歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

前橋から花燃ゆ㉒前橋女学校(女児学校)

2015-12-05 08:32:34 | 日記
Q アイスクリームつくる氷って真夏にどっから調達するの?

A え~・・・横浜から製氷機を取り寄せるか、
  ああ、養蚕は繭倉庫に風穴や氷穴を使うので。
  この時期はまだあまり使われていないらしいが、榛名風穴があります。

Q ・・・そこから氷を?利根川に橋ってあったの?

A むろん泳いで!!(あ・・・船橋があったな)



それはともかく!
質問もいただいておりますんで、前橋の「女児学校」(女子小学校)について、
私の認識違いもあったので再度まとめてみます。
明治5年の学生発布により「女児小学」が定義されました。
修学は4年間で7~11歳。
これを受けて明治11年に前橋に開学したのが前橋女児学校ですが、
正式名称は「前橋女学校」のようです(ちょっとこのあたり資料を確認中・・・)


この学校・・・ドラマでは明治15年のことになっていますが、
「前橋女学校」の開学は明治11年です。
当初は前橋本町の民家を仮校舎としていましたが、
13年5月に市内連雀町の八幡宮北側に新校舎が落成しました。
初代校長は朝岡剛平氏が就任。
現在だと・・・





この辺りってことになりますか?国道50号げんき21前。
この間紹介した、生糸改所の反対側になりますね。
奥に見えるのが八幡宮ですが、しかし石柱とかもないので推測しか。
当時の前橋の一等地ですね。


新校舎の落成式には楫取素彦県令はじめ、
下村善太郎や前橋名士が数多く参列したそうです。
また、安中出身の新島襄や楫取寿子県令夫人も、
学校の熱心な支援者だったと伝わっています。
(注:同時期開学準備中の県立女学校と逸話が混同している可能性もあります)


こうして学校は軌道に乗ったかに見えたのですが、
明治16年5月1日・・・前橋市街地の過半を焼いた、
「前橋大火」で新校舎は全焼してしまいました。
学校は再び民家を借り「第一女学校」「第二女学校」として存続し続けます。
ですが、明治18年に不況が直撃し・・・
そして明治19年に小学校令発布によって、
尋常小学、高等小学の体制となりました。
同年は「女子分教所」として存続しましたが、
21年は学年に応じて在学生は既存学校の相当学年に振り分けられ、
「前橋女学校」は姿を消しました。


なお、教科については裁縫が12時間プラスされている他は、男子とほぼ同じです。
ただし、その12時間分は他の学科が削られました。
また、閉校寸前の19年には女子にはなかった「体操」が組み入れられました。


なお、学校は明治17年までで、

11年 598人
12年 585人
13年 483人
14年 341人
15年 379人
16年 265人
17年 180人



が在学したと記録されています。
大火以後、特に生徒数が減少しています。
これは他に、前橋他地域の学校への進学者が増えたことも原因です。
女児学校は女子就学率向上のため、県都・前橋にシンボル的に創設された面もあるので、
就学率を上げた時点で役割を果たしたとも言えます。


ただ「前橋女学校」が閉校になり、
高等教育機関の「群馬県立女学校」も15年に開学も19年3月に閉校。
(有志による援助を経て、現在の前橋共愛学園へ移行)しており、
県内の女子学校は明治32年の高崎高等女学校まで待つことになります。
もっとも、この空白を明治裁縫学校などの、裁縫学校系私学が埋めることになりますが・・・
どちらにせよ「前橋女学校」が今日存続していないのは残念ではあります。
校舎は残っていても、前橋空襲で焼失してしまったかも知れませんが・・・



前橋八幡宮 晩秋の風景。



参考文献『前橋市史』第3巻




智本光隆

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