読書日記と読書ノート 第三部(2013年6月~2015年6月) 吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

時事3-2 教育の政治的中立、教師の政治的活動の自由 (2016.8.27 記)

2016-10-11 06:41:18 | 時事
【Ⅱ】教師の政治的活動の自由と限界
①「佐々木事件」
宮城県小牛田農林高校の佐々木先生は、市民集会で生徒会活動を報告しようとしたところ、県教委から事前指導を受けた。教育公務員は政治的行為が制限されているので、政治的中立性に反することがないように、と。教育公務員特例法が引用する国家公務員法102条とこれに基づく人事院規則は政治的目的を持ってする一定の政治的行為を禁止している。公務の政治的中立を確保するためだ。法令を厳密に解釈すれば、公立学校の教師はたとえ日曜日の校外の集会であっても、自分の政治的信条や意見を表明する自由がないことになる。しかし、公務員であっても公務を離れれば一私人であり、市民として政治活動の自由があるはずだ。一方は公務員という身分に由来する制約を強調し、他方は市民としての政治活動の自由=表現の自由を重く見る。

②猿払事件最高裁判決(昭和49年11月6日猿払事件大法廷判決)
最高裁は前者の立場に立って、以下のような判決を下した。
「行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼を確保するため、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為を禁止することは、まさしく憲法の要請に応え…その目的は正当なものというべきである」
※多数意見は、このような判断のもとに、選挙ポスターを掲示した郵便局員を法令に違反する政治的行為を行ったものとして有罪にした。

③批判
・石田和外長官のもとの司法反動化時代を象徴するこの判決には判決当時から強い批判があった。8人の裁判官の多数意見に対して4人の裁判官は反対意見を述べた。
・芦部信喜(東大教授)は言う、「(多数意見は)公務員は『常時勤務状態にある』と言う君主制憲法下の公務員観をそのまま受け継いだ論旨であり」「公務員に国への『全人格的服従と忠誠』を要求する十九世紀の立憲君主制憲法下の法制度において典型的に妥当する論旨」である。(芦部信喜「憲法訴訟の現代的展開」)
・O弁護士は、明治憲法時代なら妥当した「特別権力関係論」に逆戻りした判決だと批判している。

④猿払事件判決の修正
 判決当時でさえ、公務員に対してこのような一律の政治的行為の禁止を定める立法例はアパルトヘイト下の南アフリカ共和国のみだった。それから42年経った今、この判決がなお維持されているとしたら、それは日本の司法が19世紀的な後進性のままにあることを意味しているし、日本の社会が市民社会と呼ぶに値する市民的自由を未だ獲得していないことをも意味している、と言わざるをえない。
 平成24年12月7日、最高裁は小法廷で猿払事件判決を実質的に修正する判決を下した。社会保険庁に勤める年金審査官が、しんぶん赤旗号外を配布したことを理由に起訴された。一審有罪、二審無罪、最高裁は無罪。その理由をこう述べる。
「本件配布行為は、管理職的地位になく、その職務の内容や権限に裁量の余地のない公務員によって、職務と全く無関係に、公務員により組織される団体の活動としての性格もなく行われたものであり、公務員による行為と認識しえる態様で行われたものではないから、公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものとは言えない。そうすると、本件配布行為は本件罰則規定(人事院規則のこと)の構成要件に該当しないというべきである。」

⑤判決の評価
 この判決は小法廷で、つまり猿払事件判決を変更することなく下された。が、猿払事件では、公務員という身分でもってなされた政治的行為は、抽象的であっても政治的中立性を損なう恐れがあり許されない、と判決した。しかし、この判決では、具体的に行為の態様を検討し、それが実質的に政治的中立性を損なう恐れがないときには、法令に違反しない、と判決した。猿払事件判決はそのままでは維持できない、と判断したという意味で、一歩前進と評価できる。ただし、斜体字の言葉は、組合活動の一環としてなされる政治的行為はこの判決でも禁止されるという意味であり、団結権・団体行動権を保障した憲法に忠実な判決とは言えない。

➅強まる逆流
このように裁判所の流れは、公務を離れた場での公務員の政治活動の自由を広げる方向にある。が、18歳選挙権施行を機に、「佐々木事件」に見られるように公立高校の教師に対する逆流が強まっている。教育公務員特例法を改正して罰則規定を設ける動きもある。このような政治的潮流に対して、どのように対抗していくべきだろうか。
ⅰ)表現の自由や政治的活動の自由がどれだけ保障されるかということは、自由で平等な市民社会をどうやって作っていくか、という私たち自身の問題である。公務員や教師だけの問題ではない。一の規制を許せば、二、三と自由を奪われる。
ⅱ)今かけられている圧力に対して、保身からであれ賢明さからであれ、当事者である教師や組合が声を上げず、権力を内面化して受け入れるなら、それは教育の世界だけではなく社会全体の不自由化に手を貸すことになるだろう。
ⅲ)当事者である教師と生徒、そしてこれまた当事者であるはずの市民が、どれだけ協働を組めるか、協働の場を作れるかが問われる。今日のこの場はそうした協働の試みである、と言えるかもしれない。

(以上)
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