたが、今日書いてみようと思います。


僕は事業仕分けのことはあんまりわかりません。

じつは僕は、そのほか政治全般のこととか、いろいろ…、ニュースを見てるとあきれるやら腹立たしいやらで、もう長いこと真剣にニュースを見ることをやめています。
国民としての責任を放棄していることになるかもしれませんけど…

だから、事業仕分けのことも…、仕分け人で注目されている蓮舫のことも、いいのか悪いのか判断できません。
(かなり性急で粗っぽい仕事をしているな、という印象はありますが…)

でも、科学関係の仕分けのことで、ノーベル賞を受賞した科学者たちが怒っているというニュースは見ました。

僕は科学のこともさっぱりわかりませんけど、自分たちが一所懸命やってることを否定的に言われ、予算を削減されそうなんだから、そりゃ怒るのは理解できます。

しかし…
理解はできますが、誰かが、(おそらく)蓮舫を指して
「科学のことも知らない女の子に口出ししてもらいたくない」
みたいなことを言ったそうですね。

言いたい気持ちはわかるけど、それはいかんでしょう?
国民が選挙で選んだ人間を“女の子”呼ばわりするのはどうかと思う。

それに、国民の多くが(僕のような)“科学のことも知らない”人間なんだと思いますよ。
科学のことも知らない国民を代表して、科学のことも知らない議員が、わけあって科学をやってる人間に質問してるんだから、そんなこと言っちゃいけないんじゃないでしょうか?
かりにもし、科学のことを知ってる議員が仕分け人になっちゃったら、国民の意思が反映されないおそれがあると、僕なんかは思います。
(ほんとうは、科学に詳しい人と、科学を知らない人、その両方の仕分け人がいればいいのかな?)

もし、議員が無礼な口のきき方をしたとしても、それはそれ。怒らないで国民にはきちんと説明してほしいものです。
それが今回の仕分けの意義なんでしょうから。

ことは、科学を否定するためじゃなくて、税金のムダづかいを追及してるんだから、争点がずれてきちゃってますね。

蓮舫ほか、仕分けの人の物言いもまずいんだと思いますけど、科学者じゃなくてお金を扱う立場の役人に対して攻めてるわけだから、それぐらいの勢いがなくちゃ、ケムにまかれてしまうんじゃないでしょうか。
私利私欲で税金を喰いものにされちゃたまりませんからね。
そういうのを防ぐのが、いちばんの目的なはずです。


科学者の方たちも、自分たちの立場だけで考えて感情的にならずに、全体像を見ていただいて、国民感情にもご配慮願いたいと思います。
お金を出してもらうからって、役人寄りになるようなことがあっては困ります。
国民は科学者を責めているわけじゃないんですから…。
どっちかといえば、同じ側にいなきゃいけないんだと思いますけど。
(ほんとにお金を出しているのは国民ですもんね。それに、国や国民の利益のために科学的な研究開発に税金を使ってるはずなんですから)
独立した科学者でいて欲しいなぁと、科学に無知な人間ながら思います。

「科学のことも知らない女の子に口出ししてもらいたくない」
って言葉は、
「科学のことも知らない国民は口を出すな」
って言ってるのと同じですからね。


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昨日の記事に4ヶ所ほど、結果について簡単な追記を入れました。
この色で書いています。
どうぞご覧ください。



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前回書いた、騒音のある時間にはコメントもいただきましたし、gooブログのアクセス解析のお試し期間とも重なってアクセス数がわかり(少ないですけど…)、関心の高い話題なんだと感じました。
騒音に悩んでいらっしゃる方は、たいへん、たいへん、多いと思われます。

僕は、騒音の悩みに対してまったく無力です。自分の悩みにも、もちろんひと様の悩みにも…。
でも、僕自身の悩みに関しては、僕なりに行動に移し、対処したこともあります。
それによって騒音が解決したことはほとんど皆無ですが、今回、僕がどう対処したか、ありのままを載せてみようと思います。

この文章が、ほかの方のお悩みの参考になるとは思っていませんし、おすすめできる対処法ではありません。ほんとに、事実だけを書き記しています。

→この色が僕の行動・対処です。
→この色が現況、対処結果、そして感想などです。


4:00~6:00
 ●新聞配達のバイクの音(騒音度:90
家の裏の道が袋小路なっており、そこでアイドリングの状態のまましばらく停まっていて、Uターンするさいに人力を使わずアクセルを何回も吹かして旋回するので、エンジン音が高くなる。

