読書日記と読書ノート 第三部(2013年6月~2015年6月) 吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

187、井上達夫「普遍の再生」(岩波)-前半-(1/2)

2017-07-08 06:10:49 | 読書日記

日記から

20141022()

井上「普遍の再生」を100頁余り読む。いつものように難しく書いてある。第1部は天皇の戦争責任を論じる。敗戦責任、つまり結果責任ではなく、不当な正義に反する戦争を行った最高責任者としての責任だ。どいう意味で不当か。何よりも、中国から東南アジア一帯にかけて侵略戦争を仕掛けた責任。第二に、不正な戦争によって一般市民を含めおびただしい犠牲者を出したことに対する責任。その責任はどのような性質のものか。不正な戦争を抑止しなかった倫理的な責任。国家元首としての政治責任。憲法上阻止しえたにもかかわらず、阻止しなかった法的責任。これら責任をどういう形で取るべきだったか。一は謝罪、二は退位。自決もありえた。井上の論理は明快で一貫しているが、派生する問題に言及すると難しくなる。一つの論点は竹内好が主張する米英への戦争は帝国主義国同士の戦争で非難される筋はないという二重戦争論。これに対しては、対米英戦争は日中戦争の必然的な帰結であること、シンガポールやジャワ島への侵攻は侵略戦争そのものだった、と応じる。次に加藤典洋。まず犠牲となった日本兵の追悼が先決で、そのうえでアジアの国の人々への謝罪がある、という論。井上の批判より、加藤の言っている意味自体がよくわからない。結論とて、日本人はなぜ天皇の戦争責任を問題化できなかったか。井上によると、それは日本人のナルシシズムのためだ。自分と自国を肯定したい。その心情を天皇に投影する。天皇の責任を問うことは自分の責任を問うこと。こうした自愛心、自己弁護が天皇を免責した。ナチズムの罪責を謝罪するドイツも、ナチスと区別されドイツ自体の責任-加害責任を認めることについては及び腰。ナショナリズムの心情が責任意識を曇らせる、その点はでは同じだ、という。そうかもしれない。戦後派の俺にとっては、天皇の責任を問うことは自らの加害責任に直結しない。責任を負わない天皇と日本を批判できる。が、同時代に生きた人にとっては、天皇とともに自己をも免責したいという心情が働くのだろう。慰安婦問題に対する反応も同じ視点から見ることができる。

 

(つづく)

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 186、間宮陽介「丸山眞男を読... | トップ | 187、井上達夫「普遍の再生」... »

コメントを投稿

読書日記」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。