There were/ホモセクシュアル/days

或るホモセクシュアル経験者発信のzakki等。

最近になって届くFB(フェイスブック)画像とセクシュアリティさまざまのこと

2017年10月06日 21時19分57秒 | エッセイ

最近は小説のようなものは殆ど読まないのだけれども、youtubeを見ていてある人の言ったフランス人作家M・ウェルベックの作品に興味を覚え、「素粒子」を図書館から借りて読んでみた。そのなかで「彼の人生の主たる目的はセックスだった」と書かれている40代初めの性欲求旺盛な教授の性対象として現実的にも願望的にもあるのが若い女性、女の子なのだが、そのセックス欲を充たすためならばバンコックにだって行くことを考える。文章としてこのようにある。"ミニスカートに包まれた可愛いおまんこのためとあらば、世界の果てまででも追いかけていくだろう。ともかく、少なくともバンコクまでくらいなら。それでも飛行機で13時間はかかる"。ノーマルなセクシュアリティ。男、そして若い女の組み合わせ。普通も普通。そういうことなのだが、そこでこちらが思ったりしたのは、いやいや、毛むくじゃらの48の男と70の髭面の老齢男の恋人同士もいるんだからという、その"ノーマル"サイドからはおよそ考えられない、これもまた現実のセクシュアリティ。別に小説のことを引き合いに出すまでもないのだが、男女という組み合わせをノーマルとする基準からすると、そしてそれ以外を異常と決めつけている大多数のガチガチの人々からすると、例えば男同士、女同士、それも多様なタイプ、年齢の組み合わせなど信じがたいこと、セックスなど想像もしたくないということは、容易に思うことができる。実のところ同性を対象としたい自身の中にも、同性同士がセックスをすることに違和感を覚える部分もある。ややこしく混在しているところが確かにある。全く違和感を覚えない人との間には距離があるということだろう。その感覚が本当には解からない。そのように同じ方を向いている同士でも、内情は微妙に異なるということもあるわけで、複雑と言えばセクシュアリティのことは、容易に区分できるようなものでもない、というのは当然のことだろう。

国、地域によっては同性愛が法によって禁じられていたり宗教的に拒まれていたりと、それゆえに苦しんでいる人々が世界にいるというのは、本当に想像するに、そして実情などを知るにつけ辛くなるところ。そうしたことのある一方で、ここのところ自身のFacebookに届く友達案内が外国からのもの中心に変化して、アラビア文字を使う国、或いは名前からもイスラム圏を思わせる人々が多く、中に明らかにゲイ、その関係と思われる人々が紛れているようになったということがある。その理由が何故なのか思い当たるフシもなく、同時に画像などを見ていてこんなに開放的になることが許されている?  とも思えてしまうことのある状況なのだ。イスラム圏で、これは大丈夫なこと?  知らないが故に考えてしまう。それに傾向として、中年、あるいはそれより上の年齢までの、体重量のある太いタイプ。そうした彼らのブリーフ、或いはトランクスだけの裸の姿態画像などもちらほら目につくこと。腹のせり出した体をこれみよがしに見せている様子には、何か父親的なもの、父性的なイメージを彼らに見、彼ら自身も自分に意識している感じがうかがえる。つまりセックスの対象としてそうしたタイプの雰囲気、肉体にひかれている者もまた多いということ。それは例えばイスラム圏においても変わらない。ヨーロッパ、アメリカ等のさまざまなゲイサイトをみても、そうした傾向も濃厚にあること。先にも書いたようにそうした太い年配者同士が互いに性の対象となっている場合も多い。という具合にセクシュアリティの中身の多様さは、改めて言うまでもなく常人の知識を越えている。

 

      

                

                    

                  

                  

                

                         

                           

              

                

                           

                       

                               botom→bottom(セックスの尻受け)。"若いのは好きではない。年配の受身を好む"

                                

                             

                           

 

 

 

これらの画像はいずれもFacebookのプロフィール画像に使われているものであり、実名ではない場合もある?  それは分からないのだがFacebookの性格からして匿名よりもそれぞれの名前で公開されていることが多いものと思う。当人が選んだ自身のプロフ画像を使っているわけなので、その大胆さというのか、思い切りの良さというのか。そのあたりの感覚というのが、ちょっと日本人とは違うのではないか、という気がする。例えば日本人の中年でFacebookに自身の裸画像をプロフに使う人などいるもの? 上の画像は同性愛行為と分かるわけなのでその趣味の関係と分かるのだが、下の方の画像の人たちのセクシュアリティについては不明としておきたい。ただ、年を超え美醜を超え自身の肉体に愛着を抱きそれを堂々と外に示せるというのは、自分が自分であることに対する自信も思わせるし見上げたものという思いがする。Facebookのプロフ画像に使うところに興味深さもあることだし、画像のアピール意図などを思うと・・・・・・・・・・。

           

         

        

         

                     

 

           

                

        

        

               

                   

                 

                    

                           

                 

 

 

 これらのFacebook画像の中には、自身のプロフ画像に外からの自分の理想イメージ、惹かれる画像が置かれていたりする場合もあるのだが、いずれにしても個人的には今まで触れたことのなかったウルドゥー語のパキスタン、あるいはヒンズー語のインドあたりのホモセクシュアルのひとつのタイプを知ることができたということがある。自身が太った年配者で、その性的な対象も同じようなタイプ。若い年代の同性には全然関心がない、というようなゲイのひとつのパターン。何処においてもそれはあるパターンだけれども、そうした国でもおなじようなことがあるんだな、と改めて画像によって知ったのが新しかったこと。ただ英語で書かれている部分以外、全く言葉の理解不能なのが残念。技術の発達した現在では自撮りもできれば関心ある対象をレンズで追うことも容易。彼らの国においても同じ趣味、求めるタイプ同士の出会いというのはそう容易ではないのでは? とも思えたりするように年輩者といえばもう社会的な地位のあることが考えられる、ゲイではないそうした恰幅の良い男たちにレンズが向けられているのを見る。対象によっては恰幅が良いというより、過ぎるほどの超のつく肥満体、というタイプだったりするのが、求める理想の昂じた形のように思えてくる。そのあたりが多分に日本人感覚と異なる感もある。個人的にも、超肥満体タイプを性的な対象として見られない感覚があるので、趣味は多様と言うしかない。われわれとの人種的な肉体と感性の違いがないともいえない?  人種的と言えば彼らの撮るアーリア系の年配者たちの画像を見ていて惹かれるのは、顔立ち。彫が深いなどというのは言うまでもないことだが、超肥満体タイプの年配者のどこが良い? などと思わせる一方で、社会的な或る地位だとか、存在感の備わった彼らの面立ちには、端正かつ特有の父性的魅力が滲み出ていたりする。求める者を刺激するオーラ。ゲイから見ての、普通の異性愛者である筈の彼らに見るオーラ。ここにはそうした画像は入れてないけれども・・・・・・・・・。

ジャンル:
その他
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« ジョン・レノン / オノ・ヨー... | トップ |   
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

エッセイ」カテゴリの最新記事