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壁のメタファーと、初心者のゴルファー

2010年09月12日 22時26分48秒 | Essay
「壁」という表現を日本人は好む。

例えば「言葉の壁」。日本人が外国人と結婚すると「言葉の壁を乗り越えてゴールイン」という。ゴールインという表現は古いけど。

よく使われるのは日本人スポーツ選手が、世界に出て通用しなかった時の「世界の壁は高い」という表現。

それに、数年前のベストセラーに養老孟司氏の「バカの壁」なんてものもある。

守備が堅いことを「鉄壁の守り」と言ったりする。つまり鉄の壁。

あの村上春樹先生は、エルサレムでの演説で、暴力的な権力機構を「壁」、その被害者を「卵」に例えて「私は常に卵の側に立つ」という名スピーチを残した。

【壁】…大きな困難や障害(大辞林)

その壁が、僕の眼前に立ち現れた。

「100の壁」だ。

前置きが長かったが、ゴルフの話だ。

ゴルフを始めて、ある程度上達すると皆100打で18ホールを周ることを目標とする。そこで、多くの人が100を切るか切らないかの所で一度成長が止まる。本屋でゴルフ雑誌やゴルフレッスンの本を見ると、そのタイトルや特集の多くが「100切りのための~」「絶対100を叩かない~」と銘打たれているのが良い証拠だ。

僕はゴルフのキャリアは短いので100を強く意識してこなかった。一回一回、スコアを縮めることが目標だった。
でも、昨日のラウンドで変わった。

9ホール終えた段階のスコア50。当然ハーフでのベストである。

「100…切れるんじゃないか…」

こんな思いが僕の頭をよぎった。

「このペースなら100いけるじゃん」

周囲もはやし立てる。

後半、意気揚々とコースに出て、好調をキープ。

でも、終わってみれば102。3打及ばず。

泊まりがけだったので、今日は二日目。再度100にチャレンジ!
多くの人がぶち当たる壁を「簡単に越えられるかも」と思ったのが罰当たりだったのか、結局111。無念。
「あのショットがうまくいけば…」「あのパターが…」
後悔は尽きない。

でも簡単じゃないからこそ、「壁」と表現する。簡単に越えたらおもしろくない。

越えられないから越えたくなる。

100の壁。次は越えるぞ。

グローブ焼けで、左手の付け根と手首の間に、くっきり日焼け跡が付いた手を見ながら、そう誓う。

もうちょいまともな壁にぶち当たれよ、という指摘はナシね。



野菜に謝りたい

2010年09月10日 00時56分16秒 | Essay
突然だけど、謝らなければならないことがある。

僕は野菜を、肉や魚に比べて格下だと思っていました。ごめんなさい。

先日新宿にある「農家の台所」というお店に行った。ここで野菜に「謝りたい」と思ったのである。

この「農家の台所」、農家と直接契約をして街中のスーパーではあまり見かけない野菜を、サラダや煮物、グリル……と、色々な調理法で提供してくれる。基本的にはコース料理で、サラダバー付きで前菜、小鉢×2、魚料理、肉料理、〆のご飯もの、で構成されるのだけど、そこに登場する野菜がどれもこれも個性的。

たとえば、サラダバーのサラダ茄子。生で食べるのだけど、そのみずみずしいこと。そしてほのかに甘い。僕は、週に一度は茄子をスーパーで買って、焼きナスや煮びたしにして酒の肴にする、自称「茄子通」だが、これには参った。

あとは肉料理の付け合せとして登場した「海水玉ねぎ」。海水をかけて育てるから「海水玉ねぎ」。わかりやすい。
塩水をかけられるとは何と不憫な玉ねぎ…と同情するなかれ。厳しい環境で育てられると、玉ねぎが自分で頑張って甘くなるらしい。なんとたくましい。そのグリルを口に含むと、驚き。甘い、すんごい甘い。上品な甘さと、程よいシャキシャキ感で、メインであるはずの豚肉の存在感を凌駕していた。「あると便利だから」「くさらないから」と消極的な理由で各家庭に鎮座しているあの玉ねぎが、である。僕の兄が、チャーハンから一つずつ器用に取り除いていた、あの玉ねぎがである。

