真田山陸軍墓地の中で最古の墓石は、1870年(明治3年)に建てられた長州奇兵隊隊士下田織之助のもので、下田は明治維新後陸軍兵学寮(士官学校)の生徒となっていたが大阪で病死したことが墓石に刻まれている。
下田織之助
130年以上を経た和泉砂岩で作られた墓石の風化は著しいが、整然と並ぶ墓石群は他の墓地に例をみないくらいに荘厳である。
西南戦争(明治10年)までの墓石には、自殺や獄中での死亡の事実まで克明に記録され、本人の名誉や遺族の気持ちを忖度していないのは、当時の陸軍が事実をそのまま記録する姿勢であったのであろう。
一方、後の太平洋戦争時の日本軍では、兵士の名誉と遺族の気持ちを考慮して、自殺者や病死者を戦闘での死亡と虚偽に記録した例が多いが、戦争の真実を伝えるのはこの墓地の古い記録のほうである。
西南戦争から日清戦争までの墓石には、死因が刻まれていて、脚気による死者が圧倒的に多いことに気がつく。
1887年、脚気の原因が、食事にある(ビタミンB1不足)と考え、大阪鎮台の兵士に麦飯を給食し脚気患者を激減させたのが大阪鎮台の陸軍軍医 堀内利国(1844~1895年)で、堀内の墓石もここにある。
しかし、陸軍軍医の主流派であった軍医総監、石黒忠悳(1845~1941年)は、脚気は細菌が原因であるとして堀内の麦飯給食案を却下している。
石黒派であった森鴎外(1862~1922年、1893年陸軍軍医学校長)も兵士に麦飯を給食することを禁止したため、陸軍兵士の日清戦争(1894~1895年)での脚気死亡者は、4000人と戦死者(約300人)の10倍以上に上っている。
西南戦争以前の墓石群
頑固な森鴎外は、第2軍軍医部長として従軍した日露戦争(1904年~1905年)においても麦を戦地に送ることを禁止したため、日露戦争での脚気死亡者2万8千人、脚気患者25万人(戦死者4万7千人)という悲惨な結果を招いているが、鴎外は死ぬまで細菌が原因という自説を曲げなかったのである。
日清戦争の墓石群
一方、海軍では高木兼寛海軍軍務局長の指導で1892年頃から麦飯給食が実施され、日清日露戦争での脚気による海軍兵士の死者を殆ど出していないが、麦飯給食を禁止した森鴎外は、1907年に軍医としての最高ポストである軍医総監(中将)に就任している。
将校の墓石
過ちを何度も繰り返してきた人間は、過去の歴史を正しく学び、同じ過ちを繰り返さないよう、このような歴史遺産を大切に保存しなければならない。
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