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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日の記事に続いて、大内氏の歴史と一緒に近所の公園に渡来したソリハシシギの集団飛行を紹介しましょう。・・・大阪府レッドリストの絶滅危惧Ⅱ類に指定されているソリハシシギ

大内教弘の子・大内政弘(1446〜1495年)は、父祖の年忌法要や系譜の整備を行うとともに、当主の権威づけを狙って大内家の先祖は「百済王の子孫」という説を強調。・・・コガモの前を飛行する6羽のソリハシシギ

応仁の乱(1467〜1477年)での大内政弘(母親が山名宗全の養女)は、西軍・山名宗全(1404〜1473年)に属して勇名を馳せ、宗全の没後には西軍の事実上の総大将となり、乱の終結後も室町幕府に影響力を及ぼす大大名としての地位を保持しています。・・・11羽のソリハシシギ

政弘の後を継いだ大内義興(1477〜1529年)は、北九州・中国地方での覇権を確立し、京都を追われた将軍足利義稙(1466〜1523年)を保護。1508年に足利義稙を擁して中国・九州勢を率いて上洛、管領代として室町幕政を執行するなど大勢力を築き上げています。この大内義興時代が大内氏の絶頂期でしょう。

1528年に義興から家督を継いだ大内義隆(1507〜1551年)は、周防・長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前7か国を領する西国一の大大名となっています。

大内義隆は、陶興房(1475〜1539年)等の優秀な家臣に補佐されて、1536年に少弐氏を滅亡に追いやり、1541年に尼子氏を撃破、しかし続く出雲遠征で敗北し、甥で養嗣子の大内晴持を失っています。義隆は1551年にフランシスコ・ザビエルに山口でのキリスト教布教を許すなど、この頃が山口の文化的な面での全盛期でした。

文芸や遊興にふけるようになった大内義隆は、フランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許した4か月後、武断派の家老・陶隆房(興房の子・1521〜1555年)の謀反で自害。大内家は実質的に滅亡したのです。

義隆の死後、陶隆房は義隆の甥の大内義長(大友晴英・1532〜1557年)を傀儡当主として擁立、自身を陶晴賢と改名しますが、4年後(1555年)に安芸国宮島で毛利元就(1497〜1571年)の奇襲攻撃を受けて自害しています。(厳島の戦い)

翌年(1556年)毛利元就の大内領侵攻があった際、重臣達の内紛で大内義長が自害。戦国大名としての大内氏はこの時点で名実ともに滅亡しています。1363年に大内弘世が山口に本拠を構えてから193年後のことでした。・・・こちらは緑の翼鏡があるコガモ

参考文献:山口県の歴史 小川国治編



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