他にも、茎がカイワレぐらい細いのに驚くほど風味豊かなセロリや、ミニトマトの半分ぐらいの大きさなのに、甘さは抜群のトマト……など、見たこともない野菜の存在感に圧倒された。

店員さんたちもとってもフレンドリー。

「今日はどの野菜が一番おいしかったですか」「これは○○県の●●さんという方が作っているんです」。女性店員の、みずみずしいトマトのようにさわやかな笑顔から「野菜が好き」という思いが伝わってくる。彼女は、本来、山形ガールズ農場という国立ファームが運営する農場に入ったのだが、今はお店で修業中なのだという。農場に戻ったら、きっとおいしい野菜を作るのだろう。

人の砂漠東京で、おいしい野菜を届けようとする農家と、おいしい野菜を求める消費者をつなぐ、温かい台所だった。



鳩山政権の意図せざる功績

2010年01月11日 01時07分23秒 | Essay
 鳩山政権発足から120日。マスコミの政権批判が少しずつ高まってきた印象を受ける。アメリカでは新政権発足から100日間の間、メディアはが批判を慎む「ハネムーン」という風習があると言う。戦後初めて、国民の力で政権交代を成し遂げた日本では「ハネムーン」はあっただろうか。私が見る限りあまりなかった。
 
 最初の1ヶ月・2ヶ月は、マスコミ各社も自民党時代の政権運営との違いに戸惑いながらも、ある程度冷静に鳩山政権を見守っていた。しかし、一連の普天間のごたごたを巡り、各社、特にやや右寄りの社論を持つメディアが、痺れを切らして強烈な批判を始めた。日米首脳会談で鳩山首相がオバマ大統領に普天間移設を巡る日米合意の履行について「トラスト・ミー」と語ったが、翌日には「日米合意が前提ではない」という趣旨の発言をした。その後の日米関係の冷え込みは報道で伝えられている通りである。この日米関係の悪化について各社は「普天間移設の方向性を決められない政権」であり「日米関係をいたずらに悪化させている」という論調で鳩山政権批判を強めた。これに加え2010年度予算編成で、暫定税率廃止などを巡って政府内の足並みの乱れが目立ち始めると「鳩山首相の指導力のなさ」を批判する論調が強まった。最近も小沢幹事長への権力集中や、普天間移設問題の政府の足並みの乱れを指摘する記事が紙面を賑わせている。

 そんな中で、あえて鳩山政権の「功績」を考えてみる。それは、政権側が意図的であるかないかには関わらず、自民党が政権与党であったとき時には見えなかったものが、白日の下にさらされた、ということではないだろうか、と思う。最近流行の言葉で言えば「見える化」である。

まず政権が意図的に可視化したものの最たるものは事業仕分けであろう。陰で財務省が動いていたとか、仕分け人の態度が高圧的、とか色々と批判があろうが、少なくとも国の予算がどのようなことに使われているか、どんな無駄があるのか、と言うことを多くの国民の目に見える、かつ興味を引く形で示したと言うことは意義のあることだと思う。

一方で、鳩山政権は意図せざる形で様々なものを可視化した。

第一には日米関係。自民党政権化では「日米関係=良好」「日米首脳会談=日米安保同盟の重要性確認」というある種予定調和の部分が大きかった。鳩山政権はそれを「悪化させる」という形で「良好な日米関係は当然のものではない」ということ国民に再認識させることとなった。

第二に、日米関係と関連するところで基地問題が挙げられる。これまで基地問題が顕在化するきっかけはアメリカ側にあることが多かった。例えば96年の米軍による少女への婦女暴行事件。この事件を契機に普天間移設への機運が高まった。しかし、今回は鳩山政権が米国ともめる、ということによって、日本国内に外国軍の基地がある、という本来は不自然(ちょっと乱暴な言い方だけど)な状態について改めて考えさせられることになった。

そして第三に、天皇の政治利用という問題。これまで「天皇陛下の政治利用」ととられることを政府はかなり避けてきた。一方で、今回の天皇の特例会見問題。天皇陛下が外国の要人と会う場合には一ヶ月前に宮内庁に申請しなければならないという「一ヶ月ルール」を破り、政府が習近平国家副主席を謁見させることを宮内庁側に強く要請していたことが発覚した。中国との関係を良好にするために天皇との謁見を「無理強い」したのではないか、ということが批判された。その中で改めて考えさせられたのは、天皇陛下を外交のため、政治のために利用することの是非である。


