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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将(海軍兵学校41期)は、大和を旗艦とする沖縄への特攻命令(菊水作戦)を第二艦隊に伝達に来たが、伊藤整一中将(同39期)以下第二艦隊幹部全員が航空機の護衛無しで昼間に出撃するのは無駄死になると反論したという。

大和ミューアジムの大和



犬死には絶対にご免だと全員が反対したところ、草鹿参謀長はおずおずと「これは実は連合艦隊命令なのだ」と打ち明け、「一億総特攻の魁となってもらいたい」と言ったと当時「矢矧」の艦長であった原為一大佐は述懐している。

大和の主砲模型



「一億総特攻の魁」と聞いた伊藤整一中将は、止む無く出撃を受け入れ、1945年4月6日、大和以下、軽巡洋艦矢矧、駆逐隊冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、初霜、霞で編成されていた第二艦隊は、山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃している。

大和ミュージアムには長門の軍艦旗もある



菊水作戦とは、沖縄攻撃中のアメリカ軍を「おとり」となった大和に振り向けさせ、沖縄にたどり着いたら座礁した大和を砲台とし、乗員は陸戦隊として突入させるという武蔵を沈めた実績のあるアメリカ航空戦力を無視した作戦であった。

大和のスクリュー



アメリカ軍の第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は、当初戦艦による迎撃を考えていたが、「大和」が西進し続けたためマーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じている。

手前が大和の46センチ砲弾



大和は出撃の翌日12時32分、鹿児島県坊ノ岬沖167kmの地点でアメリカ軍航空機を発見して射撃を開始したが、雲霞のような米軍機の攻撃で30本以上の魚雷の命中(米軍発表)を受けている。

戦闘開始から約2時間を経過した14時20分、大和は左舷へ20度傾斜したために総員退去を発令、その3分後には第2主砲塔 第3主砲塔の弾薬庫が大爆発し、艦体はバラバラになって沈んでいったという。

46センチ砲弾の説明



大和の戦死者は伊藤整一第二艦隊司令長官、有賀幸作艦長以下3035名(大和ミュージアムの資料)、生存269名、海上特攻部隊全体の戦死者は4037名にもなるというが、全員が「一億総特攻の魁」として覚悟の戦死であった。

戦死者名簿の一部(私の伯父の名前もある)



実は、神風攻撃隊など航空特攻で戦死した兵士は、2階級特進の栄誉と恩給の割増があったが、海上特攻で戦死した4000名以上の兵士には(数が多すぎるという理由で)その特典が無かったことが知られている。また「一億総特攻の魁となってもらいたい」と言った草鹿龍之介中将は、特攻せずに終戦後26年を経た1971年まで最高額の恩給を受けながら大阪で余生を過ごしている。

伯父が柔道3段から4段に昇段したときの講道館の証書



現在の大和は、北緯30度43分、東経128度4分、長崎県男女群島女島南方176キロ、水深345mの地点に沈没していることが潜水艇によって確認され、NHK特集「海底の大和、巨大戦艦四十年目の鎮魂」として放送されたこともある。

2分裂して沈没した大和の模型



ちなみに3年4ヶ月の寿命しかなかった大和の艦長は、高柳、松田、大野、森下、有賀と5人もいて、平均在任期間は8ヶ月、海軍は国を守るよりも組織を守ることを優先したために、いずれも大和を知り尽くす前に転勤となったようである。



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