→夕刊を配達中に呼び止めて、状況を話し、改善してくれるよう穏やかにお願いしました。
→気をつけるという返答があり、実際におさまっていました。しかし、しばらくすると再びうるさくなりました。担当者が代わったのか…、いい加減なのか…。現代は、どの業種においても、こういうことについて引き継ぎできない、しない傾向も強いと思います。


6:00~10:00
 ●犬の鳴き声(吠え声)が断続的につづく(騒音度:99
高い吠え声。これによって目が覚めることが多い。うとうとしてきたと思うとまた吠えはじめて目が覚める、というくり返し。隣で寝ている妻も起こしてしまわないか気が気でない。この時間帯以外にも、ムダ吠えする犬が多数いる。

→一度、お願いに伺ったんですが、留守でした。その後、お願いしても逆にトラブルになるのではないかと思いなおしました。
→現在も状況は変わりません。毎朝、犬の吠える声で目が覚めます。夜の食事の時にもタイミングを計ったように吠えるので、せっかくの食事がおいしくなくなります。犬の飼い主の方は、ムダ吠えを放置したり、糞の始末もしなかったりと、常識をわきまえない人が多いものだと知って驚きました。僕も犬は好きなほうなので、残念な気持ちです。


6:00~19:00
 ●花火の音(騒音度:60
年に何度か、正時ごとに数発の音が聞こえてくる日がある。

→なにも対処していません。
→状況は変わっていないと思います。


7:00~20:00
 ●工事の音(騒音度:100の場合もあり)
重機を使うような大きな工事から、建築工事、塗装工事、庭木の剪定や草刈り、小さな大工仕事、水道、電気、放送通信、上下水道、舗装などの公共的な工事まで、住宅地は年中工事が断続的に行われている。きちんとした業者が、必要最低限の工事を、マナーやルールを守って、速やかにやってくれるならまだガマンもできるが、そうではない場合が多い。私語がうるさかったり、大半の人が休む日曜祝日にも、朝早くから騒音をたてることもあり、気遣いが感じられない。

→住宅を何軒も建築する大工事があった時は、朝早くトラックが来てアイドリングしていたり、重機を使い始める時刻が早かったので、時間をずらすようお願いにいきました。細かい工事の場合も、工期を確認に行ったりすることがあります。
→状況に変わりありません。住宅地は工事が多いものらしいです。小さい業者の場合は、僕が行くと謝ってくれる人もいますが、大きいところは態度も大きくて、「町内会を通して話してくれ」というようなことを言われました。つまりは、いちいち個人の話は聞かないということです。


8:00~19:00
 ●ピアノの音(騒音度:80
上手ではないピアノが、時々聞こえる(上手ならよいということではない)。ほかの楽器としては小学生のリコーダーも聞こえるときがある。

→なにも対処したことはありません。
→最近は、在宅中は騒音対策のために音楽を流している(イヤホン)ので、聞こえないのだと思います。


8:00~20:00
 ●ステレオの音(騒音度:100
隣家から大音量の音楽(ジャンルは特定できないが若者向け)が聞こえてくる。重低音が家の中まで響いてくる。断続的に、ほぼ毎日。

→何度かお願いしたのですが、改善せず、ある時、鉄の棒を持って怒鳴りこみました。
→怒鳴りこんだことで収まりましたが、それはたまたま運が良かっただけです。
僕と違って常識をわきまえた方なら容易に想像できる話ですが、相手の出方しだいでは暴力沙汰になり、どちらかがケガしたり、大きなトラブルに発展するおそれが高いでしょう。
もし、そのとき相手が逆らっていたなら、僕は少なくともステレオをたたき壊すくらいのことをしていたかもしれません。そうしたら警察沙汰です。
そのときはたまたま解決につながりましたが、決しておすすめできる対処法ではありません。
しかし、是非はさておき、いまの世の中、暴力に訴えるほどのことをしないと、人の話を聞いてくれないような状況が多すぎるのもたしかだと思います。正当な訴えを、まっとうな方法で聞いてもらおうとしても、途方もない時間と忍耐を要します。