これまで自民政権はこれらのデリケートな問題を巧みに処理していたがために、ほとんど表舞台に出てくることはなかったけれど、民主党政権の「幼さ」故に国民の目の前にさらされることとなった。

一つ一つの問題に関しては賛否の割れるデリケートな問題なので評価は避けるが良きにつけ悪きにつけ、国民の多くに「考えるきっかけ」を与えたという一点に関しては大きな功績であると私は思っている。

ただ、それが政権側が意図せざる形で露見しているのが悲しいところなのだけど…



さて、申し遅れましたが、あけましておめでとうございます。このことはかねがね書きたかったのだけど、書く気力も体力もなかったので、やっとの思いでたどり着いた冬休みに書いてみました。

ところでこのブログ、6年目を迎えていることに気づきました。更新するかどうかは分かりませんがお付き合いください。今年もよろしくお願いいたします。

『意志の勝利』

2009年08月25日 02時54分09秒 | 映画
 1934年に開かれたナチスの党大会を記録した映画。ドイツ国民の国威発揚のために、ヒトラーの指示によって撮影された、いわゆる「プロパガンダ映画」だ。
 一糸乱れぬヒトラーユーゲントたちの行進、「ハイル・ヒトラー(ヒトラー万歳)」と連呼する大衆……。ナレーションもなく、ただ高揚感を高める音楽とともに党大会の様子が記録されている。
 当時のナチス、というよりヒトラーの絶大なるカリスマ性を知るにはあまりあるほどの映像が2時間余り流され続ける。その光景は「異様」としか表現の仕様がない。ヒトラーの演説に半狂乱になり「ハイル・ヒトラー!」と叫ぶ聴衆に、僕は寒気さえ感じた。
 ナチスの党勢拡大に寄与したこの作品は、その影響力の大きさから、いまでもドイツで一般上映を禁じられているそうだ。
 それでいいのか、と思う。ドイツではナチスを触れてはいけない過去として扱う傾向がある。例えばヒトラーの著作「わが闘争」が未だに発刊禁止であったり、「アドルフ」という珍しくなかった名前が戦後はほとんど消えてしまったり……。
 確かにドイツにとってナチスは負の遺産だろう。でも第二次世界大戦終結から64年。未だに上映禁止、というのは解せない。64年前、一体何が起こっていたのかを理解する上では貴重な資料だ。
 「この過ちを繰り返してはいけない」ということを改めて認識する事ができる。日本もこれと同じような狂乱の中で戦争に突き進んでいったのかな、と想像すると胸が痛くなった。僕が見てもそうなのだから、ドイツの若者が見たらもっと心に響くに違いない。
 「臭いものには蓋をする」のではなくて「臭いからこそ匂いを嗅ぐ」という精神が必要だ。運動した後に現れる、足の指の爪に挟まったあの「黒いヤツ」をなんだかんだで匂いを嗅いでしまうように、64年前に起こった「黒いヤツ」の匂いをしっかりと嗅ぐべきだと、僕は思う。


 余談だけれど、やっぱりヒトラーは演説がうまいのだと思う。ドイツ語ほとんどわからないけど、抑揚の付け方とか、リズミカルな感じとか。理念を力強く語つ所とか……ドイツ国民が熱狂したのもわからないではない。それに比べて今、テレビを騒がす日本のJ民党総裁やM主党代表の言葉の響かなさときたら…。少し情けなくなってしまう。ヒトラーを評価するわけはないけど、やっぱり政治家は言葉を売り物にする商売なんだから、もう少し国民に響く言葉で語ってほしいもんです。

のりピー報道、マンモスかなピー

2009年08月09日 15時13分32秒 | Essay
「酒井法子容疑者を逮捕」

予想はしていたけど今朝の朝刊各紙見てがっかり。

朝毎読とも1面の2番手の扱いで、社会面トップで受ける扱い。

確かにのりピー逮捕は社会の関心事だ。でも、全国紙がデカデカとやる話なのか?という気持ちが拭えない。

インパクトがあることや多くの人が関心のあることが新聞報道の役割であることには間違いない。ただ、それだけでいいのか、と。「ある事象の影響が今後どう広がっていくのか」「多くの人に影響があるか」とか。「なぜこんなことが起こったのか解説する価値があるのか」とか。色々な角度からニュースの価値を判断するのが、新聞の仕事でもある。

