読書日記と読書ノート 第三部(2013年6月~2015年6月) 吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

156、諏訪哲二「プロ教師の流儀」

2017-05-12 05:15:24 | 読書日記

日記から

2014817()

「プロ教師の流儀」を読了。納得できる論がたくさんあった。基本は、教育は生徒が主体的に受け取り変形して吸収するものだということ。教師は提示するが、意図したとおりに生徒に受容されることはありえない。生きた人間(生徒)の感性や意欲や能力に媒介され。選択的に-教師が意図したものとは異なって-受け入れられる。だから、教えることが上手な優れた教師という言明や理想は、生徒の側の主体性を捨象した抽象像にすぎない、という。その通りだ。また、教師と生徒との関係は師弟関係とは違う。後者は弟子の側に、師に従う、師の教えをそのまま受容する意欲がある。いわば人格的帰依の関係がある。が、教師・生徒の関係を作るのは人格的なものではなく、制度的な、言ってみれば権力的な関係だ。双方に相手を選ぶ契機はない。教師は学びの場と機会を示すことはできても、それがどう受容されるかは偶然に委ねられている。教え込み(インドクトリン)は生徒の自由を侵す。この論もわかる。次に、進学競争にさらされている教育現場について。著者の視線は両義的。一方では、社会的にそうせざるを得ない状況にある教育現場の競争体制を受け入れる、受け入れざるを得ない。他方では、点数で測れない教育がある、という目をもって現状を批判的に見ることの必要性。点数化できない総合的人間力の育成を教育の目的に据える。主張はわかるが、規定は曖昧だ。総合的人間力には道徳性や芸術的な感性も含まれるので、数値であらわすことができず、それゆえ抽象論にならざるを得ない。総じて、著者は教育の限界と教えることの怖さをわきまえない教育論に警鐘を鳴らす。流行りの「カースト」という言葉が持つ差別性を問題にする感覚にハッとさせられた。なるほど。教室内の生徒が意識的・無意識的に形成する階層性を、生まれによって厳格に仕切られた生の秩序を示す言葉で表現するのは適切ではない。勉強になった。

(了)

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