8:00~20:00
 ●ヘリコプターの音(騒音度:60
正体不明のヘリが、上空を行き来することがある。

→なにも対処したことはありません。
→状況は変わりません。


9:00~1:00
 ●隣家からの足音(騒音度:80
子どもだと思うが、室内をドタドタ走り回る音が響いてくる。午前中は時々、夕方以降はほぼ毎日。深夜までつづく。

→なにも対処したことはありません。
→状況は変わりません。近隣との関係は難しいです。こういう苦情をいったん相手に対して投げかけたなら、ふつうのご近所の関係を保てるのかどうか、やってみないとわかりませんから、やはり二の足を踏みます。一度こじれると面倒です。


11:00~16:00
 ●寺の太鼓の音(騒音度:100
すぐ近所の寺から、太鼓を叩く連続した音が、断続的に何時間も聞こえてくる日がある。不定期にやるので、鳴らない日もいつ始まるかと気が気でない。低周波を含むのだろうか、家の中まで響いてくる。年に一度、何人もの人が托鉢にまわり、その際、それぞれうちわ太鼓を叩き鳴らす。

→電話で苦情を入れました。
→他所から来ていると思われる(停まっている車が地元ナンバーが少ない)檀家の人が電話に出て「修行中だ」と言われました。修行というのは先方の都合ですから、周辺に迷惑をかけないようにやってほしいものですけど、「昔からやってるから」などという理屈の返答を受けました。以前はこの周辺は住宅がなかったですけれど、現在は密集していて、状況は変わっています。
ならば、せめて太鼓を叩く期日や時刻を教えてくださいと言いましたが、決まっていない(不定期)という返事。埒があかないので、寺の人間(住職など)に替わってくれと要求しましたけど、決して替わろうとはしませんでした。
僕は怒って大声を出しましたが、効果はありませんでした。
こういうことも、直接顔を合わせてしまうと事が大きくなるので気がすすみません。
それに、個人が宗教組織と闘うようなことは避けたほうが得策だと思います。

追記:理由はわかりませんが、現在、劇的に頻度が下がりました。


11:00~19:00
 ●子どもの騒ぐ声(騒音度:100
小学生以下の子どもが数十人単位で近隣に住んでいる。子どもは少人数でも声が高いのに、おおぜいで遊ぶので騒々しさが何倍にも増す。それが連日つづく。親が無頓着。

→直接行って、親に対して穏やかにお願いしてみました。
→僕の要求していることの意味がよく呑みこめない様子。
→しばらく待ってみましたが収まらないので、今度は大声を出して怒鳴りました。
→一部の母親は、僕の要求に応えくれようとしていましたが、そういう人も、子どもの遊び場がないなどの理由で、対処しかねている様子。僕もそういう状況を理解してはいるのですが、まったく無頓着な親もいるので、たびたび様子を見に行きました。
その結果、逆に迷惑がられ、不審者扱いを受けるようになりました。
問題なのは、“子どもは騒いで当たり前”と考えて、はなからしつけや管理を放棄している親がいることだと思います。
子どもが騒ぐのは当たり前だとしても、周囲にがまんを強要されては困ります。
騒ぐのが当たり前なら、うるさく感じる人がいるのも当たり前、そして、近所に迷惑にならないように心掛けるのも当たり前だと思うのですが…。
世の中には、夜勤や病気で昼間でも寝ている人がいるだろうし、子どもが大嫌いな人もいます。

僕は本来、親御さんが、子どもをしつけ、他人に迷惑をかけないよう努力をされているのがわかれば、多少のことは腹もたたないのです。
しかし近年、親の義務を果たそうともしないのに自分の権利ばかり主張して、苦情を言ってくる相手を「心の狭い人間だ」と断ずる人が多いようなので、残念です。
いまでは正直、誰かれ関係なく子どもや親たちみんな、嫌いだと感じるようになってきました。
テレビで、公園のそばにずっと住んでいる人が「子どもの騒ぐ声に耐えられない」と言っているのを聞きました。その人は何年もそこに住んでいて、以前は気にならなかったのにもかかわらず、最近は子どもの声が気に障るようになったというのです。
知らない子ども、知らない親という、近年の顔の見えない地域社会の関係が原因だろうと解説していました。僕はそれに加えて、親の意識の変化も根底にあるだろうと思います。

追記:現在のところ、苦情を言う前に比べれば、多少は改善されています。ただ、顔を合わせるのが憚られるような、近所関係に緊張が生まれました。


14:00~20:00
 ●灯油販売車の音(騒音度:90
冬季。大きな音量で連続して音楽を流しながら町内を回る。ルートや時間が一定せず、通り過ぎたかと思うと、しばらくしてまた戻ってきたりするので気に障る。給油中も音楽を止めない。