で、今回ののりピー。ただ一人の人間が覚醒剤を使ってたってだけの話である。それがたまたまのりピーと「自称プロサーファー」っておもしろい肩書きの夫だっただけ。それ以上の広がりはない。これで覚せい剤の汚染が社会に広がるとか、子供に悪影響を与えるとか、そーゆーことはほとんどないと思う。おもしろいだけ。

それを新聞がする意味がどこまであるのか。テレビや週刊誌やスポーツ紙はやる価値があるだろう。有象無象の情報を盛り込んで視聴者や読者の求めるものを伝えれば視聴率が取れる、部数が伸びる。

新聞はほとんどが宅配なのでおもしろい事をしても、一時的に部数が伸びると言うことはあまりない。しかも新聞はあくまで警察発表ベースの情報を「公正中立」の名のもとに、淡々と書く。読んでいてもおもしろくない。テレビよりつまらなく、そして少ない情報しか盛り込まれていない。新聞を見て読者は「なんだ新聞ものりピーか」って思うんじゃなかろうか。テレビやスポーツ紙よりつまらない事をしていても、読者は離れる。彼らとは別の事をしなければ斜陽産業の新聞は生き残れない、と僕は思う。

読者が読んで驚いたり、ニュースを理解したり、新しい視点を得られたするような新聞を作らなきゃいかんのではないだろうか。

今週は色々なニュースがあった。原爆症の救済、クリントン訪朝、裁判員裁判…

いずれも日本の政治、行政、外交、司法に大きく影響を与える事象だ。それなのにテレビも新聞も、こぞって押尾とのりピー報道ってのじゃマスコミの品格を疑われる。ってかそんな品格、最初からないし、誰もあると思っていないか。

きょう8月9日、長崎原爆の日である。各紙一面で核廃絶を願うコラムが綴られている。いずれもベテラン記者が書いた心に響く文章だ。

その上にデカデカと白抜きの文字で「酒井法子容疑者を逮捕」。

なんだかなー。



さて、読者の皆さんはどうお感じになるのでしょうか?「おもしろいからのりピー報道でいいじゃん」なのか「新聞でわざわざのりピー読まないから別のことやれよ」なのか、気になるところ。

問いかけてはみたものの、大半は「最初から新聞読んでないからどーでもいい」って答えなんでしょうな。



猫も杓子も財源、財源

2009年08月02日 02時42分30秒 | Essay
政界やマスコミで「財源論」が盛り上がっている。

31日に自民党がマニフェストを発表し、主要政党のマニフェストが出揃った。民主党に対して自民党もマスコミも「バラマキだ」「財源がない」という批判を強めている。一方で自民党のマニフェストに対して、これまた民主・マスコミとも「財源に不安がある」と批判を畳み掛ける。

財源論争が盛り上がる事は良いことだと思う。「お上意識」の強い日本で、はなんとなく

政策が実行され、なんとなくバラマキが行われてきた側面がある。田中角栄が「日本列島改造論」を打ち出したとき、どれくらいの日本人が「財源は大丈夫か?」と疑問を抱いただろうか。かなり少なかったんじゃないかと思う。


ところが最近ではそこら辺のおばちゃん(うちの母親とか)まで「民主党の政策は財源があいまいだ」なんて言い出しちゃうぐらいだから、随分と財源を巡る考え方が浸透してきたものである。

ただ、「その財源論争、最近過剰じゃああるまいか」と言うのが本稿の主題。

仮に、今回のマニフェストで自民党が財源捻出の最有力候補とされる消費税率の引き上げを明示したら……。自民党に対して、民主党やマスコミ、テレビに登場したりする「有権者」はどんな反応をするのだろう?

