『資本論』第一巻150年の大特集

2017-04-15 16:20:43 | 科学的社会主義

今月の雑誌「経済」5月号は、「資本論」第1巻150年の大特集です。不破さんの新連載「『資本論』全三部を歴史的に読む」が開始されたので、再購読をして、読み始めました。来月からは、若手の専従者とともに不破さんの「『資本論』全三部を読む」の集団学習も始めるので、その準備も兼ねて、読み始めています。

この間、ブログでも紹介した『対話する社会へ』の著者である暉峻淑子さんもエッセイ「私と資本論」に「希望をあたえてくれた労作」と寄稿しています。

「『資本論』が150年間も、研究者や大学のゼミや、労働者の勉強会でまじめに読まれ、資本主義社会の解明に光をあてているのも、理論と事実と行動の三方面からの分析に資しているからだと思う。本というものは、これだけのものを遺すことができるのだ、という希望をあたえてくれた労作だとも言える」と紹介しています。

私が「資本論」第一巻を読み始めたのは、大学1年生の3月14日。ちょうど、マルクス没後100年という日であった。しかし、結局、第1巻を読み切るのにも何年も費やしてしまった。「難攻不落」というのが「資本論」の印象だった。いまは、不破さんが「資本論」の道しるべを示しているし、「資本論」を読む環境としては、実に整っているといえる。問題は、読み切るという意思を持ち続けることができるかどうかだろう。若い専従のみなさんと試行錯誤してみたい。

 


「対話する社会へ」(暉峻淑子著)その2

2017-04-09 17:56:41 | 私の愛読書

 

 前回に続き、「対話する社会へ」(暉峻淑子著)の感想です。

 暉峻さんは、対話の実践が希望ある社会をつくることを希望の実践として3つ紹介しています。そのなかで、白鳥勲先生という高校の物理の先生の実践に興味をそそられました。

 いま、多くの学校現場で外からの圧力と多忙さで諦めにも似た閉塞感に陥っている先生が少なくない中でも、行政による管理の言葉でなく、教師自身が自分で考え抜いた言葉で生徒に語り、対応している先生として、この先生が紹介されています。

 人間の間の理解も共感も、すべては対話に始まり、コミュニケーションの中で成長します。白鳥先生は、対話の中で中途退学者や引きこもりの生徒を大きく減らし、問題を起こす生徒との関係を自然にいい方向へ開いていきます。

 白鳥先生の最初の赴任校は、いわゆる「問題校」で、中途退学や不登校が多い学校でした。その中で、先生が自分にできることとして考えたのが、一人一人の生徒と毎日対話することでした。

 毎日、一人ずつ生徒を呼んで、一日に二人の生徒と対話をします。一ケ月で一巡して40人学級の生徒全員と対話することができます。それをまた何度もくり返し、一年間、対話が続きます。生徒のほうも、自分の順番がいつになるかを予定しており、対話を忌避する生徒は一人もいませんでした。

 対話するときは、何かあったの?というように、自然にすっと話題に入り、決して先回りしないこと、叱ったりせず、また、○○のために、とか、意図的にある結果にもっていこうとしないこと。上下関係で話すのではなく、あくまでも生徒の人格に対する尊敬の念を忘れず、聞き役に徹すること。生徒のよっては、大人に頼ったこともなく、頼り方も甘え方もわからず、心を開かない子もいるので、まずそういうときは教師のほうから先に心を開いて話し合うようにしたということでした。

 生徒は敏感で、一人の人間として対応されていることがわかると、自然に態度が変わり、信頼して誠実になり、時に甘えを出すようになります。生徒によっては、大人に寄り添ってもらって、一人前に対応してもらった経験のない子もいるので、対話するうちに変化していくのが先生のほうにもわかるそうです。対話をしたからといって何かすぐにいい結果がでるわけではないけれども、退学するかしないかというような分かれ目のときに、それがはっきりと出るのだそうです。

「退学者が教職員の努力で減るということは、生徒自身が自分を大切に思うようになるからです。そのように思うようになるのは、まわりの大人が自分を大切に『敬意』をもって接してくれるからです。自分自身を大切に思うということは、行動としては荒れる行為が少なくなり、何より勉強に取り組みます。…」

「そういう生徒たちに寄り添って対話を続けていると、深みにはまって、かえって生徒たちにとってもいい結果ではない、と忠告されることがあります。だけど、僕はそうは思っていません。たしかに、生徒とは距離を置いて、ほどほどにし、大人を頼らないように、自立して自分で問題を処理させたほうがいいと考えている教師もいます。でも、僕は、大変でも逃げる大人にはなりたくない。知らんぷりをして、自分も傷つかないようにしていることが生徒にあたえるマイナスよりも、深みにはまるマイナスのほうが小さい、ということが断言できるからです」