→なにも対処したことはありません。
→状況に変化はありません。


18:00~23:00
 ●消防車のサイレン(騒音度:50
冬季はとくに連日聞こえる。放火と思われるので不安になる。

→なにも対処したことはありません。
→状況に変化はありません。


18:00~23:00
 ●飛行機の音(騒音度:80
軍用機と思われる飛行機が上空を通過し、断続的に爆音が降り注がれる。室内にいてもテレビの音さえ聞こえなくなる。連日ではない。

→なにも対処したことはありません。
→状況に変化はありません。


20:00~6:00
 ●自動車やオートバイの音(騒音度:100
低音、甲高い音、個人、集団を問わず、一晩通して聞こえてくる。激しく空ぶかしする者もいる。おそらく、通行を目的として走っているのではなく、走ることそのものを目的に巡回していると思われる。警察や自治体は取り締まる気がなさそう。ごく近所にもやかましい車やオートバイがいる。

→警察に連絡したことがあります。
→その時は収まりました。でも、基本的には状況に変化ありません。
映画『男はつらいよ』のおばちゃんでおなじみの三崎千恵子さんは、お住まいの近所に暴走族が来た時は、かならず警察に電話していたそうです。近隣で協力して、暴走族がくるたびにみんなで電話していたら、やがて来なくなったとテレビで言っていました。暴走族に限らず、騒音問題には近隣の連携が必要なんだと思います。でも、それにはまず個人個人の意識が大事なのでしょうけど。難しいです。



20:00頃
 ●爆竹の音(騒音度:70
たまに、なにかの合図のような爆竹音が数発起こる。爆竹ではなくて花火かもしれない。中高生の仕業だろうか。火事を誘発するかもしれないし、地域の治安イメージを損ねる。

→確かめに行きました。
→中学生らしき子どもがいましたけど、そのまま放置しました。


22:00~2:00
 ●猫の鳴き声(騒音度:30
発情期と思われるノラ猫が、ギャアギャア鳴きわめく時期がある。

→毎夜、猫を追っかけまわしました。
→このブログ内で、その顛末を書いています。
追記:猫の数が減り、鳴き声もほとんどしなくなりました


23:00~3:00
 ●隣家の人の出入りと騒ぐ声(騒音度:100
若い連中が深夜、窓を開け放して放歌高吟する。

→何度も注意しました。
→若い人は、言葉で何を言っても、かりに頭で理解していたとしても、なかなか収まりません。そんな若い人を威圧できる人間性(と、腕力)を持つしかありません。そんなものが僕にあれば、こうしたもろもろの問題のいくつかも解決できたかもしれません。
「自分もそうだった」とか、「若いんだから…」と寛容ぶって、大人がほうっておくのも違うと思います。
追記:この件は数年前のことで、若者も大人になり、現在は収まっています。


未明~5:00  ●正体不明の音(騒音度:80
エンジン音なのか、エアコンの室外機の音か、それともステレオの低音か、太鼓の音か、あるいは複数の音が混じっているのか、ともかく正体不明の連続して単調(といっても、完全に一定ではない)な音が、寝ている僕の耳のなかでずっと鳴っている。

→何の音か確かめるため外へ出てみました。
→エアコンの室外機だったこともありますが、原因はそれだけではないようです。いまも音は続いています。外に出ると聞こえないので、地面を伝わっているのかもしれません。


24時間
 ●風鈴(騒音度:99
夏を過ぎても、強風の日でも、夜中でも、年中風鈴が鳴りやまない。つまり、持ち主が無頓着なのである。おそらく、風鈴を出しているのさえ忘れていると思われる。

→なにも対処したことはありません。
→持ち主が気づいたのかどうかわかりませんが、1年か2年つづいたあと、いつのまにか収まっていました。


不定期
 ●近隣の人の話し声(騒音度:70
屋外で長時間立ち話をする人がいる。早朝や、まれに深夜聞こえてくることも。

→ひどい場合は注意しに行きます。
→いままではほとんどの場合、もめることなく聞き入れてくれました。特定の人ではないので、収まりません。


不定期
 ●音楽(騒音度:70
たまに、異常なほどの音量で音楽を聴いている人がいる。もとから騒がしいロックのようなタイプの音楽ではなく、クラシックなどが多い。

→なにも対処したことはありません。
→最近はほとんど聞こえません。


長くなってしまいましたが、以上です。
なかには、時がたてば自然に解消されることもあるようです。



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↑またアクセス解析のツールを設置してみました。
思うように設定できず、アイコンがじゃまっけで、美しくありませんが…。