マスコミや有権者が「さすが自民党。民主党と違って財源を示すなんて、やっぱり政権与党だね。まさに『責任力』。いっちょ自民党に投票しちゃおーぜ」なーんてことには絶対ならないだろう。

「消費税率を上げる前にすることがあるだろう」とか「いきなり増税だなんて乱暴だふざけんな」とか、相当な批判が巻き起こることが予想される。民主党もここぞとばかりに批判を強めるだろう。消費税上がるの皆嫌だもんね。

つまり、今巻き起こってる「財源への不安」を巡る批判ってその程度のもんでしかないんじゃないか、と思うのだ。本当に真摯に財源の事を考えたとき消費税の引き上げは避けられない。埋蔵金とか無駄遣いを全部やめたぐらいでは、おそらく日本の「債務超過」は収まらない。なんてったって来年度の予算では国債発行が税収を上回るかもしれない、言ってみれば、収入より借金の方が多くなる異常事態だもの。でも実際に消費税を引き上げるとなったらとてつもない拒否反応が起こる。要するに有権者も批判する側も「消費税引き上げどんと来い」と受け入れる覚悟ができてないのだ。

「財源、財源」って言うんだったら、消費税が上がる事を覚悟すべきだし、消費税を上げると政党が言ったらキチンと評価すべきだなんじゃなかろうか。その心構えがないのだったら、批判する資格はない。今巻き起こっているのは自民も民主も耳障りが良い政策を並び立てるから、なんとなく「財源あやしくねぇ?」と突っ込みたくなってしまう程度の財源論争に過ぎない。本当に日本の借金をどうするか、とか消費税の引き上げをどうするか、とかいう本質的な議論には結びついていないように、僕には見えるのだ。

と、散々「消費税率引き上げやむなし」と述べ立てたてた一方で、やっぱり消費税率上がるのには抵抗あるなー、というのが本音。次期政権には、しっかりとした財政再建目標を立てて、財政健全化を進めてほしいものです。

8月30日は選挙行きましょー

ブッシュ

2009年05月19日 22時59分04秒 | 映画
ブッシュは史上最低の大統領である。

この評価はアメリカや日本でそれなりの市民権を得ている。彼の在任中に起こった様々な出来事の中でも、特にイラク戦争は彼の名を貶しめた。本作はその当時の意思決定の過程を彼の半生と共に振り返っている。

「イラク戦争が失敗だった」という機運が高まり、孤独感に苛まれるブッシュの姿が作品終盤で描かれる。9.11後圧倒的な支持を得ていた政権があっという間に「史上最低」という評価がされていく悔しさややるせなさは我々の想像を超えたものだろう。

「自由」を掲げイラクを「悪の枢軸」と呼び、攻撃を仕掛けた。その大義名分が大量破壊兵器を保有している、というものだった。結果的にはイラクには大量破壊兵器はなかった。その後イラクの政情は混乱し、今もテロが頻発している。

それを以って結果論として「最低」と評価する事はたやすい。しかし9.11の直後「テロとの戦い」を掲げたブッシュ政権を支持したのは紛れもなく米国民だ。

そんなアメリカは今、ご存知の通りオバマフィーバーに揺れている。外交での融和路線、中間層への減税と高所得者層への増税、金融緩和…共和党のブッシュが推進した政策とは、逆方向に進み始めた。

そんな今のアメリカは、ブッシュの目にどう映っているだろう。「9.11後に俺を支持してたのに何だよコンチクショー」と思っているのではなかろうか。あくまで想像だが。

大学時代の破天荒な日々。父へのコンプレックスと反発。イラク戦争後の孤独と苦悩。「第43代アメリカ合衆国大統領 ジョージ.W.ブッシュ」というよりも「一人の人間としてのブッシュ」が浮き彫りにされる本作を見ると、思わず今のブッシュの心の中に思いを馳せてしまう。

