幸福的結局

幸福的結局

武士がい受け

2017-05-15 12:32:44 | 日記


強引に容保を同道した慶喜は、江戸に着いたとたん案の定、再び豹変し会津を切り捨てようとした。
江戸城に入った慶喜は、容保に登城を許さず、自分だけが恭順の意を示しこ支付寶れを許されている。
驚いた容保は、直ぐに家老を使わし慶喜の真意を聞こうとしたが、登城した家老から将軍家の独りよがりな沙汰を聞き、顔色を失くした。

「会津は登城に及ばずとは……徳川は会津を捨てるおつもりか……?」

内心では二心公慶喜なら、自分だけが助かる道を模索することもあり得るかもしれないと覚悟していた。
容保は、心に反し言われるままに置き去りにしてきた藩兵たちだけを思った。

残された会津兵は、江戸に帰るために大変な苦労をした。
和歌山藩で怪我人を乗せる大型の船を借り、歩けるものは陸路で江戸を目指した。
土壇場で多くの幕府軍が裏切り、退却する会津軍の後詰は手を焼いていた。
容保は、すぐさま将軍家に追随し、朝廷に蟄居恭順の意向を示したが、慶喜と違入れられることはなかった。

何故、命を下した将軍家實德が許されて、家臣である会津が許されなかったか。
将軍家に代わって、長州の遺恨と怨嗟を一身に受ける生贄が必要だったからだ。
将軍家は大阪城から逃げ出した理由を、会津の一家老、若い神保修理の進言であると公言し、責任逃れの方便に徹した。
なぜ一介の藩士に過ぎない神保修理の名を、慶喜が口にし責任を負わせるようなことを言ったのか理解できない。
仮にも幕府の最高責任者である慶喜は、保身のためになりふり構わなかったと言えるのではないだろうか。再三の願も虚しく、会津は追い詰められてゆく。
容保の首を差し出せば、恭順を認めてもよいと返答はあったが、主君第一の会津それを受け入れるはずもない。
遺恨を持つ長州は、初めから会津を許す気はないのだと、藩士たちは憤った。
何度も握りつぶされる嘆願書を前に、会津藩重役は、なぜもっと早くお役目を返上しなかったのかと、ほぞをかんだ。

「帝が御崩御されたときに、会津は幕府にどういわれても国元へ帰るべきだった。」
「われらは、幕府の捨て石にされたのだ。」

京都守護職としての勤めは全て、幕府に命じられての激務であった。
どの藩も頑なに固辞したのを、強引に押し付けられた役職だった。
命を懸けて何年も不逞浪士の取り締まりに追われ苦労した。
全藩實德金融揚げてのお役目に、出費はかさみ会津の国許は疲弊し、農民は高い年貢に喘いだ。
しかも追い打ちを掛けるように若松で大火が起こり、子供も大人も質素倹約に励むしかなかった。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« で仕の匂いを | トップ | を上げ良い子 »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。