前にみたいに、ちゃんと機能しないかもしれません。
しばらく使ってみます。

おいでくださった方には直接関係のない業務連絡ですが、唐突にアイコンが現れて不審に思われるといけませんので、お知らせいたしました。


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未だ失業中の身だ。
そろそろ二年にもなる。
ブログなんて書いてる身分じゃないのは自覚しているが、就職活動にも望みが薄い(…いや、望みは、限りなく無きに等しい)。いきおい、パソコン依存症気味の怠惰な毎日に陥っている。
生産的なことはいっさい、やっていない。

金(かね)の工面(早い話、借り入れだ)も万策尽きて、今後のことを考えると恐怖しか湧いてこない。

こういう状況にあって認識したのは、意外にも僕はかなりの楽天家、それも相当無責任な楽天家であるということ。
(“能天気”と言ったほうがよいのか)
ふつうの感覚の持ち主なら、ここまで追いつめられれば、いやでも行動を起こし、日々の糧を得る努力を始めるだろうと思う。たとえ自分の意にそぐわないことでも…。

ところが僕は、返すあてのない借金であっても、とりあえず生活費が工面できているうちは、安穏としているのである。
これは、自分で客観的に見ても、おかしい。
感覚が尋常じゃない。麻痺してるとしか思えない。

そして、金が途絶えたいま、呆然としている。

抑うつ状態になっている。

じつは、この状況は以前にも経験したことがある。
数年前に同じ状況になり、その時は家族の援助によってもちなおした。

同じ失敗をくりかえしているのだ。
どうやら…というより、まぎれもなく、僕はこの世界で実生活を営む能力に欠けている。

抑うつ状態と言っても、うつ病などといったような病気じゃない。
病気の人は、能力がないわけではなく、病気だから能力が発揮できないだけだ。
僕の場合、もともと能力が備わっていない。

前回のうつ状態の時は、自分でもうつ病などの精神疾患を疑ったりもしたが、家族から経済的支援を受け、借金の悩みが晴れたとたん、うつはきれいさっぱりなくなった。
文字どおり、肩が軽くなった。
“肩の荷が下りる”というのは比喩表現じゃない、と思った。
現実に、肉体的に、肩が軽くなる。

ようは、金の問題なのかもしれない。

でも、僕には金を稼ぐすべがない。
肉体的にも、精神的にも、ひどくぜい弱で、何の技能も持っていない。
すべての元凶はそれだ。
もちろん僕自身から起こっていることなのだ。

誰かから再び援助を得ることも、望めない。
僕の家族は、金持ちではないのだ。
ほかに頼る人もいない。

抑うつが、深く重くなる…。



そんなときにふっと頭をよぎるのは、幼いころの記憶であるかもしれない。
それも、具体的な記憶ではなく、漠然とした断片…。

例えば、
家にこもりきりの日々のなか、暗い室内から、ふと陽光のあふれる戸外をのぞき見る。
光が、空気を柔かな橙色に輝かせている。
対比するような空の青。
その光の温度、匂いが、僕の脳内をめぐり、幼児だったころに感じた同じ温度、同じ匂いの記憶をさぐりあてるのだ。
その瞬間に僕は、生まれ育ったふるさとの家に帰る。

またべつの瞬間には、カーテンから漏れる西日が、幼い頃、家族との外出のおりにバスのなかで感じたのと同じ日のように思える。

屋根や地面を静かに叩く雨音も、僕を子どもの頃にひきもどす。

風の匂いが、裏山をのぞむ庭にたたずむ少年の僕を思い出させる。

これらは、僕自身が感傷ぶってわざわざあぶり出している記憶ではない。
ふとしたはずみに、ぽんと出てきてしまうのだ。
頭のなかからこぼれ落ちるように僕のそばに現れ、僕をハッとさせるのだ。

じつを言うと、僕は故郷にあまり芳しい記憶はない。
対外的にはかなり早い時期から孤立した少年で、いわゆるいじめをうけたことこそあるが、楽しく大事にしたい思い出など数えるほどしかない。
そればかりではなく、夢想的なところもあり、どこか別の世界に出たいという気持ちが強かった。そしてそののち、現実に故郷を捨てた。

