読書日記と読書ノート 第三部(2013年6月~2015年6月) 吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

249、佐藤幸治「立憲主義について」(放送大学叢書)―前半-

2017-12-07 07:21:13 | 読書日記

日記から

・2015年5月22日(木)

佐藤幸治の「立憲主義について」を69ページ読んだ。権力を抑制する仕組みとしての立憲主義はいつどこで生まれたか。古代ギリシアのポリスは自治は知っていたが、個人の自由という発想はなかった。古代ローマでは、専制の防止や平民という身分を擁護する仕組みはあったが、やはり権力に対して個人の自由を守るという思想はない。イギリスのコモンローはどうか。コモンローが王に優位する権威と拘束力をもつことが憲法慣習として定着した。が、それも個人の自由の擁護を目的としたものではなく、たんに国政上の決まりにすぎなかった。個人の自由権利を擁護するために権力行使の在り方を制度化したのはホッブスとロックに始まる。ホッブスは内乱の血の経験から、ロックは議会優越の政治変革から、いわば現実を遡及的に理論で根拠づけた。これに対して、理論で現実を変革したのがアメリカ独立革命だ。佐藤幸治の筆致は断定を避け、論点を提示するスタイルをとる。

・5月23日(土)

「立憲主義について」を少し読んだ。著者は、アメリカ憲法の父=マディソンがローマ共和政にならつて、権力機関がそれぞれ独自の基盤に立ちながら相互に抑制する仕組みを構想したことを高く評価する。自由のための権力、の構想だ。これに対して、トマス・ペインは権力の抑制よりも、人民が憲法によって政府を作ることを重視した。憲法が政府を作る。ペインの方が人民主権を徹底している。マディソンは社会においても一つの勢力が全体を支配することを警戒した。異なった力が競合するところに自由がある、と。この見方は福沢の「自由は不自由の際にある」と同じ自由観だ。それにしても、合衆国憲法の権威に比して日本の憲法に対する罵詈雑言は何というべきか。神や天皇はともかく、権威のないところに統合は難しい。この状況では不安と動揺は避けられない。そこに、橋下みたいなデマゴーグが登場する余地がある。

(つづく)


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