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出雲大社の千木・・・2(再掲載)

2016年12月24日 | 歴婆の勝手な解釈

もしかすると、

出雲大社ははじめからあったか、

あるいは、建設中だったのではないだろうか?

 

この真偽など判る筈もないが

そこに、はじめから、地千木が付けられていたのだろうか?

 

*****

この疑問が出てくるまでに、

いくつかの話がある。

 

国譲りという大きな変更があった場所や人物にかかわる

神社・神宮というものがある。

 

大きなところでは、出雲大社であるが、

宇佐八幡などは、http://inoues.net/ruins/usajingu.html

 

【八幡宮は現在日本中で祀られ広く知られているが、もともとは宇佐周辺で信仰されていた「地方神」だった。宇佐に初め て八幡神が顕(あらわ)れたのは欽明天皇三十二年(571)で、宇佐の御許山(おもとさん)に顕れたと言う。その後宇佐 地方の神として大神(おおが)氏と辛島(からしま)氏によって祀られた。しかし、その神が一体どんな神だったかについ てはわかっていない。】

と、あるように、

ここでも、祀り変えがおこなわれていると思える。

古代九州で覇権を争った3部族、それは日向族、隼人族、大和族だった。

から、無断転載ですが、

宇佐神宮には、下記のとおり興味深い「ご託宣」が伝っています。

ちなみに、ご託宣とは巫女を通して伝えられた、八幡神自身のお言葉です。

 

◆出展 : 山口大学編集の 『八幡宇佐宮御託宣集』託宣・示現 年表』 平成25年5月20日

 

http://jpromotion.jp/gotakusen

<ご託宣(1) 年号不明>

 

あるとき、高知尾(高千穂)明神が、弟である八幡神阿蘇権現に対して、こう告げます。

「私は国土は要らない。帝位についても意味が無い。この女(美しい臼杵の采女)を見ていると、何の野心もわかない。おまえたちは早く花京(大和の国?)に行って、天下を治めて、帝の位を継ぎたまえ。」

<ご託宣(2) 年号不明>

あるとき、次男の阿蘇権現が、三男の八幡大菩薩に、こう告げます。

「おまえは早く花都(大和の国?)に行って、帝子(神武天皇?)を誕生させ、百王守護の誓約を実現して欲しい。自分はこの峰(阿蘇山)に残って、継兄の高知尾(祖母山)を見守り、あなたの本願を助けましょう。」

 

つまり、

「この3人の神様が合意のうえ、皇位継承権を八幡大菩薩に譲った!」

と、とれるような内容になっているのです。

このことを裏付けるような決定的な発言を、八幡神自身がしています。

「私は以前、数万の軍勢を率いて、隼人を殺害して、大隈・薩摩を平定した。

今は彼らの命を救うため三帰五戒を行なおうと思う。(だから放生会を行っている)---748年のご託宣」

つまり、隼人を平定したのは八幡神をかつぐ新羅勢だったと認めているのです。

 

ですので、宇佐八幡宮も

http://inoues.net/ruins/usajingu.html

所在地: 〒872-0102 大分県宇佐市南宇佐字亀山2859 TEL 0978-37-0001 ・祭 神: 応神天皇(誉田別命:ほんだわけのみこと) 比売大神 … 多岐津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、多紀理姫命(たぎりひめの みこと) 神功皇后(息長帯姫命:おきながたらしひめのみこと) ・由 緒: 全国四万余社の八幡宮の総本宮。宇佐に初めて八幡神が顕れたのは欽明天皇の御代で、御許山(おおもとさん)に鎮座。同天皇三十二年(571)に現本殿のある亀山の麓の菱形池の辺に神霊が顕れ、「我は誉田天皇広幡八幡 麻呂(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり」と告げたので、この地に祀られた。これが宇佐神 宮の始まりという。延喜式神名帳には八幡大菩薩宇佐宮、比売大神、大帯姫廟神社の三座として名神大社とある

そのままに、八幡神なるものが

応神天皇にすり替わっているわけです。

 

他にも、??と思うところが多く

皇室系の人間・天皇・神器が明神・ご神体としてはいりこむことで、

菊の紋を拝するようになってくるわけですから、

元々がどうだったか。

熱田神宮については、

或人の曰く、「この宮は素盞嗚尊(すさのをのみこと)なり、初めは出雲の國に宮造りありけり。八雲立つ〔(*「)八雲たつ出雲八重垣妻籠に八重垣つくる其の八重垣を(*」)(古事記)〕と云へる大和言葉も、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、この砌(みぎり)に跡を垂れ給へり。」と云へり。又曰く、「この宮の本體は、草薙と號し奉る神劒なり。景行の御子、日本武尊と申す、夷(えみし)を平げて歸りたまふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ、劒(つるぎ)は熱田に止り給ふ。」とも云へり。

— 國民圖書株式會社、東關紀行(校註日本文學大系 3)

と、いうくらいなので、元々、熱田神社があったところに

草なぎの剣を収めたともとれます。

そして、宮自体が素戔嗚のご神体であるというのですから、

草なぎの剣は、大和朝廷のものではない。と、とれます。

そこに、菊の御紋がはいる。

 

これも、祀り変えであると考えても良いかと思えます。

 

ーー続きますーーー

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