しかし、それから10数年たって、自分自身も、在郷の家族ともにさまざまな出来事を経て、年もとり、いまこんな状況にあると、故郷が自分にとってまたべつの意味を帯びてくるのも確かである。

ただ、両親が離婚し、生まれ育った家にはいまは誰もおらず、僕が精神的なよりどころとできるふるさとというものは、現実世界には存在しなくなった。
だから、いま異郷の地でときおり噴出する記憶の断片をつなぎあわせようとして現在のあの場所に戻ったとしても、その記憶を現実のものとして完成させることはできないのだ。


そうなると、ますます記憶の断片にすがるしかない。
今度は僕自身が意図的に記憶の入口にあるドアをこじ開けて、古くて暗い部屋をまさぐっている。

可笑しいことに、今ろくな食生活ができず日常的に空腹の状態だからだろうか、食べ物の記憶がまっ先に見つかる。

“おばあちゃんのおはぎ”
いまは亡い祖母の、手づくりのおはぎが美味しかった。
子どもの草鞋くらいあるかと思うほど大きい。小さい頃の記憶だから誇張されているのかもしれないが、とても食べでがあった。
つぶが原形をとどめているもち米。あんこは甘すぎず、手でじかにつかんでもくっつかない程度の硬さだけど、乾燥してはいない。
絶妙なおはぎだった。
でも、誰ひとりその味を継承する人がいなかった。嫁である僕の母も受け継がなかった。
自分でも何度か作ってみようとしたが、だめだった。
売っているものは、まったく、あの味にはほど遠い。
つまりは、もう二度と食べられない、ということ…。

甘い物の思い出なら、何年か前にここで書いた大判焼き(東京でいう今川焼き)がある。
これは、郷里の商店街の甘味店で売っていたもの。
僕が世界一おいしいと思っていた大判焼きだ。
僕が小さい頃には、愛想の悪い、ムスッとして恐いオヤジが焼いていた。
最近帰郷した際に久しぶりにのぞいてみたら、やはり愛想の悪い、ムスッとした男が店をやっていた。
でも、昔いたオヤジとは違う。
その男も、“オヤジ”と呼んでいい年齢だと思うが、昔いたオヤジがそうであったような、畏怖と信頼をこめた“オヤジ”という呼称は、似つかわしくない感じの男だった。
話をしたわけではないが、職人カタギを感じられなかった。
その証拠に、その男が焼いた大判焼きは、世界一の大判焼きではなかった。
もう二度と、世界一の大判焼きは食べられない。

その店がある商店街は、僕が生まれた地方都市の中心部にあるのだが、家からはかなり離れていて、行くのに路線バスで1時間近くかかった。
そのため、年に三回、学校の休みに行けるだけだった。
その地方でいちばん大きなデパートがあり、そういう“華やか”な場所に行くために、小さい頃の僕はよそいきのきれいな服を着て帽子をかぶり、真新しい靴を履いて出かけるのだ。
僕は乗り物酔いがひどかったが、それでも毎回わくわくして出かけたものだ。
田舎のバス停で待っているところからがもう楽しみのうちで、20分前に行ってバスを待った。
バスに乗っているあいだも、車窓からいろんなものを見て楽しんだ。
大人になったいまなら、単なる移動手段として以上に感じることはあまりないと思うのだが、当時は遊園地のアトラクションにまさる楽しみだったのだ。

車窓から望む風景のなかで、妙に印象に残っているのが、とあるビルである。
そのビルは現在は壊され、あとにはマクドナルドが建っている。
僕と弟は、「もうすぐデパートにつく目じるし」として、そのビルを覚えていた。
ブロック塀のブロックをくりぬいて枠だけにして積みあげたような、あまり見かけない外壁だったから記憶に残っていたのだ。格子模様になったブロックのすき間から、その内側にある窓が見えかくれしていた。
そして、●●物産という看板が、ビルの横にくっついていたように思う。
社名をネットで調べてみたら、いまも現存するようだが、ウェブサイトに当時の写真などは載せていなかった。
検索してみても、そのビルの画像は見あたらなかった。

最近、なぜかそのビルの姿が頭にうかんで離れない。
縁もゆかりもない会社の、何の変哲もないネズミ色のビルが、幼い頃の思い出に結びつくと、大切な記憶の映像になるものなのか。

いまの僕の状況…
唐突に現れる記憶の断片…
記憶の部屋に残された思い出の数々…
現実にはもう二度と目にすることのできないそれらの画像を、僕はどんな思いで眺めればいいのだろう。


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