いつも心にナンシーを

2008年06月08日 23時50分17秒 | Essay
僕はあの日のことを今でも鮮明に覚えている。いつもの夕食の時間。テレビを見ていると衝撃的なニュースが。

「ナンシー関さん死去」

僕は箸を止め、言葉を失った。

ナンシー関が亡くなってはや6年。

今日は彼女の7周忌を偲ぶ「ナンシー関 大ハンコ展」なるものに行って来た。

渋谷パルコには大行列が出来ていた。入場まで30分。

消しゴム版画家であり、テレビ批評のエッセイスト。

彼女の死後も多くのテレビ批評家がエッセイを綴っているが、彼女には遠く及ばない。あれほどシニカルでユーモラスな語り口を、僕は未だかつて見たことがない。

基本的に僕は冷めた人間で、友人にも辛口だとか厳しい、とか軽薄だ、とかいうありがたい評価をしばしば頂戴する。

そういう冷めた物事の見方は「ナンシー関的なもの」への憧れから来る部分も大きい。

初めてナンシーの著作を読んだのは中学生の時だった。それを読んで僕は「こんなにおもしろく物事を斬れる人間がいるのか」と衝撃を受けた。

今でも僕は「ナンシー的」でありたいと思っている。もちろん遠く及ばないが、仕事でも日常生活でも、常に一歩引いた視点から、嘲笑しながらもマジメに物事見つめたい。

民族学者、大月隆寛が彼女が亡くなった際に言ったという言葉がすごく印象的だ。

いつも心にナンシーを。

今日の大行列は今なお多くの人の心の中に、「ナンシー的」なものが宿っていることの証左だろう。


嶋中労『コーヒーに憑かれた男達』2008、中公文庫

2008年06月04日 01時52分01秒 | 珈琲
ぶらりと立ち寄った本屋でタイトル見た瞬間購入。

コーヒー好きとしては読まねば、と。

タイトルの通り「コーヒーに憑かれた男達」の一杯のコーヒーにかける情熱が淡々と描かれている。

生豆を30年熟成させたり、お湯の温度1度、コーヒー1gの差に徹底的にこだわったり…

およそ常人とは思えぬような「一杯のコーヒー」へのこだわり。

興味のない人が読んでもまるでおもしろくないかもしれないけど、僕は少なからずその気持ちがわかる。
僕が朝起きて一番初めにすることはお湯を沸かすことだ。お湯に火をかけて、玄関で新聞を取る。各紙の一面を見比べているうちにお湯が沸く。

カップとドリッパーにお湯をかけて温めるうちにミルで豆を挽く。ほのかにコーヒーの良い香りがキッチンに漂い始める。

ドリッパー豆を入れてお湯を注ぐと、豆がふくらむと同時に香ばしい香りが部屋中を埋め尽くす。少しずつ黒い液体がカップに落ちる。

淹れ終わったカップをテーブルに置き、一口味わってから新聞を読み始める。

この一連の動作が僕の一日の始まりであると同時に至福の時だ。

たかだか一杯。されど一杯。

あらためてコーヒーって素敵な飲み物だな~、と思った一冊。

でもなぜコーヒーが特別なのか?と問われると論理的な回答は用意できないな~。それもまたコーヒーの素敵なところ。









マイケル・ルイス『マネー・ボール』2006、ランダムハウス講談社

2008年05月30日 00時45分57秒 | 書評
野球の魅力とはなんだろうか?

野球に興味がないお前が何を突然、と思われるかもしれないが、お付き合いいただきたい。

豪快なホームラン、華麗な守備、迫力のある走塁…

プレイをしない者としては、そういう派手な部分が野球の醍醐味であろうし、それが勝敗を左右する、と思っている。

厳密には思ってい「た」。この本を読むまで。

本書は、大リーグで伝統的な、スカウトの「勘」による選手選びを排し、合理的、客観的な価値基準のみによって選手を選び、大リーグで成功したGM、オークランドアスレチックスのビリービーンの物語だ。

例えば、彼はドラフトの際にこれまで重視されてきた「パワー」や「走力」「守備力」を気にしない。

彼が着目するのは「出塁率」である。

華麗なバッティングよりも、ボールを見極める選球眼、打たずに四球を選ぶ忍耐力、という目には見えない能力こそがチームに最も貢献する、ということを彼はデータから導き出し実践した。彼以前にそれを実践したものは存在しなかった。

そのおかげで、格安でチームに貢献する選手を次々獲得し、年俸トータルでヤンキースの3分の1しかないチームをプレーオフに進出させるほどに成長させた。

目に見えるものや「勘」や「経験」ではなく、客観的なデータに基づいた数値こそが実は重要なのだ、というのは野球以外のスポーツにも言えることだろうし、おそらく仕事などについても言えるのであろう。

身近にある「伝統的なもの」が本当に正しい尺度なのか、と疑ってみることが重要なのかもしれない、と考えさせられる一冊。

野球好きにも、野球に興味がなくても合理主義的な方にはお勧め。

とは言え、ビリー・ビーンの考え方に納得させられる部分は多いものの、やっぱり華麗なダイビングキャッチや胸のすくような豪快なホームランって良いよね、と思うのはアタマの固い文系アナログ人間の悲しい性だろうか…