「僕自身、生徒や親から裏切られることもあったし、生徒の話を聞いても『それはつらいね』とか『先生も考えてみるから』としかいえないことが多いです。しかし、同じ裏切られるにしても、もし初めから距離を置いていたら、そういう経験も積めないわけだから、やっぱり経験をして、成長する人生のほうがいいと思っています」

 

 対話の力に希望を感じる実例だと思います。暉峻さんは「こういう小さな積み重ねが無数にあって、社会の壁に穴をあけ、やがて変わらないと思われているこの社会を変えていくのだと思いました」と述べておられます。

 

 いま、学生の新入生歓迎運動が取り組まれており、ある大学での対話の経験を聞きました。新入生は、声をかけられ、大学の履修のことなど、自分の心配事を親身になって聞いてくれる先輩、大人を待っていることを実感します。親身で丁寧な対話が若者の心に響くのです

  

 

 

 

 

 


「対話する社会へ」(暉峻淑子著)を読む

2017-04-02 22:41:10 | 私の愛読書

 新しい年度になりました。先週は、私の母校でもある栃木県立大田原高校の山岳部の高校生と顧問の先生8名が雪崩で死亡するという本当に痛ましい事件もありました。同校の卒業生としても、残念でなりません。心からのお悔やみを申し上げます。

 

 さて、先月から読み始めた本の感想を順次紹介したいと思います。いずれも岩波新書です。

 

 

 いままさに読んでいる本が経済学者の暉峻淑子さんの最新書『対話する社会へ』です。

 暉峻淑子さんといえば、20数年前に『豊かさとは何か』『豊かさの条件』などの著作があります。私も若い時代に一生懸命に読み、深い感銘を受けた思い出があります。暉峻さんも88歳を迎えながらも、この最新書では、知性の衰えもなく、実に含蓄のある文章を書いておられます。

 

 「平和(平穏な生活)を支えているのは、暴力的衝突にならないように社会の中で対話し続け、対話的態度と、対話的文化を社会に根付かせようと努力している人々の存在だということに、私も気がつくようになりました。人類が多年の経験の蓄積の中で獲得した対話という共有の遺産を、育て、根付かせることが、平和を現実のものとし、苦悩に満ちた社会に希望を呼び寄せる一つの道ではないか、と思っています」(まえがき)。

 

 「対話が大切だ」とは言われれば、いわゆる民主的運動に参加している方なら誰でも同意することでしょう。しかし、日常生活で、本当の意味で「対話」ができているのかどうか、ふり返ってみることが必要だと思います。

「対話」とは、日常の「会話」とは違う。ディスカッションともディベートとも違う。日常の常務連絡、一方的な指示、伝達とも違う。私たちもよくいう「意思統一」とも違う。

 

・対話とは、議論して勝ち負けを決めるとか、意図的にある結論にもっていくとか、異議を許さないという話し方ではない。

・対話とは、対等な人間関係の中での相互性がある話し方で、何度も論点を往復しているうちに、新しい視野が開け、新しい創造的な何かが生まれる、両方の主張を機械的にガラガラポンと足して二で割る妥協とは違う。

・個人の感情や主観を排除せず、理性も感情も含めた全人格をともなった自由な話し合い方が対話である。

・言葉の本質は対話の中にある。官の言葉、司法の言葉、政治家の演説、教科書など、いわゆる記述式の言葉が、明治期に標準化されてきた。しかし人間の言葉の始まりは対話であり、市民の言葉は対話である。

・幼児が生れてはじめて聞く言葉は親が注ぎかける対話の言葉であり、子どもは生まれながらにそれに応答する能力を持っている。

 

 本書の中では、「対話」について実に深い考察がなされています。

 私も、暉峻さんの考えにかなり共鳴しました。私も、この年齢になって、本当の「対話」というものが実に楽しく、有意義で、自分の視野を広げてくれるものであることを実感しています。特に、若い人たちとの「対話」から、学ぶことはたくさんあります。単なる会議の議論だけでは知ることのできない、豊かで多様な考えにふれることは実に楽しいことです。最近よく言われる「リスペクト」と通じるものがあります。組織の中では、形式上、上下関係があることはやむを得ないことですが、人間としては平等です。上役だから、人間として優れているということはありません。例え、年齢が離れている年下の相手であっても、私たちの知らない世界を知っており、認識をあらためさせられます。

暉峻さんは、「人々は生の人間との対話に飢えている」と述べています。

「体にビタミンが欠乏すれば、自然にビタミンを含む野菜を食べたくなるように、人間の心もまた、新聞やテレビや講演のように、いつも受け身で、自分の存在価値が影としてしか感じられないような、そういう生活から抜け出したいと思っているのではないでしょうか。自分の存在を確かめたい、あるいは認めさせたいために、ことさらに注意を引き付けるいたずらや非行に打って出る青少年もいます。ぎりぎりの自分という存在を感じたかったのではないかと想像もしてみるのです」

 

 この本には、私のこれまでの認識にはなかった視点がたくさん盛られています。熟読したいと思います。